カテゴリー「大きなお世話」の79件の記事

2009年12月 2日 (水)

「ガリレオ列」について

先程 (2009/12/01 23:11:49)、キーフレーズ [ガリレオ列] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

初等整数論における「ガリレオ列 (Galilio sequence)」に就いての情報をお探しなら、取り敢えず、"Elementary Number Theory in Nine Chapters" (James Joseph Tattersall 1999/11 Cambridge University Press) あたりを御覧になっては如何だろうか。

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2009年11月11日 (水)

「アルタイル」の韓国語表記

今朝ほど (2009/11/11 04:25:45)、キーフレーズ [アルタイル 韓国語表記] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「アルタイル/Altair」、つまり、「わし座/Aquila」の主星 (所謂「牽牛星」) の韓国語表記をお探しであるのかもしれない。

そう云うことなら、まぁ「견우성」ぐらいで良いのだろう。「견」・「우」・「성」のそれぞれが「牽」・「牛」・「星」に当たっている筈。読みは「キョンヌソン」ぐらいかな。

「星」を落として「견우」とだけ書くことも多いようだ。

因みに、連れ合いの「織女星」の方は、「직녀성」(チンニョソン)。これも「직녀」と云う言い方がある。

だから、所謂七夕伝説は「견우직녀」となる。

と、ここまで書いてきて、お探しになっているのが「牽牛」の対応語ではなくて、「アルタイル」の「音訳」である可能性があることに気が付いた。

そこで、ネットを検索してみたところ [シリスの物語 : 空と夢] と云う韓国語サイトがヒットしたのだが、その中の [견우성 (알타이르:Altair) 과 직녀성 (베가:Vega)] と云うページのタイトルが、そのまま示すように、「アルタイル」の韓国語音訳は「알타이르」(「ベガ/Vega」は「베가」) になる。

更に、改めて [알타이르] で検索してみたら、韓国語版ウィキペディアの項目に立っていたことが判明。つまり日本語版ウィキペディアの [アルタイル] の記事から、対応韓国語版ウィキペディアのページに飛べば、そのまま [알타이르] に辿りつけたのだ。勿論、[베가] のページもある。

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2009年10月12日 (月)

アメリカ合衆国市警察のロゴ

先程 (2009/10/12 01:10:40)、キーフレーズ [合衆国市警察ロゴ] で画像検索 (google) されていて、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

若干興味が引かれて、キーフレーズ ["united states" police department logo city] で google 検索すると、その結果のトップが [Best Brands of the World] と云うサイトの [City of Philadelphia Police Department logo] と云うページだったんだが、これは「ジョーク」作品だろうな。記章の中のモットーが "COFFEE", "DONUTS, "CORRUPTION" (「コーヒー」、「ドーナッツ」、「腐敗」)と、当て擦りめいた文言になっているのだ。

ここは、地道に、英文版ウィキペディアのカテゴリページ [Category:Municipal police departments of the United States] をベースにして、アメリカ合衆国地方自治体警察の各記事をブラウズし、そこに「ロゴ」が掲載されているかチェックした方が確度が高いような気がする。

因みに、英文版ウィキペディアのフィラデルフィア市警察の記事 ([Philadelphia Police Department (Pennsylvania)]) によるなら、その記章に書かれているモットーは "HONOR", "SERVICE", "INTEGRITY" (「道義」、「奉仕」、「廉潔」と謂ったところか)。

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2009年9月26日 (土)

"pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」

一昨日朝 (2009/09/24 07:07:05)、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

"pax vobiscum" なら、私のようなものが一知半解のラテン語知識を振り回さずとも、適切な情報が、ネットの何処かが開示されているに違いない、と、思えたので、一旦は、そのまま「スルー」したのだったが、その後、これが、以前書こうとしたが、何かに取り紛れて書かないままになった二・三の話題に関係していることに気が付いた。

それやこれやを、少し書いてみることにする。纏まりが悪くなるのは、予めご勘弁を願っておきたい。

で、取り敢えず「一知半解」を披露する。

"pax" は勿論「平和」の意 (勿論「ラテン語」)。Pax Romana (パクス・ロマーナ)、Pax Americana (パクス・アメリカーナ) の pax である。"vobiscum" は、人称代名詞第2人称複数もしくは敬意第2人称単数奪格 (「従格」と云う言い方もする) の"vobis" と、 共同・随伴・手段等の含意を有して奪格を支配する前置詞 "cum" との結合である (前置詞 "cum" は、人称代名詞、再帰代名詞、関係代名詞を支配する場合、後置されてしかも一語に融合される)。前置詞 "cum" は、英語で言えば "with" 又は "by" に相当する言葉であるとするなら、あらましは理解できるだろう。

つまり、"pax vobiscum" を英語に置き換えるなら "peace with you" ぐらいになる。しかし、これを、日本語で言い換えようとすると、英語の方に、もう少し補足が必要で、"peace be with you" 「平安の[汝/汝等]とともにあらんことを」 と願望法にまで引き戻して考えた方が良い (願望法だと文章が古格になる)。

更に言うなら、この "pax" は、本来ならば "pax Domini" つまり「主の平安」なのだ。以前、[フランス語で「主の平和」] (2009年7月19日[日]) で引用したように、所謂「ラテン語ミサ」では、その山場ともいえる聖体拝領の儀式の中で "Pax Domini sit semper vobiscum." (絶ゆることなく主の平安の汝等とともにあらんことを) と唱えられるが、その簡略形として "Pax Domini vobiscum" も使われることがあるのである。

このようにすると、"pax vobiscum" と、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」、更に「フォースのともにあらんことを」との並行性が見えてくる。

これに就いては、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])、["May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])、[「フォースのともにあらんことを」と「神ともにいまして」] (2008年5月28日[水]) も参照していただきたいのだが、要するに、これらは全て、神霊的な何かが相手に同伴することを念じている一種の「呪文」なのだ。そして、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」と「フォースのともにあらんことを」とでは、その基本は、これから「旅」に出ようとするものに対する「はなむけの言葉」である。"pax vobiscum" に就いても、その根っこは、やはり、聖体拝受による象徴的生まれ変わりにおける (つまり、人生と云う旅の再出発に対する) はなむけの言葉であろうと、私は思っている。

付言するまでもないかもしれないが、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金]) に指摘しているように、"goodbye" も、同じ範疇の挨拶である。

なお、この "pax vobiscum" を、復活したイエスが弟子たちに向かって放った言葉として説明されていることがある (例:ウェブページ「立教大学新座キャンパス・施設紹介チャペル(礼拝堂)」) が、これは私にはヤヤ不審。ラテン語聖書 (つまり、所謂ヒエロニムスの「ヴルガータ/Vulgata」) の範囲内では厳密には少しだけ異なる。Vulgata の [ルカによる福音書24:36] や [ヨハネによる福音書20:19] では、復活したイエスが弟子たちに "pax vobis" と言っていて、"pax vobiscum" ではないのだ。

ここで、一言書いておくと、特にルカの方では " pax vobis ego sum nolite timere" となっていて、その語感は、「あなたがたに平和があるように」(新共同訳) と言うより、「落ちつきなさい。私である。怖れてはならない」になるような気がする。

もっとも、現在のギリシャ語聖書テキスト ([現代ギリシャ語聖書] ではなくて、現代欧米語聖書の基礎となったギリシャ語聖書のオリジナル・テキスト) である Nestle-Aland (ネストレ・アーラント) の "NOVUM TESTAMENTUM GRAECE" (私が所持しているのは第26版だが、現在は第27版になっているようだ) では、該当箇所は、ともに "ειρηνη uμιν" (その前は、"και λεγει αuτοις" で、その後ではセンテンスが停止する) とあるのみで "ego sum nolite timere" に相当する語句 ("εγω ειμι, νη φοβεισθε") は、ヨハネでも(これは当然かもしれないが)、ルカにも見当たらないのだ。これと対応する形で、[新ヴルガータ/Nova Vulgata] では、[ルカ] でも [ヨハネ] でも、単に "Pax vobis!" になっている。つまり、復活したイエスは、ヘブライ語の "שָׁלוֹם" (シャーローム/Shalom) を連想させる挨拶をしたことになる (イエスが何語を話していたかと云う問題は、この際措いておく)。

ただし、これについて Bruce M. Metzger の "A textual commentary on the greek new testament" (2nd ed. 1994) は "εγω ειμι, νη φοβεισθε" を (恐らく[ヨハネによる福音書6:20] に由来する) 欄外注記の混入であると断じている一方で、"ειρηνη uμιν" に関連して、この状況で通常の挨拶の言葉が発せられるかには、若干の疑義が存在することを指摘している (p.160)。

なお Vulgata 内では "pax vobiscum" と云うコロケーションは、[創世記43:23] だけらしい。ただ、実は、この後に "nolite timere" と続くことは注意しておいてよいかもしれない。この "pax vobiscum nolite timere" は新共同訳では「御安心なさい。心配することはありません。」となっている。

こうした「素材」を並べてみると、私には "pax vobiscum" が聖書 (特に、福音書) に由来するというより、ラテン語ミサに由来すると考えた方が良いと思えるのだ。

旅の道連れとしての守護的神霊と云う発想は、所謂「旧約聖書外典」の [トビト記] で、トビトの息子トビアが旅をする際の指南役として天使のラファエルが同伴するし、日本においても、四国巡礼における「同行二人」が良く知られているから、宗教的気分として普遍的なものなのかもしれない。

以下、話が変わる。"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳す流儀と、「フォースともにあらんことを」と訳す流儀があるようだが、私は「の」派である。

[日本語で一番大事なもの] や [岩波古語辞典] に見られる大野晋の説明を私になりパラフレーズするなら、日本古語に限定する限りでは、元来連体助詞であったものが、主格の助詞に転用されるようになったと云う点では、「の」も「が」も同じであるのだが、「が」は発話者の身内の (より正確には、発話者が身内として扱った) 対象 (自分自身を含む) を受けるのに対し、「の」は、それ以外の、自分自身のみには所属しえない、一般的なもの、尊貴なもの、疎遠なものを受ける。

だから、自分自身を受ける時は「が」を使って「わが門の片山椿まこと汝我が手触れなな土に落ちもかも: nouse (物部広足 [万葉集20]4418/4442)」とか「君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く」(額田王 [万葉集488/491]) とかする訣だ。

「君」を受ける場合でも、その「君」が、自分のパートナーである場合には、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる」(額田王 [万葉集1]20) と「が」で受けるが、「君」が主君である場合には、「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」 (読人しらず。笠朝臣金村歌集所収歌。或いは車持朝臣千年の作かとも。 [万葉集6]952/957) とか「大君の みこの柴垣 八節結り 結り廻し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣 」 (志毘臣 [古事記]歌謡109) などと「の」で受ける。

ただし、こうした使い分けは、「扱い」の問題なので、一般的には尊貴な対象であっても、親愛の情を込める時には「が」で受けることもあるようだ。

「が」は、親愛の情だけでなく、狎れ親しんだものから、軽侮の対象を受けることもある。また、本来尊重しなければならないものを、「が」で受けることで、それに対する軽蔑の扱いを表わすこともある。これは大野晋が引用している例だが、[貧窮問答歌] 中の「しもと取る里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」(山上憶良 [万葉集5]892/896) では「里長(さとをさ)だから本当は「の」で遠くに扱って敬意を表明すべきなのに、税金を取り立てに来る不愉快な相手なので、『里長が声』」と言っている。」

"May the Force be with you." の the Force は、超越的な能力を指すから、日本古語の通例としては「の」で受けるべきであると云うのが私の考えである。

"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳したり、或いは、命令形にして「フォースともにあれ」と訳すことがあるようだが、これは論外。引きもどって言うと、"pax vobiscum" にしろ "peace with you" にしろ、「(神の)平安」が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「平安とともにある」よう命じているわけではない。それと同様、"May the Force be with you." も "the Force" が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「"the Force" とともにある」よう願ったり命じているわけではない。

話が散らばって申しわけないが、改めて、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で再検索 (google) してみると、どうやら "pax vobiscum" はアニメソングのタイトルとして採用されているらしい。それが「PAX VOBISCUM-願わくば平安汝等とともに-SAMURAI DEEPER KYO」だと云うのだが、ここは「ば」ではなくて「は」にしてほしかったなぁ。「願はく」は、「老いらく/老ゆらく」や「思はく/思惑」と同様、動詞の「アク語法」 (一般の呼び方では「ク語法」)であって、名詞相当だから、係助詞の「は」で受けるのが、日本古語として順当なのだ。まぁ、「願はくば」も、常用日本語として定着してしまっているのは確かなのだが。

その他では、Bathory (バソリー) と云うスエーデンのメタルバンドの "Requiem" と云うアルバム (1994年) にも同名の曲が収められている由 (Cf. "Bathory:Pax Vobiscum - LyricWiki - Music lyrics from songs and albums")。

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2009年9月22日 (火)

メモ:江戸端唄 [海晏寺]について (アレ 見やしゃんせ 清玄は...)

今日、午後4時頃 (2009/09/22 15:57:48)、キーフレーズ [あれみやしゃんせ清玄は] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

既に解決されているかもしれないが、一応、書いておくと、これは、江戸端唄 [海晏寺 (かいあんじ)] の (その「替え歌」?) の一節と思しい。

[笹木美きえ] と云う方のサイト [江戸端唄・俗曲の試聴と紹介] に依れば、次のような詞である。

アレ 見やしゃんせ 海晏寺 ままよ 龍田が 高尾でも
   およびないぞえ 紅葉狩り

アレ 見やしゃんせ 与三郎 三十数か所の刀傷
   これも誰ゆえ お富ゆえ

アレ 見やしゃんせ 清玄は 破れ衣に破れ傘
   これも誰ゆえ 桜姫

同一内容が、江戸端唄・俗曲 笹木美きえ の「海晏寺」に示されている (ただし、このサイトにアクセスすると [JWordプラグイン] アドオンされるように求められるので注意)。

さらに、[月のあしび: 明治の歌…まとめ] には「『明笛胡琴月琴』(山田要三 大阪又間精華堂 明33)「俗曲」所載の工尺譜より復元」したと云う音曲 (mid) が紹介されている。

因みに、海晏寺は、東京都品川区南品川に現存するらしい。

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2009年8月22日 (土)

メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)

20日夜 (2009/08/20 22:18:31)、キーフレーズ [百谷泉声の意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「百谷泉声」と云うと、素直に読み下すかぎり「百谷の泉声」として、その意味は「百の渓谷には泉から湧き出る水の音 (がする)」ぐらいだろうという気がしたが (勿論「百」は「数が多い」たとえ)、こうした文の「読み下し」と「意味」は、文脈によって可成異なってくるのは当然で、それどころか、私のように無学なものは、文脈をチェックしないと、トンでもない間違いをしでかしがちである。

と云う訣で、取り敢えず「"百谷泉声"」で google 検索してみると、書道教室の「お題」がらみで何件かヒットするのだが、その他に、中国語サイトで、[中华古诗文网] (中華古詩文網) 中の [全唐诗逸] のページがヒットした。

この [全唐詩逸] は日本国内の出版である。唐詩を網羅すべく編纂された [全唐詩] に、残念というべきだろうが、同時に当然ともいえる遺漏の詩句を、市河寛斎が全三巻に纏めたものだ。1804年 (文化元年) 刊。

この [中华古诗文网] によるなら「百谷泉声」は、[贺兰暹 (賀蘭暹)] 作の断片11句の内の一つ:

千峰黛色因晴出 百谷泉声欲暮寒

に含まれる。

元元は、「望太宝山」(「太宝山を望む」だろう) と云う詩の一句だそうな。

で、この読み下しなのだが、実は [全唐詩逸] は、その影印の pdf が、[うわづらをblogで] と云うブログサイトに掲載されている (全唐詩逸.pdf)。それに曰わく:

千峰黛色因晴出
百谷泉聲欲暮寒
千峰の黛色 晴に因って出で
百谷の泉聲 暮なんと欲して寒し

素直な読み下しで、私としても異論はない。これで、「一件落着」と思ったのだが、実は、そうではなかった。

一応、作者の [賀蘭暹] と、題にある [太宝山] の情報を補足しておこうと調べ始めたところ、いつものことながら、ジタバタ騒ぎをする羽目になったのだったのだ。

作者の [賀蘭暹] は、ネットを検索してもはかばかしいデータを得られなっかったが、彼は、氏名と詩断片とのみならば、日本で古くから知られていた詩人だったらしい。何故なら [和漢朗詠集] に、次の2句が見られるからだ (実は、この2句も [全唐詩逸] に収められている。と云うか、むしろ [全唐詩逸] の方が、[和漢朗詠集] から引用したのだろう):

黛色迥臨蒼海上。
泉声遥落白雲中。

(百丈山)
黛色迥(はる)かに 蒼海の上に臨み
泉声遥(はる)かに 白雲の中(うち)に落つ

--[和漢朗詠集 巻下]491「山」
秋水未鳴遊女佩。
寒雲空満望夫山。

(寄所思佳人)
秋水 未だ遊女の佩を鳴らさず
寒雲 空しく望夫の山に満つ

--[和漢朗詠集 巻下]718「遊女」

ここで、私は戸惑ってしまった。[百丈山] の句「黛色迥臨蒼海上。泉声遥落白雲中。」にも「泉声」の語句があるが、これは「泉から湧き出る水の音」と云う解釈には馴染まない(「[全唐詩逸] を覗いた時に気が付けよ」と、自分でも思うのだが、事ほど左様に私は迂闊だと云うことだとでも言うしかない)。

実際、[和漢朗詠集] の通常の注釈では、この「泉」を「滝」と解しているようだ。うーむ。「滝」....

「滝」と言っても、色色で、ナイアガラ瀑布と云ったものは、別範疇として除外するにしても、全てが [華厳の滝] や [那智の滝] のようなものばかりとは限るまいから、あまりこだわる必要はないのかもしれないのだが、「泉」を「滝」とするのにも抵抗を感じたのだ (勿論、ここで言う「滝」とは、日本語の「タキ」のことである。この「滝」を「タキ」の意味に使う用法は、日本独特らしい)。

つまり、私は、「泉声遥落白雲中」や、更に遡って「百谷泉声欲暮寒」の「泉」が、日本語で云う「イヅミ」と解釈するのには問題があることに気付いたものの、それを「タキ」と捉えることにも抵抗を感じたのだった。

「泉」の釈義は、ひとまず措いておくとして、改めて感じなおして見ると、私にとり、この「泉声」の情景としてしっくりするのは、川の最上流部で、流れが速く、水音が確かに聞こえてくると云うものだった (水量の多寡に就いては、どちらでもありうるだろうから、判断を保留しておく)。

と、ここまで考えて、日本語でも、少なくとも、古くは、そうした流れを「タキ」と呼んでいたことに気が付いた。「瀬を早み岩にせかるる滝川の」とは、まさにそうした情景である。コレまた迂闊なことではあった。

話の纏まりが悪くて申しわけない。混乱を避けるために言い直すと、「タキ」と云う表現や概念を排除しないものの、私には、この「泉」が、何よりも「(川の上流部の) 早瀬」のようなものに思えるのだ。

だから、王維の [過香積寺 (香積寺を過る)]
不知香積寺  知らず 香積寺(こうしゃくじ)
數里入雲峯  数里 雲峰に入る
古木無人徑  古木 人径無し
深山何處鐘  深山 何処の鐘ぞ
泉聲咽危石  泉声 危石に咽ぶ
日色冷青松  日色 青松に冷やかなり
薄暮空譚曲  薄暮 空譚の曲
安禪制毒龍  安禅 毒竜を制す
--王維 [過香積寺] (岩波文庫 [王維詩集] 岩波書店。東京 1972年。p.152)

においても、「泉聲咽危石」は「きりたつ岩にむせぶ泉の音」(岩波文庫 p.153) と解釈するより「切り立つ岩に早瀬が当たってむせんでいる」とした方が良いように思える。

こうした機微は、江戸時代の漢詩人には、皮膚感覚として理解されていたのかもしれない。管茶山が、其の死 (1827年) の数日前に詠じたという [病中即事] には

月露秋容嫩  月露 秋容嫩く
風軒暮色敷  風軒 暮色敷く
少間離病蓐  しばし病蓐を離れ
俄頃隠書梧  いささか書梧に隠(よ)る
幽澗泉声小  幽澗 泉声小にして
遙村火影孤  遙村 火影孤なり
従茲経幾日  これより幾日を経べし
転惜此宵徂  転た惜し 此の宵の徂くを
--病中即事

とあるそうだが、この「幽澗泉声小」は、人気(ひとけ)の無い谷川に水が音低く流れていることを描いているのだろう。

[太宝山] は未詳。所謂 [嵩山] は、かって [太宝山] と呼ばれたことがあったらしいが (「嵩山 (SongShan):中国五岳之一。春秋前称太宝山」--地理教師网)、賀蘭暹の詩との関係は何とも言えない。

一応、纏めるならば、「百谷泉聲」とは、「(太宝山の峰峰の合間あいまの)数多くの谷のそれぞれから聞こえてくる早瀬の水音」と謂ったところか。

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2009年7月21日 (火)

ドイツ語で「陽電子」

本日昼下がり (2009/07/21 14:35:06)、キーフレーズ [陽電子 ドイツ語] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだ。ドイツ語で「陽電子」を何というかお調べだったのだろうか。

ログを読んでいて、「陽電子」...。英語だったら "positron" なんだから、ドイツ語だったら "Positron" で良いんとちゃうのん? と、思わず擬製関西弁してしまったが、調べてみると、それ以上付け加えることはない。

勿論 "Antielektron" と云う言い方もあるが、それほど一般的には使われていないのではないか。

言うまでもなかろうが "Positron" も "Antielektron" も、ともに中性名詞。

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2009年7月20日 (月)

オランダ語で「ねこちゃん」

先程 (2009/07/20 07:35:36)、キーフレーズ [オランダ語 ねこちゃん] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

([nouse: ウェブ・ガジェット "Maukie" に就いて] からも伺いとることができようが) オランダ語で「ねこちゃん」に相当する言葉と言えば、「ネコ」を意味する "kat" (de名詞女性) に指小辞 "je" を付けた "katje" ("je" が付いているので中性名詞) あたりが穏当なのではなかろうか。

辞書では "katje" の意味として「子猫」が挙げられているが、ネコ好きにとっては「全ての猫は子猫である」(或いは、少なくとも、自分の飼い猫は「子猫」でありつづける) と云ったようなところがあるようで 、実際 "katje" で google画像検索をしてみると、たしかに子猫の画像が数多くヒットするが、冷静な者なら「成体」と呼ぶしかないようなネコも含まれいてる。

いま、ふと思ったのだが、Ogden Nash は、はたしてネコ好きだったのだろうか? (Cf. [nouse: 子猫の欠点] 及び [nouse: 「子猫の欠点」補足])

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2009年7月19日 (日)

フランス語で「主の平和」

昨日夜 (2009/07/18 19:52:24) に、キーフレーズ [主の平和をフランス語訳にするとどうなるか] で、このサイトを訪問されたかたがいらしたようだ。

こう云うことを尋ねられても「どうなんでしょうなぁ」と答えるしかない。自らの教養の無さに恥じ入るばかりだ。

「主の平和」と聞いて思い出すのは、何かで聞き齧ったラテン語 "Pax Domini" だけだ。たぶん、カソリック典礼文中の言葉の筈 (この記憶は当たっていた。「ミサ聖祭の主な応答句」を参照)。

そして、私の当てずっぽうでしかないのだが、「主の平和」に対応する言葉は、フランス語のネイチヴスピーカであっても、ラテン語の "Pax Domini" を自然に使うことが少なくないような気がする (日本人が、本来は中国語である故事成語を日本語として使うように)。だとしたら、それを「フランス語」ではないと排除するのには、私は抵抗を感じる (フランス語のページに限定して "Pax Domini" を google 検索してみると2500件余がヒットする)。

勿論、私でも "Pax Domini" をフランス語に当て嵌めれば "la paix du Seigneur" になるぐらいの知識は持ってはいる (google で検索すると、10000 以上のヒット数があるから、流通している表現であることは確かだろう)。

しかし、それが「主の平和」に対応するかどうかは自信が持てなかったので、"Pax Domini" と "paix du Seigneur" とを AND 検索してみた。

すると "Ordinaire de la Messe selon le Rite de Saint Pie V: latin-français" と云う文書が出てきた。「ピウス5世典礼によるミサ通常文: ラテン語-フランス語」ぐらいの意味だろう。つまり、伝統的な「トリエント・ミサ/Rite tridentin」の羅仏対訳な訣だ。

この pdf イメージ、元のパンフレットの綴じを外して解体してからコピーしたものらしく、ページの順番が変わってしまって、左右対訳になっていないが、それでも、典礼文中において "Pax Domini" は、司祭 (で良いのかな?) が Pater Noster を唱えた後、Agnus Dei の直前に、司祭により会衆に対して投げかけられる "Pax Domini sit semper vobiscum." (主の平安が変わることなくあなたがたと共にあるように) として登場することが分かる (第14ページの下から3行目。この唱句そのものは、上記の「ミサ聖祭の主な応答句」でも確認できる)。

これに対するフランス語訳は "La paix du Seigneur soit toujours avec vous." (第15ページの下から3行目) である。

つまり、"Pax Domini" の「フランス語訳」は "la paix du Seigneur" とすることの裏付けが取れたと言って良いと思う。

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2009年7月18日 (土)

イタリア語で「夏の大三角」

今日昼ごろ (2009/07/18 12:08:28)、キーフレーズ [イタリア語辞典 翻訳 夏の大三角形] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

こと座/Lyra」の主星ベガ (Vega) つまり「織女星」、「わし座/Aquila」の主星アルタイル (Altair) つまり「牽牛星」、そして、「はくちょう座/Cygnus」の主星デネブ (Deneb) が夜空に描く三角形を示すイタリア語をお探しであるなら、"il triangolo estivo" で良いのではないかと思料する (日本語版ウィキペディアの「夏の大三角」の項から、対応イタリア語ページに飛べば簡単に分かる)。

ちなみに "triangolo" は勿論「三角形」の意の男性名詞。"estivo" は「夏の」、「夏期の」を意味する形容詞男性単数形。

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