カテゴリー「大きなお世話」の111件の記事

『「メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)」』補足

「ココログ」の「アクセス解析」を見たら、最近、このサイトのページ「メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)」を訪問される方が多いようだ。

まぁ、それはそれで良いのだが、実は、あの記事で、私は、当然含めるべき情報を書き洩らすという失態を演じている。脱稿した後も、全く気が付かず、かなり後になってから、予期しないまま、何かのきっかけで、事実を知った。それほど失念していたのだ。

それは、記事中、引用した詩のうちの最後である、菅茶山の詩が、富士川英郎 (ふじかわひでお) の「江戸後期の詩人たち」で取り上げられていることだ (筑摩叢書 [江戸後期の詩人たち] pp.50-51)。

分かる人には分かってもらえると思うが、これは至極ミットモナイ手抜かりで、見過ごしてもらえるものなら見過ごしてもらいたい態のものだ。そして、私は、実際放置してしまった。しかし、この一時期のことであろうけれども、そして、このささやかなサイトの中のランキングとは言え、注目を浴びている以上、当該記事の欠落を補わない訣にはいくまい。

まったく慚愧に堪えない。お詫びして、補足する。本来なら、関連情報を改めて調べ、その結果ともども報告すべきところだろうが、生憎、時間にも気分にも、余裕がない。情報を、そのままのものとして、お知らせする。

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パスカルのパンセ中の一節「完全な静止は死である」に就いて

本日と言っても、午前1時過ぎ (2012/06/07 01:09:45)、キーフレーズ [パンセ 完全な静止は死である 英語] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

この「完全な静止は死である」は "complete rest is death." と英訳されるのが普通のようだ。ただし、これには前段があって、それは "Our nature consists in motion;" になっている。

たまたま、手元に中公文庫版の [パンセ] があったから、それを参照してみると

われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。
--中公文庫 [パンセ] (パスカル。訳者:前田 陽一、山本 康) p.88 (第2章 [神なき人間の惨めさ]129)

とされている。ただし、勿論、原文はフランス語で

Notre nature est dans le mouvement; le repos entier est la mort.

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シュレディンガー「固有値問題としての量子化 (Quantisierung als Eigenwertproblem)」原論文

本ブログの記事 [1926年のシュレディンガー論文 "Quantisierung als Eigenwertproblem" (固有値問題としての量子化) に就いて: ファインマンの言及箇所探し] (2009年3月8日[日]) でも書いたことだが、シュレディンガーの波動力学の基本論文は1926年に "Annalen der Physik" (アナーレン・デア・フィジーク) の第79巻から第81巻にかけて、次の通り4回に分けて発表された ("Annalen der Physik" は現在 John Wiley & Sons, Inc. のドイツにおける子会社 Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA から発行されている)。

  1. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Erste Mitteilung)" Annalen der Physik, (4), 79, (1926), 361-376
  2. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Zweite Mitteilung)" Annalen der Physik, (4), 79, (1926), 489-527
  3. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Dritte Mitteilung: Storungstheorie, mit Anwendung auf den Starkeffekt der Balmerlinien)" Annalen der Physik, (4), 80, (1926), 437-490
  4. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Vierte Mitteilung)" Annalen der Physik, (4), 81, (1926), 109-139

ドイツ語文法の初歩の初歩を端折って決めつけて言うと "Mitteilung" が「報告」ぐらいの意味であり、"Erste", "Zweite", "Dritte", "Vierte" は、それぞれ「第1の」、「第2の」、「第3の」、「第4の」を意味する。まぁ、日本語に大雑把に置き換えるなら、"Erste Mitteilung", "Zweite Mitteilung", "Dritte Mitteilung", "Vierte Mitteilung" は、それぞれ「第1論文」、「第2論文」、「第3論文」、「第4論文」としておいても当座は問題ないだろう。と云う訣で、以下、この呼び方をする。

第2論文と第3論文との間に、"Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen" (Annalen der Physik, (4), 79, (1926), 734-756) 「ハイゼンベルク・ボルン・ヨルダンの量子力学の私の量子力学に対する関係に就いて」も発表している。

これらの論文は、フランスのデジタルアーカイブ [Gallica, bibliotheque numerique - Plus d'un million de livres et de documents gratuits] で閲覧可能である。以下、各論文の冒頭ページへのリンクを作っておく。ただし、私の経験からして、旨く繋がらないことがあるかもしれない (理由は私には分からない)。その場合は悪しからず。

  1. 第1論文 (Erste Mitteilung)
  2. 第2論文 (Zweite Mitteilung)
  3. 第3論文 (Dritte Mitteilung)
  4. 第4論文 (Vierte Mitteilung)
  5. ハイゼンベルク・ボルン・ヨルダンの量子力学の私の量子力学に対する関係に就いて "Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen"

また、第1論文だけならは "Wiley Online Library" でも自由に見ることができるようだ。

このほかにも、ネット上を捜索するなら、上記の5論文の pdf ファイルを探し出すことは可能である。例えば、簡単に見つけられる例としては、英訳も雑じっているが、第1論文と第2論文、それに「ハイゼンベルク・ボルン・ヨルダンの量子力学の・・・」は、次のサイトで、他の主として量子力学を扱った基本的な論文とならべてリンクが公開されている。

  1. Clasicos_2
  2. Archivos historicos de la mecanica quantica

しかしその他の論文は探し出すのが若干苦労するかもしれないので、ここで、この記事の項目として5論文全てに就いてダウンロード出来るようにしておく (全てドイツ語原論文である)。

  1. Quantisierung als Eigenwertproblem (Erste Mitteilung)
  2. Quantisierung als Eigenwertproblem (Zweite Mitteilung)
  3. Quantisierung als Eigenwertproblem (Dritte Mitteilung)
  4. Quantisierung als Eigenwertproblem (Vierte Mitteilung)
  5. Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen
Quantisierung als Eigenwertproblem (Erste Mitteilung) Quantisierung als Eigenwertproblem (Zweite Mitteilung) Quantisierung als Eigenwertproblem (Dritte Mitteilung) Quantisierung als Eigenwertproblem (Vierte Mitteilung) Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen

最後に [Wiley Online Library] の該当ページへのリンクも作っておく (ただし、利用方法を私は知らない)。

  1. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  2. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  3. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  4. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  5. Uber das Verhaltnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library

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メモ: 「マイケルソンの干渉計」

昨日 (2012/02/23 17:21:02)、キーフレーズ [マイケルソンの干渉計 しくみ] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

Albert Abraham Michelson の最初の論文 "The Relative Motion of the Earth and the Luminiferous Ether" (1881) にしろ Hendrik Lorentz による実験の不備の指摘を受けて、Edward Morley と共に行なった再試験の結果を報告する論文 "On the Relative Motion of the Earth and the Luminiferous Ether" (1987) にしろ、現在 public domain 化しており、これに応じて Wikisource に収められているから、それを参照することをお勧めする。

なお、後者に就いては、The American Institute of Physics (米国物理学協会) のサイト中 "Selected Papers of Great American Physicists" の1つとして "Albert Abraham Michelson 1852-1931" のページに原論文の html イメージが掲載されている (pdf ファイルのダウンロードも可能である)。

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「焼けた土」の「イタリア語訳」とイタリア語 "cottura" の意味

先程 (2012/02/06 09:25:36)、キーフレーズ [焼けた土 イタリア語訳] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだ。

大きなお世話ながら、そして若干憶測になってしまうのだが、おそらくは、イタリア語 "terra cotta" 又は "terracotta" と云う単語をお探しだったのだろうと拝察する。

これは、「地球・大地・世界」の他に「土」を意味するイタリア語女性名詞 "la terra" に、「煮る・焼く・乾燥する」を意味するイタリア語動詞 "cuocere" の過去分詞 "cotto" が形容詞的に用いられて、女性単数形 "cotta" として後ろから "terra" を修飾している言葉である。

基本的には「素焼きの土器」を意味しており、「テラコッタ」と云う形で日本語化もしている (「タナグラ・テラコッタ」と云う言葉が「授業」で出てきたことを覚えている方も多いだろう)。

因みに、イタリア語動詞 "cuocere" は「煮る・焼く・揚げる・料理する」を意味するラテン語 "coquere" (辞書の見出しとしては "coquo" の方が探しやすいかもしれない) の派生形であり、同語源のイタリア語には「料理・料理法」を意味する女性名詞 "la cottura" がある。シバシバ、このサイトに [cottura イタリア語 意味] と云った類いのキーフレーズで訪問される方がいるので、合わせて書いておく。

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「门内有径」の意味

今朝程 (2011/09/17 07:06:49)、キーフレーズ [门内有径 日本語 意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

まぁ、順当に考えて、これは「門」(「门」は、「門」の簡体字) の「内側」には「小道」があると云うことでしょうね。まとめれば「門の内側には小道がある」。

視点を門の外側に置くなら「門の向こう側には小道がある」と云う訳し方も可能でしょう。

大きなお世話ながら [门内有径] で検索してみると、これは、林語堂 (林语堂, Lin Yutang) が、或るアメリカ人に対して、中国人の理想の暮しを表現したものとして引用したと云う明代の書家・画家 [陳継儒] (陈继儒/陳繼儒) の「小窗幽记」(「醉古堂剑扫」とも。日本新字体ではそれぞれ、「小窗幽記」及び「醉古堂剣掃」) に収めれた (巻六 [集景]) 一節

门内有径,径欲曲;径转有屏:屏欲小;屏进有阶,阶欲平;阶畔有花,花欲鲜;花外有墙,墙欲低;墙内有松,松欲古:松底有石,石欲怪;石面有亭,亭欲朴;亭后有竹,竹欲疏;竹尽有室,室欲幽;室旁有路,路欲分;路合有桥,桥欲危;桥边有树,树欲高;树阴有草,草欲青;草上有渠,渠欲细;渠引有泉,泉欲瀑;泉去有山,山欲深:山下有屋,屋欲方;屋角有圃,圃欲宽;圃中有鹤,鹤欲舞;鹤报有客,客不俗;客至有酒,酒欲不却;酒行有醉,醉欲不归。
--wiki.guoshuang.com : 小窗幽记 陈继儒

がヒットする。

高校の漢文の授業を居眠りしないでいた人物には説明不要だろうが、「径欲曲」の「欲」は、漢文の所謂「助字」で、通常「いまにも・・・しようとしいてる」と云う意味だと説明されるのが普通だ。人口に膾炙する 杜甫の「絶句 江碧鳥逾白 山青花欲然 今春看又過 何日是歸」の「山青花欲然」は「山は木々の青葉で被われ、その花は今にも燃えだすのではないかと思われるほど赤い」と云う訣だ。

しかし、上記引用文では、「欲」が繰り返して使われていて、描写そのものと云うより、言い切らないことで空想であることを暗示し、更に、一種の韻律をもたらす為の修辞的技法になっている。だから、必ずしもイチイチ「いまにも・・・しようとしいてる」と解釈しないほうが良い。

こんな感じだろう:

門の内側には小道があって、曲がっている。小道を曲がると、二之門があって、これは小さい。二之門を進むと、石段があって平坦になっている。石段の傍らには花が咲いていて、鮮やかである。花の向こう側には垣根があって、背が低い。垣根の内側には松の木があって、古色がある。松の根方には石があって、不思議な形をしている。石の傍には亭 (あづまや) があって、飾り気が無い。亭の後には竹林があって、まばらである。竹林を過ぎると小屋があって、ひっそりとしている。小屋の傍には道が通っていて、分かれている。分かれた道が合う所に橋があって、谷底は深い。橋のたもとには樹があって、高い。木陰には草があって、青々としている。草の近くには溝があって、細い。溝は泉に繋がっていて、その泉は水を溢れさせている。泉を過ぎると山があって、深い。山の麓には屋敷があって、四角い。屋敷の隅には菜園があって、広々としている。菜園の中には鶴がいて、踊っている。鶴は来客があったのを知らせたのだが、その客は高雅の士である。来客とあれば酒であり、酒は辞退されない。酒がすすめば酔いを発し、酔いを発せば帰らない

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韓国語で「避難所」

本日午後 (2011/07/29 14:28:02)、キーフレーズ [韓国語で避難所を言うと] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

取り敢えずは「避難處」を、そのままハングル化した「피난처」ではどうだろうか。カタカナ化すると、多分「ピーナンチョ」ぐらいになるのではないかと思う。

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「東日本大震災」の文脈内での「避難所」・「避難者」・「避難者数」の英訳

いささか「時務」に亘る話柄なので、本ブログの趣意に悖るが、かなり頻繁に関連するアクセスがあるので、簡単に書いておく。

シバシバ日本人が書く英文において「避難」の英訳として用いられる "evacuation" は、その中心にあるのは「無人化」と云う概念であり、現在日本社会に馴染みやすい用語を使うなら「退避指示」又は「退避勧告」又は「立ち入り制限 (命令)」(本来「命令」と云う言葉を付けるべきなのだろうが、日本の行政は「命令」と云う言葉を使いたがらないようだ) が最も妥当することになるだろう。

今回の「東日本大震災」で実行されたかどうか寡聞にして知らないが、災害時の "evacuation" には、所謂「ペット」や家畜の "evacuation" もあり得る。この場合は「無人化」と云う用語は馴染まない訣だが、発想は「無『人』化」と同じである。なお、アメリカ合衆国ルイジアナ州農業・森林監理局 --Louisiana Department of Agriculture and Forestry-- のウェブページ "Animal Evacuation Information" を参照の事。

だから、福島の原子力発電所からの放射性物質噴出に伴う立ち入り制限区域のことを英文メディアは "evacuation zone" (Nature News Blog: High radiation levels outside Fukushima evacuation zone) とか "evacuation area" (Pro Nuclear Democrats: Fukushima I Nuclear Power Plant: The Facts So Far) と表現した訣だ (おそらく "evacuation zone" の方が英語としてこなれていると思う)。

従って、JIS の [標準案内図記号] の「広域避難場所」に "Safety evacuation area" と云う「英語」が付されているのは問題がある。英語のネイチブ・スピーカーが、本来とは逆の意味に取ってしまう可能性があるからだ。

では「避難所」はどう英訳すべきか?

[災害(地震)対策文書中の用語「避難所/避難場所」の英訳としての "evacuation area" に就いて] (2006年1月19日[木]) において、私は "refuge" を第一候補として挙げておいた。やや補足して "refuge zone" 又は "regional refuge" ぐらいにすると、「災害用語」らしくなると、後知恵ながら思いついたが、その時は、だからといって、補足修正しようと迄は考えなかった。

が、「東日本大震災及び広域的放射能汚染事件」後の現在は、事情が改まっている。 "refuge" では ("refuge zone" 又は "regional refuge" であっても) 一般的過ぎて、「発生するかもしれない災害を見越しての案内のための」と云う文脈には載りえても、「天災・人災を含めて具体的な災害の被害者のための」と云う文脈にはそぐわないからである。

かといって、別段私がしゃしゃり出てアレコレ述べたてるほどのことではないことであるだろうと、思っていた。少し調べれば解決が付くことだからだ。だから、[避難所 英語] と云うたぐいのキーフレーズで、このサイトを訪問される方が頻頻とあっても、無視してきた。しかし、本ブログへのそうしたアクセスが一向に治まりそうもないのだな。で、まぁ、こんなことを書いている訣だ。

そこで、まず「避難所」より「避難者」をどう訳すかが問題になる。新たの文脈では「避難所」とは現実に「避難者」が生活している場だからだ。

「避難者」は "refugee" (単数) と訳されることがある。しかし "refugee" が「亡命者」又は「政治難民」が中心語義であることが示すように、その含意には「迫害回避のための本来的帰属地からの自発的離脱」が基本にある ("refuge" 中の "fuge" は、「逃亡者」を意味する英語の "fugitive" や「逃亡」を意味し、音楽用語としては「遁走曲」と訳されることもあるイタリア語の "fuga" と同じく、「逃げる」を意味するラテン語の動詞 "fugere" が語源になっている)。

東日本大震災に起因して現在、所謂「避難所暮らしを余儀なくされている」人々は、むしろ "evacuee" (単数) と英訳されるべきなのだ (日本発のものを含めて、英文メディアでは普通に使われている)。特に、東京電力福島第一原子力発電所からの放射性物質噴出に起因する (何だか厭らしい言い方だが)「健康被害」を避けると云う名目の下で、"evacuation zone" から排除された人々はまさに "evacuees" (複数) と謂って良いだろう (ちなみに、1941年の日本軍による真珠湾攻撃の後、合衆国政府により収容所での生活を強制された日系米国人も "evacuees" と呼ばれる)。

そこで、この文脈における「避難所」は、どう訳すべきかと云うと、その規模や様態により、一様ではないような気がする。基本的に "evacuees" が入る訣だが "evacuees shelter", "evacuees center", "evacuees camp" (やや微妙だが"evacuees housing" もありうる) などと考えられる (細かいことを言うなら "evacuees" の後にアポストロフィを入れて "evacuees'" とすべきなのかもしれない)。

最後に「避難者数」はどうかと言うと "the evacuee population" ぐらいだろうが、勿論 "the number of evacuees" でも大丈夫だろう。

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891個のファインマン・ダイアグラム

本日未明 (2011/07/19 03:06:31)、キーフレーズ [ファインマン ダイアグラム 891個] で、このサイトを (直接?) 訪問された方がいらしたようだ。

しかし、ここのような中途半端なことばかりが書いてあるブログよりも、木下東一郎の原論文 "Improved α4 Term of the Electron Anomalous Magnetic Moment" を読まれた方が良いのではないか?

簡単には arXiv 所収のプレプリントが "Improved α4 term of the electron anomalous magnetic moment" で入手可能である。

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ドイツ語と英語の初歩。または、私は如何にして心配するのを止めて [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] 補足を書くことになったか

[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」: nouse] (2011年6月10日[金]) を書いた時、そのうち、ゲーテの研究者ならずとも、どこの誰かが、問題の2011年6月8日付けの [天声人語] の文章に対して、議論の精粗はあるにしても何らかの形で「間違いの指摘」をするだろうと思っていた。

言葉に対しまともなセンスを持っている者が、「天声人語」中の「ゲーテの言葉」(〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉) を読んだなら、それが警句の態をなしていないことに気づく筈で、そして読者がドイツ語又は英語に若干の知識があって、自分が感じた違和感から、「ゲーテの言葉」の出典を調べたとするなら、容易に、英文で

One never goes so far as when one doesn't know where one is going.
Letter to Karl Fiedrich Zelter [December 3, 1812]
--"Bartlett's Familiar Quotations" (16th ed. 1992) p.350
--Johann Wolfgang von Goethe - Wikiquote

なり、ドイツ語文で

man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht.
An Carl Friedrich Zelter. Weimar d. 3. December 1812
--Goethe, Johann Wolfgang, Briefe, 1812 - Zeno.org
--Johann Wolfgang von Goethe: Maximen und Reflektionen - Allgemeines, Ethisches, Literarisches - X.
--Man geht nie weiter, als wenn man nicht mehr ... - Johann Wolfgang von Goethe | Aphorismen-Archiv

なりに辿りつけただろう。だとするなら、本来の「ゲーテの言葉」と天声人語版の「ゲーテの言葉」とでは、「意味が殆ど真逆」(何故『殆ど』と付けるかと云うと、天声人語版を読んで、私は「何が言いたいのだろう」と思ってしまったからだ。「意味不明」なのである。あれを、何の疑問もなく読み通せる人は、「スゴイ」と思う) であることが解るだろうから、その内の一部であるにしても「つぶやく」ぐらいのことはするだろうと思っていたのだ。

特に、引用句辞典に採録されているような「ゲーテの言葉」が、所謂「全国紙」の一面で、根本的に間違って解釈されたのを放置するのは、ゲーテ研究者としての自分達の存在意義を自ら否定することになりかねないと、少なくとも一部のゲーテ研究者は考えて、それを防ぐ意味で何らかの意見表明をするだろうと、私には思われた。

しかし、ネットで見られる限り、そのようなことは、これまで起こらなかったようだ。

私のリアルタイムの情報は、現在実質的にネットに限られているから (新聞は定期購読していない。また TV は観るが、「リアルタイムな情報源」にはなっていない)、ネットに反映されていない現象を私が捉まえられないだけでいるかもしれない。あるいは、「ゲーテ研究者」なるものが、所謂 digital divided であるかもしれない。更に、あるいは、「ゲーテ研究者」は新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていないのかもしれない。

しかし、「ゲーテ研究者」自体がネット環境とは疎遠な所で活動しているとしても、その周囲には、それなりにネット社会に参入している人々がいるだろうから、その人々を経由して、ゲーテ研究者間に発生した「さざ波」が、全くネットに反映しないことは考えにくい。だから第1のケースと第2のケースに起因して、「ゲーテ研究者」の反応が不明だと云うのは解しがたい。

この第3のケースのうち「新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていない」は、意外と有りうるかもしれないと、チラリと思った。私自身、そのようなことがあるからだ。

私が実際に目にすることが多い新聞コラムが「天声人語」であるために、この話題に繋がった訣だが、総じて新聞のコラム、特に所謂「第一面コラム」は詰まらない。細かい分析をしたことがなかったので、今たまたま思いついた形容をすると、イメージとての「オジサンのスピーチ」の詰まらなさだ (やはり、今気が付いたことは、私は、或る意味「オジサンのスピーチ」を聞かないような「人生の選択」をしてきたから、これは完全な食わず嫌いなのだが)。「知性と感性が爆睡している人間の寝言」とでも言いたいところがあるのだ。

論旨が逸れかねないが、一応書いておくと、「読むに耐える」と言うべき文章が書かれることあることは認めておく。これは、担当者の違いに拠るのかもしれない。

議論が取り散らかりそうだが、もう一つ付け加えておくと、私は [オジサン] をアナガチ否定するものではない。斯く言う私も [オジサン] である。ただし、[オジサン] は [スピーチ] をしてはならないと思っている。[オジサン] と [スピーチ] には相容れないものがあるのだ。そして、「日本の」と修飾語を付けるべきかどうか、わからないが、新聞のコラムでは、[オジサン] が [スピーチ] をしていることが多いのだ (言うまでもなかろうが、この [オジサン] は生物学的・医学的な意味での [ヒト・オス・成体] ではない)。

しかし、思い返すなら、私自身、「天声人語」を読んで、シバシバ「相変わらず詰まらないな」と思っても、別段読まなくなっている訣ではないし、また、その間違いに対して、このようにして反応している。つまり、私も「天声人語」と云う新聞コラムを、私なりに「重要視」している、と言うか、無視していない訣だ。その私が、「ゲーテ研究者」は「新聞のコラム、あるいは、少なくとも『天声人語』を重要視していない」あるいは「無視している」と結論するには、何らかの補強的な証拠が必要だろう。しかし、私はそのようもものは持っていない。

あと、もう一つ、朝日新聞又は「天声人語」担当者と、「ゲーテ研究家」とが「仲良し」で、「身内の恥は隠蔽する」と云うことがあった可能性もあるな。。。などと、まぁ、こう云うのは「ゲスの勘繰り」と呼ぶべきなのでしょうな。

だが、段々心配になってきた。事は、一私企業の一人又は何人かの社員 (朝日新聞が「天声人語」の作成を外注していると云う可能性はないとは言えないかもしれないが、そう云うことを含めて「社員」と呼んでおく) の失敗ではなくて (それならば、理念としては、必要な訂正作業をして、検証し、それが「重大な失敗」であったら、再発防止策を取れば良いだけのことだ)、「ゲーテ研究者」と呼ばれるべき人々の存在意義に関わってしまっているからだ。

我ながら、「大きなお世話」だと思ったが、取り敢えず、fact finding の為に、久しぶりにヤヤ遠方にある大きめの図書館に行ってきた。ゲーテ全集を見て、「ゲーテ研究」の現状の一端を知りたかったのだ。現在、市場に流通している「ゲーテ全集」は [潮出版社] 刊のものだが、やはりそれが開架に並べられていた。問題のカール・フリードリヒ・ツェルター宛の1812年12月3日付けの書簡は第15巻に収められていたことは収められていたのだが、部分訳で目的とする部分の翻訳が省略されていたのは残念だった。

しかし "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." と云う警句は、上記にもあるように、後人の編集になるゲーテの警句集である "Maximen und Reflektionen" (「箴言と省察」) にも収録されているので、その翻訳が入れられいてる第13巻の方を当たってみた。これも部分訳で、しかも順番が編集されていいるようだったが、流し読みしていくと、その最後のページに次のようなものが発見できたのだ。

もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない。
--[ゲーテ全集第13巻] p.414 (新装普及版。東京 2003年 潮出版社)

うーん。これはやはり "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." の「翻訳」の積もりでしょうな。しかし、あからさまな誤訳である。

と云う訣で、決心がついた。わざわざ説明するまでもないと思って、していなかったドイツ語に就いての初歩的な注意を試みる。

以下、2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] を単に「天声人語」、その作成者を「天声人語子」、そして、潮出版社刊 [ゲーテ全集第13巻] 中の p.414 で「もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない」部分を担当した翻訳者を、「ゲーテ研究家」と呼ぶことにする。「ゲーテ研究家」に就いては全体と個人との均衡を欠くかの如くだが、「天声人語」への反応が見られない状況では、あながち「過度の同一視」とも言えないものがあるのではないか。

ドイツ語において (並行したことが英語でも言えるが)、形容詞又は副詞の比較級を用いて不等比較を表す時は、"als" の前後に「比較対照」が示される。ただし、この「比較対象」(「比較対照」の対象、何だかめんどくさいな ) は単純な名詞とは限らず、節文で表わされる「状況」であることもあり、さらに節文から適宜一部省略して「肝心」な部分だけが残されることも多い。例文を小学館の [独和大辞典第2版] から、原文の「~」を "als" に戻した上で引用すると

Er ist älter <nicht älter> als ich.  彼は私よりも年上だ <ではない>
Er ist viel <weit> älter, als ich gedacht habe.  彼は私が思っていたよりもはるかに年をくっている。
Sie ist mehr shön als klug.  彼女はあまり賢くはないが美人だ。
Sie versteht mich besser als du <dich>.  彼女の方が君よりも私を <彼女は君よりも私の方を> 良く理解してくれる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

そして、「比較対照」は wenn から始まる節文であっても良い。やはり [独和大辞典第2版] から引用すると

Die Welt hat mehr Nutzen, wenn er shreibt, als wenn er liest.  彼には読書するより著作をしてもらった方が世の為になる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

これを踏まえて「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」と云う形の文が、どのような意味になるか説明すると、「動詞」を修飾する「副詞」の意味する「状態の程度」は、如何なる場合にあっても、「wenn 節」が成り立つ状況における「状態の程度」を超えることが決してないと云うことなのである (ちなみに "nie" は、英語の "never" と同様「決して・・・しない」ぐらいを意味する否定詞)。つまり、「wenn 節」が成り立つ状況において、「状態の程度」が最高になると云う、最高級表現の代替表現なのだ。

ここで、「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」の例文をネット上で探してみたが、"geht nie weiter, als wenn ..." では「ゲーテの言葉」ばかりがヒットするので、副詞部分を変更して検索してみると、例えば、Karl Kraus は "Nachts" と云う警句集の "1915" と云う章に

Das Übel gedeiht nie besser, als wenn ein Ideal davorsteht.
--Karl Kraus - Aphorismen: 1915 - Spruche
--Projekt Gutenberg-DE - SPIEGEL ONLINE - Nachrichten - Kultur

と書いている (英語の "well" の対応語で「良く」とか「十分に」とかを意味する"wohl" の比較級 "besser" が用いられて "gedeiht nie besser, als wenn ..." の形になっていることに注意) が、これは

何かの「理想」が実現しようとする時ほど悪がはびこることはない。

と云う意味だろう。

意地悪なようだが、これを「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」してしまうと

理想が実現すると悪は栄えなくなる。

となるが、これでは「知性のひらめき」が消えうせて、「鈍感な官僚/政治家の答弁」風、と言うか、やはり [オジサンのスピーチ] になってしまう。

副詞 "wohl" の比較級には "besser" の他に "wohler" という形のものもある。これは「健康である」とか「気分が良い」と云う意味だが、それを用いた例文としては、エドガー・エーラー (Edgar Oehler) と云うスイスの実業家に就いての記事に

«Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite», sagt Oehler, auf diese Einschätzung seiner Freunde angesprochen. Das einzige Hobby, das er sich gönnt, ist eine Modelleisenbahn: Buco Spur 0.
--Edgar Oehler: Der Tycoon aus dem Rheintal

と云うものがあった。

友人が語ったこの評価 [「トンでもない仕事好き」] に対して、エーラーは「私は仕事をしている時が一番体調が良いんだよ」と言う。自らに許しているただ一つの趣味と言えば鉄道模型、Buco 社の O ゲージ、だけなのだ。

再び、意地悪して、"Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite" を「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」すならば

私は仕事をすると体調が悪くなるんだよ

になる。これは「タイクーン」と呼ばれている実業家にはふさわしくない言葉ではなかろうか。

もっとも、「天声人語子」は、自分が読んだのは英訳であって、ドイツ語の事は関知しないと言うかもしれない。しかし、英語であっても、事情は同じである。上記に示したバートレットの引用句辞典中における「ゲーテの言葉」(「天声人語」英文版には、全く同一の文章が使われてるいる) は、英訳であることを離れて英文として見ても正しく成立してるからだ。それは、やはり「人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない」ぐらいの意味になって「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」にはならない。

実際、英語においても、上述のドイツ語に対する説明と並行的内容のことが 「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than + when 節」に対して言えて (ドイツ語と英語では、否定詞と動詞の順序が逆転する。また、ドイツ語の "als" は文脈によって、英語の "as" に対応することもあれば "than" に対応することもある。そして、この場合は、"than" が対応する)、それは「副詞の最高級」相当の意味を形成する。ただし、問題のゲーテの言葉の英訳では、「否定詞 + 動詞 + 副詞の比較級 + than」から、等価な「否定詞 + 動詞 + so + 副詞の原形 + as」への置き換え用いれているだけなのだ。

だから「ゲーテの言葉」には、「置き換え」のない

One never goes further than when they do not know where they are going.
--Famous Johann Wolfgang Von Goethe Quotations - Page 4

と云う英訳も存在する。

英語でも、幾つか例文を拾っておく。まず、バートレットの引用句辞典に収められた「ゲーテの言葉」、つまり英文版「天声人語」における「ゲーテの言葉」に合わせて「never + 動詞 + so + 副詞の原形 + as when」の形のもの。どうやら、会社の経営者・従業員への「教訓」らしい。

A man never likes you so well as when he leaves your company liking himself. (Source Unknown)
--Dictionary of Quotes
ある人があなたのことを好ましいと思っている最高の形態とは、あなたの会社が、その人を好ましいと考えていられるようにしてくれていることである。

パスカルの「パンセ」の一節 (Jamais on ne fait le mal si pleinement et si gaiement que quand on le fait par conscience. ) の英訳

Men never do evil so completely and cheerfully as when they do it conscientiously.
Blaise Pascal, Pensées (# 894 or 895)
--Evil - Wikiquote
人は良心に従っている時ほど、悪を徹底的且つ喜びを以って行うことはない。

次に「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than whenn」の形のもの

まず、調理器の紹介だか宣伝の記事の一部

Food never tastes better than when it's cooked long and slowly, so we know you'll love this Slow Cooker.
--Rosemary Conley Slow Cooker | Kitchen Essentials | Rosemary Conley TV
食べ物は、長い時間をかけてゆっくりと調理する時が一番おいしくなりますので、この「スロー・クッカー」のことが気に入って頂けるに違いありません。

スキーを主題にしたスポーツ医学に就いてのウェブページで、

If you are one of the experienced millions or if you plan for that first skiing experience, you may never feel better than when you're experiencing the excitement of a perfect downhill run. Then again, you may never feel worse than when you're laid up with torn knee ligaments or some other mishap that the slopes frequently offer up.
--Caring For Athletes - Fit For You - Ski Fitness
あなたが、経験を積んだ何百万人かのスキーヤーの一人であるにしろ、初めてのスキーを計画している人であるにしろ、ダウンヒルを完全に滑りきった興奮を体験する時ほど素晴らしい気分になることはないでしょう。その一方で、滑降中にシバシバ発生する、膝靱帯の断裂等の事故で寝込んでいる時ほど落ち込んだ気分になることもないだろうと思います。

なんで、こんな初歩的なことをクドクド書いているのかと云うと、どの程度までレベルを下げてよいのか、見当がつかないからで、実は、自分でもさっきからウンザリしている。このへんで止めておくことにしよう。

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