カテゴリー「ギリシャ語/Ελληνικά」の19件の記事

今更ながら「ファインディング・ニモ」

以前、頭の中をかすめただけの思い付きを書き始めたのだが、「芯」になるものが探し出せず、話がまとまらなかった。しかし、ほかの「ネタ」で話を組み立てるのも気疎いので、そのまま発表する。

"Finding Nemo" (邦題「ファインディング・ニモ」) と云う「ディズニー映画 (製作会社:ピクサー・アニメーション・スタジオ )」があって、私は未見である。ただ、このアニメ映画の日本公開時 (2003年12月)、私の居宅には TV 受像機がまだあって、そこで流れされたキャンペーンの情報の切れ端は、私の記憶の中に残っている。

もっとも、私が承知しているのは、「人間にさらわれた『クマノミの男の子』(名前は『二モ (Nemo)』) を、お父さんクマノミ (名前は「マーリン (Marlin)」) が探しに行く」と云う、極めて概括的なことでしかない。

内容を知らない映画について、いきなり半畳を入れるようで申し訣ないが、この記事を書くに当たって、ザッと調べて集めた情報に従うなら、この映画の設定は、動物学的・生態学的には無理があるような気がする。

クマノミは、所謂「雄性先熟性」、つまり、全ての個体はオスとして誕生する。では、メスはいないのかと言うと、そんなことはなくて、メスも存在する。メスは、オスが性転換したものである。

卵から孵化したクマノミは、途中、捕食されたりして大部分が死滅するとは言え、とにかく、イソギンチャク (例外もあるらしい) に、到達することで、幼生期を離脱する。前後してイソギンチャクに到着したクマノミは、シバシバ10匹足らずの個体からなるグループを作る。、

クマノミのグループは、最大で最強の個体である一匹のメス (つまり、「お母さんクマノミ」) と、2番目に大きい個体であり、「お母さんクマノミ」と共に繁殖に関わるオス (「お父さんクマノミ」)、そして、その他のオス (基本的には別の「父母」と云うか「母父」の間で形成された卵から孵化したのち浮遊してたどり着いた、最大でも数匹の「男の子(繁殖には関係しない)」) から構成されている。つまり、こうした「男の子」たちは、いわば「里子」であるが、むしろ「冷や飯喰い」と読んだ方が良いかも知れない。

「お母さん」が最強者としてグループ内を支配するが、「お父さん」と「冷や飯喰い」たちの間にも、序列があって、上位のものは下位のもの (特に直下のもの) を攻撃する。攻撃に耐えかねて、新参者が逃げだすこともある。この行動には、「冷や飯食い」が更に成長して、性的に成熟するのを防ぐ役割がある可能性がある (「お母さん」と「お父さん」との間では、攻撃はホボ抑制されているらしい)。

本稿のこうした記述は全て、泥縄の受け売りである。生態学や行動学的な記載は、新たな観測報告が追加されていくと重要な変更がありうると云う原則的な難点があるが、それ以前に、私が誤解していることも十分ありうる。だが、そうしたことは気にしないで、読みかじったものを未消化のまま吐き出していくことにする。

ただし、卵の段階では、親、特に「お父さん」は、卵塊を清潔にし、その数百から千数百ある卵が、捕食されないよう護ったり、また、酸素不足にならないよう、孵化までの1週間前後休みなくエラであおいで新鮮な海水を卵塊に供給し続けたり、死んでしまった卵があれば腐敗が他の卵に移らないように、死卵を除去 (食べちゃう) したりなど、献身的な世話をすると云う事実を付け加えておこう。

「お母さん」が欠けると (この映画では、「お母さん」の「コーラル (Coral)」がそうなる)、残ったグループのうち最大のオス である「お父さん」がメスへと性転換する。つまり、類型的には「お母さん」がいなくなると、「お父さん」が「お母さん」になる。そして、新しい「お母さん」は、その他のオスの中の一匹 -- 多分序列にして以前第3位だった「男の子」-- とツガイを組む。

それから、「ファインディング・ニモ/Finding Nemo」に登場するクマノミは、ディズニーの公式見解による「カクレクマノミ (Amphiprion ocellaris)」(つまり、「オケラリス種のクマノミ」) ではなく「ペルクラ種のクマノミ/Amphiprion percula」と云うことがシバシバ指摘されているようだ。

関連画像:

  1. ペルクラ種 Amphiprion percula のクマノミの画像
  2. オケラリス種 Amphiprion ocellaris (カクレクマノミ) の画像
  3. マーリン (ニモの父親) の画像

しかし、こうした諸諸のことはあまりこだわっても仕方がないような気もする。「お父さん」が「お父さん」のままなのが分からないことにしろ、オケラリス種にしろ、ペルクラ種にしろ、そうしたことが「問題」になるなら、クマノミに、人間みたいな歯が生えてるとか、白目があるとは思えないから、「問題」にするなら、そちらの方を先に「問題」にしろよ、と、思ったりする (「魚が、人間のように言語コミュニケーションを行う」ことは兎も角)。。。

。。。とは言うものの、本稿での「クマノミ」の説明は、ペルクラ種を基準にしている。

なお、余談になるが、日本語版のウィキペディアの記事「クマノミ亜科」では、英語風に「オセラリス種」としてあるが、学名では、一つの表記に一つの読み方を固定すべきである一方、学名はラテン語を基礎にすると云う原則があるのだから、ここはラテン語風に「オケラリス種」とすべき。日本は、ギリシア・ローマ文化の本流にはないのだから、むしろ、こうした点は厳格でないと、些細な誤りで重大な失敗を引き起こしかねない。

しかし、まぁ、道聴塗説はこれくらいにしておこう (私が書くものは、全て「道聴塗説」と云う指摘が聞こえてきそうだが、この際不問にしておく)。

で、本題だが、かって、「ファインディング・ニモ/Finding Nemo」と云うタイトルを聞いた時思ったのが、「この『ニモ/Nemo』は、ジュール・ヴェルヌの小説『海底二万マイル』に登場する『ネモ船長』からとったのだろうか?」と云う疑問だった。

自分でツッコんでおくと、「海底二万マイル」の原題はフランス語で "Vingt mille lieues sous les mers" だから、「マイル」は可笑しい。しかし、"lieue" は「3海里=5556m」だから、『海底2万海里』も可笑しい。フランス語の lieue に対応する英語は league --厳密な言い方では "nautical league"-- だから、『海底二万リーグ』で、そうした翻訳名もあった筈だが、ここでは、私が子供のころ覚えて馴染んだとおりにしておく(草稿が出来上がってから、気が付いて調べたら、実は、ここらの背景事情は、日本語版ウィキペディアの記事「海底二万里」で説明されていて、それを引用すれば、それで済んだ話だった。。。今回は、こんな話ばかりだ)。

こだわるなら、"sous les mers" を「海底」とするのだって可笑しいのだ。ここは、「潜水」とか「潜航」とすべきところだろう。「潜航二万リーグ」とか、これはこれで、タイトルとして成立すると思うのだが、どうやら、そうしたタイトルでは翻訳されたことはないようだ (検索でヒットしない)。

で、この疑問には日本語版のウィキペディアの記事「ファインディング・ニモ」の「概要」に

主人公ニモ(Nemo)の名は、ジュール・ベルヌの小説『海底二万里』に登場する主人公ネモ船長(Captain Nemo)から採られている。
と書いてあって、あっさり解決している。

ただし、勿論、それだけでは話は終わらないので、その時私は、「もし、『だとしたら』、面白いネーミングだな」と思ったからだ。何故なら、ネモ船長の "Nemo" は、pseudonym であり、ラテン語 nemo に従って「誰でもない」と云う意味が隠されているからだ (日本語版ウィキペディアの記事「ネモ船長」を参照されたい)。つまり "nemo" は、英語で言えば "no one" や "no body" にあたるので、"finding Nemo" は "finding no one" や "finding nobody" つまり、「誰も探さない」と云う意味になるのだ。

そして (草稿完成どころか) 書きながら調べいて分かったが、"finding Nemo" を "finding no one" や "finding nobody" に変換するのは、簡単な思い付きだと云うことだ。実際、"finding no one" や "finding nobody" で、検索すると、それらしい記事がヒットする (意気阻喪したので、私は、内容をチェックしなかった)。

これを知った時点で、書き続ける意欲が著しく減退したのだが、もう少し書いておくと、"Nemo" は文学史的には、古典ギリシアのホメロス「オデュッセイア/ΟΔΥΣΣΕΙΑ」に遡ることができる。「オデュッセイア」の主人公オデュッセウス (Ὀδυσσεύς) がキュクロープス (Κύκλωψ) に対して名乗った Οὖτις がそれである。この "Οὖτις" も「誰でもない」を意味する。

しかし、他方、「オデュッセウス」は「大航海者」の象徴だから、"finding Nemo" は「大航海者を探して」と云う意味をも持ちうる。だから、"finding Nemo" と云う物語には、「大航海者を探して」と云う隠れた意味があるのではないか、と、妄想したのだったが、どうやらハズレのようだ。

「ファインディング・ニモ」は、「父親」が「失われた息子」を探しに旅に出ると云う話 (そのために「母親」が死んでいることが前提になっている) だから、「航海者」であるのは「父親」であると云う訣だ。「旅」は、宜しくドリー(Dory)と云う「案内者」を得て、叙事詩的としてなら、「地獄巡り」の様相を呈するのが順当なのだろうか、そうでもないようだ。

結局、本稿には「思い付き」と呼ぶに値することが、全くない、と云う結果に終わってしまった。

関連情報へのリンク

  1. Orange clownfish - Wikipedia
  2. Orange Clownfish - Amphiprion percula - Details - Encyclopedia of Life
  3. Outis - Wikipedia

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taxi の語源。「タクシー」に付いているから「タクシーメーター」と呼ぶではなく、「タクシーメーター」が付いているから「タクシー」と呼ぶのだと云う話。

以前から、taxi と云う英単語を見るたびに「変わった綴りだな」と云う思いが頭をよぎっていた。ただ、一瞬して忘れてしまう。

タクシーなど、年に一度、8月に、父の墓のある北関東の山奥に最寄駅から向かう時に利用するだけである。存命だった父に連れられて訪れた昔は、曲がりなりにもバスが、地元民でない人間にも利用するに足る頻度で通っていたのだが、現在では申し訳程度に運行されているだけだ。もっとも、当時は、道路が十分整備されていなくて、幅員に余裕がなく、道路の片方に迫った斜面から伸びた木の枝をこすりぬけながら走るバスが、道路逆側で誘う崖に転がり落ちるのではないかと、子供心にヒヤヒヤしたものだった。

話がズレた。兎に角、私は滅多にタクシーに乗車しない。だからと言っては悪かろうが、事実として "TAXI" への興味が持続しないので、そのまま、「気になる」が膨らむことはなかった。

しかし、先日、外出中にやはり、TAXI と書いた表示を見た拍子に、英語 "taxi" の語源が、古典ギリシャ語 (この「古典ギリシャ語」は「新約ギリシャ語」をカヴァーする、非常に大まかな意味で言っている。本稿のレヴェルでは、「プラトンの頃」と「新約時代のコイネー」の、更には、現代ギリシャ語との区別をしても仕方がないので、以後、単に「ギリシャ語」と呼ぶことにする) の ΤΑΧΥΣ (形容詞「速い」) ではないかと、思い付いたのだ。

勿論、ギリシャ語の Χ を英語に翻字すると、通常 Ch になる (ギリシャ語 Χ を翻字すると通常 Ch になるのは英語に限らないだろうが、ロシア語では通常 Х になるから、話を一般化するのは控えておく) ことは、私のような無知な人間でも承知している。確かに、「キリスト」 (ギリシャ語だと Χριστός) が英語では "Christ" になるのだ。とは言え、キリスト生誕を祝うミサは、"Christmas" だけでなく "Xmas" と表記されることもあるから、"ΤΑΧΥΣ" を語源とする交通機関が "taxi" と名付けられることもあるうると云うのが、私の思い付きの根拠だった。

ちなみに、キリストは、ロシア語では Христос。これをカタカナ化するなら「ハリストス」になる。東京神田の聖橋そばにある所謂「ニコライ堂」は「日本ハリストス正教会」の首座主教座教会である (ただし、ややこしい話だが、「日本ハリストス正教会」の対応ロシア語 Японская православная церковь には Христос 又は、その屈折形は含まれていない)。

さすがに忘れずに帰宅してから調べたのだが、これはハズレだった。

taxi は、もともと、taxicab, 更には taximeter cab の省略形らしい。運行距離に応じた課金高を表示する taximeter を搭載した cab (これ自体も、本来は、一頭立ての二輪馬車を意味する cabriolet の省略形) だという。

そして、以下の文章の要になる情報を示しておくと、「タクシー」に搭載されている料金計だから「タクシーメーター」と呼ばれるようになったのではなく、「タクシーメーター」を搭載した「少人数の乗客を随時運搬して、タクシーメーターに従った料金を請求する車両」を「タクシー」と呼ぶのだと云うことである。

以下の情報は英文ウィキペディアの記事 "Taxicab" 及び "Taximeter" と、ウェブページ "Early Sports and Pop Culture History Blog: Taximeter, Taximeter, Uber Alles - a History of the Taxicab" その他の資料の内容を取捨選択したものである。従って、詳しくは、そして恐らく正確には、原文を確認されたい。

まず、周辺的情報を纏めておくと、ゴットリープ・ヴィルヘルム・ダイムラー (Gottlieb Wilhelm Daimler, 1834年3月17日 - 1900年3月6日) が、彼の盟友ヴィルヘルム・マイバッハ (Wilhelm Maybach, 1846年2月9日 - 1929年12月29日) と共にガソリンエンジン駆動の四輪車 (Daimler Motorkutsche) を発明したのは、1886年である。これは、4輪馬車に、ガソリンエンジンを取り付けたものだった。二人は、1890年に株式会社ダイムラー自動車会社 (Daimler-Motoren-Gesellschaft.略称は DMG) を設立し、1892年に史上最初のガソリンエンジン車 Daimler Motor-Straßenwagen を販売し始める。

DMG は1894年以降、ベルトドライヴ式の "Daimler Riemenwagen" (「ダイムラー・ベルトドライヴ車」ぐらいの意味) を製造・販売していたが、1986年6月、シュトゥットガルト (Stuttgart) の荷馬車業者 Friedrich Greiner (フリードリッヒ・グライナー) が、これに「タクシーメーター」(恐らく、当時、そう云う呼び方で指定されたのではないだろうが) を付け加えたものを注文してきた。これに応じて、DMG が製作したのが "Daimler Riemenwagen Typ Victoria" (「ダイムラー・ベルトドライヴ車」タイプ・ヴィクトリア) である。これは、翌1897年5月に納入された。そして、グライナーの会社は、史上最初のガソリン車によるタクシー会社となった。
参照:The world’s first motorized taxi cab – built by Daimler-Motoren-Gesellschaft - Daimler Global Media Site

この "Typ Victoria" は "Daimler Victoria" と呼ばれることもある。しかし、同時期に、当時 DMG と競合会社であった Benz & Cie. も "Benz Victoria" ("Benz Patent-Motorwagen Victoria" とも呼ばれる) を製造販売しており紛らわしい。

しかし、こうしたことども以前から「タクシーメーター」は存在した。しかも、それを搭載したのは馬車ばかりではなかった。「タクシーメーター」付の「電気自動車」さえ存在したのだ (両者は、結局、ガソリンエンジン型のものに駆逐される)。

「電気自動車」に就いては英文版ウィキペディアの記事 "Electric vehicle" 及び "History of the electric vehicle" を参照されたい。

また、所謂「輪タク」型のものも存在した。1896年の米国ニューヨークの新聞 New-York tribune (ニューヨーク・トリビューン) の記事には、ドイツのベルリンでの「3輪自転車キャブ」が登場したとの報告がある。それは、ドイツでは通常の「辻馬車」に装備されている "taximeter" が付いていて、前輪が1つに後輪が2つで、後輪の上方に乗客が後ろ向きに乗るようなものであったらしい。
参照:New-York tribune. (New York [N.Y.]) 1866-1924, November 15, 1896, Image 31 « Chronicling America « Library of Congress

さて本題に戻ると、「タクシーメーター」の原形を発明したのは、ドイツ (プロシア) の音楽教授ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ネドラー (Wilhelm Friedrich Nedler) だった。彼は、乗客が馬車その他の車両を利用した距離・時間に応じた料金を表示する装置の特許を英米仏独で取得している。彼は、この装置を Taxanome と名付けた。

Taxanom の内、Taxa は「料金」を意味する中世ラテン語の taxa 及び/又は ドイツ語の Taxe (ラテン語 taxa からの転訛) に由来し、nome は「規則・法律」を意味する νομος (nomos) に由来すると思われる (nome の方は、ギリシャ語から直接と云うより、楽曲のテンポを測定するメトロノーム metronome がヒントになった可能性がある)。ネドラーは、株式会社 Taxanom-Aktien-Gesellschaft (タクサノム株式会社) を 1884年にハンブルクで設立した ("Early Sports and Pop Culture History Blog: Taximeter, Taximeter, Uber Alles - a History of the Taxicab" では "Professor Nedler, wound up in Hamburg with his taxanom in the mid-1880s:" となっていて、この言葉通りなら「事業を清算した」になるが、文脈からして、その逆である)。

中世ラテン語 taxa は、ラテン語の動詞 taxo (非難する。値踏みをする。計算する。) から来ている。「税金」を意味する英語 tax も、ラテン語 taxo に由来するから、taxi と tax は同語源という訣だ。

ネドラーのほかに、ハンブルクのクロノメーター (船舶用精密時計) の製造業者フェルディナンド・デンカー (Ferdinand Dencker. ドイツ語版ウィキペディアに "Ferdinand Dencker" と云う項目があるが、これと同一人物だろう) は、Taxanome の改良を行い、例えば、乗客人数や料金体系の変動に応じて、料金表示の変更が容易に行えるようにした。彼も、Taxanome に就いての特許を取得している。

Taxanome の市場規模は大きくなっていき、競合他社も増加して、競争も激しくなっていったが、品質的に優れていたのは、ネドラーの会社と デンカーの会社の2つだった。しかしながら、ネドラーとデンカーとは、1890年7月に Taxameter Fabrik Westendarp & Pieper (タクサメータ製造所ヴェステンダープ・ウント・ピーパ) と云う会社に、特許を譲渡している。

その詳細は不明である。なお、ここで Taxameter と云う言葉が使われていることに注意。Taxameter から Taximeter への転訛は容易に起こりそうな気がする (特に、ドイツ語 --にしろ、他の特定言語にしろ-- になじみのない場合は、「聞き取った単語相当の音の塊」に期待される意味からの情報補足が欠ける可能性があり、Taxameter を Taximeter と受け取り違えることもありうるだろう)。

現在使われているタクシーメーターの基本形を作ったのは、Taxameter Fabrik Westendarp & Pieper の技術者だった Friedrich Wilhelm Gustav Bruhn (フリードリッヒ・ヴィルヘルム・グスタフ・ブルーン。1853年11月11日 - 1927年) である。彼の行った代表的な改良は、料金メーター (Taxameter) に「空車」を示すパネルや小旗を取り付けて、それを倒し隠すと課金が始まり、同時に乗客がいることが分かるようにしたことである。

1897年、ブルーンは独立して、やはりハンブルクに、Internationaler Taxameter, G.m.b.H. (インタナツィオナーラ・タクサメータ株式会社) を設立した。事業は好調で、1906年には、ブルーンは、古巣の会社 Taxameter Fabrik Westendarp & Pieper を買収している。Taxameter Fabrik Westendarp & Pieper 買収後、ブルーンは、その製品に自分の名前を被せるようにした。例えば、"Taxameter" は "Original Taxameter Bruhn" として販売された。タクシーメーターの「発明者」がブルーンであるとされることがあるのはこのためかもしれない。

しかし、ブルーンが独立した 1897年は、ダイムラー社が、タクシーメーター (恐らく、取引上、当時はまだ Taxameter と呼ばれていたろうが) を搭載したガソリンエンジン車 Typ Victoria を出荷した年である (Daimler Victoria に搭載された Taxameter が Bruhn のものかどうかは確認できなかった)。

ただし、馬車からガソリン車への切り替えにしろ、Taxameter 付きガソリン車の一般化にしろ、すぐに起こったのではない。1906年、イギリス・ロンドンでの特別委員会に証人として出席したブルーンは、ベルリンに 7500台ある cab のうちガソリン車は 300台 に過ぎないと証言している。

それでも、どうやら、この 1906年から1907年あたりが、潮の変わり目だったらしい (「特別委員会」でブルーンが証言したこと自体が、そのことを暗示しているとも言える)。

米国ワシントンD.C.の新聞ナショナル・トリビューン (National tribune) 1907年5月23日号第2頁には、ロンドンでは taximeter を搭載した taxicab と云う自動車が評判で、数多くあり、馬車型の cab を駆逐しつつあると報じている (米国における例だが、既に、"taxicab" そして "taximeter" と云う単語が使われていることに注意)。
参照:The National tribune. (Washington, D.C.) 1877-1917, May 23, 1907, Page 2, Image 2 « Chronicling America « Library of Congress

また、米国ニューヨーク州の新聞ニューヨーク・トリビューン (New-York tribune) 1907年10月1日号第5頁では、New York Taxicab Company が、開業に合わせて、フランスから輸入した taxicab 25台のパレードを、前日、ニューヨーク市5番街で行ったと報じている。
参照:New-York tribune. (New York [N.Y.]) 1866-1924, October 01, 1907, Page 5, Image 5 « Chronicling America « Library of Congress

New York Taxicab Company が購入した自動車は、フランスの A Darracq et Cie 社製のものだった。また、タクシーメーターは、やはりフランスの Société Générale des Compteurs Voitures 社のものだった。

New York Taxicab Company は最終的には A Darracq et Cie から600台の taxicab を輸入したらしい。

この後、数年にして、ガソリン車のタクシーの普及は進み、その製造も一般化する。

Société Générale des Compteurs de Voitures の株券 (1904年) では、taxamètre と表記されていることを注意しておく。

結局、上記のように、既に 1896年には、taximeter と云う言葉が使用されており、taxameter から taximeter への変化は、かなり早かったらしいと云うことしか分からなかった。

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メモ:理科年表 [物理/化学部 旋光物質] における用語の誤りに就いて

平成24年度版 (第85冊) [理科年表] (丸善出版 東京 2011年) のノンブルで言うなら [物102(464)] にある表 [旋光物質] は、次のようになっている。

物  質   条 件 [α]D20/(°)
果糖 c = 10 -104 (溶解後 6m), -90 (溶解後 33m)
果糖 p = 2 -- 31 -91.9 - 0.11p (平衡に達した後)
ショ糖 c = 0 -- 65 +66.462 + 0.00870c - 0.000235c2
転化糖 p = 9 -- 68 -19.447 - 0.06068p + 0.000221p2
ブドウ糖(右旋) c = 9.1 +105.2 (溶解後 5.5m), +52.5 (溶解後 6h)
ブドウ糖(右旋) p = 1 -- 18 +52.50 + 0.0188p + 0.000517p2 (平衡に達した後)
ブドウ糖(左旋) p = 4 -94.4(溶解後 7m), -51.4(溶解後 7h)
酒石酸 p = 4.7 -- 18 +14.83 - 0.149p
酒石酸 p = 18 -- 36 +14.849 - 0.144p
酒石酸カリウム p = 9 -- 55 +27.62 + 0.1064p - 0.00108p2
ロシェル塩 -------- +29.73 - 0.0078c

問題は、[ブドウ糖] に関する3行、特に3行目だ。これは、[旋光物質] としての「ブドウ糖」に [右旋型] と [左旋型] との2種類あることが前提となっている記載だろう。実際、比旋光度 [α]D20/(°) も、それに対応した値になっている。「右旋性」の物質の比旋光度は正であり、「左旋性」の物質の比旋光度は負であるからだ。

しかし、[ブドウ糖] とは D-glucose つまり、「右旋型 のグルコース」だけを意味し、「左旋型のグルコース」は「ブドウ糖」とは呼ばないのだ。つまり、「ブドウ糖」と書かれているなら、それは、その文脈が [旋光] に関していようがいまいが [右旋型] の化合物なのだ。

「右旋型」は [d-] とか [(+)-] と云う記号を使って表わされることが多い。これに対し、その対比形である「左旋型」は [l-] とか [(-)-] と云う記号を使って表わされることが多い。ここで d は dextrorotatory (右旋性の) により、l は levorotary (左旋性の) によっている。しかし、IUPAC (International Union of Pure and Applied Chemistry/国際純正・応用化学連合) は右旋性・左旋性を表わすのに [d-]・[l-] を用いないように強く勧めているので、以下では、基本的には d /l 対比ではなく(+)/(-) 対比を用いることにする。

例えば、[東京化学同人] 発行の [化学大辞典] で、[ブドウ糖] の項 (p.2019) は [D-グルコース] (p.647) へのクロスリファレンスを与えている (辞書中 [D-グルコース] の項目の位置は [グルコース] に従っている)。

ちなみに [果糖] (p.453) は [D-フルクトース] (p.2048) をクロスリファレンスしているのだが、[D-グルコース] 及び [D-フルクトース] から関連箇所を引用すると:

D-グルコース [D-glucose]
1700年代の末ごろ, ハチ蜜から単離され, ギリシャ語の glykys (sweet) にちなみ命名され, 右旋性を示すのでデキストロース (dextrose), ブドウ汁に含まれるのでブドウ糖 (grape sugar) ともいわれる.

L-グルコースは天然から産出せず, L-アラビノースから合成され, 融点 146~147℃, [α]22D -53°(水, 終末値).
-- [化学大辞典] (東京化学同人 1989年) p.647,648

D-フルクトース [D-fructose]
1800年代の末, ハチ蜜から始めて結晶化され, 果汁に広く含まれるので, ラテン語の fructus (fruit) にちなみ命名された. 大きな左旋性を示すので, 右旋性の D-グルコースをデキストロースというのに対比し, レブロースともいわれる.
-- [化学大辞典] (東京化学同人 東京 1989年) p.2048

ここで、ラテン語に就いて補足しておくと、dextrose の元になったラテン語は「右側へ/右側の」を意味する dexter, 「レブロース (levulose)」の元になったラテン語は「左側へ/左側の」を意味する laevus である。

glykys のギリシャ語原綴は γλυκυς である。

なお、比旋光度をあらわす記号 [α]22D で、測定光と測定時温度の上付き・下付きが、[理科年表] における [α]D20/(°) と逆になっているが気にしないでおく。

ついでに [岩波理化学辞典第5版] からも引用しておこう:

グルコース
アルドヘキソースの1つ. D-グルコースはブドウ糖 (grape suger) またはデキストロースともいい, 代表的なアルドースである. 単糖のうちD-フルクトースとともに最も分布が広く, 遊離状態では甘い果実中に多量に存在し, また血液, 脳脊髄液, リンパ液中にも少量含まれ, 糖尿病患者の尿中には多量に存在する.

L-グルコースはコウマ(黄麻)やある種のキク科植物の葉の加水分解物中に存在すると報告されているが, L-アラビノースから炭素数を増やしてゆく反応で得られる.
-- [岩波理化学辞典第5版] (岩波書店 東京 1998年) p.384

フルクトース
ケトヘキソースの一種. D-フルクトースは果糖 (fruit suger), 左旋糖 (levulose, レブロース) ともいう.
-- [岩波理化学辞典第5版] (岩波書店 東京 1998年) p.1205

[東京化学同人] の [生化学辞典第2版] (1990年。私の手持ちは、この版しかない。現在は第4版である) からも引用しようと思ったがやめておく。引用すべき内容が、特に [D-グルコース] では、[岩波理化学辞典第5版] とほぼ同一だからだ (どちら辞典にたいしても、それを咎め立てているわけではない。為念)。

(炭水化物・糖類の構成単位である) 単糖や (タンパク質・ペプチドの構成単位である) アミノ酸 (それらの誘導体も含む) の鏡像異性体を持つ場合 (殆どの場合持っている訣だが、それはそれはして)、1対存在する鏡像異性体を対比的に区別するため、分子の立体構造の特定の一部分の相違点に着目した D/L 対比と、旋光性の相違 (鏡像異性体は必ず一対で存在し、その一方が右旋性なら他方は必ず左旋性になり、逆に左旋性でないなら右旋性になる) に着目した (+)/(-) 対比に就いて説明することは控えておくが (有機化学の教科書を適宜読んで下さい)、様ざまなところで注意されているように、この2種類の区分は、歴史的な経緯から紛らわしい記号 D/Ld /l が用いられることがあるとは言え、現在の我々の立場からするなら、独立した区分法であることは改めて強調しておくべきだろう。

実際、グルコースにもフルクトースにも D 異性体と L 異性体が存在するが、上述のようにグルコースの D 体は右旋型 ((+)型) であるのに対し、フルクトースのD 体は左旋型 ((-) 型) である。

そして、D-グルコース、つまり「ブドウ糖」と、D-フルクトース、つまり「果糖」は、それ自体、又は、化合物の構成要素として、自然界に広く、そして多量に存在するのに対し (大雑把に言うなら、D-グルコース1分子と D-フルクトース1分子とがグリコシド結合したものがショ糖1分子である)、それぞれの L 異性体は、天然に存在しないか、するにしても僅かでしかない (希少糖)。

生体内の代謝で主要な役割を果たすのは、D-グルコースである。例えば、生化学での解糖系の議論や、食品工業にあっては L-グルコースは無視可能なので、D-グルコースを単に「グルコース」と呼ぶことは普通である。従って、その文脈では「グルコース」は「ブドウ糖」と同義になる。

しかし、これはあくまでも「文脈から明らかであるので」と云う条件のもとでの「D-グルコース」の省略形としての「グルコース」であって、全ての場合に通用する訣ではない。

憶測だが [理科年表] の表 [旋光物質] の作成担当者は、[グルコース] と[ブドウ糖] が同一であると思いこんでいたのだろう。だから「ブドウ糖(左旋)」とあるのは、「左旋体のグルコース」、つまり「L-グルコース」の積もりだったのだろう。しかし、「L-グルコース」は、左旋体の「グルコース」であっても、それを「左旋体のブドウ糖」と呼ぶことはできない。上記のように「ブドウ糖」は「右旋体のグルコース」限定の呼称であるからだ。

この表のように、右旋体と左旋体を区別する場合には、「グルコース」と「ブドウ糖」の混同は、致命的な誤りと言える。。。と言うか、むしろ不思議なのは、[理科年表] のような国民的リファレンスブックにあって、このような初歩的な誤りが、校正者・校閲者・そして恐らくは、読者からも見過ごされていることだ。まぁ、私自身、最近調べものをしている際 ([デキストロース当量] に就いて補足的な記事を書こうとしたのだが、結局纏まらないままでいる) に見るまで気がつかなかったのだから、偉そうなことは言えないのだけれども。

「(右旋)」と「(左旋)」の注意書が必要なのはむしろ [酒石酸] の方だろう。酒石酸は右旋型 (L体) も左旋型 (D体) もともに「酒石酸」と呼ばれているからだ (もっとも、表 [旋光物質] では右旋型酒石酸しか示されていない)。さらに、酒石酸は、分子内の内部補償により鏡像対称性をもったメソ体 (mesoisomer) も、D体とL体の等量混合物であるラセミ体 (racemic modification. 記号 (±)- 又は dl- が付されることが多い) も存在する。ラセミ体の酒石酸は「ブドウ酸 (racemic acid)」とも呼ばれ、「ラセミ体」の名は、これに拠っている。

蛇足的な注意をしておくと、表 [旋光物質] では比旋光度 [α]D20/(°) が統一的に与えられているから、この記事において所謂「コットン効果 (旋光異常分散)」([円偏光二色性 - Wikipedia] 参照) の影響の可能性について考慮する必要は全くない。

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メモ:アーサー・C・クラーク (Arthur C Clarke) の「無限」

[ギズモード・ジャパン] のタイムスタンプ 2011.02.25 21:00 の記事に [SF界の巨匠アーサー・C・クラーク氏がこの世の終わりを語った31ワード] と云うものがあった。

米版の [GIZMODO] のタイムスタンプ Feb 14, 2011 8:40 AM の記事 [Arthur C. Clarke’s 31-Word, Universe-Ending Sci-Fi Story] の紹介なのだが、その31語とは次のようなものだ。

And God said: DELETE lines One to Aleph. LOAD. RUN.
And the Universe ceased to exist.

Then he pondered for a few aeons, sighed, and added: ERASE.
It never had existed.
--Arthur C Clarke

私は アーサー・C・クラーク (Arthur C. Clarke) の著作を読んだことがない。従って、彼に就いての知識は極めて表層的なものである。だから、以下のことは全く的外れかもしれない。

一読して解るように、このショートショートストーリー (と云う表現が不似合いな程短いが) は、神をコンピュータ・プログラマ (音声だか意思だけで命令を実行できる) に見立てて、宇宙の創成ならぬ、宇宙の消滅を描いている (原題の "siseneG" は、"Genesis" つまり、旧約聖書冒頭の「創世記」--その第1章第1節は「初めに、神は天地を創造された。」である-- の逆綴りになっている) 。

aleph-zero
最小の超限基数 (the first transfinite cardinal)

そこで、少し気になったのは "Aleph" だ。"lines One to Aleph" と云うのは、宇宙を存在させる為のプログラムを指しているのだろう。そして、"Aleph" は、ヘブライ文字「アルファベット」の第一字であり、数学 (集合論) で可算無限基数を表わす ℵ の積もりだと推測できる ([2011-03-05 [土] 08:50: 補足] 数学の記号として正確には「可算無限基数」を表わすには、左に示したような "aleph-zero" を用いねばならない)。つまり「1行目から無限行目まで」といった意味合いだったのだろう。(神にとっては、人間にとっての「無限」と「有限」との区別は意味がないと云うことも意味している。これは後述 "aeon" についても同じことが言える。)

omega-zero
最小の超限順序数 (the first transfinite ordinal)

しかし、ℵ は「基数」(集合の「濃度」と云う言い方をすることもある)、つまり、われわれが日常生活にあって「何個」と数える仕方に対応する概念なのだ。ところが "lines One to ..." の場合、「第1行から第...行まで」と訳すこともあるように、それは、「何番目」と数える仕方に関する。こちらの方に対応する集合論上の概念は、基数とは別に存在して、それは「順序数」と呼ばれるものだ。自然数全体の集合 (整列集合) の順序数は、通常、ギリシア文字オメガの小文字 ω で表わされるから、ここは "lines One to Aleph" ではなく "lines One to omega" 又は、字面をおもんぱかるなら、"lines One to Omega" あるいは、いっそのこと "lines 1 to ω" としたほうが良かったかもしれない ([2011-03-05 [土] 08:50: 補足] 自然数全体に対応する整列順序数は、単に "omega" ではなく、左に示したように "omega-zero" を用いる書き方もある)。

それから "aeon" も要注意だろう。日本では「イオン」と言えば、スーパーマーケットグループの名称だが、欧米文化内では、古代ギリシア語 αἰών (アイオーン) 由来の時間概念で、宗教的な文脈では人間の営みを超越した「永遠にも等しい時間」を意味する。サンスクリットの「カルパ」(劫) に類似する。

あと、訳す場合に要になるのが "had" の扱いだ。アンダーラインで強調が加えられていることからも解るように、この「ストーリー」の皮肉の要だからだ。つまり、神を宇宙を創造したことを後悔して、それがかって存在したことさえも消去してしまったと云う落ちなのだから。

全体的な雰囲気は、こんな感じだろう。

そして、神は言われた:「『第1行から第無限行を消去』をロード」。「実行」。
すると、宇宙は存在を停止した。

その後、神を幾永劫か沈思され、溜め息をつかれ、付け加えられた:「抹消」。
すると、宇宙は存在したことがなくなった。

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メモ:パーテル・ノステル (pater noster)

["pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」] (2009年9月26日[土]) の最後のほうで、「願わくば」よりも「願わくは」(歴史仮名遣いでは「願はくは」) の方が、古典語としては正しいと云うことを書いたが、恐らく、現代日本人が聞き知っている可能性が一番多い用例は、文語聖書における「主の祈り」(pater noster) だろう。

イエスが「汝らは斯く祈れ」(マタイ傅6:9) と指定していると云う意味で、キリスト教において最も重要な祈祷文である。

天にいます我らの父よ、
願(ねがは)くは、御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
御意(みこころ)の天のごとく、地にも行はれん事を。
我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。
我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)に遇(あは)せず、
惡より救ひ出(いだ)したまへ。
--マタイ傅6:9-6:13
[ルカ]にも平行記述が存在する。
父よ、願(ねがは)くは御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
我らの日用の糧を日毎(ひごと)に與へ給へ。
我らに負債(おひめ)ある凡(すべ)ての者を我ら免せば、我らの罪をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)にあはせ給ふな。
--ルカ傅11:2-11:4

もっとも、私などは、子どものころ、出だしを「天にまします我らの父よ」と覚えたのだが、これはこれで、そのように訳している会派もあるるらしい (「くろはたホームページ:主の祈り」及び「主の祈り - Wikisource」を参照。その他、「主の祈り」の変異例に就いては「クリスチャン・ネット:主の祈り」も参考)。

"Pater Noster" はラテン語で「我らの父よ」("pater" は呼格で「父よ」。"noster" は複数第1人称所有代名詞男性形「我らの」)で、「主の祈り」が、こう呼ばれるのは、そのラテン語版が、この言葉で始まることによる。

そう云う訣で "Pater Noster" が Vulgata ではどうなっているかと云うと:

Pater noster qui in caelis es
sanctificetur nomen tuum
veniat regnum tuum
fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra
panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie
et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimisimus debitoribus nostris
et ne inducas nos in temptationem
sed libera nos a malo
--SECUNDUM MATTHEUM6:9-6:13
Pater sanctificetur nomen tuum
adveniat regnum tuum
panem nostrum cotidianum da nobis cotidie
et dimitte nobis peccata nostra siquidem et ipsi dimittimus omni debenti nobis
et ne nos inducas in temptationem
--SECUNDUM LUCAM11:2-11:4
新約聖書だからギリシャ語テキストも引用しておこう:
Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου, ὡς ἐν οὐρανῷ, καὶ ἐπὶ τῆς γῆς·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν, ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφίεμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν,
ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ.
--ΚΑΤΑ ΜΑΘΘΑΙΟΝ6:9-6:13
Πάτερ, ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δίδου ἡμῖν τὸ καθ᾿ ἡμέραν·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν· καὶ γὰρ αὐτοὶ ἀφίεμεν παντὶ τῷ ὀφείλοντι ἡμῖν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν.
--ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ11:2-11:4
ただ、私の場合、"Pater Noster" と云うと、次の4行から始まる ジャック・プレヴェール (Jacques Prevért) の詩も懐かしい:
Notre Père qui êtes aux cieux
Restez-y
Et nous, nous resterons sur la terre
Qui est, quelquefois, si jolie.
--« Pater noster », dans Paroles, Jacques Prévert, éd. Pléiade Gallimard, 1992, p. 40 (Jacques Prevert - Wikiquote, le recueil de citations libre)

天にまします我らの父よ
天に留まりたまえ
我らは地上に残ります
地上は時々美しい
Jacques Prevért の "Pater Noster" 全文は、例えば "Jacques Prevért : Pater Noster (Commentaire composé)" を参照。

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"pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」

一昨日朝 (2009/09/24 07:07:05)、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

"pax vobiscum" なら、私のようなものが一知半解のラテン語知識を振り回さずとも、適切な情報が、ネットの何処かが開示されているに違いない、と、思えたので、一旦は、そのまま「スルー」したのだったが、その後、これが、以前書こうとしたが、何かに取り紛れて書かないままになった二・三の話題に関係していることに気が付いた。

それやこれやを、少し書いてみることにする。纏まりが悪くなるのは、予めご勘弁を願っておきたい。

で、取り敢えず「一知半解」を披露する。

"pax" は勿論「平和」の意 (勿論「ラテン語」)。Pax Romana (パクス・ロマーナ)、Pax Americana (パクス・アメリカーナ) の pax である。"vobiscum" は、人称代名詞第2人称複数もしくは敬意第2人称単数奪格 (「従格」と云う言い方もする) の"vobis" と、 共同・随伴・手段等の含意を有して奪格を支配する前置詞 "cum" との結合である (前置詞 "cum" は、人称代名詞、再帰代名詞、関係代名詞を支配する場合、後置されてしかも一語に融合される)。前置詞 "cum" は、英語で言えば "with" 又は "by" に相当する言葉であるとするなら、あらましは理解できるだろう。

つまり、"pax vobiscum" を英語に置き換えるなら "peace with you" ぐらいになる。しかし、これを、日本語で言い換えようとすると、英語の方に、もう少し補足が必要で、"peace be with you" 「平安の[汝/汝等]とともにあらんことを」 と願望法にまで引き戻して考えた方が良い (願望法だと文章が古格になる)。

更に言うなら、この "pax" は、本来ならば "pax Domini" つまり「主の平安」なのだ。以前、[フランス語で「主の平和」] (2009年7月19日[日]) で引用したように、所謂「ラテン語ミサ」では、その山場ともいえる聖体拝領の儀式の中で "Pax Domini sit semper vobiscum." (絶ゆることなく主の平安の汝等とともにあらんことを) と唱えられるが、その簡略形として "Pax Domini vobiscum" も使われることがあるのである。

このようにすると、"pax vobiscum" と、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」、更に「フォースのともにあらんことを」との並行性が見えてくる。

これに就いては、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])、["May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])、[「フォースのともにあらんことを」と「神ともにいまして」] (2008年5月28日[水]) も参照していただきたいのだが、要するに、これらは全て、神霊的な何かが相手に同伴することを念じている一種の「呪文」なのだ。そして、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」と「フォースのともにあらんことを」とでは、その基本は、これから「旅」に出ようとするものに対する「はなむけの言葉」である。"pax vobiscum" に就いても、その根っこは、やはり、聖体拝受による象徴的生まれ変わりにおける (つまり、人生と云う旅の再出発に対する) はなむけの言葉であろうと、私は思っている。

付言するまでもないかもしれないが、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金]) に指摘しているように、"goodbye" も、同じ範疇の挨拶である。

なお、この "pax vobiscum" を、復活したイエスが弟子たちに向かって放った言葉として説明されていることがある (例:ウェブページ「立教大学新座キャンパス・施設紹介チャペル(礼拝堂)」) が、これは私にはヤヤ不審。ラテン語聖書 (つまり、所謂ヒエロニムスの「ヴルガータ/Vulgata」) の範囲内では厳密には少しだけ異なる。Vulgata の [ルカによる福音書24:36] や [ヨハネによる福音書20:19] では、復活したイエスが弟子たちに "pax vobis" と言っていて、"pax vobiscum" ではないのだ。

ここで、一言書いておくと、特にルカの方では " pax vobis ego sum nolite timere" となっていて、その語感は、「あなたがたに平和があるように」(新共同訳) と言うより、「落ちつきなさい。私である。怖れてはならない」になるような気がする。

もっとも、現在のギリシャ語聖書テキスト ([現代ギリシャ語聖書] ではなくて、現代欧米語聖書の基礎となったギリシャ語聖書のオリジナル・テキスト) である Nestle-Aland (ネストレ・アーラント) の "NOVUM TESTAMENTUM GRAECE" (私が所持しているのは第26版だが、現在は第27版になっているようだ) では、該当箇所は、ともに "ειρηνη uμιν" (その前は、"και λεγει αuτοις" で、その後ではセンテンスが停止する) とあるのみで "ego sum nolite timere" に相当する語句 ("εγω ειμι, νη φοβεισθε") は、ヨハネでも(これは当然かもしれないが)、ルカにも見当たらないのだ。これと対応する形で、[新ヴルガータ/Nova Vulgata] では、[ルカ] でも [ヨハネ] でも、単に "Pax vobis!" になっている。つまり、復活したイエスは、ヘブライ語の "שָׁלוֹם" (シャーローム/Shalom) を連想させる挨拶をしたことになる (イエスが何語を話していたかと云う問題は、この際措いておく)。

ただし、これについて Bruce M. Metzger の "A textual commentary on the greek new testament" (2nd ed. 1994) は "εγω ειμι, νη φοβεισθε" を (恐らく[ヨハネによる福音書6:20] に由来する) 欄外注記の混入であると断じている一方で、"ειρηνη uμιν" に関連して、この状況で通常の挨拶の言葉が発せられるかには、若干の疑義が存在することを指摘している (p.160)。

なお Vulgata 内では "pax vobiscum" と云うコロケーションは、[創世記43:23] だけらしい。ただ、実は、この後に "nolite timere" と続くことは注意しておいてよいかもしれない。この "pax vobiscum nolite timere" は新共同訳では「御安心なさい。心配することはありません。」となっている。

こうした「素材」を並べてみると、私には "pax vobiscum" が聖書 (特に、福音書) に由来するというより、ラテン語ミサに由来すると考えた方が良いと思えるのだ。

旅の道連れとしての守護的神霊と云う発想は、所謂「旧約聖書外典」の [トビト記] で、トビトの息子トビアが旅をする際の指南役として天使のラファエルが同伴するし、日本においても、四国巡礼における「同行二人」が良く知られているから、宗教的気分として普遍的なものなのかもしれない。

以下、話が変わる。"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳す流儀と、「フォースともにあらんことを」と訳す流儀があるようだが、私は「の」派である。

[日本語で一番大事なもの] や [岩波古語辞典] に見られる大野晋の説明を私になりパラフレーズするなら、日本古語に限定する限りでは、元来連体助詞であったものが、主格の助詞に転用されるようになったと云う点では、「の」も「が」も同じであるのだが、「が」は発話者の身内の (より正確には、発話者が身内として扱った) 対象 (自分自身を含む) を受けるのに対し、「の」は、それ以外の、自分自身のみには所属しえない、一般的なもの、尊貴なもの、疎遠なものを受ける。

だから、自分自身を受ける時は「が」を使って「わが門の片山椿まこと汝我が手触れなな土に落ちもかも: nouse (物部広足 [万葉集20]4418/4442)」とか「君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く」(額田王 [万葉集488/491]) とかする訣だ。

「君」を受ける場合でも、その「君」が、自分のパートナーである場合には、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる」(額田王 [万葉集1]20) と「が」で受けるが、「君」が主君である場合には、「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」 (読人しらず。笠朝臣金村歌集所収歌。或いは車持朝臣千年の作かとも。 [万葉集6]952/957) とか「大君の みこの柴垣 八節結り 結り廻し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣 」 (志毘臣 [古事記]歌謡109) などと「の」で受ける。

ただし、こうした使い分けは、「扱い」の問題なので、一般的には尊貴な対象であっても、親愛の情を込める時には「が」で受けることもあるようだ。

「が」は、親愛の情だけでなく、狎れ親しんだものから、軽侮の対象を受けることもある。また、本来尊重しなければならないものを、「が」で受けることで、それに対する軽蔑の扱いを表わすこともある。これは大野晋が引用している例だが、[貧窮問答歌] 中の「しもと取る里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」(山上憶良 [万葉集5]892/896) では「里長(さとをさ)だから本当は「の」で遠くに扱って敬意を表明すべきなのに、税金を取り立てに来る不愉快な相手なので、『里長が声』」と言っている。」

"May the Force be with you." の the Force は、超越的な能力を指すから、日本古語の通例としては「の」で受けるべきであると云うのが私の考えである。

"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳したり、或いは、命令形にして「フォースともにあれ」と訳すことがあるようだが、これは論外。引きもどって言うと、"pax vobiscum" にしろ "peace with you" にしろ、「(神の)平安」が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「平安とともにある」よう命じているわけではない。それと同様、"May the Force be with you." も "the Force" が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「"the Force" とともにある」よう願ったり命じているわけではない。

話が散らばって申しわけないが、改めて、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で再検索 (google) してみると、どうやら "pax vobiscum" はアニメソングのタイトルとして採用されているらしい。それが「PAX VOBISCUM-願わくば平安汝等とともに-SAMURAI DEEPER KYO」だと云うのだが、ここは「ば」ではなくて「は」にしてほしかったなぁ。「願はく」は、「老いらく/老ゆらく」や「思はく/思惑」と同様、動詞の「アク語法」 (一般の呼び方では「ク語法」)であって、名詞相当だから、係助詞の「は」で受けるのが、日本古語として順当なのだ。まぁ、「願はくば」も、常用日本語として定着してしまっているのは確かなのだが。

その他では、Bathory (バソリー) と云うスエーデンのメタルバンドの "Requiem" と云うアルバム (1994年) にも同名の曲が収められている由 (Cf. "Bathory:Pax Vobiscum - LyricWiki - Music lyrics from songs and albums")。

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「フォースのともにあらんことを」と「神ともにいまして」

[nouse: "May the Force be with you" (「フォースのともにあらんことを」) を色色な言語で言うと] (2008年3月27日[木]) での補足や [nouse: 『"May the Force be with you" (「フォースのともにあらんことを」) を色色な言語で言うと』補足:ヘブライ語の場合] (2008年3月27日[木]) での補足で書いたように、「フォースのともにあらんことを」をヘブライ語で言うとしたら、取り敢えずは "יהיה הכוח אתכם" や "יהי הכוח אתכם" そして、更に "יהי הכוח עמך" ぐらいになるのだろう。

しかし、[nouse: NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] や [nouse: 『"May the Force be with you" (「フォースのともにあらんことを」) を色色な言語で言うと』補足:ヘブライ語の場合] (2008年3月27日[木]) で論じたように、この "הכוח" (「(ザ・)フォース」) は "יהוה" (「神」) の「隠れ蓑」と考えることができる。

とすれば、これを置き換えるとどうなるか、と私が考えてみたのは当然の成り行きだろう。そうすると、次のようになる:

  • יהיה יהוה אתכם

  • יהי יהוה אתכם

  • יהי יהוה עמך

この内、最初の二つはネットで検索してもはかばかしい結果は得られないのだが、3番目の יהי יהוה עמך は、無慮2ダースほどヒットするのだな。その内容をいちいち細かく見なかったが、ざっと眺めた所、結局考慮すべきなのは1件だけらしい。それは [歴代誌上]第22章第11節 である。「なんだ」と言われそうで困るのだが (というか、私自身が「なんだ」と思ったのだから世話はないのだが)、これは [nouse: "May the Force be with you."に就いて (2004年8月6日[金]] 中の「宿題」で所在を書き留めておいた 「旧約 [出エジプト] 10:10; [ヨシュア] 1:17 ; [歴代誌 上] 22:11」と「新約 [テサロニケ 2] 3:16 」の内のひとつである:

עַתָּה בְנִי, יְהִי יְהוָה עִמָּךְ; וְהִצְלַחְתָּ, וּבָנִיתָ בֵּית יְהוָה אֱלֹהֶיךָ, כַּאֲשֶׁר, דִּבֶּר עָלֶיךָ.
--דברי הימים א פרק כב יא
わたしの子よ。今こそ主が共にいてくださり、あなたについて告げられたとおり、あなたの神、主の神殿の建築を成し遂げることができるように。
--新共同訳聖書 [歴代誌上]22:11

行き掛かり上、他のものも引用しておこう。まず旧約聖書の他の2つのパラグラフは:

וַיֹּאמֶר אֲלֵהֶם, יְהִי כֵן יְהוָה עִמָּכֶם, כַּאֲשֶׁר אֲשַׁלַּח אֶתְכֶם, וְאֶת-טַפְּכֶם; רְאוּ, כִּי רָעָה נֶגֶד פְּנֵיכֶם.
--שמות י י
ファラオは二人に言った。「よろしい。わたしがお前たちを家族ともども去らせるときには、主がお前たちとともにおられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい。...」
新共同訳聖書 [出エジプト記]10:10

これが検索でヒットしなかったのは、間に「よろしい」(כֵן) が入っていたのと、対象が「お前たち」(עִמָּכֶם) と複数だったためだろう。

כְּכֹל אֲשֶׁר-שָׁמַעְנוּ אֶל-מֹשֶׁה, כֵּן נִשְׁמַע אֵלֶיךָ: רַק יִהְיֶה יְהוָה אֱלֹהֶיךָ, עִמָּךְ, כַּאֲשֶׁר הָיָה, עִם-מֹשֶׁה.
--יְהוֹשֻעַ בִּן נוּן א יז
我々はモーセに従ったように、あなたに従います。どうか、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように。
新共同訳聖書 [ヨシュア記]1:17

これが検索でヒットしなかったのは、動詞2通り、前置詞2通りで、全部で4通りあるのに、3通りしか検索しなかったためというより、「あなたの神、主」(יְהוָה אֱלֹהֶיךָ) と云う形まで検索の手を拡げなっかったせいが大きかったと思う。

新約聖書の方は、以下の通り:

Αὐτὸς δὲ ὁ κύριος τῆς εἰρήνης δῴη ὑμῖν τὴν εἰρήνην διὰ παντὸς ἐν παντὶ τρόπῳ. ὁ κύριος μετὰ πάντων ὑμῶν.
--ΘΕΣΣΑΛΟΝΙΚΕΙΣ Β΄ 3:16
どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。
--新共同訳聖書 [テサロニケの信徒への手紙 二]3:16

こう並べてくると、語法が異なるものの、所謂「ヤコブの夢」中のヤハウェの約束と、それに応えた「ヤコブの誓願」も引用したくなる:

וְהִנֵּה אָנֹכִי עִמָּךְ, וּשְׁמַרְתִּיךָ בְּכֹל אֲשֶׁר-תֵּלֵךְ, וַהֲשִׁבֹתִיךָ, אֶל-הָאֲדָמָה הַזֹּאת: כִּי, לֹא אֶעֱזָבְךָ, עַד אֲשֶׁר אִם-עָשִׂיתִי, אֵת אֲשֶׁר-דִּבַּרְתִּי לָךְ.
--בראשית כח כ - כח טו
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地へ連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない 。
--新共同訳聖書 [創世記]28:15
וַיִּדַּר יַעֲקֹב, נֶדֶר לֵאמֹר: אִם-יִהְיֶה אֱלֹהִים עִמָּדִי, וּשְׁמָרַנִי בַּדֶּרֶךְ הַזֶּה אֲשֶׁר אָנֹכִי הוֹלֵךְ, וְנָתַן-לִי לֶחֶם לֶאֱכֹל, וּבֶגֶד לִלְבֹּשׁ.
וְשַׁבְתִּי בְשָׁלוֹם, אֶל-בֵּית אָבִי; וְהָיָה יְהוָה לִי, לֵאלֹהִים.
וְהָאֶבֶן הַזֹּאת, אֲשֶׁר-שַׂמְתִּי מַצֵּבָה--יִהְיֶה, בֵּית אֱלֹהִים; וְכֹל אֲשֶׁר תִּתֶּן-לִי, עַשֵּׂר אֲעַשְּׂרֶנּוּ לָךְ.
--בראשית כח כ - כח כב
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る者を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
--新共同訳聖書 [創世記]28:20-28:22

(一応注意しておくと、「わたしはあなたと共にいる」は "אָנֹכִי עִמָּךְ" で、「神がわたしと共におられ」は "אֱלֹהִים עִמָּדִי" だから、この記事で問題にしている文型とは異なっている。)

しかし、「共にある」と云うヤハウェの本質属性を語るなら、モーセの召命におけるヤハウェ自身の言葉を逸するわけにはいかないだろう:

וַיֹּאמֶר מֹשֶׁה, אֶל-הָאֱלֹהִים, מִי אָנֹכִי, כִּי אֵלֵךְ אֶל-פַּרְעֹה; וְכִי אוֹצִיא אֶת-בְּנֵי יִשְׂרָאֵל, מִמִּצְרָיִם.
וַיֹּאמֶר, כִּי-אֶהְיֶה עִמָּךְ, וְזֶה-לְּךָ הָאוֹת, כִּי אָנֹכִי שְׁלַחְתִּיךָ: בְּהוֹצִיאֲךָ אֶת-הָעָם, מִמִּצְרַיִם, תַּעַבְדוּן אֶת-הָאֱלֹהִים, עַל הָהָר הַזֶּה.
--שמות ג יא - ג יב
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
--新共同訳聖書 [出エジプト記]3:11-3:12

(「わたしは必ずあなたと共にいる。」は "אֶהְיֶה עִמָּךְ"。)

さらに言うなら、「ある」こそヤハウェの自己規定であった:

וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים אֶל-מֹשֶׁה, אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה; וַיֹּאמֶר, כֹּה תֹאמַר לִבְנֵי יִשְׂרָאֵל, אֶהְיֶה, שְׁלָחַנִי אֲלֵיכֶם.
--שמות ג יד
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うが良い。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
--新共同訳聖書 [出エジプト記]3:14

(「わたしはある。わたしはあるという者だ」--若干微妙な訳だが--は、"אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה"。注:少なくとも、私のブラウザではこの文は語順が正しく表示されない。ブラウザの所為というより、ココログ側の不備だろうけれども。)


ただし最後に、ミスリードを防ぐ為に、「神ともにいませ」が旅に出る者への別れの挨拶としてや、それを敷衍した書簡の結びの文句としてだけ使われるのでなく、語形が若干異なる (つまり「神ともにいませ」よりも「神ともにいます」と取れる) ものの、旅人がその土地で出会った相手の発する例もあることを注意しておいても良かろう:

וְהִנֵּה-בֹעַז, בָּא מִבֵּית לֶחֶם, וַיֹּאמֶר לַקּוֹצְרִים, יְהוָה עִמָּכֶם; וַיֹּאמְרוּ לוֹ, יְבָרֶכְךָ יְהוָה.
--רות ב ד
ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。
--新共同訳聖書 [ルツ記]2:4

(「主があなたたちと共におられますように」は "יְהוָה עִמָּכֶם"。)

このほか、幾つか参考になるかも知れない「聖句」の所在を記録しておく:

    旧約聖書
  1. [民数記]14:43「行く手にはアマレク人とカナン人がいて、あなたたちは剣で倒される。主に背いたから、主はあなたたちと共におられない」。

  2. [サムエル記上]17:37「行くがよい。主がお前と共におられるように」。

  3. [サムエル記上]20:13「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」。

  4. [列王記上]1:37「主は王と共にいてくださいました。またソロモンと共にいてくださいますように」。

  5. [歴代誌上]22:16「立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように」。

  6. [歴代誌下]20:17「ユダとエルサレムの人々よ。恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。 主がともにいる」。

    新約聖書
  1. [マタイによる福音書]28:20「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。
  2. [ローマの信徒へ手紙]15:33「平和の源である神があなたがた一同と共におられるよう、アーメン」。
  3. [テモテへの手紙二]4:22「主があなたの霊と共にいてくださるように」。

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ギリシャ語で「日本」は Ιαπωνία

本日四更 (2008/05/06 22:51)、キーフレーズ [ギリシャ語で日本 綴り] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだ。

後追いで検索してみたところ、意外なことに、適当なものがヒットしないようなので、大きなお世話ながら、次のサイトを参照されることをお勧めしておく。

  1. Ιαπωνία (ギリシャ語版ウィキペディアの「日本」の項目)

  2. Ιαπωνία (日本語版ウィクショナリーの "Ιαπωνία" の項目)

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"May the Force be with you" (「フォースのともにあらんことを」) を色色な言語で言うと

このまえ、"May the Force be with you." (「フォースのともにあらんことを」) を、スウェーデン語で何と言うかと云う記事を書いた ([nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をスウェーデン語で言うと] 2008年3月2日[日])。昨年は、ドイツ語で何と言うかに就いても書いてある (nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をドイツ語で言うと 2007年2月23日[金])。

それぞれ、そう云う目的でこのサイトを訪問されたらしい方がいらしたために、余計なお世話を焼いたに過ぎない。

しかし、スウェーデン語とドイツ語 (そして、英語) が分かると、その他の言語では何と言うのか気になってくる。そこで、以下簡単に纏めておく。

ただし、「定訳」が存在していないこともありうるし (このような「決め文句」は、文脈上特段の理由がない限り「定訳」が採用するのが好ましい)、また少なくとも一部の印欧系の言語では第二人称の単複と、それに伴う親称・敬称 (もしあれば) の扱いが問題になるのだが、何れもほぼ考慮せず、ネットで発見してものを収集したにとどまる。

それでも、印欧系言語で第二人称単数親称を使った表現らしいものが見つかった場合は、それが最初に来るようにはした。それは "May the Force be with you" が、基本的には使命を帯びて旅立つ者への「はなむけの言葉」であるからだ ([マタイ]28:20 参照。ただし、そこでのイエスの言葉は1人ではなく11人に言われているけれど)。

引用句の最後はピリオドではなく感嘆符とする例も多多あるのだが (スペイン語では文頭にも付くこともある)、以下では一切付けていないので、適宜補って読んで戴きたい。

イタリア語: Che la Forza sia con te. / Che la Forza sia con voi. / Che la Forza sia con lei. / Che la Forza sia con loro.
スペイン語: Que la Fuerza te acompañe. / Que la Fuerza esté contigo. / Que la Fuerza os acompañe. / Que la Fuerza esté con vosotros. / Que la Fuerza esté con ustedes. / Que la Fuerza lo acompañe. / Que la Fuerza les acompañe.
フランス語: Que la Force soit avec toi. / Que la Force soit avec vous.
ポルトガル語: Que a Força esteja contigo. / Que a força esteja com você. / Que a Força esteja convosco. / Que a força esteja com vocês.

ドイツ語: Möge die Macht mit dir sein. / Möge die Macht mit euch sein. / Möge die Macht mit Ihnen sein.
オランダ語: Moge de kracht met je zijn. / Moge de kracht met jou zijn. / Moge de kracht met u zijn. / Moge de kracht met jullie zijn.

スウェーデン語: Må kraften vara med dig. / Må kraften vara med er.
デンマーク語: Må Kraften være med dig. / Må Kraften være med jer.
フィン語 (フィンランド語): Olkoon Voima kanssasi.
ハンガリー語: Az Erö Legyen Veled.

ギリシャ語: Η Δύναμη μαζί σου. / Η Δύναμη να είναι μαζί σου
ラテン語: Vis tecum sit. / Sit vis vobiscum. (2009-09-24 [木]:"nobiscum" を --vobiscum-- に訂正。)

ロシア語: Да пребудет с тобой Сила. / Да пребудет с Вами Сила.

ポーランド語: Niech Moc będzie z tobą. / Niech Moc będzie z Wami.
クロアチア語: Neka Sila bude s tobom. / Neka je Sila s tobom. / Neka Sila bude s vama. / Neka je Sila s vama.
ブルガリア語: Нека силата бъде с теб. / Нека силата бъде с вас.

中国語: 愿原力与你同在。/ 願原力與你同在。
韓国語: 포스가 함께 하기를。 / 포스가 당신과 함께 하기를 빌겠소。

トルコ語: Güç seninle olsun.

ヘブライ語では何というかに就いては調べがついていないので宿題としておこう。例えば "הכוח" "מלחמת הכוכבים" の組み合わせ (「スター・ウォーズ」と「フォース」) で検索してみたが、はかばかしい結果が得られなかった。

補足 (2008-04-30 [水]):
その後、"יהיה הכוח אתכם" で google 検索してみたところ、1件ヒットした (DEMONS: Under the Sink)。また "יהיה הכוח אתך" では1件もヒットしなかった。

2008-05-19 [月]: "יהי הכוח אתכם" でも1件ヒットする。それは、やはり "Demons: Under the Sink" 中の記事だが、別のページ (Reviews Master)である。更に、"יהי הכוח עמך" と云う言い方もありうる。これは数件ヒットするようだ。おそらく「フォースのともにあらんことを」のヘブライ語訳としては、この二つが最も「それっぽい」のではないか (文脈によっては、対象が二人称複数の形にしてもよいだろう)。

"יְהִי כֵן יְהוָה עִמָּכֶם" ([出エジプト記]10:10) が参考になるかもしれないので、ここに書き留めておく。

参考になるかもしれないサイト:
1. Force (Star Wars) - Wikipedia, the free encyclopedia
2. הכוח (מלחמת הכוכבים)

「"May the Force be with you" を色色な言語で言うと」は、「ネタ」としては平凡なものであるので、同主題で既に幾つもの記事が書かれている。そのうちの一つだけを引用しておく:
[Somewhere in the Middle: Que la Fuerza te acompane!]

このブログ記事は、[nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をスウェーデン語で言うと] と [nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をドイツ語で言うと] の他に次の記事にも関連する:
1. [nouse: "May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])
2. [nouse: NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])

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色色な言語で「宵の明星」

今日午前 (2007/11/30 10:29:20) キーワード[宵の明星 明けの明星 イタリア] でこのサイトを訪問されたかたがいらしたらしい。[nouse: 色色な言語で「明けの明星」] (2007年11月14日[水]) は作ったが、「宵の明星」の方はとサボっていたので、この機会に作っておく。

前回と同様 [LOGOS - Multilingual E-Translation Portal] の[evening star] の項と [Webster's Online Dictionary] の [Evening Star] の項を、内容未チェックのまま纏める。

英語: Evening Star
アフリカーンス語: Venus, Aandster
オランダ語: Venus, Avondster
フランス語: Vénus, l'étoile du soir
ドイツ語: Venus
ハンガリア語: Vénusz
イタリア語: Venere, la stella della sera
日本語: 宵の明星, 一つ星
マン島語: Rollage yn Astyr (Hesperus, the evening star). (various references)
Papiamento: Venus //"Papiamento" はカリブ海の所謂 ABC 諸島 で話されている言語。
偽ラテン語 (Pig Latin): eveningay arstay
ルーマニア語: luceafãrul de searã
ロシア語: вечерняя звезда
セルビア・クロアチア語: večernjača
トルコ語: venüs, akşamyıldızı, çulpan
ベトナム語: sao hôm
ユカテク・マヤ語 (Yucatec): Xnuk Ek'
ラテン語: Cytherea, Venus, vesper, vespere, vesperi, vespero, vesperum
スペイン語: la estrella vespertina
デンマーク語: Venus
フィンランド語:iltatähti
ペルシャ語: ناهيد

[nouse: サッポーの詩] にも呼格の形で出てきたが、古典ギリシャ語で「夕づつ」つまり「宵の明星」は Ἔσπερος である。

また、[nouse: 色色な言語で「明けの明星」] で触れたように、中国語では「宵の明星」は「長庚(长庚)」。これをハングル表記すると 장경 になる。

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