カテゴリー「ラテン語/lingua latina」の15件の記事

2009年9月30日 (水)

メモ:パーテル・ノステル (pater noster)

["pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」] (2009年9月26日[土]) の最後のほうで、「願わくば」よりも「願わくは」(歴史仮名遣いでは「願はくは」) の方が、古典語としては正しいと云うことを書いたが、恐らく、現代日本人が聞き知っている可能性が一番多い用例は、文語聖書における「主の祈り」(pater noster) だろう。

イエスが「汝らは斯く祈れ」(マタイ傅6:9) と指定していると云う意味で、キリスト教において最も重要な祈祷文である。

天にいます我らの父よ、
願(ねがは)くは、御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
御意(みこころ)の天のごとく、地にも行はれん事を。
我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。
我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)に遇(あは)せず、
惡より救ひ出(いだ)したまへ。
--マタイ傅6:9-6:13
[ルカ]にも平行記述が存在する。
父よ、願(ねがは)くは御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
我らの日用の糧を日毎(ひごと)に與へ給へ。
我らに負債(おひめ)ある凡(すべ)ての者を我ら免せば、我らの罪をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)にあはせ給ふな。
--ルカ傅11:2-11:4

もっとも、私などは、子どものころ、出だしを「天にまします我らの父よ」と覚えたのだが、これはこれで、そのように訳している会派もあるるらしい (「くろはたホームページ:主の祈り」及び「主の祈り - Wikisource」を参照。その他、「主の祈り」の変異例に就いては「クリスチャン・ネット:主の祈り」も参考)。

"Pater Noster" はラテン語で「我らの父よ」("pater" は呼格で「父よ」。"noster" は複数第1人称所有代名詞男性形「我らの」)で、「主の祈り」が、こう呼ばれるのは、そのラテン語版が、この言葉で始まることによる。

そう云う訣で "Pater Noster" が Vulgata ではどうなっているかと云うと:

Pater noster qui in caelis es
sanctificetur nomen tuum
veniat regnum tuum
fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra
panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie
et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimisimus debitoribus nostris
et ne inducas nos in temptationem
sed libera nos a malo
--SECUNDUM MATTHEUM6:9-6:13
Pater sanctificetur nomen tuum
adveniat regnum tuum
panem nostrum cotidianum da nobis cotidie
et dimitte nobis peccata nostra siquidem et ipsi dimittimus omni debenti nobis
et ne nos inducas in temptationem
--SECUNDUM LUCAM11:2-11:4
新約聖書だからギリシャ語テキストも引用しておこう:
Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου, ὡς ἐν οὐρανῷ, καὶ ἐπὶ τῆς γῆς·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν, ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφίεμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν,
ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ.
--ΚΑΤΑ ΜΑΘΘΑΙΟΝ6:9-6:13
Πάτερ, ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δίδου ἡμῖν τὸ καθ᾿ ἡμέραν·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν· καὶ γὰρ αὐτοὶ ἀφίεμεν παντὶ τῷ ὀφείλοντι ἡμῖν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν.
--ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ11:2-11:4
ただ、私の場合、"Pater Noster" と云うと、次の4行から始まる ジャック・プレヴェール (Jacques Prevért) の詩も懐かしい:
Notre Père qui êtes aux cieux
Restez-y
Et nous, nous resterons sur la terre
Qui est, quelquefois, si jolie.
--« Pater noster », dans Paroles, Jacques Prévert, éd. Pléiade Gallimard, 1992, p. 40 (Jacques Prevert - Wikiquote, le recueil de citations libre)

天にまします我らの父よ
天に留まりたまえ
我らは地上に残ります
地上は時々美しい
Jacques Prevért の "Pater Noster" 全文は、例えば "Jacques Prevért : Pater Noster (Commentaire composé)" を参照。

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2009年9月26日 (土)

"pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」

一昨日朝 (2009/09/24 07:07:05)、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

"pax vobiscum" なら、私のようなものが一知半解のラテン語知識を振り回さずとも、適切な情報が、ネットの何処かが開示されているに違いない、と、思えたので、一旦は、そのまま「スルー」したのだったが、その後、これが、以前書こうとしたが、何かに取り紛れて書かないままになった二・三の話題に関係していることに気が付いた。

それやこれやを、少し書いてみることにする。纏まりが悪くなるのは、予めご勘弁を願っておきたい。

で、取り敢えず「一知半解」を披露する。

"pax" は勿論「平和」の意 (勿論「ラテン語」)。Pax Romana (パクス・ロマーナ)、Pax Americana (パクス・アメリカーナ) の pax である。"vobiscum" は、人称代名詞第2人称複数もしくは敬意第2人称単数奪格 (「従格」と云う言い方もする) の"vobis" と、 共同・随伴・手段等の含意を有して奪格を支配する前置詞 "cum" との結合である (前置詞 "cum" は、人称代名詞、再帰代名詞、関係代名詞を支配する場合、後置されてしかも一語に融合される)。前置詞 "cum" は、英語で言えば "with" 又は "by" に相当する言葉であるとするなら、あらましは理解できるだろう。

つまり、"pax vobiscum" を英語に置き換えるなら "peace with you" ぐらいになる。しかし、これを、日本語で言い換えようとすると、英語の方に、もう少し補足が必要で、"peace be with you" 「平安の[汝/汝等]とともにあらんことを」 と願望法にまで引き戻して考えた方が良い (願望法だと文章が古格になる)。

更に言うなら、この "pax" は、本来ならば "pax Domini" つまり「主の平安」なのだ。以前、[フランス語で「主の平和」] (2009年7月19日[日]) で引用したように、所謂「ラテン語ミサ」では、その山場ともいえる聖体拝領の儀式の中で "Pax Domini sit semper vobiscum." (絶ゆることなく主の平安の汝等とともにあらんことを) と唱えられるが、その簡略形として "Pax Domini vobiscum" も使われることがあるのである。

このようにすると、"pax vobiscum" と、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」、更に「フォースのともにあらんことを」との並行性が見えてくる。

これに就いては、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])、["May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])、[「フォースのともにあらんことを」と「神ともにいまして」] (2008年5月28日[水]) も参照していただきたいのだが、要するに、これらは全て、神霊的な何かが相手に同伴することを念じている一種の「呪文」なのだ。そして、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」と「フォースのともにあらんことを」とでは、その基本は、これから「旅」に出ようとするものに対する「はなむけの言葉」である。"pax vobiscum" に就いても、その根っこは、やはり、聖体拝受による象徴的生まれ変わりにおける (つまり、人生と云う旅の再出発に対する) はなむけの言葉であろうと、私は思っている。

付言するまでもないかもしれないが、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金]) に指摘しているように、"goodbye" も、同じ範疇の挨拶である。

なお、この "pax vobiscum" を、復活したイエスが弟子たちに向かって放った言葉として説明されていることがある (例:ウェブページ「立教大学新座キャンパス・施設紹介チャペル(礼拝堂)」) が、これは私にはヤヤ不審。ラテン語聖書 (つまり、所謂ヒエロニムスの「ヴルガータ/Vulgata」) の範囲内では厳密には少しだけ異なる。Vulgata の [ルカによる福音書24:36] や [ヨハネによる福音書20:19] では、復活したイエスが弟子たちに "pax vobis" と言っていて、"pax vobiscum" ではないのだ。

ここで、一言書いておくと、特にルカの方では " pax vobis ego sum nolite timere" となっていて、その語感は、「あなたがたに平和があるように」(新共同訳) と言うより、「落ちつきなさい。私である。怖れてはならない」になるような気がする。

もっとも、現在のギリシャ語聖書テキスト ([現代ギリシャ語聖書] ではなくて、現代欧米語聖書の基礎となったギリシャ語聖書のオリジナル・テキスト) である Nestle-Aland (ネストレ・アーラント) の "NOVUM TESTAMENTUM GRAECE" (私が所持しているのは第26版だが、現在は第27版になっているようだ) では、該当箇所は、ともに "ειρηνη uμιν" (その前は、"και λεγει αuτοις" で、その後ではセンテンスが停止する) とあるのみで "ego sum nolite timere" に相当する語句 ("εγω ειμι, νη φοβεισθε") は、ヨハネでも(これは当然かもしれないが)、ルカにも見当たらないのだ。これと対応する形で、[新ヴルガータ/Nova Vulgata] では、[ルカ] でも [ヨハネ] でも、単に "Pax vobis!" になっている。つまり、復活したイエスは、ヘブライ語の "שָׁלוֹם" (シャーローム/Shalom) を連想させる挨拶をしたことになる (イエスが何語を話していたかと云う問題は、この際措いておく)。

ただし、これについて Bruce M. Metzger の "A textual commentary on the greek new testament" (2nd ed. 1994) は "εγω ειμι, νη φοβεισθε" を (恐らく[ヨハネによる福音書6:20] に由来する) 欄外注記の混入であると断じている一方で、"ειρηνη uμιν" に関連して、この状況で通常の挨拶の言葉が発せられるかには、若干の疑義が存在することを指摘している (p.160)。

なお Vulgata 内では "pax vobiscum" と云うコロケーションは、[創世記43:23] だけらしい。ただ、実は、この後に "nolite timere" と続くことは注意しておいてよいかもしれない。この "pax vobiscum nolite timere" は新共同訳では「御安心なさい。心配することはありません。」となっている。

こうした「素材」を並べてみると、私には "pax vobiscum" が聖書 (特に、福音書) に由来するというより、ラテン語ミサに由来すると考えた方が良いと思えるのだ。

旅の道連れとしての守護的神霊と云う発想は、所謂「旧約聖書外典」の [トビト記] で、トビトの息子トビアが旅をする際の指南役として天使のラファエルが同伴するし、日本においても、四国巡礼における「同行二人」が良く知られているから、宗教的気分として普遍的なものなのかもしれない。

以下、話が変わる。"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳す流儀と、「フォースともにあらんことを」と訳す流儀があるようだが、私は「の」派である。

[日本語で一番大事なもの] や [岩波古語辞典] に見られる大野晋の説明を私になりパラフレーズするなら、日本古語に限定する限りでは、元来連体助詞であったものが、主格の助詞に転用されるようになったと云う点では、「の」も「が」も同じであるのだが、「が」は発話者の身内の (より正確には、発話者が身内として扱った) 対象 (自分自身を含む) を受けるのに対し、「の」は、それ以外の、自分自身のみには所属しえない、一般的なもの、尊貴なもの、疎遠なものを受ける。

だから、自分自身を受ける時は「が」を使って「わが門の片山椿まこと汝我が手触れなな土に落ちもかも: nouse (物部広足 [万葉集20]4418/4442)」とか「君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く」(額田王 [万葉集488/491]) とかする訣だ。

「君」を受ける場合でも、その「君」が、自分のパートナーである場合には、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる」(額田王 [万葉集1]20) と「が」で受けるが、「君」が主君である場合には、「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」 (読人しらず。笠朝臣金村歌集所収歌。或いは車持朝臣千年の作かとも。 [万葉集6]952/957) とか「大君の みこの柴垣 八節結り 結り廻し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣 」 (志毘臣 [古事記]歌謡109) などと「の」で受ける。

ただし、こうした使い分けは、「扱い」の問題なので、一般的には尊貴な対象であっても、親愛の情を込める時には「が」で受けることもあるようだ。

「が」は、親愛の情だけでなく、狎れ親しんだものから、軽侮の対象を受けることもある。また、本来尊重しなければならないものを、「が」で受けることで、それに対する軽蔑の扱いを表わすこともある。これは大野晋が引用している例だが、[貧窮問答歌] 中の「しもと取る里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」(山上憶良 [万葉集5]892/896) では「里長(さとをさ)だから本当は「の」で遠くに扱って敬意を表明すべきなのに、税金を取り立てに来る不愉快な相手なので、『里長が声』」と言っている。」

"May the Force be with you." の the Force は、超越的な能力を指すから、日本古語の通例としては「の」で受けるべきであると云うのが私の考えである。

"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳したり、或いは、命令形にして「フォースともにあれ」と訳すことがあるようだが、これは論外。引きもどって言うと、"pax vobiscum" にしろ "peace with you" にしろ、「(神の)平安」が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「平安とともにある」よう命じているわけではない。それと同様、"May the Force be with you." も "the Force" が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「"the Force" とともにある」よう願ったり命じているわけではない。

話が散らばって申しわけないが、改めて、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で再検索 (google) してみると、どうやら "pax vobiscum" はアニメソングのタイトルとして採用されているらしい。それが「PAX VOBISCUM-願わくば平安汝等とともに-SAMURAI DEEPER KYO」だと云うのだが、ここは「ば」ではなくて「は」にしてほしかったなぁ。「願はく」は、「老いらく/老ゆらく」や「思はく/思惑」と同様、動詞の「アク語法」 (一般の呼び方では「ク語法」)であって、名詞相当だから、係助詞の「は」で受けるのが、日本古語として順当なのだ。まぁ、「願はくば」も、常用日本語として定着してしまっているのは確かなのだが。

その他では、Bathory (バソリー) と云うスエーデンのメタルバンドの "Requiem" と云うアルバム (1994年) にも同名の曲が収められている由 (Cf. "Bathory:Pax Vobiscum - LyricWiki - Music lyrics from songs and albums")。

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2009年7月19日 (日)

フランス語で「主の平和」

昨日夜 (2009/07/18 19:52:24) に、キーフレーズ [主の平和をフランス語訳にするとどうなるか] で、このサイトを訪問されたかたがいらしたようだ。

こう云うことを尋ねられても「どうなんでしょうなぁ」と答えるしかない。自らの教養の無さに恥じ入るばかりだ。

「主の平和」と聞いて思い出すのは、何かで聞き齧ったラテン語 "Pax Domini" だけだ。たぶん、カソリック典礼文中の言葉の筈 (この記憶は当たっていた。「ミサ聖祭の主な応答句」を参照)。

そして、私の当てずっぽうでしかないのだが、「主の平和」に対応する言葉は、フランス語のネイチヴスピーカであっても、ラテン語の "Pax Domini" を自然に使うことが少なくないような気がする (日本人が、本来は中国語である故事成語を日本語として使うように)。だとしたら、それを「フランス語」ではないと排除するのには、私は抵抗を感じる (フランス語のページに限定して "Pax Domini" を google 検索してみると2500件余がヒットする)。

勿論、私でも "Pax Domini" をフランス語に当て嵌めれば "la paix du Seigneur" になるぐらいの知識は持ってはいる (google で検索すると、10000 以上のヒット数があるから、流通している表現であることは確かだろう)。

しかし、それが「主の平和」に対応するかどうかは自信が持てなかったので、"Pax Domini" と "paix du Seigneur" とを AND 検索してみた。

すると "Ordinaire de la Messe selon le Rite de Saint Pie V: latin-français" と云う文書が出てきた。「ピウス5世典礼によるミサ通常文: ラテン語-フランス語」ぐらいの意味だろう。つまり、伝統的な「トリエント・ミサ/Rite tridentin」の羅仏対訳な訣だ。

この pdf イメージ、元のパンフレットの綴じを外して解体してからコピーしたものらしく、ページの順番が変わってしまって、左右対訳になっていないが、それでも、典礼文中において "Pax Domini" は、司祭 (で良いのかな?) が Pater Noster を唱えた後、Agnus Dei の直前に、司祭により会衆に対して投げかけられる "Pax Domini sit semper vobiscum." (主の平安が変わることなくあなたがたと共にあるように) として登場することが分かる (第14ページの下から3行目。この唱句そのものは、上記の「ミサ聖祭の主な応答句」でも確認できる)。

これに対するフランス語訳は "La paix du Seigneur soit toujours avec vous." (第15ページの下から3行目) である。

つまり、"Pax Domini" の「フランス語訳」は "la paix du Seigneur" とすることの裏付けが取れたと言って良いと思う。

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2008年3月27日 (木)

"May the Force be with you" (「フォースのともにあらんことを」) を色色な言語で言うと

このまえ、"May the Force be with you." (「フォースのともにあらんことを」) を、スウェーデン語で何と言うかと云う記事を書いた ([nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をスウェーデン語で言うと] 2008年3月2日[日])。昨年は、ドイツ語で何と言うかに就いても書いてある (nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をドイツ語で言うと 2007年2月23日[金])。

それぞれ、そう云う目的でこのサイトを訪問されたらしい方がいらしたために、余計なお世話を焼いたに過ぎない。

しかし、スウェーデン語とドイツ語 (そして、英語) が分かると、その他の言語では何と言うのか気になってくる。そこで、以下簡単に纏めておく。

ただし、「定訳」が存在していないこともありうるし (このような「決め文句」は、文脈上特段の理由がない限り「定訳」が採用するのが好ましい)、また少なくとも一部の印欧系の言語では第二人称の単複と、それに伴う親称・敬称 (もしあれば) の扱いが問題になるのだが、何れもほぼ考慮せず、ネットで発見してものを収集したにとどまる。

それでも、印欧系言語で第二人称単数親称を使った表現らしいものが見つかった場合は、それが最初に来るようにはした。それは "May the Force be with you" が、基本的には使命を帯びて旅立つ者への「はなむけの言葉」であるからだ ([マタイ]28:20 参照。ただし、そこでのイエスの言葉は1人ではなく11人に言われているけれど)。

引用句の最後はピリオドではなく感嘆符とする例も多多あるのだが (スペイン語では文頭にも付くこともある)、以下では一切付けていないので、適宜補って読んで戴きたい。

イタリア語: Che la Forza sia con te. / Che la Forza sia con voi. / Che la Forza sia con lei. / Che la Forza sia con loro.
スペイン語: Que la Fuerza te acompañe. / Que la Fuerza esté contigo. / Que la Fuerza os acompañe. / Que la Fuerza esté con vosotros. / Que la Fuerza esté con ustedes. / Que la Fuerza lo acompañe. / Que la Fuerza les acompañe.
フランス語: Que la Force soit avec toi. / Que la Force soit avec vous.
ポルトガル語: Que a Força esteja contigo. / Que a força esteja com você. / Que a Força esteja convosco. / Que a força esteja com vocês.

ドイツ語: Möge die Macht mit dir sein. / Möge die Macht mit euch sein. / Möge die Macht mit Ihnen sein.
オランダ語: Moge de kracht met je zijn. / Moge de kracht met jou zijn. / Moge de kracht met u zijn. / Moge de kracht met jullie zijn.

スウェーデン語: Må kraften vara med dig. / Må kraften vara med er.
デンマーク語: Må Kraften være med dig. / Må Kraften være med jer.
フィン語 (フィンランド語): Olkoon Voima kanssasi.
ハンガリー語: Az Erö Legyen Veled.

ギリシャ語: Η Δύναμη μαζί σου. / Η Δύναμη να είναι μαζί σου
ラテン語: Vis tecum sit. / Sit vis vobiscum. (2009-09-24 [木]:"nobiscum" を --vobiscum-- に訂正。)

ロシア語: Да пребудет с тобой Сила. / Да пребудет с Вами Сила.

ポーランド語: Niech Moc będzie z tobą. / Niech Moc będzie z Wami.
クロアチア語: Neka Sila bude s tobom. / Neka je Sila s tobom. / Neka Sila bude s vama. / Neka je Sila s vama.
ブルガリア語: Нека силата бъде с теб. / Нека силата бъде с вас.

中国語: 愿原力与你同在。/ 願原力與你同在。
韓国語: 포스가 함께 하기를。 / 포스가 당신과 함께 하기를 빌겠소。

トルコ語: Güç seninle olsun.

ヘブライ語では何というかに就いては調べがついていないので宿題としておこう。例えば "הכוח" "מלחמת הכוכבים" の組み合わせ (「スター・ウォーズ」と「フォース」) で検索してみたが、はかばかしい結果が得られなかった。

補足 (2008-04-30 [水]):
その後、"יהיה הכוח אתכם" で google 検索してみたところ、1件ヒットした (DEMONS: Under the Sink)。また "יהיה הכוח אתך" では1件もヒットしなかった。

2008-05-19 [月]: "יהי הכוח אתכם" でも1件ヒットする。それは、やはり "Demons: Under the Sink" 中の記事だが、別のページ (Reviews Master)である。更に、"יהי הכוח עמך" と云う言い方もありうる。これは数件ヒットするようだ。おそらく「フォースのともにあらんことを」のヘブライ語訳としては、この二つが最も「それっぽい」のではないか (文脈によっては、対象が二人称複数の形にしてもよいだろう)。

"יְהִי כֵן יְהוָה עִמָּכֶם" ([出エジプト記]10:10) が参考になるかもしれないので、ここに書き留めておく。

参考になるかもしれないサイト:
1. Force (Star Wars) - Wikipedia, the free encyclopedia
2. הכוח (מלחמת הכוכבים)

「"May the Force be with you" を色色な言語で言うと」は、「ネタ」としては平凡なものであるので、同主題で既に幾つもの記事が書かれている。そのうちの一つだけを引用しておく:
[Somewhere in the Middle: Que la Fuerza te acompane!]

このブログ記事は、[nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をスウェーデン語で言うと] と [nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をドイツ語で言うと] の他に次の記事にも関連する:
1. [nouse: "May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])
2. [nouse: NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])

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2007年11月30日 (金)

色色な言語で「宵の明星」

今日午前 (2007/11/30 10:29:20) キーワード[宵の明星 明けの明星 イタリア] でこのサイトを訪問されたかたがいらしたらしい。[nouse: 色色な言語で「明けの明星」] (2007年11月14日[水]) は作ったが、「宵の明星」の方はとサボっていたので、この機会に作っておく。

前回と同様 [LOGOS - Multilingual E-Translation Portal] の[evening star] の項と [Webster's Online Dictionary] の [Evening Star] の項を、内容未チェックのまま纏める。

英語: Evening Star
アフリカーンス語: Venus, Aandster
オランダ語: Venus, Avondster
フランス語: Vénus, l'étoile du soir
ドイツ語: Venus
ハンガリア語: Vénusz
イタリア語: Venere, la stella della sera
日本語: 宵の明星, 一つ星
マン島語: Rollage yn Astyr (Hesperus, the evening star). (various references)
Papiamento: Venus //"Papiamento" はカリブ海の所謂 ABC 諸島 で話されている言語。
偽ラテン語 (Pig Latin): eveningay arstay
ルーマニア語: luceafãrul de searã
ロシア語: вечерняя звезда
セルビア・クロアチア語: večernjača
トルコ語: venüs, akşamyıldızı, çulpan
ベトナム語: sao hôm
ユカテク・マヤ語 (Yucatec): Xnuk Ek'
ラテン語: Cytherea, Venus, vesper, vespere, vesperi, vespero, vesperum
スペイン語: la estrella vespertina
デンマーク語: Venus
フィンランド語:iltatähti
ペルシャ語: ناهيد

[nouse: サッポーの詩] にも呼格の形で出てきたが、古典ギリシャ語で「夕づつ」つまり「宵の明星」は Ἔσπερος である。

また、[nouse: 色色な言語で「明けの明星」] で触れたように、中国語では「宵の明星」は「長庚(长庚)」。これをハングル表記すると 장경 になる。

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2007年11月15日 (木)

ラテン語で「伝令」

昨日、17時頃、キーフレーズ [伝令 ラテン語] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

もし「伝令」に対応するラテン語をお探しということであるならば "nuntius" あたりではないのか? これには、所謂「ニューズ」の他に、「伝令者」、「伝令内容」の意味があったはずである。

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2007年11月14日 (水)

色色な言語で「明けの明星」

昨夜、20時20分頃、キーフレーズ [イタリア語で明けの明星] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。 まぁ、"l'astro del mattino" ぐらいでしょうね。

「明星」、「明星」と、イチイチ面倒なので、纏めて書いてあるものを探したら [l'astro del mattino - Logos Dictionary - Logos Translations multilingual dictionary] と Webster's Online Dictionary の [Morning Star] と云うものが見つかった。内容未チェックのまま、それに従うと:

英語: morning star
イタリア語: l'astro del mattino
スペイン語: lucero del alba
フランス語: l'étoile du matin
ブルトン語: gwerelaouen
デンマーク語: morgenstjerne
フィンランド語: aamutähti
ラテン語: sidus matutinum //ゑびすや贅言: Lucifer で良さそうな気がするが、キリスト教文化内では、安易に使えない言葉なのだろう。
マプンズグアン語: wüñejfe
ペルシャ語: ستاره صبح
ポルトガル語: estrela da manha, estrela d'alva
ウェールズ語: seren y bore
アルバニア語: ylli i mëngjesit
ブルガリア語: зорницата
チェコ語: jitřenka
オランダ語: morgenster
エスペラント: matenstelo
ドイツ語: morgenstern
現代ギリシャ語: αυγερινόσ
ヘブライ語: עמוד השחר 参考: עמוד השחר
אילת השחר, אילת 参考:morning star | Hebrew | Dictionary & Translation by Babylon
שחר 参考: Isaiah 14:12
ברקאי 参考: Naftali Herz Imber
ハンガリア語: hajnalcsillag
インドネシア語: bintang timur
日本語: 暁星, ぎょうせい, ひとつぼし, よあけのみょうじょう, みょうじょう
マン島語: rollage ny madjin, maddinagh
偽ラテン語 (Pig Latin): orningmay arstay
ルーマニア語: luceafãrul de dimineaţã
ロシア語: утренняя звезда
セルビア・クロアチア語: zvezda danica, zornjača
スウェーデン語: morgonstjärna
トルコ語: sabah yıldızı
ベトナム語: sao mai

以上に追加すべきものとしたら、以下のようなところだろうか(こちらも、あまり自信はない):

中国語: 啓明(启明)
参考: 「太白金星_百度百科」で指摘されているように [诗·小雅·大东 (詩経/小雅/大東]) には 「东有启明 西有长庚」(诗经·小雅) と云う句がある。つまり「啓明」が「明けの明星」を「長庚」が「宵の明星」を指す。

韓国語: 샛별
参考: Paran 사전(辞典):「啓」

古典ギリシャ語: Φωσφόρος

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2007年3月 2日 (金)

セネカ [怒りについて De ira] からの引用句

[nouse: 「大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる」: ユリウス・カエサルの面前に抛り込まれた一句。] (2007年2月26日) に引き続き、セネカの [怒りについて (De ira)] からの引用句を書き留めておく。

(1,7,4) Quarundam rerum initia in nostra potestate sunt, ulteriora nos ui sua rapiunt nec regressum relinquunt. Vt in praeceps datis corporibus nullum sui arbitrium est nec resistere morariue deiecta potuerunt, sed consilium omne et paenitentiam inreuocabilis praecipitatio abscidit et non licet eo non peruenire quo non ire licuisset,...
--Itinera Electronica: Du texte a l'hypertexte
最初はわれわれの手に負えても、後になると、その力でわれわれを捕らえて後戻りを許さないものがある。たとえば、断崖から投げ落とされた体には、それ自身の裁量などは少しもできず、いったん投げ出されれば静止も停止もできない。もう取り消せない墜落のために、どんなに考えても悔やんでもすべて後の祭りであって、初めから行きたくはなかった所へ否応なしに達することになる。
--岩波文庫 33-607-2 [怒りについて] (訳:茂手木元蔵。1980年。東京 岩波書店) p.21

"quarundam" は quidam の女性複数属格 (quarum の末尾の m が d に後続されるため n に転化している)。"nos ui sua" 中の "nos" は対格。"ui" は vi つまり vis (女性名詞) の単数奪格。"sua" は suum の女性単数奪格。

"Vt" は Ut のこと。"in praeceps datis corporibus" の "corporibus" は corpus (n) の複数奪格("in" に支配されている)。"datis" は do の受動相完了分詞中性複数奪格("corporibus" と一致)。"praeceps" は副詞「真っ逆さまに」で、「断崖」の意ではあるまい。

"morariue" の -ue は -ve のこと。その前の morari の方は、deponentia 動詞の一つ moror の不定法現在。

"licet" は非人称動詞「許されている」の直説法現在(三人称単数)。"licuisset" は、その接続法過去完了(三人称単数)。

翻訳のチェックはしないつもりだったが少し書いておくと:

まず "Vt in praeceps datis corporibus nullum sui arbitrium est" は「断崖から投げ落とされた」云々ではなく「身体が真っ逆さまに落ちているようなもので、何も自由にならず」といったところか。

また "nec resistere morariue deiecta potuerunt" を「(いったん投げ出されれば)静止も停止もできない」とするのはどんなものだろう。morari の語義を考えると「停止も減速もできない」の方が良いのではないか?

"non licet eo non peruenire quo non ire licuisset" で「初めから行きたくはなかった所へ否応なしに達することになる」と云うのも引っ掛かる。"licuisset" が接続法であることを意識するなら「もとより行く筈もなかった所に辿り着いてしまう」ぐらいではないか。

うーむ。

当初の予定では、"De ira" からの引用句を十前後並べる積もりだったのだが、一つ書いただけで、なんだか面倒くさくなってきた。予定を切り上げて、今回はこれだけにしておく。

ちなみに、岩波文庫版のほかの "De ira" の現代語訳をネット上で探してみたところ、フランス語版英語版イタリア語版が出てきたが(ドイツ語版は見当たらなかった)、今回見た非常に狭い範囲内だけなら、イタリア語版が一番しっかりしているようだ。

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2007年2月26日 (月)

「大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる」: ユリウス・カエサルの面前に抛り込まれた一句。

[Quintus Fabius Maximus (クィントゥス・ファビウス・マクシムス) の言葉] を書いたついでに、セネカの [怒りについて (De ira)] に就いてもう少し書いておく。

例えば、次のような一節がある:

また、恐怖はそれを起こさせる張本人に常に戻ってきて、恐れられる者自身が安心していられない。この事実はどうであろう。ここで君は、ラベリウスの次の詩の一句を思い起こすであろう。この詩が内戦の最中に劇場で朗読された時、それは全国民の注意を一身に集め、正に一般大衆の感情が声となって投げつけられたかの観があった。
  大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる。
--岩波文庫 33-607-2 [怒りについて] セネカ。訳:茂手木元蔵。1980年。東京 岩波書店 p.66

Quid quod semper in auctores redundat timor nec quisquam metuitur ipse securus? Occurrat hoc loco tibi Laberianus ille versus qui medio civili bello in theatro dictus totum in se populum non aliter convertit quam si missa esset vox publici adfectus:
  necesse est multos timeat quem multi timent.
--"De ira" LIBER II, Cap.xi 3
上記引用和訳文中、「この事実」は、前文に係る。上記訳文に従えば「恐怖はそれを起こさせる張本人に常に戻ってきて、恐れられる者自身が安心していられないと云う、この事実はどうであろう?」と云うこと("Quid quod" は、「と云う事実はどうだろう」と云う意の成句)。
"in se ... convertit" は「(自らに)注意を集める」、"non aliter quam" は「正に」で良いだろうが、"populum" (populus 対格)を「国民」としたのはどうか。むしろ「聴衆」とすべきではなかったか。また「一般大衆の感情」とされている "vox publici adfectus" は「民衆の怨嗟の声」くらいまで訳せるかもしれない。"missa esset" は mitto の接続法過去完了三人称単数女性。拙訳を付けておくと:

恐怖と云うものは溢れて、恐怖を引き起こした人々にまで逆流するのが常なので、恐怖される者自身も安全ではないのだと云う事実はどうだろう。ここで、君は、内戦の中、劇場で朗読された際に、あたかも民衆の怨嗟の声が抛り込まれたかの感があったので聴衆が耳をそばだてたと云う、あのラベリウスの詩の一節を思い起こすだろう:
  大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる。

ここで、「内戦 (civilis bellum)」とは、ユリウス・カエサル (Gaius Iulius Caesar 或いは Gaius Julius Caesar) と反カエサル派との戦い (ルビコン川越境 49BC。ムンダ会戦45BC) のことだろう。

ラベリウス (Decimus Laberius) は、 カエサルの命により行なわされたプブリウス・シルス ( Publilius Syrus) 等との「黙劇」(mimus) 競演の際 (紀元前46年のことだと云う)、自作劇の前口上として゛カエサルの権力が大きくなりすぎたことを揶揄する詩をカエサルの面前で朗読した。そして、劇中シルスを当てこすった奴隷役で登場したラベリウスは、"Porro Quirites! libertatem perdimus" (「ところで、ローマ市民諸君! 我々は自由を失おうとしているぞ」) と叫ぶのだが、それから一呼吸置いて付け加えたのが問題の言葉だった。この「最後の一句」が発せられると、全聴衆がカエサルの方を向いて、彼に注目したという。

セネカが、下敷きにしたと言われるマクロビウス (Ambrosius Theodosius Macrobius) の "Saturnalia" の一節を引用しておく:

In ipsa quoque actione subinde se, qua poterat, ulciscebatur inducto habitu Syri, qui velut flagris caesus praeripientique se similis exclamabat:
  Porro Quirites! libertatem perdimus
et paulo post adiecit:
  Necesse est multos timeat quem multi timent.
Quo dicto universitas populi ad solum Caesarem oculos et ora convertit, notantes inpotentiam eius hac dicacitate lapidatam. Ob haec in Publium vertit favorem.
--Macrobii "Saturnalia" Liber II Cap.vii 4-5
"ora" は os の複数対格。



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2007年2月22日 (木)

Quintus Fabius Maximus (クィントゥス・ファビウス・マクシムス) の言葉

古代ローマにクィントゥス・ファビウス・マクシムス (Quintus Fabius Maximus) と云う将軍(独裁官、執政官)がいた(c. 275 BC-203 BC)。第二ポエニ戦役 (Seconda guerra punica) でカルタゴの驍将ハンニバル (Hannibal) と戦い、良くローマを守った人物だが、彼が常づね、こう言っていたと云う(取り敢えず、私の記憶に従って書くおくと):

将軍にとって一番恥づかしいことは「それは考えていなかった」と言って弁解することである。

実は、私は長い間、この逸話をモンテーニュ (Michel de Montaigne) の [エセー (Essais)] の中で読んだと信じていた。

このたび、その出典を確かめるために(つまり、モンテーニュ自身が、どこかから引用してきた筈なので、Essais の注釈から、そのオリジナルを探そうとしたのだ)、ネット上を調べたのだが、どうやら私の記憶が間違っていたらしい。つまり Essais の中には該当する部分がないらしいのだ。

どういうことかと訝しんでいると、私の物覚えの悪さにだめ押しするかのように、Essais 云云を通り越して「オリジナル」らしいものが見つかってしまった。セネカ (Seneca) の [怒りについて (De Ira)] である。英単語をキーワードにして検索したから、最初は英語版が出てきたが、勿論セネカはラテン語で書いている:

Turpissimam aiebat Fabius imperatori excusationem esse 'non putavi', ego turpissimam homini puto.
--"De ira" Cap.XXXI 4

そう言えば、[怒りについて] は岩波文庫で持っていた筈だ...

本を引っ張り出して、調べてみたら、歴然と読んだ跡がある、と言うか、どうやら結構「感動」したらしく、至るところに赤鉛筆で傍線が引いてある。勿論、問題の箇所にも引いてあって:

ファビアスは常にこう言っていた。最高指揮官にとって一番恥ずかしい弁解は、「自分は考えなかった」ということである、と。
--岩波文庫 33-607-2 [怒りについて] セネカ。訳:茂手木元蔵。1980年。東京 岩波書店 p.97
ちなみに、この後に「それは誰にとっても一番恥ずかしいことと私は考える。」と続く。上記引用中の "ego turpissimam homini puto" に対応する部分である。

imperatori が「将軍」より「最高指揮官」としたほうが良いのは勿論だが、そのほかにも Turpissimam が対格、aiebat が未完了過去 imperatori が与格、excusationem が対格だから、文型としては「一番恥づかしいことは『・・・』と言って弁解すること」よりも、「一番恥ずかしい弁解は、『・・・』ということ」の方が素直だろう。ただ、その場合「弁解」と云う訳語を使うのは、その形成する局所コンテキストが、元の姿より微妙にずれてしまう。

「辯疏」と云う言葉もあって、これを使えば良かろうとも思うが、取り敢えず、今私が訳すとするなら、「最高指揮官にとって、最も恥づべき釈明は『それは考えていなかった』と云うでものある」あたりから検討を始めることになるだろう。まあ、これはすぐ、「最高指揮官にとって、『それは考えていなかった』と云う釈明が最も恥づべきである」と書き換えた方が良いと思い直すだろうが...。

付言すれば、現在完了形 "non putavi" は、「自分は考えなかった」よりも「それは考えていなかった」と訳したい。あるいは、「それは想定外だった」か。

「『それは想定外だった』と云う釈明が最も恥づべきである」と云う定格が、個人の行動指針として実践的な説得力をもつかどうか、現代日本と同様、古代ローマでもあやしいものだ。だからこそ Quintus Fabius Maximus は、当初 "Cunctator" (のろま、愚図) と揶揄されたのだろう。ファビアスは、自らの行動で、この蔑称をそのまま敬意を以って称えられる「二つ名前」へと変容させていく。そこには個人と社会との関係に動態が垣間見えて興味深い。

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2007年1月30日 (火)

"One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて

記事 [「一人ひとりに、それぞれの必要に応じて。一人ひとりが、その能力に応じて。」と「全員が一人ひとりのために。一人ひとりは全員のために。」] (2007年1月26日) で書いた [三銃士 (ダルタニャン物語 第一部)] ("Les Trois Mousquetaires" 1844年) に現われる "Tous pour un, un pour tous." (「全員が一人のために。一人は全員のために。」) の対応英語形は "One for all, all for one" になる。この変異例としては "One for all, and all for one" や "all for one, one for all" 或いは "All for one, and one for all" がある。日本語の「一人は万人のために、万人は一人のために」も、この系統とみなして良いだろう。

"Voyage en Icarie ([イカリア旅行記] 第3版 1845年)" 表紙における "Tous pour chacun. Chacun pour tous." (全員が一人ひとりのために。一人ひとりは全員のために。) が、どう関わるのかは、未確認。


で、取り敢えず話を日本に限ると 「一人は万人のために、万人は一人のために」(変異例:「みんなが一人のために、一人はみんなのために」)や "One for all, all for one" 等は、様ざまな組織及び個人の pet philosophy になっている:

生活協同組合 (生協)
コープこうべ
全国生協連
大学生協
農業協同組合 (農協)。 ただし「"Each for All, All for Each (一人は万人のために 万人は一人のために)"」を採用している。
JA (農協) 東京中央会
JA 全農
JA 全中
その他の協同組合
全労済
労働組合
動労千葉
自治労群馬県本部
自治労横浜
関西合同労組
全日本郵政労働組合 英文による組織紹介のタイトルが "One for all, all for one"
チーム競技
ラグビー (愛知県「岡崎ラグビースクール」)
サッカー (神戸大学体育会サッカー部)
野球 (松坂大輔)
ソフトボール (茨城県東海村「舟石川ソフトボールスポーツ少年団」)
バレーボール (Vリーグ「トヨタ自動車」チーム)
フットサル (フットサルラボ:脱初級者フットサルブログ)
ラクロス (東京女子体育大学・ラクロス部)
駅伝 (99年北大駅伝)
モダンダンス (大東文化大学モダンダンス部)
チアリーディング (福井県 WENDYS)...
バンドスタイル又はシンガーチームスタイルのタレントの features
H.P.オールスターズ: "Hello! Project" のユニット。「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」は、その楽曲名。
氣志團ちゃんブログ:ONE FOR ALL.ALL FOR ONE. (2006年4月21日)
学校/課外活動のモットー
聖ドミニコ学園小学校(東京都世田谷区)
山口県立豊北高等学校
岡山県立矢掛高校吹奏楽部
学園祭・運動会のテーマ
西九州大学福祉医療専門学校・佐賀調理製菓専門学校の合同学園祭
沖縄キリスト教学院大学・沖縄キリスト教短期大学 学生会2006キリ学祭
横浜市國學院大學幼児教育専門学校“若葉祭”
文教大学付属中学・高等学校学園祭 (東京都品川区旗の台)
神戸山手女子中学校・神戸山手女子高等学校
啓新高校(福井県)
広島県立加計高等学校
大阪産業大学
横浜市立日限山中学校
舞鶴市立城南中学校
高知県立高知追手前高等学校吾北分校
山口県立南陽工業高等学校体育祭...
成人式の標語
秋田県横手市
政治家の看板文句
豊島区議会議員 池田なおひろ (自由民主党)
衆議院議員 後藤田 正純 (自由民主党)
前・衆議院議員 田中慶秋 (民主党)
山口県下関市議会議員 長ひでたつ (公明党)
千葉県浦安市議会議員 辻田あきら
福井県議会議員 のだ富久 (県民連合)
神奈川県知事 松沢成文
長野県下伊那郡下條村議会議員 宮島きよのぶ
衆議院議員 森喜朗 (自由民主党)
ブログのタイトル
多数。無慮数百あるようだ。
個人の「好きな言葉」/「座右銘」
多数。

なにか、こう目眩いがしてくるね。

保険会社も、しばしば「一人は万人のために、万人は一人のために」を標語にする:

その根拠にしているのは、ドイツ語形の "Einer für Alle, Alle für Einen" のようだ。これは、直接にはドイツ(その後米国に移住)の保険学者 Alfred Manes によるらしいが、それが更に由来するものがあるかどうかは、私には不明。

外国での対応表現の使われ方に就いて調べてみるつもりだったが、別の機会を俟つことにする。

    参考になるかもしれないサイト:
  • One for all, and all for one - Wikipedia: 記事中、"One for all, and all for one" をモットーとする団体として具体的に挙げられているのは "Hells Angels" だけである。
  • Panthéon de Paris - Wikipedia: 2002年11月30日に Alexandre Dumas がパリ・パンテオンに改葬された際に、棺にかけられた drap bleu には "Tous pour Un, Un pour Tous " と記されていたと云う (Alexandre Dumas, samedi 30 novembre 2002)。
  • Rugby School Internet Services: rugby football が始まったとされるイングランドの public school "Rugby School" のサイト。"one for all" や "all for one" に就いて特記している様子は見られない。「学校新聞」である "The Grapevine" 2006年2月号に "This term has been a pretty amazing one for all the badminton squads,..." とあるが、これは「今期は、バドミントンチームの全てが素晴らしい成績を残した」と云うこと。
  • Rugby Football Union: 英国ラグビーフットボール協会のサイト。"one for all" や "all for one" に就いて特記している様子は見られない。
  • RugbyRugby: Latest News: ラグビーフットボールの専門サイト中の記事。"one for all and all for one" と云うスローガンに就いての言及がある。
  • Unus pro omnibus, omnes pro uno - Wikipedia: ラテン語。非公式ながらもスイスの伝統的モットー。
  • Trivia for The Truman Show (1998) によれば、映画 "The Truman Show" (1998年) には、"UNUS PRO OMNIBUS, OMNES PRO UNO" が町のモットーとして登場する。この映画は、1967年のイギリステレビドラマシリーズ "The Prisoner" (「プリズナーNo.6」) を意識している。
  • Solidarität im Verfassungsstaat:「立憲国家における団結」"Einer für Alle, Alle für Einen" や Alfred Manes の話が出てくる。副題: "Grundzüge einer normativen Theorie der Verteilun" は「分配の標準理論の基本的特徴」と言ったところか。
  • 集団主義 - Wikipedia 曰わく: 「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)というスローガンは、個人主義的な成員に、心理的に集団と一体化しよう、と呼びかける理念・イデオロギーで、1844年にイギリスで生活協同組合運動が発足したときに考案されたもの。これを西欧的集団主義と把握する考え方がある。北朝鮮はこのスローガンを愛用し、全体主義批判に対し、自国は集団主義であると反論する。
  • 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法: 第5章 [公民の基本権利及び義務] 第63条 朝鮮民主主義人民共和国において公民の権利及び義務は、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という集団主義原則に基づく。
  • Rochdale - Wikipedia: イングランド西北部の都市。協同組合運動 (cooperative) 発祥の地。
  • Rochdale Principles - Wikipedia: 初期協同組合運動の原則。"one for all, all for one." に類する箇条は見当たらない。
  • Statement on the Co-operative Identity - Wikipedia: "International Co-operative Alliance" (ICA 国際協同組合同盟) による協同組合運動宣言。

ついでに書いておくと "one for all, all for one." 及び "one for all, and all for one." に対応するロシア語表現は,それぞれ "Один за всех, все за одного." 及び "Один за всех и все за одного." また、イタリア語形は "Uno per tutti, tutti per uno." 及び "Uno per tutti e tutti per uno."

"Один за всех" "все за одного" が、Сергей Михайлович Эйзенштейн (セルゲイ・エイゼンシュテイン)の 映画 "Броненосец Потёмкин" (「戦艦ポチョムキン」)に出てくるらしいが、未確認(ただし "Battleship Potemkin: Scenario and script by Sergei Eisenstein" 参照)。

"One for all, all for one." は、「ユートピア/革命の昂揚」の指標であるのと同時に、「ディストピア/革命の幻滅」隠蔽の指標でもあると言うべきか。

いみじくも、アレクサンドル・デュマ・ペール (Alexandre Dumas) は、このあたりの機微を、アトスとアラミスに「手を差し出して誓え!」と迫られたポルトスが、「ブツブツ口ごもりながらも、周りの勢いに気圧されて」(Vaincu par l'exemple, maugréant tout bas)、ダルタニャンとの四人で「全員が一人のために、一人は全員のために」と唱和したと、書いていることを忘れるべきではないだろう( [ダルタニャン物語 第一部「三銃士」"Les Trois Mousquetaires"] 第9章)。


    最後に、各国語おける問題の標語を改めてまとめておこう(主な変異例がある場合には、それも付ける):
  • フランス語: "Tous pour un, un pour tous."

  • 英語: "One for all, all for one." ("One for all, and all for one." )

  • ドイツ語: "Einer für Alle, Alle für Einen"

  • 日本語: 「一人は万人のために、万人は一人のために。」(「みんなは一人のために、一人はみんなのために。」)

  • イタリア語: "Uno per tutti, tutti per uno." ("Uno per tutti e tutti per uno.")

  • ラテン語: "Unus pro omnibus, omnes pro uno"

  • ロシア語: "Один за всех, все за одного." ("Один за всех и все за одного.")


    補足
  • スペイン語: "uno para todo, todo para uno." ("uno para todo y todo para uno.")

  • オランダ語: "Een voor allen, allen voor een." ("een voor allen en allen voor een.")

  • ポルトガル語: "um para todos, todos para um." ("um para todos e todos para um.")

  • 中国語形: "我為人人,人人為我" らしい。(中国語ウィキペディアのスイスの項 "瑞士" による。) "one" には「我」、"all" には「人人」が当てられているのが興味深い。

  • ハングル: "전체는 하나를 위해, 하나는 전체를 위해" 「チョンチェヌン ハナルル ウィフィェ, ハナヌン チョンチェルル ウィフィェ」か? (ハングル版ウィキペディアのスイスの項 "스위스" による。"전체"「チョンチェ」は「全体」の意、"는"「ヌン」は主題を表わす格助詞、"하나"「ハナ」は数詞「一」、"를"「ルル」は目的格助詞、"위해"「ウィフィェ」は目的を表わす用言「為である」。)


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2006年10月24日 (火)

メモ: 料理用語としてのイタリア語 "saltare" とフランス語 "sauter"(ついでにラテン語の諺2つ)

イタリア語の動詞 "saltare" の料理用語としての語義は、[小学館伊和中辞典] (1983年 東京 小学館。編者:池田 廉 他) に載っている。

フライパンでひっくり返しながら焼く,ソテーにする.

これで良いのだが、しかし、"saltare" はパスタ料理のレシピでも使われる言葉で、その場合の語義は、少し補足した方が解かりやすくなる。

このことは、define:saltare で Google 検索してみると、分かる。その結果は次の通り:

日本語 による saltare の定義は見つかりませんでした。
Web 上での イタリア語 による saltare の定義:

1) Per carni: cottura per rosolatura in padella;
2) Per paste alimentari: mettere la pasta in padella con la salsa e, con un particolare movimento della mano, rimuoverla affinchè assorba meglio il sugo;
3) Per verdure: procedere come sopra, saltando le verdure con burro o con un altro grasso.
www.whynat.it/terminologia/terminologia.php
1)肉に就いては: フライパンでキツネ色になるよう焼く料理法
2)パスタに就いては: パスタをソースと共にフライパンに入れ、ソースが吸収されやすいよう、独特な手の動きを使ってパスタを何度も動かすこと。
3)野菜に就いては: バターその他の油脂と共に野菜が跳ね上がるようにして、上記と同様な措置をすること。

Cuocere in padella o tegame basso, con un procedimento veloce ea calore vivo, pezzi di carne, con l'aiuto di materie grasse quali olio, burro o strutto.
www.lavinium.com/enciclopedia/enciclos.htm
フライパン又は浅鍋で、油・バター・ラード等の油脂を使って、肉の細片を強火で手早く調理すること。

"assorbire" ("assorba" は接続法現在形)だから「ソースが吸収され」と訳しておいたが、日本語のレシピとしては「ソースが絡み」とした方が良いかもしれない。


余談だが、フランス語での対応語 "sauter" に就いても、少し書いておく。

イタリア語 "saltare" もフランス語 "sauter" も、ともに「踊る」を意味するラテン語 "saltare" (不定法) に由来する訳だが、define:sauter でGoogle 検索して得られた結果から関係がありそうなところを引用すると:

日本語 による sauter の定義は見つかりませんでした。
Web 上での フランス語 による sauter の定義:

Cuire à découvert, sur un feu assez vif (l'ustensile approprié étant la sauteuse).
www.marmiton.org/recettes/lexique.cfm
素材をそのまま、十分な強火で加熱すること(適切な調理用具はソテー用浅鍋)。

cuire à feu moyen à vif dans une poêle à frire en remuant constamment.
www.lifescaneurope.com/befr/diabetique/recettes/terminologie/
フライパン内で、中火又は強火を使って常に動かしながら加熱すること。

Cuire à feu vif, sans mouiller et sans couvrir, dans des corps gras.
perso.wanadoo.fr/cuisinez/acceuil_termes.htm
水・スープ・ワイン等の液体を加えたり、蓋をしたりせずに、強火で脂肪と共に加熱すること。

Action de cuire de petites pièces de viandes, des poissons, des légumes, des oeufs..... dans très peu de corps gras chaud.
www.restocours.net/Anecdotes/glossaire%20technique1.htm
小さく切った肉・魚・野菜・卵を、極少量の熱い脂肪と共に加熱すること。

cuire dans une sauteuse avec un corps gras.
membres.lycos.fr/tambouilles/lexiq.htm
ソテー用浅鍋の中で脂肪と共に加熱すること。

faire rissoler un aliment dans un peu de gras, à feu vif.
www.cafa-rcat.on.ca/psa/glossaire.html
強火を使って、少量の脂肪で食品に焼き色を付けること。

Faire dorer dans une matière grasse des aliments.
www.cuisine-martine.com/technique/lexique-q-r-s.html
食品を脂肪と共にこんがりと焼くこと。

Cuire à feu vif des aliments dans la graisse chaude en agitant la casserole. Cuire dans une poêle avec peu de corps gras.
www.artculinaire.ch/voc/index.php4
強火を使って、シチュー鍋を揺すりながら、食品を熱い脂肪と共に加熱すること。フライパンの中で少量の脂肪と共に加熱すること。

Cuire un mets à feu vif avec une matière grasse, en le faisant sauter de temps à autre pour l'empêcher d'adhérer au récipient.
membres.lycos.fr/javelle9/glossaire.html
容器に貼りついてしまわないように食品を時々跳ね上げさせながら、強火を使って脂肪と共に加熱すること。

Faire cuire à feu vif avec un corps gras.
脂肪と共に強火で加熱すること。

当然かもしれないが、パスタに就いての特別なニュアンスが付いた語義は見られない。

なお、「ソテー」の語源として「フライパンで炒めると油が跳ね上がることから言われるようになった」と云う説があるらしいが(「語源由来辞典」)、上記の語釈を見るかぎり、首を傾げざるを得ない。素材を鍋の中で「躍らせる」ことを示していると解釈した方が素直だろう。Wiktionarysauté の項も参照のこと。


脱線ついでに、ラテン語 "saltare" が使われている例を2つ、引用しておく(両者ともオリジナルはギリシャ語だが、おそらくラテン語の表現の方が良く知られているだろう)。ともに、有名な正に「引用句」である。

まづ、「跳ぶ」として使われている例:

Hic Rhodos, hic salta 「ここがロードス島だ。ここで跳べ。」(イソップ)
αυτου γαρ και Ροδος και πηδημα

ネットを調べると分かることだが、"Rhodos" は "Rhodus" とも表記されることがある(他に "Rhodes" と表記されることがあるが、これは現代語なので、問題が別になる)。また、"salta" に就いては "saltus" と表記されている例もある。ただ、この話をしだすと、Desiderius Erasmus, G.W. Friedrich Hegel, Karl Marx と云った面面のラテン語やギリシャ語のリテラシの話をしなければならなく可能性が高い。鬱陶しそうなので、それなりの必要性にせまられるまで手を着ける気はない。

次は、「踊る」:

cecinimus vobis et non saltastis 「われら汝等のために笛吹きたれど汝ら踊らず」(マタイ 11-17)
ηυλησαμεν υμιν και ουκ ωρχησασθε

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2005年6月 4日 (土)

丸谷才一「新々百人一首(下)」(新潮文庫)

「新々百人一首(下)」(新潮文庫 ISBN4-10-116910-1) のブックマーク。

73・91 永福門院(えいふくもんいん)
うれしとも一かたにやはながめらるる待つ夜にむかふ夕ぐれの空

76・40 和泉式部(いづみしきぶ)
黒髪のみだれもしらず打伏せばまづかきやりし人ぞ恋しき

78・72 式子内親王(のりこないしんのう)
わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕

80・34 藤原公任(ふぢはらのきんたふ)
おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らぬ顔なる

84・67 祇寿(ぎず)
難波江の春のなごりにたへぬかなあかぬ別れはいつもせしかど

85・50 源俊頼(みなもとのとしより)
あさましやこは何事のさまぞとよ恋せよとても生れざりけり

97・2 天智天皇(てんぢてんのう)
朝倉や木の丸殿(まろどの)にわがをれば名のりをしつつゆくはたが子ぞ

なお、ニ連の番号の始めは、書中の順番、後ろのほうは、時代順の番号。

「恋」の部中、第七十六首から第七十八首までの三首は、和泉式部、小野小町、式子内親王と続いて、「強打者を並べてみました」と云うおもむきで、厭味ですらある(ちなみに、第七十五首は清少納言であり、第七十九首は伊勢である)が、私としては、永福門院の歌に一番心打たれた。また「女が男を待つ」と云うテーマの「民謡」(「読人しらず」)の実作者の多くが男性だったらしいと云う指摘に注意。

和泉式部は、恋の歌の不動の四番打者とでも言うべきか。丸谷才一は、一首に対する寺田透の解釈を引用して、それに「ことごとく賛成した上で、なほ一つのことを言ひ添へておきたい」と云う形で重大な読み替えを提案している。片口を聞いただけの裁断になってしまうが、丸谷の読みは正鵠を失してはおるまい。

式子内親王の歌に関連して、枕が世界的に呪物であったことの例証としてエゼキエル書を引用したのは、勇み足に近かったろう。丸谷才一が依っているのは、いわゆる文語訳聖書「主ヱホバかくいいたまふ吾手(わがて)の節々の上に小枕を縫つけ諸(もろもろ)の大きさの頭に帽子(かぶりもの)を造り蒙(かぶら)せて霊魂(たましひ)を猟(から)んとするものは禍(わざはひ)なるかな・・・我汝等が用ひて霊魂(たましひ)を猟(かる)ところの小枕を奪ひ霊魂を飛さらしめん我なんぢらの臂(ひぢ)より小枕を裂(さき)とりて汝らが猟(かる)ところの霊魂(たましひ)を釈(はな)ち其(その)霊魂(たましひ)を飛さらしむべし」(エゼキエル第13章第18節及び第20節)だが、これは例えば、新共同訳では「主なる神はこう言われる。災いだ、人々の魂を捕らえようとして、どの手首にも呪術のひもを縫い付け、どんな大きさの頭にも合わせて呪術の頭巾を作る女たちよ。・・・わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために、使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。」

つまり「小枕」ではなく「呪術のひも」になっている。ざっと調べてみると、「七十人訳」や Vulgata, King James Version, そしてルター訳(1545年)では、それぞれ προσκεφαλαια, pulvillos, pillows, Kissen と、確かに「枕」を思わせる言葉が使われているが、日本語の旧口語訳(1955年)の時点で既に「占いひも」になっている。この変化の理由は、私のような浅学なものには不明であるし(マソラ本文の、あるいは כּסתות あたりの解釈の変更か)、また新しい訳の方が正しいとは限らないから、断定的なことは言わないが、それでも、問題のコンテキストでエゼキエルを引用するなら、議論の組み立てを一層周到にすべきだったろう。

藤原公任の一首中「うるまの島」とは鬱陵島のこと。

祇寿は「遊女」。「都で山ばかり見てゐる王朝貴族は、淀川を下つて難波の海を見ることを好んだ。」「ここで逸してならないのは、風光の楽しみのほかに江口、神崎の娼女があったといふ事情である。」「祇寿はおそらく江口か神崎の妓で、難波に同行したのだろう。」「王朝の風俗においては貴顕が遊女を召すことは卑しまれなかったし、母が遊女、白拍子、舞女である公卿も多かつた。」

源俊頼の歌も皮肉な味わいで良いのだが、それよりも、勅撰和歌集の恋の部の掉尾を飾ると云うことで(一首は「金葉和歌集」。ただし、「金葉」は三度奏上されて、ようやく白川院が嘉納。この「三奏本」が「勅撰」の地位を占めたわけだが、恋の部の最後と云うのは、流布した所謂「二度本」でのこと。まぁ、「二度本」にも異本はあるらしいのだが)参考引用されている、古今和歌集の「流れては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中(読人しらず)」や後拾遺和歌集の「しら露も夢もこの世もまぼろしもたとへていはば久しかりけり(和泉式部)」の方が印象に残った。

伝天智御製の解釈で、丸谷才一は、「名のりをしつつゆく」のは、ホトトギスなどの鳥であると主張している。この議論は十分説得力がある。ちなみに、議論に「さ夜ふかみ山時鳥なのりして木のまろ殿を今ぞすぐなる(藤原公行)」を援用していないのは、やや不思議。

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2004年10月 2日 (土)

原子番号 5 硼素 は Pentium

国際純正・応用化学連合(International Union of Pure and Applied Chemistry), IUPACが提案している、組織的元素命名法と云うものがあります

それは、ギリシャ語やラテン語の数詞に由来する語要素

0: nil, 1: un, 2: bi,
3: tri, 4: quad, 5: pent,
6: hex, 7: sept, 8: oct,
9: enn.

を、元素の原子番号を構成する数字通りに張り合わせた上、語尾として -ium を付けると云う、簡明と言えば簡明、乱暴と言えば乱暴な方法です(例外: 1. bi 又は tri の後に ium が続く場合、重なってしまう ii を i 一つにする。 2. enn の後に nil が続く場合、三つ重なってしまう nnn を、二つ nn にする)。

だから、原子番号 111 の元素は、Unununium, 原子番号 224 の元素は、Bibiquadium, 原子番号 900 の元素は、Ennilnilium となる訣です。

この命名法は、命名権論争が起こりうる(原子番号 110 以上の)新元素を念頭に置いたものですが、「組織的」である故に、既に名称が確定している元素にも適用可能です。

でもって、原子番号 5 (まさに、「第五元素」)の [硼素] (B) は、この命名法では何と呼ぶことになるかと云うと、Pentium.

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2004年9月30日 (木)

Pentium と錬金術

以前から、Pentium の語源に錬金術的契機があるのか気になっていたのですが、ネット内 google 検索してもそれらしいことは書かれていませんね。

と、こう書けば、この話は終わりなんですが、それでは無愛想過ぎるので、ヤヤ詳しく書いておきましょう。

では、そもそも、Pentium の語源は、一般にどう説明されているのか、と云うと:

Pentium - Microprocessor from Intel
The fifth microprocessor in the 80x86 series. It would have been called i586 or 80586, but Intel decided to name it Pentium (penta = five) after it lost a trademark infringement lawsuit against AMD. (The judgment was that numbers like "286," "386," and "486" could not be trademarked.) According to Intel, Pentium conveys a meaning of strength "like titanium".
--List of computer term etymologies

Pentium - Intel のマイクロプロセッサ
五番目の 80x86 シリーズ・マイクロプロセッサ。本来 i566 又は 80586 と呼ばれるべきものであったが、Intel が AMD との商標侵害訴訟に敗れた後(判決では、「286」、「386」及び「486」などの数字は商標たりえないとされた)、Intel が Pentium (penta とは「5」の意味)と名づけることに決めた。Intel によれば、Pentium には、「チタン(titanium)」におけるのと同様に強さの意味が込められている。

肝腎の最後のセンテンス、何を言いたいんだか判らない。

Intel のサイトを覗いてみても、「Intel によれば」と云う箇所の裏づけになりそうなことは見つけられなかったけれども、Intel が、それに類するような事を言ったとして話を進めると・・・

Pentium と titanium との共通部分である接尾辞 -ium に関連するのだろうと推測は出来るのですが、だからこそ何を言いたいんだか判らないんです。

チタンと云う金属は確かに、「鉄よりも軽く、強く、そして錆びない」。しかし、同じ接尾辞を持つ金属アルミ(aluminium)だって、鉄より「軽く、そして錆びない」(正確には、錆び、つまり酸化、が内部に進行しないってことなんだろう。でも、これはチタンだって同じことなんじゃないかな)けれど、とても「強い」とは言えないのは、一円硬貨やビールの空き缶の事を考えればそれで十分でしょう。(helium のことは、発見の経緯が例外的だから此処では論じない。)

ここは素直に -ium は、Pentium と云う名称に、[元素な雰囲気] を出すために付けられたと理解すべきでしょう。実際、そう説明している例もある。

Names in the 1990s also need broad consumer appeal. In the 1970s, says Lexicon's Placek, Intel was far from creating a branded microprocessor. By 1993, when Lexicon created the name Pentium as a term to evoke a fifth-generation (pente) chip with resonance as an element (like titanium), Intel leveraged it into a big brand name.
--Name-o-rama: How do they come up with names like Pentium and AirTouch? (By Alex Frankel)

1990年代にあっては、名称も、消費者への広範な訴求力を持たねばならない。Lexicon Branding 社の社長 David Placek によれば、1970年代、Intel 社は、マイクロプロセッサをブランド化することが全く出来なかった。1993年に至って、Lexicon Branding 社が、第五世代(pente)チップに(チタンのような)元素の響きを持たせて登場させるために、Pentium と云う名称を作り出すと、Intel 社は、それを巨大なブランド名に育て上げた。

[[ゑびすや謂う。動詞 'leverage' の用法に注意。文脈上、このくらいの意味だろうと思われる訳を付けておく。ただし、一応裏付けはある。ネット上で使われる jargons を集めた netlingo を参照。]]

と云う訣で、Lexicon Branding のサイトにも行ってみましたが、Pentium の由来に就いて、ここでも分りませんでした(余談: この会社、Apple の PowerBook の名づけ親でもあるらしい)。

ついでに書いておくと、上記 'Name-o-rama' には、Lexicon Branding とは別の手法で商品名・企業名を作り出している会社 NameLab Inc に就いても触れられていて、その対比が面白かった。米国本田の "Acura" や、コンピュータ・メーカー "Compaq" (Hewlett-Packard と合併して、会社が無くなってしまったけれど)が、その「製品」。

ちなみに、Intel では、当初、「第五世代チップ」の新名称を社内公募したらしい。「賞品」は「お二人様、ハワイ旅行にご招待」。でも結局、どれにしたらよいか決められず、Lexicon Branding と NameLab との二社に、応募の審査ともども、別途新名称の提案を発注したとのこと。結局、Lexicon Branding の案が選ばれたのですが、それでも、正解に一番近かった(って、どう云うことだ?)二名は、ハワイ旅行に行けたそうです。そんな事が書いてあるのが、Pentium Name Story

脱線ばかりして申し訳ない。

で、まぁ、もし Pentium の -ium に元素を含意があるとすると、どうなるのかと云うと・・・

その成り立ちからして、"Pentium" には、「五番目の元素」と云う「自然な」意味が発生する。或いは、むしろ、「第五元素」と言うべきか。

ここで、漸く話が錬金術に繋がる訣です。

「第五元素」に就いて説明するのは、煩わしい。と云うか、私は知らない。所謂「四大(地・水・火・風)」の次の、というか、「四大」を超越する五番目の元素。卑金属(特に鉛)を、貴金属(特に金)に変える魔法の [触媒]。人の霊性を高め、不老不死にする「賢者の石」。と、一知半解を並べ立てたところで、捕らえ所がない。泥縄式にネットを漁ってみましたが、少なくとも、日本語の錬金術関連サイトの殆どは、まともに読む気が起こるような内容ではなかった。

それに、いま問題になっているのは、「錬金術」そのものではなくて、現代のアメリカ合衆国社会に落ちている「錬金術」の歴史的な影なんですね。

そのものずばりのタイトルを有する映画 "The Fifth Element (1997)" (邦題も「フィフス・エレメント (これも 1997年公開)」)に於いて、第五元素の具現と云うことになっている Milla Jovovich (as Leeloo) が、

Me fifth element - supreme being. Me protect you.

と言っていました(正確に言うと、TV で聞いたウロ覚えを、今回ネット上で確認した)が、まぁ、そう云う受けとられ方をしているのでしょう。("The Fifth Element" と云う映画タイトルが Pentium に示唆されている可能性も排除できないけれど。)

だから、商品名に纏わせるには、丁度良いオーラだと思ったんですが、結局、Pentium と錬金術との関係は確かめられませんでした。


これまた余談になりますが(初等的な知識を振り回すようで気恥づかしいけれど)、ギリシャ語の πεντε は基数詞、つまり、物が幾つあるかを指定する言葉なんですね。例: 複合語ですが、角が五つある図形、つまり「五角形」は、πενταγωνον となる。

これに対して、何番目に当たるかを示す序数詞では、形は変わって、例えば「五番目の」は πεμπτος と、すこし形が異なる。

なんでこんなことをワザワザ注意したかというと、「第五元素」或いは「第五実体」は、ラテン語では quinta essentia ギリシャ語では、πεμπτε ουσια と、共に序数詞を使っているのです。

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