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『「メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)」』補足

「ココログ」の「アクセス解析」を見たら、最近、このサイトのページ「メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)」を訪問される方が多いようだ。

まぁ、それはそれで良いのだが、実は、あの記事で、私は、当然含めるべき情報を書き洩らすという失態を演じている。脱稿した後も、全く気が付かず、かなり後になってから、予期しないまま、何かのきっかけで、事実を知った。それほど失念していたのだ。

それは、記事中、引用した詩のうちの最後である、菅茶山の詩が、富士川英郎 (ふじかわひでお) の「江戸後期の詩人たち」で取り上げられていることだ (筑摩叢書 [江戸後期の詩人たち] pp.50-51)。

分かる人には分かってもらえると思うが、これは至極ミットモナイ手抜かりで、見過ごしてもらえるものなら見過ごしてもらいたい態のものだ。そして、私は、実際放置してしまった。しかし、この一時期のことであろうけれども、そして、このささやかなサイトの中のランキングとは言え、注目を浴びている以上、当該記事の欠落を補わない訣にはいくまい。

まったく慚愧に堪えない。お詫びして、補足する。本来なら、関連情報を改めて調べ、その結果ともども報告すべきところだろうが、生憎、時間にも気分にも、余裕がない。情報を、そのままのものとして、お知らせする。

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古今亭円菊 [町内の若い衆] における「しかんけの犬」

2012年10月13日に、落語家古今亭円菊が亡くなって、既にほぼ一か月が過ぎてしまった。と、事ごとしく書いたが、円菊さんに就いては、テレビ番組で噺を一・二度聞いたことがあるような記憶がうっすらとあるばかり。後は、やはりテレビか新聞かで、自らの師匠である古今亭志ん生の逸話を聞いたか読んだような気がする。

志ん生は、茶わんに盛った御飯に焼酎を掛けて、茶漬のようにして掻き込んでいたと云うことを聞いたことがあるが、これは円菊さんから仕入れたのかもしれない。何れにしろ、『飲まば焼酎・死なば卒中』と豪語していた志ん生らしい逸話ではある。

それだけの縁しかないのに、なぜこの文章を書き始めたのかと云うと、随分昔に、古今亭円菊の高座で、かすかながらも気になった [言葉尻] があるからだ。「テレビ番組で噺を一・二度聞いたことがあるような記憶」と書いたばかりで胡乱なことを言う、と思われそうだが、実は、彼の高座の口述筆記なら、読んだことがあるのである。

角川文庫に、落語協会が編集した [古典落語] と云う10冊組みの、タイトル通り、古典落語の口演を書き起こしたものが収められている。10冊中初めの2冊は「艶笑・郭ばなし」が充てられているのだが、第2冊の3話めが、円菊師匠演じるところの [町内の若い衆] と云う噺なのだ。

所謂 [艶笑ばなし] に分類されていて、類話と云うことになっている落語 [氏子中] は、1941年10月に、高座に載せることが自粛された53種 (所謂「禁演落語」) のひとつである。私には確認できなかったが、[町内の若い衆] も口演が自粛された可能性が十分あるだろう。事実、現在では、[町内の若い衆] は「かっての禁演落語」として扱われているようだ。

私は落語の [氏子中] を聞いたことはなく、また口演の筆記も読んだことがない。従って、以下の議論は、サイト [落語あらすじ事典 千字寄席] 中の項目 [氏子中(うじこじゅう)] に示された概況に拠るので、自分でも心もとないところがあるのだが、それを留保しつつ断ずるなら、[氏子中] と[町内の若い衆] では、サゲの発想が同工であるとは言え、物語の構造が異なっているのだ。

[氏子中] は、確かに所謂 [バレ噺] だが、[町内の若い衆] は、バレるのはサゲだけで、基本は「真似そこない」型の笑話と看做せる。実際、円菊版の [町内の若い衆] のマクラは、次のような典型的な「真似そこない」話である。

 一席ごきげんをうかがいます。
 ええむかしからこのう、付け燒き刃ははげやすいなんてえことを申しまして、とかくこのう人まねというもんは、これはうまくいくもんじゃございませんよ。まあ、でもむかしは、このう、夏の暑い盛りに甘酒(あまざけ)を売って歩いたなんという商売がございます。
 「あまあーい甘酒ェ」
 「おっ甘酒屋!」
 「へえい」
 「あついかい?」
 「へえい、あつうがんす」
 「じゃ日陰歩きな」
 「ばかにしてるなあの野郎」
 なんてんで、甘酒屋をからかって……。これをそばで聞いていたのがわれわれ同様というのか、少々ぼうーっとしてやつで、
 「旨(ンま)いこと言いやがるなあの野郎、『甘酒屋、あついかい』ってやがる。『おあつうござんす』と言ったら日陰歩けって、ふふん、おれもからかってやれ」
 なんてよしゃいいのに
 「あまあーい甘酒ェ」
 「おいっ、甘酒屋!」
 「へえい」
 「あついかい?」
 「いいえ、飲みごろです」
  「ん、フッフ一杯くれ」
  なんてんでね、逆に飲まされちゃったりなんかしまして……。
  とかくこの人まねというものは、これァうまくいくもんじゃございません。
--[古典落語〈2〉艶笑・廓ばなし 下] (東京。角川書店。角川文庫 1974年) pp.44--45
なお、ここにリンクを付けたアマゾン出品のものは1980年刊。1974年のものを復刊したものか?

また、構造的に、わかりやすい相違点を指摘しておくと、[氏子中] では、女性主人公の妊娠が冒頭から明らかにされて、そこから物語が展開していくのだが、[町内の若い衆] では、女性主人公の妊娠は、物語の完結に直結する最後の段階で明らかにされる。

ちなみに、[落語あらすじ事典 千字寄席] でも項目 [町内の若い衆(ちょうないのわかいしゅう)] の解説で「別話」であると指摘されている。

[落語あらすじ事典 千字寄席] の [氏子中(うじこじゅう)] に従うなら、落語 [氏子中] の現在知られている最古の原話は、正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集「新話笑眉」中の [水中のためし] だと云う。この [水中のためし] が、その後半世紀経った宝暦12年(1762)刊の「軽口東方朔」巻二 [一人娘懐妊] 等、多くの模擬作品を産んで、その後の落語 [氏子中] につながったと云うことらしい。

ただ、ここで注意しておくなら、女性主人公は [水中のためし] では「下女」であり、[一人娘懐妊] では (私は、概況でさえ不承知なのだが、タイトルからホボ確実に) 「娘」であることだ。「物語」の層では「下女」はカテゴリとして「娘」であるから、笑話と落語 [氏子中] とでは物語としての「風合い」がかなり異なっている。議論を単純化しすぎであることを認めつつも、対比すると、笑話では「娘と後家は若衆のもの」を連想させるような、古代的な、更には、聖婚にまで遡りえるような神話的背景が感じられるのに対し、落語では、せいぜい中世以降、多分に近世的な、それも都市生活者間における cocuage が物語の要になっているからだ。

ただ、ここで実時代における「古代/近世」の対立に固執するのは意味がない。例えば、江戸時代、佐久間某の「下女」であった [お竹] が大日如来の化身であったと云う逸話に、川柳作者たちの間で「町内の若い衆」と同系の神話性が付与される機微を、石川淳は、その [江戸人の發想法について] で鮮やかに指摘している。

  佐久間の下女は箔附のちぢれ髪

  裏に來てきけばをとつひ象に乘り

 お竹大日如來のことは民俗學のはうではどうあつかふのか知らない。某寺の聖のはなしとか流しもとの飯粒を大切にするはなしとかがこれに關係づけられてゐるやうである。しかし、この風變りな如來縁起が市民生活の歴史のなかでいかなる關係物によつて支へられてゐるにしろ、前もつて能の江口といふものがあたへられてゐなかつたとすれば、すなはち江口に於て作品化された通俗西行噺が先行してゐなかつたとすれば、江戸の佐久間某の下女が大日如來の化けるといふ趣向は發明されなかつたらう。江口の君が白象に乘つて普賢菩薩と現じたといふ傳承は前代から見のこされて來た夢のやうなものだが、江戸人はその夢を解いて、生活上の現實をもつてこれに對應させつつ、そこにまたあらたなる夢を見直すことを知つてゐた。そして、かういふ操作がきはめてすらすらおこなはれてしまふので、それがかれらの生得の智慧のはたらきであること、同時に生活の祕術であることを、江戸人みづから知らなかつた。後世が作為の跡しか受け取らなかつたとすれば、當の江戸人はそのとほり駄洒落さと答へてけろりとしてゐるであらうが、じつは後世がむざむざとかれらの智慧にだまされてゐるようなものである。お竹大日如來の場合は、文學のはうではたまたま川柳の擔當になつてゐるので、後生の文藝批評家はなるべくこれをやすつぽく踏み倒すことによつて自家の見識を示さうとする。われわれは、その見識の高下をしらない。
 箔附のちぢれ髪といふ。おもての意味は明かに佛菩薩の螺髪のことをいつてゐる。しかし、箔附のとは、れつきとした、極めつきの、例のあれさ、といふ意味でもある。すると、ちぢれ髪とは何か。按ずるに、ちぢれ髪の女は情が濃いといふ俗説を踏まへてゐるのだらう。ここで「こなたも名におふ色好みの、家にはさしも埋木の、人知れぬことのみ多き宿に」といふ江口の本文をおもひ出しておいてよい。江戸の隠語に、來るもの拒まない女のことを、醫者の慣用藥にたとへて、枇杷葉湯といふ。お竹はけだし枇杷葉湯なのだらう。お竹とはかならずしも佐久間家の婢にはかぎるまい。市井の諸家の臺所に多くの可憐なるお竹がゐて、おそらくは時に町内の若者を濟度することを辭さなかつたのだらう。すなはち見立江口の君である。おろかな、たわいない、よわい女人はここにまで突き落とされたかと見るまに、一轉して後シテの出となる。臺所は「世をいとふ人とし聞けば假の宿に心とむなと思ふばかりぞ」といふ假の宿である。また「惜しむこそ惜しまぬ假の宿」である。すでにして、お竹は「これまでなりや歸るとて」白象に乘つた遠い普賢像であつた。その姿の消えた後に、裏に來て安否をとふものは、かならずやかつて濟度をかうむつた町内の若者の一人なのだらう。憶測をたくましくすれば、この相手方もまた一所不住の浮かれもの、見立西行といふこころいきであらうか。
--[文学大概] (東京。中央公論社。中公文庫 1976年) pp.74--76
--[石川淳選集 第14巻 評論・随筆 4] (東京。岩波書店。1980年) pp.173--174

しかし、現状では考える材料が調えられないので、これ以上、あれこれ頭をひねっても仕方がない。本題に入ろう。

角川文庫版の [町内の若い衆] には、次のようなくだりがある。

「なにを言ってんだい、夫が聞いてあきれるよ。[おっとおっと] って言いやがって、その下に [どっこい] をつけてごらん」
「おっとどっこい……なに言ってんだ、畜生め、ええ、いまなあ、ええ、感心しちゃったんだ、おらあ」
「なに言ってんだあ、感心しちゃ首曲げてやがらあ。しかんけの犬」
「なんだい、しかんけの犬てえのは」
「首を曲げてばかりいるからだよう」
--[古典落語〈2〉艶笑・廓ばなし 下] (東京。角川書店。角川文庫 1974年) p.49
上記引用文で [ と ] とで囲んで在る部分は、原文では「丶」による強調がされている。また、ここにリンクを付けたアマゾン出品のものは1980年刊。1974年のものを復刊したものか?

最初この部分を読んだ時、私には「しかんけの犬」が何を指しているのか分からなかった。そして多分、江戸時代、又は、かっての東京で使われていた「悪態」の一つなのだろうと思ったのだった。

しかし、その後、「町内の若い衆」を別のテキストを読んだ時に、上記引用文では「しかんけの犬」となっているところが「蓄音機の犬」といるのを読んで、自分の勘違いに気が付いた。「首を傾げた」仕草を、音楽レコードのブランドである HMV (His Master's Voice) の商標である犬「ニッパー (Nipper)」になぞらえたのだ。

ただ、「ちくおんき」が「しかんけ」になるのは、[江戸/東京弁] としても、やや特異であるかもしれない。

私自身、東京で生まれ育った人間で、例えば、子どもの頃、夏場に近所の友達と水の掛け合いをしていて、その友達に、水を浴びせた瞬間「シャッケー、シャッケー」と叫ばれた経験がある。その時、私は「『鮭』がどうしたのだろう」と不思議に思うばかりだった。東京近辺だけのことか、それ以外に拡がりがあるか承知しないが、取り敢えず、私の身の回りでは「酒」は「さけ」だが、「鮭」は「しゃけ」だったのである。勿論、「鮭」を「さけ」と呼ぶこともあって、しかも「酒」の「さけ」と、「鮭」の「さけ」とはアクセントが異なるから、混同はしない筈なのだが、私なぞは、子どもの頃、塩を吹いて真白になった中に赤くて堅い切り身が隠れている形で食膳に載る魚は「しゃけ」だと思いこんでいたし、また今でも「鮭」は「しゃけ」でないと、微妙な違和感がある。

勿論、「シャッケー」は「冷やっこい」の訛りである。実際の転訛の変遷を私は知らないが、図式的には「ひやっこい → しゃっこい → しゃっけー」と考えられる。ただ、当時小学校低学年だった私は「冷やっこい」と云う言葉を知らなかったから (家庭内でも使っていなかった。使っていたのは「つめたい」か、「つべたい」だった。もっとも、私の母親は家庭内では、しばしば「おべたい」などと言っていたが、これは、おどけて幼児語化していたのだろう)、連想の浮かびようもなかったのだ。

もっとも、「シャッケー」そのものも、本来は幼児語だった可能性はある。何故なら、江戸時代の江戸では、町内を廻って水を売る商売 (所謂「ボテフリ」の「水売り」) があったが、それは2種類に分けられて、日照りで井戸枯れの時、取り敢えず必要になる飲料水を売り歩く種類と、現在で言う清涼飲料水を扱う種類があった (砂糖を溶かしたり、白玉を加えて売られたらしい) が、少なくとも、この [清涼飲料水] タイプの方の売り声が「ひゃっこいひゃっこい」だったからだ (従って、彼らは「ひゃっこい」とも呼ばれた)。細かく言うなら、文字どおり「ひゃっこい」と発音されていたと云う保証はないかもしれないが、順当に考えるなら、[大のおとな] は、少なくとも、その気になれば、「ひゃっこい」と言えたし、実際にそう発音していたと云うことなのだろう。

後ればせながら断わっておくと、私は自分が所謂「東京弁」を常用しているとは思っていない。「ひ」と「し」の使い分けに難があるだけが、微かにそれらしいだけで、取り立てて「某某弁」と呼べるような特徴のある話し方はしていない筈である (「まっつぐ」なんて言わないよ。「まん真ん中」も余り使わないな。逆に、関西由来と思われる「ど真ん中」は、時どき使っているかもしれない。一番使っているだろうのは、無印の「真ん中」)。実際に聞いてみるならば東京弁使用者を認識することはできる気がするが、「この人は東京弁を使っている」と感じる実体験は滅多にない。それが、東京弁ネイチブ・スピーカーが絶滅危惧種であるためか、私の東京弁認識能力が似非なのか、なんとも言えないだろう (「両方」と云うこともある)。だから、この記事に書いてあることが基本的に間違っている可能性さえあるのだ。

そう断わっておいて、改めて設問すると、で、「ちくおんき」が「しかんけ」になったのは、どう云うことなのか?

実は、この稿を書き始めるまでチャンと考えたことがなかったような気がする。円菊さんが亡くなったから思い出したので、普段は忘れていたからだ。

円菊さんは、当然、この噺を、師匠の古今亭志ん生から受け継いだのだろう。事実、志ん生には(七代)金原亭馬生時代に吹き込んだ「氏子中」のSP盤レコードがあるというが、その内容は、通常の「氏子中」(落語) ではなく、むしろ「町内の若い衆」であると云う。

円菊さんの口演では、静岡茶を褒めるクダリがあって、これは静岡出身である円菊師匠が付け加えたのではないかと思われるが、そのように、全てが志ん生譲りとは言えなかろう。「ちくおんき」が「しかんけ」に変わるに就いては、志ん生、円菊、原稿作成・校正者の3つのレベルが関わりうるのだ。

東京で育った人間なら、例えば「文字焼き (もんじやき) → もんじゃき → もんじゃ」と云う転訛が、ごく自然に受け入れられる。同様に、「蓄音機 (ちくおんき) → ちこんき」と云う転訛なら、当然そう云うこともあるだろう、と、納得できる (「ちこんき → ちこんけ」と云うのもありうるのではないか)。

この原稿を書きだしてから、思いついて google 検索してみて気付いたのだが、「しかんけの犬」や「シカンケの犬」では、現時点で1件もヒットしないが、「チコンキの犬」なら多数ヒットする。

「ちこんき → しかんけ」が、円菊さんの聞き間違え・言い間違えや、原稿作成・校正者のミスと云う可能性も勿論ある。しかし、私は、志ん生師匠自身が、円菊さんの前で「しかんけ」に聞えるような発話をしていたのではないかと思うのだ。「だから何なのだ」と言われると、それまでなのだが。。。

古今亭円菊と同日に、丸谷才一も亡くなった。私はこのブログで、2008年3月頃、彼と大野晋との対談 [日本語で一番大事なもの] 中で取り上げられた引用文に就いての記事を数多く書いているが、その際、肝腎の書名を書きあやまると云う大失態を犯してしまった。その訂正かたがた、必要ならば、記事への補足、又は瑕疵の点検と訂正を行ないたいと思っていたが、全く手つかずのまま、2008年7月の大野晋の死去に続いて、丸谷才一まで鬼籍に入ってしまった訣で、自らの怠惰に忸怩たらざるを得ない。

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メモ:高田衛「国文学者の想像力」(日本經濟新聞 2006年6月3日)

日本經濟新聞 2006年6月3日 (日) 第45378号第32面 (文化) に掲載された、高田衛 (たかだ・まもる) 「国文学者の想像力」は読み応えがあった。

文化五年 (1808) 年正月下旬、時の勘定奉行 [松平信行] (1746--1821)が、身分を隠して、飯田町中坂 (現在の千代田区九段北辺り) に住んでいた [滝沢馬琴] (明和4年6月9日/1767年7月4日--嘉永元年11月6日/1848年12月1日) を突然訪問したが、馬琴は不在だった。訪問者は、懐紙に次のようにしたためて、馬琴の妻 [お百] に托す。

実は、松平信行は、かって元服前の馬琴が仕えていた主人だったのだ。しかし、彼は、父の死去に際して俸禄を半減した主家に落胆した兄が主家を去ったために家督を受け継いだものの、信行の子 [八十五郎] の横暴な振る舞いに堪え兼ねて十四歳の安永9年 (1780年) 十月に主家を退転してしまっていた・・・

  木がらしに
  思ひ立ちけり神の旅

といひし言の葉のむなしからで、今は東都にその名高し。

  名のらずに
  しる人ぞしる梅の宿

 

[ゑ]付言:「木枯らしに」云々は、滝沢少年が主家を脱走した際に、自室の障子に書き残した訣別の辞。

28年の歳月の後、かっての小身旗本は違例の出世を遂げて勘定奉行として幕府の中枢にある一方、その児小姓 (元服前の小姓) は、江戸で隠れもない戯作者に変身していた。

松平信行の行動は、今で言う「著名文化人」となっていた、過去の出奔者滝沢某に対して関係修復を図り、あわよくば、自家に取り込もうとする底意があったのだろう。それに対して、馬琴は一度は主家で催された小宴に伺候したものの、それ以降は息子を代理に立てて、自らは主家に赴くことは無かったと云う。

高田衛は、文章をこう結んでいる。

旧主家に対する敵愾心と、旧主家筋の権力性の対する誇りとの、隠された両義的な心情が、この戯作者の、『南総里見八犬伝』をはじめとする天下国家に立ち向かう物語の数々の見えない背後にあるように思われるのである。

老いた国文学者の想像は拡がる一方である。

 

[ゑ]付言:「旧主家筋の権力性」とは、松平信行の本家の当主が、天明から亨和、そして文化年間死去するまで老中として権勢を揮った [松平信明] (宝暦13年2月10日/1763年3月24日 -- 文化14年8月16日/1817年9月26日) を念頭に置いている。そして、高田衛は、松平信行の滝沢馬琴訪問の影に、この松平信明か、或いは、[根岸鎮衛] --[耳嚢] の著者-- の存在を推定している。

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埼玉県越谷市 [慈眼寺] の地口行燈

もう一昨日になってしまったが2011年8月16日の [@nifty:デイリーポータル Z] の 記事 [お寺プロレスに行ってきた] ([大坪ケムタ] ) で、埼玉県越谷市の [慈眼寺] (埼玉県越谷市 大字大泊104番地) で行なわれた「お寺プロレス」が紹介されていた。

その概括的情報に就いては [8月7日はお寺プロレス!|プロレス文藝] から得られるし、また、その内容の詳細は大坪さんの上記記事そのものに依っていただきたいが、実は、私が一番興味深く思ったのは、「プロレス」ではなくて、慈眼寺の「お祭り仕様」の一例として取り上げられていた、大坪さんの言う所の「あちこちに貼られたむだ絵風な何か」であり「なんとなく風流ではあります」と形容されている [地口行燈] (地口行灯) だった。

「地口行燈」に就いては、都筑道夫が [なめくじ長屋捕物さわぎ] 中の一篇「鶴かめ鶴かめ」の中で、次のように叙述している。

 親方がいうと、行燈に地模様を書いていた職人が、立ち上がって、奥の障子をあけた。下駄常とセンセーが入ってみると、八畳の座敷が、行燈で埋まっていた。行燈は上のほうに、地模様だけが書いてある。波を逆さにしたような、というか、雲がたれさがったような模様で、甕だれ霞 (かめだれがすみ) という。それが、赤と紫とで二段、さっと刷毛でなすってあって、もう乾いていた。

畳のあいてあるところには、赤い毛氈が敷いてあって、二十五、六の女がその上で、墨と朱と緑の皿をわきに、行燈を前において、絵を書いている。墨の筆で、いま書きおわったのは、大きな口をあいて、だんごを食っている男の絵だった。顔じゅう口のようで、だんごがひとつ残った串のさきが、頬をつらぬいている。次の余白に、

   だんご食ふ口に串の槍

と、女は書いた。センセーは微笑して、

「ふむ『三国一の富士の山』か。ちと苦しいが、絵は面白いな。ひと筆がきのような略画なのに、ちゃんと動きがある」

--光文社時代小説文庫 [いなずま砂絵] (都筑道夫。pp.14-15)

慈眼寺の地口行燈は (変体仮名を現代風のかなになおして書くなら)、「小鬼ハッテすべってころんだ」(左)と「ほおづきさまいくつ」(右) とで、出典は、ともに古童謡の「お月さま幾つ」であって、岩波文庫の [わらべうた] にも所収されている有名なものだ (「センセー」の顰みに倣えば、どちらも「ちと苦しい」)。ただし、岩波文庫版では「ほおづきさまいくつ」の元になっている「お月さま幾つ」が、「お月さん幾つ」になっているのはともかく、「小鬼ハッテすべってころんだ」の「小鬼ハッテ」の元である「氷張って」が欠けている (註では、江戸時代の学僧 [釈行智] の [童謡集] に「油屋の縁で、氷がはつて」と云う例が見られることが指摘されている)。

ちなみに、「小鬼」の方は、東京都小平市の [Japan 小平グリーンロード 灯りまつり] でも、そっくりの物が飾られている。

[釈行智] の [童謡集] に収めれていることから分かるように [お月さま幾つ] は、少なくとも江戸時代に遡れる童謡で (北原白秋が作者だとクレジットしている記事がネット上で見られるが、白秋は採録・編集しただけだろう) 日本各地でヴァリアントがあるようだ。しかし、ネット上でザッと調べてみたが、「お月さま幾つ」と「氷張って滑って転んで」とを両方含む例が見つからなかった。あるいは、[釈行智] の [童謡集] のものが、そうなのかもしれないし、また、埼玉県越谷市に、そうした例が存在するのかもしれないが、それも確認できなかった。

仕方がないので、取り敢えず、[青空文庫] から北原白秋採録のものを引用すると

お月 (つき) さまいくつ。
十三 (じふさん) 七 (なな) つ。
まだ年 (とし) や若 (わか) いな。
あの子 (こ) を産 (う) んで、
この子 (こ) を産 (う) んで、
だアれに抱 (だ) かしよ。
お万 (まん) に抱 (だ) かしよ。
お万 (まん) は何処 (どこ) へ往 (い) た。
油 (あぶら) 買 (か) ひに茶 (ちや) 買 (か) ひに。
油屋 (あぶらや) の縁 (えん) で、
氷 (こほり) が張 (は) つて、
油 (あぶら) 一升 (しよう) こぼした。
その油 (あぶら) どうした。
太郎 (たろう) どんの犬 (いぬ) と
次郎 (じらう) どんの犬 (いぬ) と、
みんな嘗 (な) めてしまつた。
その犬 (いぬ) どうした。
太鼓 (たいこ) に張 (は) つて、
あつちの方 (はう) でもどんどんどん。
こつちの方 (はう) でもどんどんどん。
(東京)
--北原白秋 [お月さまいくつ]
また[NPO法人日本子守唄協会] では山口県玖珂郡錦町に伝わる [お月さんなんぼ] が見られるが、これは「氷がはって、すべってころんで」を含んでいる。
お月さんなんぼ
玖珂郡錦町

お月さんなんぼ 十三七つ
まだ年ゃ若いの
あんな子を産んで この子を産んで
誰に抱かしょ お万に抱かしょ
お万どこ行った 油買いに茶買いに
油屋の縁で 氷がはって
すべってころんで 油一升こぼして
太郎どんの犬と 次郎どんの犬が
みんな なめてしまった
その犬どうした 太鼓の皮にはって
あっち向いて どんどこどん
こっち向いて どんどこどん
--NPO法人日本子守唄協会 [子守唄 - お月さんなんぼ] - 玖珂郡錦町

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謡曲 [熊野] の一節

今日昼過ぎ (2010/12/30 12:57)、キーフレーズ [作者 いかんせん都の春も惜しければなれし東の花や散るらん] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

お節介ながら申し上げると、「いかにせむ都の春も惜しけれどなれし東の花や散るらむ」あたりで検索しなおされた方が良いのではないか。特に「惜しければ」では歌意が通じがたい。ここは「惜しけれど」でなければならないところだ。

勿論、謡曲 「熊野 (ゆや)」の一節であることは言うまでもない。

--2011-01-03 [月]
前回のポストは取り急ぎ書いたので、不十分だった。若干補足する。

謡曲 [熊野 (ゆや)] では、熊野はシテであって、遠江の國池田の宿の長の遊女と云うことになっている。それをワキである平宗盛が都 (みやこ) に引き連れて行って留めている。熊野は老母が病身であるので帰郷したいのだが、宗盛は熊野に都の桜花を共に見ることを求めて、許さない。そこに、熊野の母親の病が重篤となったとの報せが届く、と云うのが問題の和歌の背景になっている。

シテ: 春雨の、降るは涙か、降るは涙か桜花。散るを惜しまぬ人やある。
ワキ: 由ありげなる言葉の種取り上げて見れば、いかんせん、都の春も惜しけれど
シテ: 馴れし東の花や散るらん
ワキ: げに道理なりあはれなり、はやはや暇取らするぞ東に下り候へ
シテ: なにおん暇と候ふや
ワキ: なかなかのこと、疾く疾く下り給ふべし
シテ: あら尊やうれしやな、これ観音のご利生なり
--岩波書店 [日本古典文学大系 謡曲集 下] p.381
[岩波新日本古典文学大系 謡曲百番] も部屋の何処かに有る筈なのだが、出てこないので、こちらから引用した。

つまり所謂 [割科白] なのである。

これに対し、謡曲 [熊野] のもとになった平家物語では、一ノ谷の合戦で捕虜となった平重衡 (たいら の しげひら) が、源頼朝 (みなもと の よりとも) の要請に従う形で鎌倉へと梶原景時 (かじわら かげとき) により護送される途中、池田の宿に留まった時に、そこに侍った「宿の長者、ゆやがむすめ、侍従」が重衡に歌を献上し、彼がそれに応答したと云う箇所 ([平家物語 巻第十 海道下り]) があることは、このブログの [故郷も恋ひしくもなし旅の空みやこもつひのすみかならねば] (2008年3月18日[火]) でも引用している通りだが、その引用箇所は、こう続いている:

中将、「やさしうもつかまッたるものかな。此歌のぬしは、いかなる者やあらん」と御尋ねありければ、景時畏ッて申しけるは、「君は未しろしめされ候はずや。あれこそ八島の大臣の、当国のかみでわたらせ給候し時、召されまゐらせて、御最愛にて候しが、老母をこれに留め置き、頻りにいとまを申せども給はらざりければ、ころはやよひのはじめなりけるに、

  いかにせむみやこの春もをしけれどなれしあづまの花やちるらむ

と仕て、いとまを給ッてくだりて候し、海道一の名人にて候へ」とぞ申しける。
--岩波文庫 [平家物語 (四)] p.54
(「八島の大臣」とは平宗盛のこと)

とあって、[ゆや] と云うのはむしろ「老母」の名前なのである。そして問題の歌は、[ゆやがむすめ、侍従] が詠んだことになっている。

こうして比べてみると、[話の出来] としては平家物語の方が良くできているし (「老母」が重態であると云う帰郷理由の合理化がない。彼女は単に「母の顔が見たい」のだ)、また、割科白にするような歌ではないから、侍従一人が詠んだとした方が歌意も深くなる。


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メモ:泡坂妻夫「11枚のとらんぷ」の一節。「・・・には及びもないが、せめて成りたや・・・」に就いて

泡坂妻夫の [11枚のとらんぷ] (創元推理文庫) 第4章「蚤の市--三階ロビー--」はこう終わっている。

「ナポレオンには及ばないが、せめてなりたやお桂ちゃん---」
泡坂妻夫 [11枚のとらんぷ] (創元推理文庫) p.273

これは、[牧桂子] と云う「商社勤めの若い女性」に対して [品川橋夫] と云う「警察病院の外科医」がかけた言葉である。二人ともアマチュアのマジシャンなのだが、そもそもが、この推理小説の殆どの登場人物はマジシャン、更に、その多くが、牧・品川を含めて、 [真敷市] と云う地方都市の奇術愛好家が作っている [マジキ クラブ] の一員と云う設定になっている。そして[マジキ クラブ]の一人が殺される。「では犯人は・・・」と云うフーダニット物に [11枚のとらんぷ] はなっている訣だ。

その後の展開は、事件が発覚する直前に受けていた、東京で開催の「世界国際奇術家会議」への招待に応じて、[マジキ クラブ]の残りの12人が参加する (その最終日に事件の真相が明らかとなるのだが、それはサテ措き)。すると、全員寝る間も惜しんで、様ざまな催し・物販購入・交友に夢中になってしまう。特に、牧桂子は参加者兼接待係として多忙を極める:

桂子はへとへとになると、自分の部屋に戻って、三十分も寝るのである。そして熱いシャワーを浴びるとしゃきりしてしまう。
「さすがだなあ、若さだなあ」
品川はプログラムと一緒に付いていた栄養剤を飲みながら讃歎した。
泡坂妻夫の [11枚のとらんぷ] (創元推理文庫) p.272-p.273

とあって、上記の引用部分に繋がる。

しかし、この「・・・には及ばないが、せめてなりたや・・・」の使い方は「ビミョー」と言わざるを得ない。

「(甲) には及びもないが、せめて成りたや (乙)」と云うコロケーションにあっては「乙」は、ある分野で衆目の認める「第一位/最高峰/典型」でなければならないからだ。「最高」を引き合いに出して、それを凌ぐと言ってしまえるほど程度が甚だしいと云う「物の譬え」なのだ (実際に「最高」を超えているかどうかと云う穿鑿は無意味なのである)。

よく知られいてる例としては、出羽庄内藩本間家の財力に就いて謡われた

本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に

がある。更に、次のようなものもあるらしい。

  • 田沼意次が治めた (善政を敷いたと言われる) 遠江相良藩には「田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様」(「公方」とは勿論徳川将軍のことである)
  • 江戸時代から明治時代にかけて佐賀県で捕鯨業を営んだ中尾家については「中尾様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」

従って、 [11枚のとらんぷ] においても

「お桂ちゃんには及びもないが、せめてなりたやナポレオン---」

とした方が、少ない睡眠時間で活躍している牧桂子に対する品川橋夫の感嘆が的確に表現できただろう。

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韓国語 「물」(水)

昨日午後 (2010/11/06 13:06:48)、キーフレーズ [水を韓国語で何と書く?] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだ。

このサイトでクドクも書いているように、こう云う場合、取り敢えずは日本語版ウィキペディアの該当項目があるかどうか調べて、ある場合には、そのページ (今は []) を開き、そこから対応する韓国語 (한국어) ウィキペディアのページに飛べば、そのタイトルが求める情報の重要な候補になっている。

で、[] の場合は [] が得られる訣だが、これは確かに [水] の意味がある。

言葉の意味は文脈に依存するので、これだけが正解と云うような物はないが、取り敢えずは、これで以って回答としたい。

なお、「물」をカタカナ化すると「ミル」 「ムル」 (2011-02-06 [日] 07:48 訂正補足:タイプミスをしていた。お詫びする。) になる。岩波古語辞典は [みづ] の項で、日本語の「みづ」(歴史仮名遣ひ。現代文なら勿論「みず」」) と「물」は同源であるとしているが首肯できる。

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メモ: xyzzy の KaTeX モード。特に katexmth.l に就いて

かなり大きな tex ファイルの編集をし始めたので、TeX システムを更新し、合わせて、xyzzy に KaTeX モード (Thu Oct 11 2008 Version 1.67.1.12) をインストールした。

「や、此は便利だ」と下中濔三郎ばりの台詞を呟きたくなるほど、入力が楽だ。

しかし、便利な分だけ、瑕疵が、と言うか、私の「癖」との相性が気になる (KaTeX の使いやすさの一部は、私の癖を覚えさせた xyzzy 上で動くことによっている)。

で、まぁ、どこが不満かと云うと、取り敢えずは、数式モードで ;l と入力すると \ell と変換されることだった。これは dvi ファイルでは、所謂「リットルのエル」に変換される。スクリプト体のエルなど、あまり使うことはないと云う気がするので (大体、小学校の算数の教科書で最初に出会った時に感じた、前後の書体とそぐわない気持ちの悪さが忘れられない)、ここは \log が出るようにしたいと思ったものだった。

何とか直せないかな?

しかし、少し調べてみると、そして、もっとも直接的には katexmth.l の中を覗いてみると、【イメージ補完の追加方法】と云うコメントがあった。曰わく:

;;;	  標準のイメージ補完では、「;」で始まる数式記号補完と、「:」で始
;;;	まるギリシャ文字補完が使用可能ですが、これ以外の文字で始まる補完
;;;	シリーズも定義することができます。例えば、「,」で始まる次のよう
;;;	な補完シリーズを定義する場合を考えてみます。

で以って、そこに書いてあることに従って .xyzzy に

; 関数補完
(setq KaTeX-math-funcs-list
      '(("l"	"log")
	("as"	"arcsin")
	("ac"	"arccos")
	("at"	"arctan")
	("ch"	"cosh")
	("ln"	"ln")))

;補完用変数の登録
(setq KaTeX-math-key-list-private
      '(("," . KaTeX-math-funcs-list)))

と追加してみたのだが、何も起こらない (katexmth.l には「これらを ~/.emacs に書いておけば、math-mode で自分専用のイメージ補完が利用できます」とあるが、ここは断然 ~/.emacs を ~/.xyzzy と読み替えるべしだろう)。

結局、「;l で \log を出させる」その他の、私好みへの変更は、katexmth.l 内のリストを修正することで済ませたが、何となく釈然としない気分だ。「どこが悪いのかなぁ」と思いつつも、原因を特定できないでいるので、時々、ネット内を参考となる情報を求めてウロウロする (そう言えば、[ユーザー辞書] が出来ているのか出来ていないのかハッキリしないのも気にかかっている)。

そうしているうちに、KaTeX の親ソフトである YaTeX に就いて、以下のような注意に出会った。

§8 yatex/yatexmth.el について注意すべきところ
\bigtriangleup に対応するキーの /\- は /\\- の間違いじゃないかと思う。なぜなら /\- のままだと \leftharpoonup のキーである /- と衝突してしまうから。よって必要ならソースを修正して使ったほうがよい。
--YaTeX マニュアル

「あぁなるほどね」と思ったので、私の katexmth.l も修正した。

どうでもいいことなんだが、ついでなので書いておく:

YaTex と KaTex はひらがなで「やてふ」・「かてふ」と表記されたりする。ま、これ以外のひらがな表記はあり得ないだろう。で、これに漢字を当てて、「野鳥」・「花鳥」が使われていたりするのだ。

何らかの諧謔であるのだろうから、小言幸兵衛ばりに目くじらをたてるは薄みつともないとは思うのだが、「野鳥」・「花鳥」の「歴史仮名遣ひ」は「やてう」・「くわてう」であって「やてふ」・「かてふ」ではない。

「野鳥」はともかく、「花鳥」は「花鳥風月」という成句があるくらいで、人口に膾炙した表現なので、やや気になるのだ。

そう言えば、江戸時代の吉原に「花鳥」と云う花魁がいたそうな。自らの見世に火を放って捕えられ、当然火焙りになるところを、何故か八丈島に流されたのだが、その八丈から、佐原喜三郎らと「島抜け」をして (八丈島からの島抜けのたった一つの成功例の由)、挙げ句、再度捕えられて、山田浅右衛門に首を刎ねられたと云う。(岡本綺堂に「大阪屋花鳥」の一篇がある。[花鳥] は、子母沢寛の「真説・"座頭市"物語」の中でも触れられている。)

「てふ」に漢字を当てるなら、取り敢えずは「蝶」かなぁ。安西冬衛に [春] と云う一行詩があるのは良く知られている。



てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

--安西冬衛/[軍艦茉莉] (1929)

でも、「か」には、巧い言葉が思いつかない。「佳」とか「夏」とか、あることはあるのだが、釈然としない。「鹿」も、歴史仮名遣ひで「か」だが、「鹿蝶」だと、すぐ「猪鹿蝶」と混ぜっ返されそうだ。

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メモ:朝日新聞2010年2月15日(月)第29面の記事「西行自筆の和歌か」

朝日新聞2010年2月15日(月)第29面(13版)の記事「西行自筆の和歌か」で紹介されている、冷泉家所有の断簡に書かれていたと云う和歌三首を記録しておく。

はちすさくいけのみきはにかせふけは心のうちもかほりあふかな

いにしへのことをしるこそあはれなれまとのほたるはかすかなれとも

みそきするかはせのかせのすゝしきはむかひのきしにあきやきぬらむ

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メモ: 在原業平「人知れぬわが通ひ路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」

しばらく前になるが、「人知れぬわが通い路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」に就いての情報を求めて、このサイトを訪問された方がいらしたようなので、この歌に就いて、このサイトに曾ってポストしたことがあったか確認してみたのだが、そうしたことは無かったようだ。

その際、この歌には、以前から微妙な違和感を感じていたことを思い出し、それを改めて考えてみた。そのことを少し書いておく。

まず、議論の対象となるテキストを示しておこう。良く知られているように、この歌は、[古今和歌集 13] 632 であり、その詞書と共になって [伊勢物語]第5段に対応している。それらは次のようなものである:

[古今和歌集 13] 632
ひんがしの五条わたりに、人をしりおきてまかりかよひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえいらで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、かのみちに夜ごとに人を伏せてまもらすれば、いきけれどもえあはでのみ帰りて、よみてやりける
     なりひらの朝臣
  人しれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

--角川文庫 [古今和歌集] (ISBN4-04-404601-8) pp.147-148
[伊勢物語] 第5段

 むかし、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りけり。さて、よめる、
人知れぬわが通ひ路の関守は
  宵々ごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
 二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせたまひけるとぞ。
--角川文庫 [伊勢物語] (ISBN4-04-400501-X) p.18

この歌の「人知れぬわが通ひ路」は、通常「人目を忍ぶ私の通い路」とか「こっそりと私の通う通い路」とか解釈されることが多いようだ。しかし、[古今和歌集] の詞書や [伊勢物語] の記述に従うなら、この歌の時点で、「男」が通って来ていることは、現代語で言うところの「親バレ」をしてしまっている。

「親バレ」と書いたが、ただし、原文では「あるじ」としか、書いていない。実を言うなら、「親バレ」の「親」は、言葉のアヤで、それにこだるつもりはない。たとえ「兄バレ」であっても、以下の議論の大勢には影響しない。

そもそものことを言うなら、在原業平が「女」に対し、「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」と詠んだような「事件」があったことはあっただろうとしても、そして彼と、後の二条后、藤原高子との間に [恋愛事情] が存在したかもしれないにしても、「人知れぬ」の歌を贈ったのが高子であったかどうかは即断できないのだ。ただ、[伊勢物語] を編集していった人々にとっては、「関守」の「女」は、偶像 (idole) としての「藤原高子」でなければならなかったと云うことだ。

これを踏まえた上で、つまり、以下のことにこだわっても仕方がないことを認めた上で、議論を進めると、このエピソードの [みそかびと] を藤原高子 (承和9年/842年 - 延喜10年3月24日/910年5月6日) とすると、父親の藤原長良 (延暦21年/802年 - 斉衡3年7月3日/856年8月6日) が死亡した時の高子の満年齢は14歳又は13歳で、これは当時としては「幼すぎる」ほどのことはなかったろう。

[源氏物語 葵] で「いかゞありけむ、人の、けぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、をとこ君は、とく起き給ひて、女君は、更に起き給はぬ朝」(岩波文庫 [源氏物語 (一)] p.346) があったのも、女君 (紫の上) が14歳ぐらいだった筈だ。それも、こちらは「数え年」だから、満年齢に直すと、やや少なくなる。もっとも、[伊勢物語] の[女] とは対照的に、[紫の上] は、自分の身の上に起こったことに衝撃を受けて、暫くの間パニックに陥ったりする訣だが。。。それでも、三日後には「亥の子餅」を食べたようだから、自分の中で何らかの「折り合い」を付けたのだろう。

ちなみに、[源氏物語 藤裏葉] の冒頭 (岩波文庫 [源氏物語 (三)] p.231) では、「関守のうちも寝ぬ」と、問題の歌が引用されている。

一応書いておくと、高子が清和天皇 (嘉祥3年3月25日/850年5月10日 - 元慶4年12月4日/881年1月7日。在位:天安2年11月7日/858年12月15日 - 貞観18年11月29日/876年12月18日) に入内したのは貞観8年(866年)。長良の死後、10年ほどたっており、高子は満年齢で24歳程度。清和天皇は16歳程度だった。その後、陽成天皇 (貞観10年12月16日/869年1月2日 - 天暦3年9月29日/949年10月23日。在位:貞観18年11月29日/876年12月18日 - 元慶8年2月4日/884年3月4日) となる皇子を産む。

だから、「人目を忍ぶ」とか「こっそりと通う」とか云う解釈は、やや滑稽に思える。「人目を忍べなくなった」ことが、この歌の前提だからだ。それが、私の「違和感」の中身だった。

そこで、私なりに「違和感」のない解釈は可能か、考えてみたのだが、「人知れぬ」は「人に知られないまま」と云う意味であって「人目を避けて」とは微妙に異なることに思い至った時、この歌は、「謎と答と云うのが王朝和歌の基本構造だとする」窪田敏夫の説 ([日本語で一番大事なもの] の中で丸谷才一が紹介している) に従って読めばよいことに気が付いた。

つまり「人知れぬわが通ひ路の関守は」が謎であり、「(関守は)宵々ごとにうちも寝ななむ」が答えなのだ。だから、一首の意味は「あなたに通っているのが露見してしまい、その通い路に『関守』が置かれてしまっています。人に知られないまま、あなたのもとに行くには、毎夜、少しでもいいから『関守』たちに眠ってしまってもらわねばなりません。」ぐらいになる。

通常「寝ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」とか「眠ってくれればよいのだが」ぐらいに訳されるようだが、「関守」たちに見とがめられることなく [女] のもとに行くと云う明確な目的のもとに、関守たちが眠るという状況を誂えたいと云う文意だから、「眠ってしまってもらわねばなりません」ぐらいに訳した方が良いと思う。

この「謎」に対して、この「答」は、所謂「ベタ」と云う奴だろう。大喜利で、この種の答えを言うのはボケ担当の役回りで、「答えになっていない」とツッコミを受けるところだ。

この「答えになっていない答え」には、「男」から「女」への「状況を打開する手段が見当たらない」、あるいはもっと露骨に「さようなら」と云う裏のメッセージが存在する。だからこそ「女」は惑乱した (「いといたう心やみけり」) のだ。彼女の心に「怒り」や「呪い」に近いもの (「馬に蹴られて死んじまえ」といった感情) があったとするなら、それは「恋路の邪魔」をした家族ではなく、むしろ不甲斐ない「男」の方に向けられていたのではないか。

「女」にしてみれば、「私を掠うぐらいの根性を見せてみろよ」ぐらいの啖呵を切りたい状況ではあるのだが、まさに、それに照応するように、引き続く [伊勢物語] 第6段では、「男」が「女」を掠うエピソードが配置されている。

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