カテゴリー「日本語/和文」の516件の記事

2009年11月30日 (月)

メモ: 在原業平「人知れぬわが通い路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」

しばらく前になるが、「人知れぬわが通い路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」に就いての情報を求めて、このサイトを訪問された方がいらしたようなので、この歌に就いて、このサイトに曾ってポストしたことがあったか確認してみたのだが、そうしたことは無かったようだ。

その際、この歌には、以前から微妙な違和感を感じていたことを思い出し、それを改めて考えてみた。そのことを少し書いておく。

まず、議論の対象となるテキストを示しておこう。良く知られているように、この歌は、[古今和歌集 13] 632 であり、その詞書と共になって [伊勢物語]第5段に対応している。それらは次のようなものである:

[古今和歌集 13] 632
ひんがしの五条わたりに、人をしりおきてまかりかよひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえいらで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、かのみちに夜ごとに人を伏せてまもらすれば、いきけれどもえあはでのみ帰りて、よみてやりける
     なりひらの朝臣
  人しれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

--角川文庫 [古今和歌集] (ISBN4-04-404601-8) pp.147-148
[伊勢物語] 第5段

 むかし、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りけり。さて、よめる、
人知れぬわが通ひ路の関守は
  宵々ごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
 二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせたまひけるとぞ。
--角川文庫 [伊勢物語] (ISBN4-04-400501-X) p.18

この歌の「人知れぬわが通ひ路」は、通常「人目を忍ぶ私の通い路」とか「こっそりと私の通う通い路」とか解釈されることが多いようだ。しかし、[古今和歌集] の詞書や [伊勢物語] の記述に従うなら、この歌の時点で、「男」が通って来ていることは、現代語で言うところの「親バレ」をしてしまっている。

「親バレ」と書いたが、ただし、原文では「あるじ」としか、書いていない。実を言うなら、「親バレ」の「親」は、言葉のアヤで、それにこだるつもりはない。たとえ「兄バレ」であっても、以下の議論の大勢には影響しない。

そもそものことを言うなら、在原業平が「女」に対し、「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」と詠んだような「事件」があったことはあっただろうとしても、そして彼と、後の二条后、藤原高子との間に [恋愛事情] が存在したかもしれないにしても、「人知れぬ」の歌を贈ったのが高子であったかどうかは即断できないのだ。ただ、[伊勢物語] を編集していった人々にとっては、「関守」の「女」は、偶像 (idole) としての「藤原高子」でなければならなかったと云うことだ。

これを踏まえた上で、つまり、以下のことにこだわっても仕方がないことを認めた上で、議論を進めると、このエピソードの [みそかびと] を藤原高子 (承和9年/842年 - 延喜10年3月24日/910年5月6日) とすると、父親の藤原長良 (延暦21年/802年 - 斉衡3年7月3日/856年8月6日) が死亡した時の高子の満年齢は14歳又は13歳で、これは当時としては「幼すぎる」ほどのことはなかったろう。

[源氏物語 葵] で「いかゞありけむ、人の、けぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、をとこ君は、とく起き給ひて、女君は、更に起き給はぬ朝」(岩波文庫 [源氏物語 (一)] p.346) があったのも、女君 (紫の上) が14歳ぐらいだった筈だ。それも、こちらは「数え年」だから、満年齢に直すと、やや少なくなる。もっとも、[伊勢物語] の[女] とは対照的に、[紫の上] は、自分の身の上に起こったことに衝撃を受けて、暫くの間パニックに陥ったりする訣だが。。。それでも、三日後には「亥の子餅」を食べたようだから、自分の中で何らかの「折り合い」を付けたのだろう。

ちなみに、[源氏物語 藤裏葉] の冒頭 (岩波文庫 [源氏物語 (三)] p.231) では、「関守のうちも寝ぬ」と、問題の歌が引用されている。

一応書いておくと、高子が清和天皇 (嘉祥3年3月25日/850年5月10日 - 元慶4年12月4日/881年1月7日。在位:天安2年11月7日/858年12月15日 - 貞観18年11月29日/876年12月18日) に入内したのは貞観8年(866年)。長良の死後、10年ほどたっており、高子は満年齢で24歳程度。清和天皇は16歳程度だった。その後、陽成天皇 (貞観10年12月16日/869年1月2日 - 天暦3年9月29日/949年10月23日。在位:貞観18年11月29日/876年12月18日 - 元慶8年2月4日/884年3月4日) となる皇子を産む。

だから、「人目を忍ぶ」とか「こっそりと通う」とか云う解釈は、やや滑稽に思える。「人目を忍べなくなった」ことが、この歌の前提だからだ。それが、私の「違和感」の中身だった。

そこで、私なりに「違和感」のない解釈は可能か、考えてみたのだが、「人知れぬ」は「人に知られないまま」と云う意味であって「人目を避けて」とは微妙に異なることに思い至った時、この歌は、「謎と答と云うのが王朝和歌の基本構造だとする」窪田敏夫の説 ([日本語で一番大事なもの] の中で丸谷才一が紹介している) に従って読めばよいことに気が付いた。

つまり「人知れぬわが通ひ路の関守は」が謎であり、「(関守は)宵々ごとにうちも寝ななむ」が答えなのだ。だから、一首の意味は「あなたに通っているのが露見してしまい、その通い路に『関守』が置かれてしまっています。人に知られないまま、あなたのもとに行くには、毎夜、少しでもいいから『関守』たちに眠ってしまってもらわねばなりません。」ぐらいになる。

通常「寝ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」とか「眠ってくれればよいのだが」ぐらいに訳されるようだが、「関守」たちに見とがめられることなく [女] のもとに行くと云う明確な目的のもとに、関守たちが眠るという状況を誂えたいと云う文意だから、「眠ってしまってもらわねばなりません」ぐらいに訳した方が良いと思う。

この「謎」に対して、この「答」は、所謂「ベタ」と云う奴だろう。大喜利で、この種の答えを言うのはボケ担当の役回りで、「答えになっていない」とツッコミを受けるところだ。

この「答えになっていない答え」には、「男」から「女」への「状況を打開する手段が見当たらない」、あるいはもっと露骨に「さようなら」と云う裏のメッセージが存在する。だからこそ「女」は惑乱した (「いといたう心やみけり」) のだ。彼女の心に「怒り」や「呪い」に近いもの (「馬に蹴られて死んじまえ」といった感情) があったとするなら、それは「恋路の邪魔」をした家族ではなく、むしろ不甲斐ない「男」の方に向けられていたのではないか。

「女」にしてみれば、「私を掠うぐらいの根性を見せてみろよ」ぐらいの啖呵を切りたい状況ではあるのだが、まさに、それに照応するように、引き続く [伊勢物語] 第6段では、「男」が「女」を掠うエピソードが配置されている。

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2009年11月26日 (木)

ある誤解:「やおら」の語義

小学生だったか中学生だったか、はっきりした記憶は無いが、子供のころ、私は「やおら」の意味を誤解していた。「やおら」は「押っ取り刀」と同範疇で、「やおら起き上がる」とは、「むっくりと起き上がる」ぐらいの意味だと思っていたのだ。(こうして書いてみると、もし小学生の頃の話なら、我ながら「無気味なガキ」だが、この程度の「無気味さ」は、普通のような気もする。)

勿論、辞書を引かなかったのが悪いのだが、私が最初に読んだか聞いたかした「やおら」の用例 (たしか「寝転がっていた人、やおら起き上がって」か、「座っていた人が、やおら立ちあがって」ぐらいの言葉づかいだったと思う) が、文脈上、動作の変化が急であることを意味するのが、私には自然であるようなものだったので、そのまま読み流してしまって「やおら」と云う言葉の語感だけが残ってしまった。

かなり後になって、「やおら」とは動作の始まり方が緩やかな様の形容であることを知った。それも、たしか、「言葉の誤用の有りがちな例」と言った文章の中でだったような気がする。どうやら、これは私にとって余程忌々しかったらしく、それ以来、この言葉は、妙に強く記憶に残ってしまった。そして、その「記憶」はなるべく [そっとして] おきたい類いのものではあった。使ってはならない言葉」は持ちたくないし、また [トラウマ] を解消する為には、何時かさり気なく、勿論、正しい用法で使ってみたい気もしていたが、その一方で、「やおら」を使うことには、気恥づかしさがある。結局、使わないまま記憶の引き出しの中にしまいっぱなしになっていた。

ところが、先日、新聞で映画の紹介記事を読んでいたら、久しぶりに「やおら」が使われている例に出会ったのだな。それも、[誤用] (多分) であったりする:

むさい男子学生がたむろしていた朽ちかけた木造アパートは、名ばかりの弱小陸上競技部の合宿所だった。
だが、彼らはやおら、綿密に計画された長距離走のトレーニングに駆り立てられる。
彼らを引きつけた磁場は天性のリーダーシップに恵まれた4年生「ハイジ」と、彼がぶちあげた箱根駅伝出場というあまりに無謀な目標だった
--朝日新聞2009年10月31日(土) "be on Saturday" e6面 「今週の原作本:汗臭くない長距離走者たち 映画『風が強く吹いている』」(Cf. asahi.com (朝日新聞社):汗臭くない長距離走者たち 映画「風が強く吹いている」- 今週の原作本 - BOOK)
ただの変換ミスだろうから、とやかく言うつもりはないが、上記引用中「天性」は「天成」としたほうが良いのではないか。それに私は、とても他人様の事を言えた義理ではないのだ。このブログでも、漫然とコピーアンドペーストを繰り返した為に、出典書名「日本語で一番大事なもの」を「日本語で一番大切なもの」と誤った箇所が、恐らく千か所ほどにのぼっている。

記事中では「やおら...駆り立てられる」と繋がっているから、この「やおら」は、「本人たちの意図に反して唐突に」ぐらいの語感だろう。

しかし、「やおら」には、そのような意味はないのだ。

因みに、三省堂の [新明解国語辞典 (第5版)] 中の「やおら」の項を転記すると

やおら: 静から動へ移る動作が、悠然として見える形容。「やおら立ち上がって発言し始めた」
--三省堂 [新明解国語辞典 (第5版)] p.1405
ただし、原文では「やおら」はダーシになっている。

とあるが、現代語としてはこの釈義で間然とするところはあるまい。

更に、適宜の辞書を参照すれば、この言葉は古く (用例から見るところ [うつほ物語] や [源氏物語] のころ) から使われていることが分かる。ただし、その語義は「静かに、物音を立てないように動作するさま」([岩波古語辞典 補訂版]) とすべきであるようだ。

例えば、[岩波古語辞典 補訂版] の「やをら」の項 (pp.1360-1361) で引用されているように:

母屋の几帳の帷子引きあげて、いとやをら入り給ふとすれど、皆しづまれる夜の御衣のけはひ、やはらかなるしもいとしるかるけり
<源氏物語 空蝉>
ただし、原文では「やおら」はダーシになっている。

この箇所を含めて、[源氏物語 空蝉] の中から「やをら」の用例を拾い出してみると (以下引用中、フォントの都合上、適宜同等語句・記号で置き換えた箇所が在る):

童なれば、宿直人なども、殊に、見いれ追從せず、心やすし。ひむがしの妻戸に、たてたてまつりて、我は、南の隅の間より、格子叩きのゝしりて入りぬ。御達、「あらはなり」といふなり。
 「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」
と問へば、
 「晝より、西の御方の、わたらせ給ひて、碁打たせ給ふ」
といふ。 「さて向ひゐたらむを見ばや」と、思ひて、やをら歩み出でて、簾垂のはざまに入り給ひぬ。この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに、寄りて、西ざまに見通し給へば、この際に立てたる屏風も、端の方おし疊まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。
岩波文庫 [源氏物語(一)] pp.96-97

 「あはつけし」とは、思しながら、まめならぬ御心は、これも、え思し放つまじかりけり。見給ふ限りの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ、そばめたるうはべをのみこそ、見給へ、かくうちとけたる、人の有様、垣間見などは、まだ、し給はざりつる事なれば、何心もなう、さやかなるは、いとほしながら、ひさしう、見給はまほしきに、小君出で來る心地すれば、やをら出で給ひぬ。渡殿の口に、より居給へり。
岩波文庫 [源氏物語(一)] pp.98-99

 「紀の守のいもうとも、こなたにあるか。われに、垣間見せさせよ」
と、のたまへど、
 「いかでか、さは侍らん。格子には、几帳そへて侍り」
と、聞ゆ。「さかし。されども」と、をかしくおぼせど、「『見つ』とは、知らせじ。いとほし」と、思して、「夜更くることの、心もとなさ」を、のたまふ。こたみは、妻戸を叩きて入る。皆、人人しづまり寝にけり。
 「この障子口に、まろは寝たらん。風吹き通せ」
とて、畳ひろげて臥す。御達、東の廂に、いとあまた寝たるべし。戸放ちつる童も、そなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、火明き方に屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。「いかにぞ。をこがましき事もこそ」と、おぼすに、いとつゝましけれど、みちびくまゝに、母屋の几帳の帷子ひき上げて、いとやをら、入り給ふとすれど、みなしづまれる夜の、御衣のけはひ、やはらかなるしも、いとしるかりけり。女は、さこそ、わすれ給ふを、「嬉しき」に思ひなせど、あやしく、夢のやうなる事を、心に離るゝ折なき頃にて、心解けたる寝だに寝られずなん、晝はながめ、夜は寝覺めがちなれば、「春ならぬ木のめ」も、暇なく嘆かしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしく、うち語らひて、寝にけり。わかき人は、何心なく、いとようまどろみたるべし。
 かゝるけはひの、いと、香ばしくうち匂ふに、顏をもたげたるに、單衣うちかけたる几帳のすき間に、暗けれど、うちみじろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひわかれず、やをら起き出でて、生絹なる單衣ひとつを着て、すべり出でにけり。
岩波文庫 [源氏物語(一)] pp.100-101

この人の、何心なく、若やかなるけはひも、あはれなれば、さすがに、情なさけしく契りおかせ給ふ。
 「「人知りたる事よりも、かやうなるは、あはれ添ふこと」となん、昔人もいひける。あひ思ひ給へよ。つゝむ事なきにしもあらねば、身ながら、心にも、え任すまじくなむありける。又、
 「さるべき人人も、ゆるされじかし」と、かねて胸痛くなむ。わすれで待ち給へよ」
など、なほなほしく語らひ給ふ。
 「人の思ひ侍らん事の、恥づかしきになむ、え聞えさすまじき」
と、うらもなく言ふ。
 「なべて、人に知らせばこそあらめ。この小さきうへ人などに、つたへ、聞えむ。けしきなく、もてなし給へ」
など、言ひ置きて、かの、脱ぎすべしたる薄衣を取りて、出で給ひぬ。
 小君、近う臥したるを、起こし給へば、うしろめたう思ひつゝ寝ければ、ふと驚きぬ。戸をやをら押し明くるに、老いたる御達の聲にて、「あれは、誰そ」と、おどろおどろしく問ふ。
岩波文庫 [源氏物語(一)] pp.102-103

[源氏物語 空蝉] の巻は、源氏が、[伊予介] の留守宅に行き、伊予介の妻である [空蝉] に「夜這い」を掛けた顛末が語られている (「露払い」をつとめるのは、空蝉の弟 [小君] である。そのために、源氏は小君を手懐けたのだった)。そこには、空蝉ばかりでなく、空蝉の「御達」(侍女達) や、伊予介と先妻との間の娘である [軒端萩] も居て、傍で就寝しているのだ ([空蝉] 巻の最初の方では、空蝉と軒端萩が囲碁をしていて、源氏はそれを、小君にさえ秘密にして、覗き見する)。源氏の行動が「静かに、物音を立てないよう」でなければならない由縁である。

もっとも、それだけ苦労しても、結局、空蝉に感づかれてしまい、彼女は [小袿] を残して寝床を去るのだが、それに気付かなかった源氏は、空蝉と勘違いして軒端萩のところへ行ってしまう。勿論、源氏は人違いに気づき「あさましく心やましけれど」、「この人の、何心なく、若やかなるけはひも、あはれなれば、さすがに、情なさけしく契りおかせ給ふ」のだ。

この文脈では「やをら」は、周囲の人々に自分の行動自体 (あるいは、小君が源氏を導き入れる --入れたてまつる-- 時の様に、他者の行動であっても、自分の責任下で行なわれる場合のその他者の行動) を気取られないようにすることを意味しているが、そこまで限定的な意味で使われるとは限らない。

[堀河天皇] の臨終記である [讃岐典侍日記 (さぬきのすけにっき)] によるなら、嘉承二年 (1107) 七月十八日夜、危篤に陥った天皇に対して [賢暹法印] による受戒 (カトリックの [終油の秘蹟] を連想させる。[懺悔] をするのではなくて、「戒律」を守るという誓約を行なうことが異なる訣だが、これは、僧侶と在俗者の社会的・宗教的関係が異なるためで、その心理的基盤は同一だろう) が行なわれたが、更に、修験僧 [増誉僧上] を召し出そうとしている間に、天皇の容体は更に悪化して、目の様子まで変わっていく (つまり、「虚ろ」になっていったのだろう)。やって来た増誉は天皇の傍で祈祷を始める (僧上、天皇の乳母二人、天皇、著者である讃岐典侍の「五人の人々、ひとつにまとはれあひたり」と云う状態である。なお [中宮篤子] は、賢暹法印が遣ってくるまでの間、「しばしばかり」天皇と対面した後、「今は、さは、帰りなん。あすの夜も」と云う言葉を残して、退出していた):

 声を惜しまず、頭より、まことに黒けぶり立つばかり、目も見あけず念じ入りて、仏をうらみくどき申さるるさま、いとたのもし。例ならぬをりは、あやしの僧だにも、もの祈るはたのもしくこそある心地すれ、かばかりの人の、一心に心を入れて、
「年ごろ仏に仕うまつりて、六十余年になりぬるに、まだされども仏法尽きず、すみやかにこの御目なほさせたまへ」と、人などを言ふように、
「おそし、おそし」とあれど、何のしるしもなくて、御口のかぎりなん念仏申させたまへるも、はたらかせたまはずならせたまひぬ。
--講談社学術文庫 [讃岐典侍日記] pp.74-75

このように、増誉の祈祷も空しく、天皇は崩御する。七月十九日朝方ことだった。この場合、増誉の立場は微妙だろう。彼は、既に「無用の長物」として「お呼びでない」状態に在るのだ。その行動は、周囲により、意識的かどうかは別として注目されている、その一方で、そそくさと退出するなら、天皇を見捨てた感じが出てくるのは否めない。折を見て、さりげなく立ち去るしかないのだ (それでも、彼は、その場にいた乳母の一人である大弐三位から非難されてしまうのだが)。従って、次にような記述になることが起こる。

 かかるほどに、日、はなばなとさしいでたり。日のたくるままに、御色の日ごろよりも白く、はれさせたたまへる御顔のきよらにて、御鬢のあたりなど、御けづりぐししたらんやうに見えて、ただおほとのごもりたるやうに、たがふことなし。
 僧上、今はと見はてたてまつりて、やをら立ちて、御かたはらの御障子を、しのびやかにひきあけていでたまふに、大弐三位、
 「あな、悲しや。いかにしなしいでさせたまひぬるぞ。助けさせたまへ」
と、声も惜しまず泣きたまふを聞きて、さながら泣きとよみあひたり。
--講談社学術文庫[讃岐典侍日記] pp.78
なお、[中右記] にも、堀河帝崩御の記事が在る。本来は、突き合わせて検討すべきなのだろうが、今は資料の準備ができないので、諦めることにする。

ここでは、「静かに、物音を立てないように」と云う全体的な意味の枠組みの中で、「さりげなさ」をあらわすために「やをら」が使われている。

もうひとつ、「やをら」の例を引用しておこう。

小松の帝の御母・このとのゝ御母、はらからにおはします。さて、児より小松のみかどをばしたしくみたてまつらせ給ふけるに、良房のおとどの大饗にや、むかしは親王達、かならず大饗につかせ給事にて、わたらせ給へるに、雉足はかならず大饗にもるものにてはべるを、いかゞしけん、尊者の御前にとりおとしてけり。陪膳の、みこの御まへのをとりて、まどひて尊者の御まへにすふるを、いかゞおぼしめしけん、御まへの御となぶらをやをらかいけたせ給。このおとゞは、そのをりは下臈にて、座のすゑにてみたてまつらせ給に、「いみじうもせさせ給かな」と、いよいよみめでたてまつらせ給て、陽成院おりさせ給べき陣定に候はせ給。融のおとゞ、左大臣にてやむ事なくて、位につかせ給はん御心ふかくて、「いかゞは。ちかき皇胤をたづねば、融らもはべるは」といひいでたまへるを、このおとゞこそ、「皇胤なれど、姓給てたゞ人にてつかへて、位につきたる例やある」と申いで給へれ。さもあることなれど、このおとゞのさだめによりて、小松の帝は位につかせ給へる也。
--岩波文庫 [大鏡] pp.45-46
「給ふけるに」と「良房のおとどの大饗にや」との間に、文が挿入されているテキストもある。例えば、九州大学附属図書館ウェブサイトで公開されている [萩野文庫本「大鏡」画像データベース)] の [上巻三十八丁表] から [上巻三十八丁裏] にかけてを参照。

「みこ」(後の「小松の帝」つまり光孝天皇) の行為の動機は、単純に陪膳 (「ばいぜん」。この文脈では、現代語で言う「給仕」) の失態を庇うものではないだろう。「御となぶら」(灯火) を消したことで、陪膳の行為が逆に目立ってしまった可能性もあるのだ。また、「尊者」(主賓) ではないとは言え、仁明天皇の第3皇子として、尊者近くの上座にいた筈だから、陪膳の行為により、面子を潰された格好になった訣だが、だからと言って、暗黙の抗議をしたようにも見えない。灯火を「やをら」消していることに、それが顕れている。

これは、恐らく、このエピソードのもう一人の当事者である大饗の主人 (「このとの」である「藤原基経」の養父「藤原良房」と云うことになっている。良房には男子がおらず、兄の長良の三男基経を養子にした) への、この「事件」の処分には関与しないと云うメッセージであったろう。それは「事件」の存在そのものを無視することを意味し、もっとも徹底した形で、少なくともその場では、陪膳の失態ばかりでなく、自分の面子云々が話題となる可能性も揉み消してしまった訣だ。そして、そうするためには、眼前の事態とは全く無関係であるかの如く、さりげなく、灯火を消す必要があった。ここでも、やはり「やをら」には「さりげなさ」が含意されていると見做して良いだろう。

つまり、上記の源氏物語からの用例では、「やをら」は、身体的な気配を隠すことのを表徴だが、讃岐典侍日記や大鏡からの用例では、「おをら」は、心理的な動機を隠す「さりげなさ」の表現である。

妄想を逞しくするなら、「やおら」が「悠然とした」と云う語感を獲得するのは、この「さりげなさ」が下敷きになったものと思われる。そして更に妄想するなら、「やおら」の誤用は、行動が急かされている状況下に関わらず「悠然と」した態度をとることの形容 (festina lente の lente) に使われるために、私のような粗忽者が急な行動 (festinatio) の形容だと勘違いしたことによるのではなかろうか。

ただし、「やをら」の語義は、「気配を消すこと」や「さりげなさ」ではなく、単に運動の緩やかさを表わすこともある。[宇治拾遺物語 7-4] の「檢非違使忠明ノ事」では、「京わらべ」と喧嘩して追われた若き忠明が、蔀戸の一部を持って、谷底へ飛び込んだところ「鳥のゐるやうに、やをら落ちにければ、それより迯ていにけり」(角川文庫 [宇治拾遺物語] p.174) と書かれているのが、その例である。

[宇治拾遺物語] には「やをら」とほぼ同語義の「やはら」の用例もある。

1-13    田舎ノ兒櫻ノ散ヲ見テ泣ク事
 これも今は昔、ゐ中の兒のひえの山へのぼりたりけるが、櫻のめでたくさきたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、此兒さめざめとなきけるをみて、僧のやはらよりて、「などかうは、なかせ給ふぞ。此花のちるををしうおぼえさせ給か。櫻ははかなき物にて、かく程なくうつろひ候なり。されどもさのみぞさぶらふ。」となぐさめければ、「櫻のちらんは、あながちにいかがせん。くるしからず。我がてゝの作たる麥の花ちりて、實のいらざらん思ふがわびしき。」といひて、さくりあげて、をゝとなきけるは、うたてしやな。
--角川文庫[宇治拾遺物語] p.33

ただ、この「やはら」の語感の核は、「他者への接触の柔らかさ」なので、上記で引用した「やをら」の語感と僅かにズレている。これが、同一語の変異に属するか否かは、微妙なところだろう。後勘を俟ちたい。

なお、琉球語に「やおら」に対応する言葉が存在するらしい。中公文庫 [沖縄の言葉と歴史] (外間守善。2000年) 中の[「やうら」考] (pp.264-269) を参照のこと。

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2009年9月26日 (土)

"pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」

一昨日朝 (2009/09/24 07:07:05)、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

"pax vobiscum" なら、私のようなものが一知半解のラテン語知識を振り回さずとも、適切な情報が、ネットの何処かが開示されているに違いない、と、思えたので、一旦は、そのまま「スルー」したのだったが、その後、これが、以前書こうとしたが、何かに取り紛れて書かないままになった二・三の話題に関係していることに気が付いた。

それやこれやを、少し書いてみることにする。纏まりが悪くなるのは、予めご勘弁を願っておきたい。

で、取り敢えず「一知半解」を披露する。

"pax" は勿論「平和」の意 (勿論「ラテン語」)。Pax Romana (パクス・ロマーナ)、Pax Americana (パクス・アメリカーナ) の pax である。"vobiscum" は、人称代名詞第2人称複数もしくは敬意第2人称単数奪格 (「従格」と云う言い方もする) の"vobis" と、 共同・随伴・手段等の含意を有して奪格を支配する前置詞 "cum" との結合である (前置詞 "cum" は、人称代名詞、再帰代名詞、関係代名詞を支配する場合、後置されてしかも一語に融合される)。前置詞 "cum" は、英語で言えば "with" 又は "by" に相当する言葉であるとするなら、あらましは理解できるだろう。

つまり、"pax vobiscum" を英語に置き換えるなら "peace with you" ぐらいになる。しかし、これを、日本語で言い換えようとすると、英語の方に、もう少し補足が必要で、"peace be with you" 「平安の[汝/汝等]とともにあらんことを」 と願望法にまで引き戻して考えた方が良い (願望法だと文章が古格になる)。

更に言うなら、この "pax" は、本来ならば "pax Domini" つまり「主の平安」なのだ。以前、[フランス語で「主の平和」] (2009年7月19日[日]) で引用したように、所謂「ラテン語ミサ」では、その山場ともいえる聖体拝領の儀式の中で "Pax Domini sit semper vobiscum." (絶ゆることなく主の平安の汝等とともにあらんことを) と唱えられるが、その簡略形として "Pax Domini vobiscum" も使われることがあるのである。

このようにすると、"pax vobiscum" と、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」、更に「フォースのともにあらんことを」との並行性が見えてくる。

これに就いては、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])、["May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])、[「フォースのともにあらんことを」と「神ともにいまして」] (2008年5月28日[水]) も参照していただきたいのだが、要するに、これらは全て、神霊的な何かが相手に同伴することを念じている一種の「呪文」なのだ。そして、「神ともにいまして ("GOD BE WITH YOU")」と「フォースのともにあらんことを」とでは、その基本は、これから「旅」に出ようとするものに対する「はなむけの言葉」である。"pax vobiscum" に就いても、その根っこは、やはり、聖体拝受による象徴的生まれ変わりにおける (つまり、人生と云う旅の再出発に対する) はなむけの言葉であろうと、私は思っている。

付言するまでもないかもしれないが、[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金]) に指摘しているように、"goodbye" も、同じ範疇の挨拶である。

なお、この "pax vobiscum" を、復活したイエスが弟子たちに向かって放った言葉として説明されていることがある (例:ウェブページ「立教大学新座キャンパス・施設紹介チャペル(礼拝堂)」) が、これは私にはヤヤ不審。ラテン語聖書 (つまり、所謂ヒエロニムスの「ヴルガータ/Vulgata」) の範囲内では厳密には少しだけ異なる。Vulgata の [ルカによる福音書24:36] や [ヨハネによる福音書20:19] では、復活したイエスが弟子たちに "pax vobis" と言っていて、"pax vobiscum" ではないのだ。

ここで、一言書いておくと、特にルカの方では " pax vobis ego sum nolite timere" となっていて、その語感は、「あなたがたに平和があるように」(新共同訳) と言うより、「落ちつきなさい。私である。怖れてはならない」になるような気がする。

もっとも、現在のギリシャ語聖書テキスト ([現代ギリシャ語聖書] ではなくて、現代欧米語聖書の基礎となったギリシャ語聖書のオリジナル・テキスト) である Nestle-Aland (ネストレ・アーラント) の "NOVUM TESTAMENTUM GRAECE" (私が所持しているのは第26版だが、現在は第27版になっているようだ) では、該当箇所は、ともに "ειρηνη uμιν" (その前は、"και λεγει αuτοις" で、その後ではセンテンスが停止する) とあるのみで "ego sum nolite timere" に相当する語句 ("εγω ειμι, νη φοβεισθε") は、ヨハネでも(これは当然かもしれないが)、ルカにも見当たらないのだ。これと対応する形で、[新ヴルガータ/Nova Vulgata] では、[ルカ] でも [ヨハネ] でも、単に "Pax vobis!" になっている。つまり、復活したイエスは、ヘブライ語の "שָׁלוֹם" (シャーローム/Shalom) を連想させる挨拶をしたことになる (イエスが何語を話していたかと云う問題は、この際措いておく)。

ただし、これについて Bruce M. Metzger の "A textual commentary on the greek new testament" (2nd ed. 1994) は "εγω ειμι, νη φοβεισθε" を (恐らく[ヨハネによる福音書6:20] に由来する) 欄外注記の混入であると断じている一方で、"ειρηνη uμιν" に関連して、この状況で通常の挨拶の言葉が発せられるかには、若干の疑義が存在することを指摘している (p.160)。

なお Vulgata 内では "pax vobiscum" と云うコロケーションは、[創世記43:23] だけらしい。ただ、実は、この後に "nolite timere" と続くことは注意しておいてよいかもしれない。この "pax vobiscum nolite timere" は新共同訳では「御安心なさい。心配することはありません。」となっている。

こうした「素材」を並べてみると、私には "pax vobiscum" が聖書 (特に、福音書) に由来するというより、ラテン語ミサに由来すると考えた方が良いと思えるのだ。

旅の道連れとしての守護的神霊と云う発想は、所謂「旧約聖書外典」の [トビト記] で、トビトの息子トビアが旅をする際の指南役として天使のラファエルが同伴するし、日本においても、四国巡礼における「同行二人」が良く知られているから、宗教的気分として普遍的なものなのかもしれない。

以下、話が変わる。"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳す流儀と、「フォースともにあらんことを」と訳す流儀があるようだが、私は「の」派である。

[日本語で一番大事なもの] や [岩波古語辞典] に見られる大野晋の説明を私になりパラフレーズするなら、日本古語に限定する限りでは、元来連体助詞であったものが、主格の助詞に転用されるようになったと云う点では、「の」も「が」も同じであるのだが、「が」は発話者の身内の (より正確には、発話者が身内として扱った) 対象 (自分自身を含む) を受けるのに対し、「の」は、それ以外の、自分自身のみには所属しえない、一般的なもの、尊貴なもの、疎遠なものを受ける。

だから、自分自身を受ける時は「が」を使って「わが門の片山椿まこと汝我が手触れなな土に落ちもかも: nouse (物部広足 [万葉集20]4418/4442)」とか「君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く」(額田王 [万葉集488/491]) とかする訣だ。

「君」を受ける場合でも、その「君」が、自分のパートナーである場合には、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる」(額田王 [万葉集1]20) と「が」で受けるが、「君」が主君である場合には、「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」 (読人しらず。笠朝臣金村歌集所収歌。或いは車持朝臣千年の作かとも。 [万葉集6]952/957) とか「大君の みこの柴垣 八節結り 結り廻し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣 」 (志毘臣 [古事記]歌謡109) などと「の」で受ける。

ただし、こうした使い分けは、「扱い」の問題なので、一般的には尊貴な対象であっても、親愛の情を込める時には「が」で受けることもあるようだ。

「が」は、親愛の情だけでなく、狎れ親しんだものから、軽侮の対象を受けることもある。また、本来尊重しなければならないものを、「が」で受けることで、それに対する軽蔑の扱いを表わすこともある。これは大野晋が引用している例だが、[貧窮問答歌] 中の「しもと取る里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」(山上憶良 [万葉集5]892/896) では「里長(さとをさ)だから本当は「の」で遠くに扱って敬意を表明すべきなのに、税金を取り立てに来る不愉快な相手なので、『里長が声』」と言っている。」

"May the Force be with you." の the Force は、超越的な能力を指すから、日本古語の通例としては「の」で受けるべきであると云うのが私の考えである。

"May the Force be with you." を「フォースともにあらんことを」と訳したり、或いは、命令形にして「フォースともにあれ」と訳すことがあるようだが、これは論外。引きもどって言うと、"pax vobiscum" にしろ "peace with you" にしろ、「(神の)平安」が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「平安とともにある」よう命じているわけではない。それと同様、"May the Force be with you." も "the Force" が「[あなた/あなたたち]とともにある」ようにと願っているのであって、「[あなた/あなたたち]」に「"the Force" とともにある」よう願ったり命じているわけではない。

話が散らばって申しわけないが、改めて、キーフレーズ [pax vobiscum 意味] で再検索 (google) してみると、どうやら "pax vobiscum" はアニメソングのタイトルとして採用されているらしい。それが「PAX VOBISCUM-願わくば平安汝等とともに-SAMURAI DEEPER KYO」だと云うのだが、ここは「ば」ではなくて「は」にしてほしかったなぁ。「願はく」は、「老いらく/老ゆらく」や「思はく/思惑」と同様、動詞の「アク語法」 (一般の呼び方では「ク語法」)であって、名詞相当だから、係助詞の「は」で受けるのが、日本古語として順当なのだ。まぁ、「願はくば」も、常用日本語として定着してしまっているのは確かなのだが。

その他では、Bathory (バソリー) と云うスエーデンのメタルバンドの "Requiem" と云うアルバム (1994年) にも同名の曲が収められている由 (Cf. "Bathory:Pax Vobiscum - LyricWiki - Music lyrics from songs and albums")。

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2009年8月22日 (土)

メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)

20日夜 (2009/08/20 22:18:31)、キーフレーズ [百谷泉声の意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「百谷泉声」と云うと、素直に読み下すかぎり「百谷の泉声」として、その意味は「百の渓谷には泉から湧き出る水の音 (がする)」ぐらいだろうという気がしたが (勿論「百」は「数が多い」たとえ)、こうした文の「読み下し」と「意味」は、文脈によって可成異なってくるのは当然で、それどころか、私のように無学なものは、文脈をチェックしないと、トンでもない間違いをしでかしがちである。

と云う訣で、取り敢えず「"百谷泉声"」で google 検索してみると、書道教室の「お題」がらみで何件かヒットするのだが、その他に、中国語サイトで、[中华古诗文网] (中華古詩文網) 中の [全唐诗逸] のページがヒットした。

この [全唐詩逸] は日本国内の出版である。唐詩を網羅すべく編纂された [全唐詩] に、残念というべきだろうが、同時に当然ともいえる遺漏の詩句を、市河寛斎が全三巻に纏めたものだ。1804年 (文化元年) 刊。

この [中华古诗文网] によるなら「百谷泉声」は、[贺兰暹 (賀蘭暹)] 作の断片11句の内の一つ:

千峰黛色因晴出 百谷泉声欲暮寒

に含まれる。

元元は、「望太宝山」(「太宝山を望む」だろう) と云う詩の一句だそうな。

で、この読み下しなのだが、実は [全唐詩逸] は、その影印の pdf が、[うわづらをblogで] と云うブログサイトに掲載されている (全唐詩逸.pdf)。それに曰わく:

千峰黛色因晴出
百谷泉聲欲暮寒
千峰の黛色 晴に因って出で
百谷の泉聲 暮なんと欲して寒し

素直な読み下しで、私としても異論はない。これで、「一件落着」と思ったのだが、実は、そうではなかった。

一応、作者の [賀蘭暹] と、題にある [太宝山] の情報を補足しておこうと調べ始めたところ、いつものことながら、ジタバタ騒ぎをする羽目になったのだったのだ。

作者の [賀蘭暹] は、ネットを検索してもはかばかしいデータを得られなっかったが、彼は、氏名と詩断片とのみならば、日本で古くから知られていた詩人だったらしい。何故なら [和漢朗詠集] に、次の2句が見られるからだ (実は、この2句も [全唐詩逸] に収められている。と云うか、むしろ [全唐詩逸] の方が、[和漢朗詠集] から引用したのだろう):

黛色迥臨蒼海上。
泉声遥落白雲中。

(百丈山)
黛色迥(はる)かに 蒼海の上に臨み
泉声遥(はる)かに 白雲の中(うち)に落つ

--[和漢朗詠集 巻下]491「山」
秋水未鳴遊女佩。
寒雲空満望夫山。

(寄所思佳人)
秋水 未だ遊女の佩を鳴らさず
寒雲 空しく望夫の山に満つ

--[和漢朗詠集 巻下]718「遊女」

ここで、私は戸惑ってしまった。[百丈山] の句「黛色迥臨蒼海上。泉声遥落白雲中。」にも「泉声」の語句があるが、これは「泉から湧き出る水の音」と云う解釈には馴染まない(「[全唐詩逸] を覗いた時に気が付けよ」と、自分でも思うのだが、事ほど左様に私は迂闊だと云うことだとでも言うしかない)。

実際、[和漢朗詠集] の通常の注釈では、この「泉」を「滝」と解しているようだ。うーむ。「滝」....

「滝」と言っても、色色で、ナイアガラ瀑布と云ったものは、別範疇として除外するにしても、全てが [華厳の滝] や [那智の滝] のようなものばかりとは限るまいから、あまりこだわる必要はないのかもしれないのだが、「泉」を「滝」とするのにも抵抗を感じたのだ (勿論、ここで言う「滝」とは、日本語の「タキ」のことである。この「滝」を「タキ」の意味に使う用法は、日本独特らしい)。

つまり、私は、「泉声遥落白雲中」や、更に遡って「百谷泉声欲暮寒」の「泉」が、日本語で云う「イヅミ」と解釈するのには問題があることに気付いたものの、それを「タキ」と捉えることにも抵抗を感じたのだった。

「泉」の釈義は、ひとまず措いておくとして、改めて感じなおして見ると、私にとり、この「泉声」の情景としてしっくりするのは、川の最上流部で、流れが速く、水音が確かに聞こえてくると云うものだった (水量の多寡に就いては、どちらでもありうるだろうから、判断を保留しておく)。

と、ここまで考えて、日本語でも、少なくとも、古くは、そうした流れを「タキ」と呼んでいたことに気が付いた。「瀬を早み岩にせかるる滝川の」とは、まさにそうした情景である。コレまた迂闊なことではあった。

話の纏まりが悪くて申しわけない。混乱を避けるために言い直すと、「タキ」と云う表現や概念を排除しないものの、私には、この「泉」が、何よりも「(川の上流部の) 早瀬」のようなものに思えるのだ。

だから、王維の [過香積寺 (香積寺を過る)]
不知香積寺  知らず 香積寺(こうしゃくじ)
數里入雲峯  数里 雲峰に入る
古木無人徑  古木 人径無し
深山何處鐘  深山 何処の鐘ぞ
泉聲咽危石  泉声 危石に咽ぶ
日色冷青松  日色 青松に冷やかなり
薄暮空譚曲  薄暮 空譚の曲
安禪制毒龍  安禅 毒竜を制す
--王維 [過香積寺] (岩波文庫 [王維詩集] 岩波書店。東京 1972年。p.152)

においても、「泉聲咽危石」は「きりたつ岩にむせぶ泉の音」(岩波文庫 p.153) と解釈するより「切り立つ岩に早瀬が当たってむせんでいる」とした方が良いように思える。

こうした機微は、江戸時代の漢詩人には、皮膚感覚として理解されていたのかもしれない。管茶山が、其の死 (1827年) の数日前に詠じたという [病中即事] には

月露秋容嫩  月露 秋容嫩く
風軒暮色敷  風軒 暮色敷く
少間離病蓐  しばし病蓐を離れ
俄頃隠書梧  いささか書梧に隠(よ)る
幽澗泉声小  幽澗 泉声小にして
遙村火影孤  遙村 火影孤なり
従茲経幾日  これより幾日を経べし
転惜此宵徂  転た惜し 此の宵の徂くを
--病中即事

とあるそうだが、この「幽澗泉声小」は、人気(ひとけ)の無い谷川に水が音低く流れていることを描いているのだろう。

[太宝山] は未詳。所謂 [嵩山] は、かって [太宝山] と呼ばれたことがあったらしいが (「嵩山 (SongShan):中国五岳之一。春秋前称太宝山」--地理教師网)、賀蘭暹の詩との関係は何とも言えない。

一応、纏めるならば、「百谷泉聲」とは、「(太宝山の峰峰の合間あいまの)数多くの谷のそれぞれから聞こえてくる早瀬の水音」と謂ったところか。

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2009年5月15日 (金)

「をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを」の英訳

本日未明 (2009/05/15 03:43:19)、キーフレーズ [をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを english] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。リモートホスト名から推測するにアメリカ合衆国東部の大学からのアクセスらしい。恐らくは「をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを」の英訳をお探しなのだと思われる。

後追いで検索してみた所、 (別のオプションや設定では別の結果が出ているかもしれないが) このサイト以外はヒットしなかったのは意外だった。そして残念なことに、このサイトには「をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを」に関連する情報はなかったのだ。

勿論、これは新古今和歌集第一巻に収めされた後鳥羽上皇御製の

見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ
--[新古今和歌集1]36

の詞書だから、新古今和歌集の英訳本 (あることはあるらしい。"The shin kokinshu; the 13th-century anthology edited by Imperial edict. by Heihachiro Honda - Alibris" を参照)には、それが訳出されている可能性が高いが、生憎私は未見で確認することができない。

ただ、次のような感じになるのではないかと思う:

When some vassals were composing Japanese verses in reply to a Chinese poem, the ex-Emperor versed a spring landscape of a province with a river running through:

ついでに、所謂「新古今三夕 (さんせき)」も引用しておこう。

題しらず
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮
--[新古今和歌集4]361 寂蓮法師

心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕暮
--[新古今和歌集4]362 西行法師

西行法師すすめて百首歌よませ侍りけるに
見わせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
--[新古今和歌集4]363 藤原定家

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2009年5月 8日 (金)

續日本後紀第九巻仁明天皇承和七年五月「庚辰。停五日節 以後太上天皇不豫也」

昨日遅く (2009/05/07 23:33:20)、キーフレーズ [庚辰。停五日節 以後太上天皇不豫也] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

或いは、既に目的の情報を得られているかもしれないが、一応書いておくと、この言葉の出典は續日本後紀卷第九の仁明天皇承和七年五月の条にあると思われる。

    参考になるかもしれないサイト:
  1. 久遠の絆ファンサイト IN 台湾新編 續日本後紀卷第九 仁明天皇
  2. XMLの日本古典への応用の試み続日本後紀
  3. 國學院大學デジタルライブラリー続日本後紀 巻五 Page 015

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2009年3月 8日 (日)

長唄「都鳥」: たよりくる 船の内こそ ゆかしけれ 君なつかしと 都鳥...河上遠く 降る雨の 晴れて 逢う夜を 待乳山

数時間前 (2009/03/08 18:43:25) に、キーフレーズ [待乳山、逢ふて、うれしき、あれ、みやしゃんせ] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだが、ここに限らずはかばかしい結果は得られなかったのではなかろうか。

問題のキーフレーズは、恐らく長唄の「都鳥」の一節と思われるので、そちらに重点を移して検索することをお薦めする。

例えば、グーグルで [長唄 都鳥] を検索するとヒットする [nagauta] と云うウェブページが参考になるのではないかと思われる。

その「都鳥」の項に、次のようにあった:

都鳥

(本調子)たよりくる、船の内こそ、ゆかしけれ、君なつかしと、都鳥(合)幾代かここに、隅田川は、往来の人に、名のみ問はれて(合)花の蔭、水に浮かれて面白や(合)河上遠く、降る雨の(合)晴れて、逢う夜を、待乳山、逢ふて嬉しき、あれ見やしゃんせ、つばさ交はしてぬるる夜は、いつしか、更けて、水の音(合)思ひ思ふて、深みぐさ、結びつとひつ、みだれ逢ふたる、よもすがら、早やきぬぎぬの、鐘の声(合)憎やつれなく、明くる夏の夜

解説

 安政二年、二代目杵屋勝三郎の作曲で、清水清玄と桜姫の書き替え狂言である、(以下略)
--nagauta


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2008年3月21日 (金)

Oh, to be in England
Now that April's there,
And whoever wakes in England
See,.....

作者:ブラウニング 出典:"Home thought from Abroad"
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.39

丸谷才一の説明:薄田泣菫の詩「大和にしあらましかば」は、この詩をまねた。しかし、「おお」oh では、あまりしみじみとしない。それで「ああ」としたのだが、これは、「あはれ」 の「あ」に引き摺られたのだろう。

Home thought from abroad
Oh to be in England
Now that April's there,
And whoever wakes in England
Sees some morning, unawares,
That the lowest boughs and the brushwood sheaf
Round the elm-tree bole and in tiny leaf"
While the chaffinch sings on the orchard bough
In England now!
--Robert Browning "Home thought from Abroad"

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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Le vent se lève, il faut tenter de vivre.

作者:ヴァレリー 出典:"Le Cimetière marin"
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.86

Le vent se lève !… il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues ! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !
--"Paul Valéry: Le Cimetière marin" 1920

堀辰雄が、"Le vent se lève, il faut tenter de vivre." を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳したが、「やも」は反語なので、原文の意味に反する。

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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  女をかたらはんとてめのとのもとにつかはしける
かくなんとあまの漁火ほのめかせ磯辺の波の折もよからば

作者:源頼光 出典:[後拾遺和歌集11]607
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.134

口語的な「なん(なむ)」が和歌本体中に使われている例。お姫様を誘惑するために乳母に贈った歌。「かくなん」は乳母のセリフ。
大野晋の解:「お姫様に接近するいい折があったら、『ここです』と、漁火をほのめかせ」

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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