カテゴリー「中国語/漢文/中文」の35件の記事

2009年10月23日 (金)

メモ:河出文庫版 [お楽しみはこれもなのじゃ] (著:みなもと太郎) 所引の「満州国国歌」

漫画家みなもと太郎に [お楽しみはこれもなのじゃ--漫画の名セリフ] と云う傑作がある。これは、映画評論画文集として著名な、そしてやはり傑作である和田誠の [お楽しみはこれからだ--映画の名セリフ] の鮮やかなパスティーシュである一方で漫画の評論としても十分に成立していると云う、アッパレとでも言うしかない放れ業なのだが、ここで、その内容を論ずる余裕はない (ただ、一言当てずっぽうを言っておくと、[お楽しみはこれもなのじゃ] の成功には、日本の漫画には映画評論と同じ手法による批評を受け入れる素地があることが関係しているのだろう)。

ここで書き止めておくのは、[お楽しみはこれもなのじゃ] 中、「上田とし子 [フイチンさん]」からの引用である次の一節とその脚註とへの注意である:

「レンミン三チェンワン♪ レンミン三チェンワン♬ ういーぷ」
 なんのことかわからないのも道理で、これは中国語の歌なのであります*

*読者の手紙によって、これは旧満州国国歌らしいことが判明した。「人民三億人」の字をあてるとか……。(み)
--河出文庫版 [お楽しみはこれもなのじゃ] (1997年4月。東京。河出書房。ISBN4-309-47325-3) p.331
ここで「(み)」とあるのは、「みなもと太郎」の略。

「レンミン」は勿論「人民」でよい ([人民日報] は、ピンインでは "Renmin Ribao" と表記される) が、「三チェンワン」は「三億人」にはならないだろう。ここはごく自然に「三千万」と解釈すべきだ。因みに、「チェン」の方は兎も角も、「万(萬)」を、中国語で「ワン」と読むことは、麻雀牌の中に「萬」の字を印したものを「ワンズ」と呼ぶことがあるから、知っている人も多いだろう。

それに、1930年代から1940年代にかけて、中国東北部の人口が「三億人」であったとは到底思えないから、その点からも「人民三億人」は本当らしくない。

そう思って、ネットを検索してみたら、簡単にウィキペディアの [満州国の国歌] と云う記事を見つけた。それによると、「満洲国の国歌は、国務院佈告として正式に制定された二曲があり、その前にも国歌の為に製作された一曲がある」そうだが、「正式に制定された二曲」のうちの一曲め (国務院佈告第4号により1933年2月24日制定) に「人民三千萬人民三千萬」と云うくだりがあるのだ。この「国歌」(作詞:鄭孝胥。作曲:高津敏・園山民平・村岡楽童) は、「軽快な旋律が中国的な印象を与え、日本語の歌詞がないにもかかわらず、日本人に親しまれた」由。

ついでに、検索していて見かけた記載中から、上記に関連する次項を補足すると、ウィキペディアの [満州国] によれば「1934年の初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた」とのこと。また、YouTube に音源「満州国国歌」がある。

なお、[お楽しみはこれもなのじゃ] には、私が持っている河出文庫版の他に、立風書房版 (1991年) と角川書店版 (2004年) があるらしいが、私は未見。

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2009年8月22日 (土)

メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)

20日夜 (2009/08/20 22:18:31)、キーフレーズ [百谷泉声の意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「百谷泉声」と云うと、素直に読み下すかぎり「百谷の泉声」として、その意味は「百の渓谷には泉から湧き出る水の音 (がする)」ぐらいだろうという気がしたが (勿論「百」は「数が多い」たとえ)、こうした文の「読み下し」と「意味」は、文脈によって可成異なってくるのは当然で、それどころか、私のように無学なものは、文脈をチェックしないと、トンでもない間違いをしでかしがちである。

と云う訣で、取り敢えず「"百谷泉声"」で google 検索してみると、書道教室の「お題」がらみで何件かヒットするのだが、その他に、中国語サイトで、[中华古诗文网] (中華古詩文網) 中の [全唐诗逸] のページがヒットした。

この [全唐詩逸] は日本国内の出版である。唐詩を網羅すべく編纂された [全唐詩] に、残念というべきだろうが、同時に当然ともいえる遺漏の詩句を、市河寛斎が全三巻に纏めたものだ。1804年 (文化元年) 刊。

この [中华古诗文网] によるなら「百谷泉声」は、[贺兰暹 (賀蘭暹)] 作の断片11句の内の一つ:

千峰黛色因晴出 百谷泉声欲暮寒

に含まれる。

元元は、「望太宝山」(「太宝山を望む」だろう) と云う詩の一句だそうな。

で、この読み下しなのだが、実は [全唐詩逸] は、その影印の pdf が、[うわづらをblogで] と云うブログサイトに掲載されている (全唐詩逸.pdf)。それに曰わく:

千峰黛色因晴出
百谷泉聲欲暮寒
千峰の黛色 晴に因って出で
百谷の泉聲 暮なんと欲して寒し

素直な読み下しで、私としても異論はない。これで、「一件落着」と思ったのだが、実は、そうではなかった。

一応、作者の [賀蘭暹] と、題にある [太宝山] の情報を補足しておこうと調べ始めたところ、いつものことながら、ジタバタ騒ぎをする羽目になったのだったのだ。

作者の [賀蘭暹] は、ネットを検索してもはかばかしいデータを得られなっかったが、彼は、氏名と詩断片とのみならば、日本で古くから知られていた詩人だったらしい。何故なら [和漢朗詠集] に、次の2句が見られるからだ (実は、この2句も [全唐詩逸] に収められている。と云うか、むしろ [全唐詩逸] の方が、[和漢朗詠集] から引用したのだろう):

黛色迥臨蒼海上。
泉声遥落白雲中。

(百丈山)
黛色迥(はる)かに 蒼海の上に臨み
泉声遥(はる)かに 白雲の中(うち)に落つ

--[和漢朗詠集 巻下]491「山」
秋水未鳴遊女佩。
寒雲空満望夫山。

(寄所思佳人)
秋水 未だ遊女の佩を鳴らさず
寒雲 空しく望夫の山に満つ

--[和漢朗詠集 巻下]718「遊女」

ここで、私は戸惑ってしまった。[百丈山] の句「黛色迥臨蒼海上。泉声遥落白雲中。」にも「泉声」の語句があるが、これは「泉から湧き出る水の音」と云う解釈には馴染まない(「[全唐詩逸] を覗いた時に気が付けよ」と、自分でも思うのだが、事ほど左様に私は迂闊だと云うことだとでも言うしかない)。

実際、[和漢朗詠集] の通常の注釈では、この「泉」を「滝」と解しているようだ。うーむ。「滝」....

「滝」と言っても、色色で、ナイアガラ瀑布と云ったものは、別範疇として除外するにしても、全てが [華厳の滝] や [那智の滝] のようなものばかりとは限るまいから、あまりこだわる必要はないのかもしれないのだが、「泉」を「滝」とするのにも抵抗を感じたのだ (勿論、ここで言う「滝」とは、日本語の「タキ」のことである。この「滝」を「タキ」の意味に使う用法は、日本独特らしい)。

つまり、私は、「泉声遥落白雲中」や、更に遡って「百谷泉声欲暮寒」の「泉」が、日本語で云う「イヅミ」と解釈するのには問題があることに気付いたものの、それを「タキ」と捉えることにも抵抗を感じたのだった。

「泉」の釈義は、ひとまず措いておくとして、改めて感じなおして見ると、私にとり、この「泉声」の情景としてしっくりするのは、川の最上流部で、流れが速く、水音が確かに聞こえてくると云うものだった (水量の多寡に就いては、どちらでもありうるだろうから、判断を保留しておく)。

と、ここまで考えて、日本語でも、少なくとも、古くは、そうした流れを「タキ」と呼んでいたことに気が付いた。「瀬を早み岩にせかるる滝川の」とは、まさにそうした情景である。コレまた迂闊なことではあった。

話の纏まりが悪くて申しわけない。混乱を避けるために言い直すと、「タキ」と云う表現や概念を排除しないものの、私には、この「泉」が、何よりも「(川の上流部の) 早瀬」のようなものに思えるのだ。

だから、王維の [過香積寺 (香積寺を過る)]
不知香積寺  知らず 香積寺(こうしゃくじ)
數里入雲峯  数里 雲峰に入る
古木無人徑  古木 人径無し
深山何處鐘  深山 何処の鐘ぞ
泉聲咽危石  泉声 危石に咽ぶ
日色冷青松  日色 青松に冷やかなり
薄暮空譚曲  薄暮 空譚の曲
安禪制毒龍  安禅 毒竜を制す
--王維 [過香積寺] (岩波文庫 [王維詩集] 岩波書店。東京 1972年。p.152)

においても、「泉聲咽危石」は「きりたつ岩にむせぶ泉の音」(岩波文庫 p.153) と解釈するより「切り立つ岩に早瀬が当たってむせんでいる」とした方が良いように思える。

こうした機微は、江戸時代の漢詩人には、皮膚感覚として理解されていたのかもしれない。管茶山が、其の死 (1827年) の数日前に詠じたという [病中即事] には

月露秋容嫩  月露 秋容嫩く
風軒暮色敷  風軒 暮色敷く
少間離病蓐  しばし病蓐を離れ
俄頃隠書梧  いささか書梧に隠(よ)る
幽澗泉声小  幽澗 泉声小にして
遙村火影孤  遙村 火影孤なり
従茲経幾日  これより幾日を経べし
転惜此宵徂  転た惜し 此の宵の徂くを
--病中即事

とあるそうだが、この「幽澗泉声小」は、人気(ひとけ)の無い谷川に水が音低く流れていることを描いているのだろう。

[太宝山] は未詳。所謂 [嵩山] は、かって [太宝山] と呼ばれたことがあったらしいが (「嵩山 (SongShan):中国五岳之一。春秋前称太宝山」--地理教師网)、賀蘭暹の詩との関係は何とも言えない。

一応、纏めるならば、「百谷泉聲」とは、「(太宝山の峰峰の合間あいまの)数多くの谷のそれぞれから聞こえてくる早瀬の水音」と謂ったところか。

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2009年5月 8日 (金)

續日本後紀第九巻仁明天皇承和七年五月「庚辰。停五日節 以後太上天皇不豫也」

昨日遅く (2009/05/07 23:33:20)、キーフレーズ [庚辰。停五日節 以後太上天皇不豫也] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

或いは、既に目的の情報を得られているかもしれないが、一応書いておくと、この言葉の出典は續日本後紀卷第九の仁明天皇承和七年五月の条にあると思われる。

    参考になるかもしれないサイト:
  1. 久遠の絆ファンサイト IN 台湾新編 續日本後紀卷第九 仁明天皇
  2. XMLの日本古典への応用の試み続日本後紀
  3. 國學院大學デジタルライブラリー続日本後紀 巻五 Page 015

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2008年9月 1日 (月)

「先生」・「先生」・「先生」の聲

[nouse: 英文版ウィキペディア "Born coordinates" 導入部、第1節-第3節翻訳草稿] (2008年8月2日[土]) を書いていて、サニャック効果 (Sagnac effect) とは時空多様体を「空間」上のファイバーバンドル (fiber bundle) と捉えた時のホロノミー (holonomy) なのだと気付いたのだったが、少なくとも日本の「知的状況」では (と云う書き方もオゾマシイほど初歩的なことなんだが、まぁとにかく)、一般的に認識されていないようなので、微分幾何学の初歩の復習も兼ねて、ファイバーバンドルの理論をホロノミーの所ぐらいまで纏め始めたのだったが、これが例によって難渋している。

書きはじめる前の予定では、8月中旬には (ハッキリ書くと「8月11日」) 脱稿・ ポストだったのが、今日は既に8月末日である。

しかも昨日当たりから、当初は全く書くつもりのなかった「層 (sheaf/faisceau)」のことを、、極めて簡単ながらも (取り敢えず「層係数のコホモロジー」ぐらいに就いては) 触れる必要があることに気が付いた。しかし、幾ら「簡潔」と云っても、「1」のことを書こうとしたら、少なくとも「20」とか「30」ぐらいのことは調べたり考えたりする必要がある。そして、それだけ苦労しても、しばしば手ひどい過ちをするのが、私のような愚かな人間には通例なので、手を抜くわけにはいかないのだ。まだ、しばらく泥沼状態が続きそうである。

なんだかガッカリしてしまった。

そう云うわけで、今日は作業に手が着かず、バックレてしまって、カテゴリー「『日本語で一番大切なもの』」のなかの記事の内部リンクを補足したり、大意を書きたしたりし始めたのだったが、「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも (天武天皇 [万葉集1]21)」の大意を書こうとして、とたんに行き詰まってしまった。

「恋ひめやも」が反語であることはともかく、「憎くあらば」は何なのだろう。

勿論、贈歌は言わずと知れた「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる (額田王 [万葉集1]20)」なんだが、この贈返二歌、微妙に照応していない。

恋愛の上でのことだから、「ズラシ」は基本的な作法でありうるのだが、だとしたら、背景に「事件」があったことを想像してしまう。

素直に受けとるならば、二人の間に、「女」の側からすれば、「男」から嫌われたかもしれないと考えたとしても不思議でない「事件」があったことになる。

さらに厳密に言うならば、これは「男」の発想内での「事件」なのだ。つまり、男の発想では「『女』の側からすれば、『男』から嫌われたかもしれないと考えたとしても不思議でない『事件』があった」。

「男」は、「女」の「不安」を劇的に解消するために、「野守」が監視している「標野」で、「女」に対して「袖を振る」と云う愛情表現をすると云う無謀なことをワザとする (cocu は、クニの支配者である)。

「女」は、「男」の行為に呆れたのか、感激したのか、そのどちらかであるかは、実は恋愛の相のもとでは、あまり意味がないので、重要なのは、「男」の関係修復を願うサインを受け入れたことを示すための優位の姿勢で、「男」をたしためたと云うのが、「[万葉集1]20」だ。「野守が見ていないとでも言うのですか?」

これに対する「男」の返歌は、「女」の贈歌に直接答えていない。自分は「女」を嫌っていないと云う、当面の最重要メッセージを伝えることに終始している。「美しい女性よ。あなたに腹を立てているのだとしてら、人妻であるあなたを何とかして手に入れたいなどと思うでしょうか?」

勿論、「事件」を、単純に、「女」が「人妻」になったと云う事実であると捉えることは可能なのだが、実は、それ以外の何かがあったような気もするのだ。しかし、そうなると、結局「憎くあらば」をどう解釈するかと云う問題に戻ってしまう。

思案投げ首していたら、窓の外から、この雨続きで肌寒い一週間ばかり聞こえていなかったクマゼミの鳴き声が「シャン・シャン・シャン」と聞こえてきた。物理/数学も不可、万葉も不可である私を「先生・先生・先生」と嗤わっているようだ。

     大窪詩佛
古松林裏聽蟬鳴
先生先生先生聲
聲聲似把先生笑
莫笑先生老遠行
三十年來舊遊地
白首重來幾先生


富士川英郎 (「江戸後期の詩人たち (1973年)」) によれば、常陸国多賀郡大久保に生まれ、江戸神田お玉ヶ池に詩佛堂を営んだ詩人が紀州に旅をしたときのこの詩 (題はないらしい) の「蟬」は「おそらく熊蟬だろう」と云うことだ。おそらく、彼の耳に、このセミの鳴き声は耳新しかったのだろう。そう言えば、やはり関東に生まれ、いまもその住人である私にとっても、「シャン・シャン・シャン」は、幼年時代聞かなかったような気がする。

詩を詩佛に倣おうとは思わないが、それでも、ここはやはり蝉どもに対して、「嗤ふなかれ小生の老いて遠行することを」と言っておきたい。


駄文を弄しているうちに、日付が変わってしまった。もともと、原稿が書きあぐねたすさびに書き始めた文章だから、それも当然か。「莫笑」。

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2008年5月 6日 (火)

「円鑿方枘」?

先程 (2008/05/05 21:01)、このサイトに、キーフレーズ [円鑿方枘 史記] で訪問された方がいらしたようだ。

まことに大きなお世話なのだが、[円鑿方枘 史記] でも、それなりのことは分かるであろうけども、しかし、これは少し変更して検索しなおされた方が収穫が多いのではないか?

なぜなら [円鑿方枘] は、[nouse: 『史記:孟子荀卿列伝』に就いて] で引用した「持方枘欲內圜鑿」(方枘 [ホウゼイ] を持って圜鑿 [エンソウ] に內 [い] れんと欲す) に関わると思しいからだ。少なくとも、中国語のサイトでは「円鑿方枘」と云う表記よりも、「圜鑿方枘」(圜凿方枘) や「圓鑿方枘」(圆凿方枘) と表記されている可能性が大きいと考えられる。

勿論、日本語では「圓」と「円」は通用するから、[円鑿方枘] でもヒットする日本語サイトは存在するだろうが、『史記』(史记) のテキストとの整合性は少しく失われてしまうだろう。

ちなみに、「持方枘欲內圜鑿」は「四角いホゾを丸いホゾ穴に入れようとする」ぐらいの意味。

なお、『楚辭』所収の」(宋玉が作ると伝えられている)「九辯」中に「圜鑿而方枘兮 吾固知其鉏鋙而難入」(圜鑿 [エンソウ] にして方枘 [ホウゼイ]、吾固 [もと] より其の鉏鋙して入り難き知をる) とある。

さらに屈原の「離騷」中には「不量鑿而正枘兮 固前脩以菹醢」(鑿 [ソウ] を量らずして枘 [ぜい] を正す、固 [まこと] に前脩以って菹醢 [しょかい] にせらる)と云う句が見られる。

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2008年4月14日 (月)

『雪濤小說』(明・江盈科) 中の「鼠技虎名」

今日、午後 (2008/04/14 16:14:51)、キーフレーズ [雪 小説 楚人 虎 鼠] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

これだけで喋喋するのは、まさしく「大きなお世話」と言うべきだろうが、一応書いておくと、明代の江盈科が著わした『雪濤小說』中の「鼠技虎名」あたりが参考になるのではないかと思う。一応、ネット上に見られるテキストを再録しておこう:

鼠技虎名
  楚地的人稱老虎為老蟲,蘇州人稱老鼠為老蟲。我在長洲做縣令的時候,因為有事到了婁東,住在客棧裡,把燭吹滅我就睡了。忽然聽得碗碟叮噹有聲,我便問看門的童子是怎麼回事,童子答道:「是老蟲鬧騰。」我是楚地人,一向稱老虎為老蟲,聽說是「老蟲」,很是害怕,說:「城裡怎麼會有這種野獸?」童子說:「不是別的獸,是老鼠。」我問他:「老鼠為什麼叫老蟲?」童子說這是吳地的風俗,世世代代都是這麼叫這麼傳下來的。
  啊哈!老鼠冒老虎之名,致使我嚇得要逃走,真是可笑。然而今日天下冒虎名以欺世的也真不少:那些堂而皇之戴官帽穿官服掌大印披綬帶的有權有勢的人,果真能阻止邪惡萌生、抑制權貴、打擊豪強嗎?軍營之內,那些戴高帽、佩長劍,左邊拿著斧鉞右邊握著大旗的人,威風凜凜,但能夠抵禦強盜,北阻北鄰部落入侵,南擋南方部族冒犯,如同古代良將孫武、吳起、王翦那樣的有勇有謀嗎?猛然間聽到這些文臣武將的大名,真可謂大名鼎鼎,聲震遠近,令人懼怕得很,如同見了老虎一般;但慢慢地就品出味道來了,這些人充其量,不過是玩弄鼠輩的伎倆而已。哎!那些以鼠輩伎倆,而冒充虎之威名的權黨們,都是騎在民眾頭上作威作福的鼠輩啊,這關係到天下危亡的大事怎麼能不叫人擔憂呢?
——明﹒江盈科《雪濤小說》
--熾天使書城--- 嘲諷類

『雪濤小說』は、2004年の大学入試センター試験に出たらしいから、ご存じの方も多いだろうが、浅学懶惰な私には「江盈科」も『雪濤小說』も初耳だった。

一応、『雪濤小說』は寓話文学に位置づけられるらしいのだが、「鼠技虎名」の内容は、「寓意」への繋げ方が強引すぎるきらいがあるとは言え、現代日本の「ライトエッセイ」に近いかもしれない。あるいは、もう少し酷なことを言うなら、現代日本の新聞にみられる「天声人語」風の詰まらない雑文にも似ている (瞥見による比較の限りでは、「天声人語」はまだマシな方だけれども)。

おそらく、これは江盈科の実体験であったのだろう。彼は、「桃源の人」つまり、「楚地人」である。しかし、ここで、「楚地」と「蘇州」との文化的格差に就いて論じるのは、私の手に余るし、また、この文章を素材にしても、(私自身の非才は無視して言うのだが)大したことは出来なそうな気がするので、やめておくことにしよう。

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2008年3月27日 (木)

"May the Force be with you" (「フォースのともにあらんことを」) を色色な言語で言うと

このまえ、"May the Force be with you." (「フォースのともにあらんことを」) を、スウェーデン語で何と言うかと云う記事を書いた ([nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をスウェーデン語で言うと] 2008年3月2日[日])。昨年は、ドイツ語で何と言うかに就いても書いてある (nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をドイツ語で言うと 2007年2月23日[金])。

それぞれ、そう云う目的でこのサイトを訪問されたらしい方がいらしたために、余計なお世話を焼いたに過ぎない。

しかし、スウェーデン語とドイツ語 (そして、英語) が分かると、その他の言語では何と言うのか気になってくる。そこで、以下簡単に纏めておく。

ただし、「定訳」が存在していないこともありうるし (このような「決め文句」は、文脈上特段の理由がない限り「定訳」が採用するのが好ましい)、また少なくとも一部の印欧系の言語では第二人称の単複と、それに伴う親称・敬称 (もしあれば) の扱いが問題になるのだが、何れもほぼ考慮せず、ネットで発見してものを収集したにとどまる。

それでも、印欧系言語で第二人称単数親称を使った表現らしいものが見つかった場合は、それが最初に来るようにはした。それは "May the Force be with you" が、基本的には使命を帯びて旅立つ者への「はなむけの言葉」であるからだ ([マタイ]28:20 参照。ただし、そこでのイエスの言葉は1人ではなく11人に言われているけれど)。

引用句の最後はピリオドではなく感嘆符とする例も多多あるのだが (スペイン語では文頭にも付くこともある)、以下では一切付けていないので、適宜補って読んで戴きたい。

イタリア語: Che la Forza sia con te. / Che la Forza sia con voi. / Che la Forza sia con lei. / Che la Forza sia con loro.
スペイン語: Que la Fuerza te acompañe. / Que la Fuerza esté contigo. / Que la Fuerza os acompañe. / Que la Fuerza esté con vosotros. / Que la Fuerza esté con ustedes. / Que la Fuerza lo acompañe. / Que la Fuerza les acompañe.
フランス語: Que la Force soit avec toi. / Que la Force soit avec vous.
ポルトガル語: Que a Força esteja contigo. / Que a força esteja com você. / Que a Força esteja convosco. / Que a força esteja com vocês.

ドイツ語: Möge die Macht mit dir sein. / Möge die Macht mit euch sein. / Möge die Macht mit Ihnen sein.
オランダ語: Moge de kracht met je zijn. / Moge de kracht met jou zijn. / Moge de kracht met u zijn. / Moge de kracht met jullie zijn.

スウェーデン語: Må kraften vara med dig. / Må kraften vara med er.
デンマーク語: Må Kraften være med dig. / Må Kraften være med jer.
フィン語 (フィンランド語): Olkoon Voima kanssasi.
ハンガリー語: Az Erö Legyen Veled.

ギリシャ語: Η Δύναμη μαζί σου. / Η Δύναμη να είναι μαζί σου
ラテン語: Vis tecum sit. / Sit vis vobiscum. (2009-09-24 [木]:"nobiscum" を --vobiscum-- に訂正。)

ロシア語: Да пребудет с тобой Сила. / Да пребудет с Вами Сила.

ポーランド語: Niech Moc będzie z tobą. / Niech Moc będzie z Wami.
クロアチア語: Neka Sila bude s tobom. / Neka je Sila s tobom. / Neka Sila bude s vama. / Neka je Sila s vama.
ブルガリア語: Нека силата бъде с теб. / Нека силата бъде с вас.

中国語: 愿原力与你同在。/ 願原力與你同在。
韓国語: 포스가 함께 하기를。 / 포스가 당신과 함께 하기를 빌겠소。

トルコ語: Güç seninle olsun.

ヘブライ語では何というかに就いては調べがついていないので宿題としておこう。例えば "הכוח" "מלחמת הכוכבים" の組み合わせ (「スター・ウォーズ」と「フォース」) で検索してみたが、はかばかしい結果が得られなかった。

補足 (2008-04-30 [水]):
その後、"יהיה הכוח אתכם" で google 検索してみたところ、1件ヒットした (DEMONS: Under the Sink)。また "יהיה הכוח אתך" では1件もヒットしなかった。

2008-05-19 [月]: "יהי הכוח אתכם" でも1件ヒットする。それは、やはり "Demons: Under the Sink" 中の記事だが、別のページ (Reviews Master)である。更に、"יהי הכוח עמך" と云う言い方もありうる。これは数件ヒットするようだ。おそらく「フォースのともにあらんことを」のヘブライ語訳としては、この二つが最も「それっぽい」のではないか (文脈によっては、対象が二人称複数の形にしてもよいだろう)。

"יְהִי כֵן יְהוָה עִמָּכֶם" ([出エジプト記]10:10) が参考になるかもしれないので、ここに書き留めておく。

参考になるかもしれないサイト:
1. Force (Star Wars) - Wikipedia, the free encyclopedia
2. הכוח (מלחמת הכוכבים)

「"May the Force be with you" を色色な言語で言うと」は、「ネタ」としては平凡なものであるので、同主題で既に幾つもの記事が書かれている。そのうちの一つだけを引用しておく:
[Somewhere in the Middle: Que la Fuerza te acompane!]

このブログ記事は、[nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をスウェーデン語で言うと] と [nouse: 「フォースのともにあらんことを 」("May the Force be with you.") をドイツ語で言うと] の他に次の記事にも関連する:
1. [nouse: "May the Force be with you."に就いて] (2004年8月6日[金])
2. [nouse: NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1997年7月3日?)] (2004年7月16日[金])

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2008年2月 4日 (月)

中国語で「シアノ基」は

本日 (2008/02/04 15:40:30)、キーフレーズ [シアノ基 中国語] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。おそらくは、「シアノ基」が中国語で何と言うかのか、お調べだったのだと思う。

役に立つかどうか分からないが、「氰基」あたりではないかと思う。次のサイトを参照:

ちなみに「ニトリル」は「」というらしい。

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2007年12月21日 (金)

[幽明録 天台二女] に就いて:訳文

半年ほど前 (2007年6月19日[火]) に [nouse: [幽明録 天台二女] に就いて:太平広記[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]テキスト] では、[幽明録 天台二女] の原文テキストをポストしただけで終わっていたが、[nouse: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること:「非関水雨能留客」か「非関小雨能留客」か?] (2006年12月 4日[月]) でも触れたように、この説話は、[リップ・ヴァン・ウィンクル-浦-浦島太郎] 型であって、その視点から、かねがね再論するつもりであった。そこで、今回訳文を作成して、少しだけ話を進めておくことにする。

最初に、テキストに就いて説明しておかねばなるまい。ご存じの方も多いだろうが『幽明録』のオリジナルは早くから散逸している。しかし、その佚文は『太平広記』や『太平御覧』などの他書に引用されて現在に伝わっている。[nouse: [幽明録 天台二女] に就いて:太平広記[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]テキスト] に示したのものも、その類いである訣で、以下、これに基づいて議論を行なう。印刷による注釈本のたぐいによるチェックはしていない。

岩波文庫の『唐宋伝奇集』の解説にもあるように「唐代の伝奇小説は、北宋初期に編纂された『太平広記』に大部分が収録されて」(岩波文庫『唐宋伝奇集(下)』p.380) いるから、信頼できるテキストの確定ができない状況と云うのは、私としても慚愧に耐えないのだが、諸事情から如何ともしがたいので、以下、其の程度の物だとおもって御覽いただきたい。

いきなり脱線するが、『太平広記』と言えば、石田幹之助が、その著『長安の春』の序文に於いて「顧(おも)うに『太平広記』五百巻、『全唐詩』四万八千首、それを片端から読んで見たところで問題によってはこれだけの材料しか出ないのかと思うとばかばかしくもあり」と、羨むべき自嘲を行っている、まさにその書である。

[nouse: [幽明録 天台二女] に就いて:太平広記[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]テキスト] 中の4つのテキストのうち、まず基本として4番目の「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」を翻訳を試みる。ちなみに、このテキストは魯迅の校勘になるものらしい(『古小說鉤沈』所収)。

刘阮遇仙

汉明帝1)永平五年2),剡县3)刘晨、阮肇共入天台山4)取谷皮5),迷不得返。经十三日,粮食乏尽,饥馁殆死。遥望山上,有一桃树,大有子实;而绝岩邃涧,永无登路。攀援藤葛6),乃得至上。各啖数枚,而饥止体充。复下山,持杯取水,欲盥漱。见芜菁叶7)从山腹流出,甚鲜新,复一杯流出,有胡麻饭掺8),相谓曰:“此知去人径不远。”便共没水,逆流二三里9),得度山10),出一大溪,溪边有二女子,姿质妙绝,见二人持杯出,便笑曰:“刘阮二郎,捉向所失流杯来11)。”晨肇既不识之,12)缘二女便呼其姓,如似有旧,乃相见忻喜。问:“来何晚邪?13)”因邀14)还家。其家铜瓦屋。南壁及东壁下各有一大床,皆施绛罗帐15),帐角悬铃,金银交错,床头各有十侍婢,敕云:“刘阮二郎,经涉山岨16),向虽得琼实17),犹尚虚弊18),可速作食。”食胡麻饭19)、山羊脯、牛肉,甚甘美。食毕行酒20),有一群女来,各持五三桃子21),笑而言:“贺汝婿来。”酒酣作乐,刘阮欣怖交并22)。至暮,令各就一帐宿,女往就之,言声清婉,令人忘忧。至十日后欲求还去,女云:“君已来是,宿福所牵23),何复欲还邪?”遂停半年。气候草木是春时,百鸟啼鸣,更怀悲思24),求归甚苦。女曰:“罪牵君,当可如何?”遂呼前来女子,有三四十人,集会奏乐,共送刘阮,指示还路。既出,亲旧零落,邑屋改异,无复相识。问讯得七世孙,传闻上世入山,迷不得归。至晋太元八年25),忽复去,不知何所。

漢の明帝の永平五年のことである。剡(シャン)県の劉晨と阮肇はコウゾの樹皮を採るため一緒に天台山に入ったが、迷って戻れなくなった。十三日過ぎると食料も尽き、餓死せんばかりになったが、遠くの山上に一本の桃の樹があり、多くの実がなっているのが見えた。岩は切り立ち谷川は奥深く、登るための道は全く無かったが、葛のツルに縋りながらよじ登っていくことで、上まで辿り着くことができた。幾つか食べると空腹は収まり満足したので、山を下り戻り、椀で水を掬って手や口を濯ごうとしたが、見ると、青々としたカブラの葉が山腹から流れ出てくる。さらに椀も一つ流れ出てきたが、その中には胡麻と飯粒が入っていた。二人は「これは、人のいる所から遠くないと云うことだぞ」と言い合って、ともに水に入り、流れに逆らいながら二・三里ほどいくと、山を越えることができて、大きな渓流に出た。そのほとりには、たとえようもなく容姿の優れた女が二人いて、劉晨と阮肇が椀を持ってやってくるのを見るや、笑って「流してしまったお椀を、劉さんと阮さんのお二人がすぐに持って来てくれたわ」と言った。劉と阮には理由が分からなかったが、旧知の中のように二人の女は姓を呼び、そして逢えたことを大いに喜んだのである。二人の女が、「今晩いらっしゃらない?」と聞いてきたので、劉と阮は、招待に応じて女たちの家に附いて行くのだった。その家の屋根は銅葺きで、南の壁と東の壁の下には各々大きな寝床があって、それぞれの寝床には、角に鈴が付いていて金銀入交じりの縫い取りのある紅絹(もみ)の帳(とばり)が懸けてあった。枕頭には、それぞれ侍女が十人控えていたが、そのものたちに「劉さんと阮さんのお二人は、険しい山中を通って来られたのです。桃の実を食べたばかりですけれど、まだお疲れで身体が弱っておいでです。急いでお食事を作りなさい」と命じた。食事には、胡麻餅、ヤギ肉の干したもの、牛肉が出て、はなはだ美味であった。食事が了わると、酒が出された。各々数個の桃の実を持った女達が現われ、笑いながら言うには「貴女に御婿さんが出来ておめでとう。」酒がすすんで朗らかになり、劉と阮は、喜びと怖れとを交々味わったのである。日が暮れると、劉と阮は、それぞれ寝床に寝かされた。女も床をともにしたのだが、その言葉とその声は清らかで淑やかであり、人をして憂いを忘れしめるものだった。十日が過ぎて、帰ろうとすると、女は「貴方が此処にいらしたのは、前世からの果報が貴方を此処に引き寄せたのです。どうして帰ろうなどとするのですか?」と言うので、半年の間留まった。気候も草木も春となったことを示し、さまざまな鳥が鳴いて、望郷の想いは更に募り、帰りたいと云う気持ちがひどく苛まれるようになった。女は言った。「罪業が貴方を牽いていくのだから如何しようもないわ。」ついに女は以前来た女達を呼ぶと、三・四十人が集まって、音楽を演奏して、一緒に劉と阮とを見送り、帰り方を教えるのであった。帰ってみると、親戚友人は零落しており、町の家々は別のものに替っていて、知人もいなかった。問いたずねて、七代目の子孫が、先祖が山の中に入り、迷って返って来れなかったと云う話を伝え聞いていることを知った。晋の太元八年になって、再び忽然と姿を消したが、どこに行ったかは分からなかった。

1)漢明帝:明帝(めいてい 28年-75年、在位57年-75年)は、後漢(現在は「東漢」とも)の第2代皇帝(孝明帝)。中文版ウィキペディア「汉明帝」も参照のこと。

2)永平:後漢明帝下の元号。58年(戊午)-75年(乙亥)。「永平五年」は62年に相当する。

3)剡县(剡縣):現在の浙江省紹興(地級)市内の嵊州(県級)市に当たる。百度百科「嵊县」も参照のこと。

4)天台山:浙江省台州(地級)市天台県の北部にある山。天台宗の発祥地。台州市は紹興市の東南に接し、また東方が東シナ海に開いている。百度百科「天台山」も参照。

5)谷(穀):カジノキ(Broussonetia papyrifera Vent.)。クワ科の落葉低木樹。「谷皮(穀皮)」は、その樹皮。劉晨、阮肇が何の目的で、「谷皮(穀皮)」を得ようとしたのかは文面からは不明。カジノキやコウゾは、現在製紙原料として用いられるが、製紙法の発明者とされる蔡倫は、まさに後漢時代、永平年間から始まってから第二代明帝・第三代章帝・第四代和帝等へと仕えていった人物で、製紙法の発明は105年(和帝期末)とされている。話が微妙なのは、蔡倫以前の前漢時代から植物繊維由来の「紙」が利用されていることだ。私には判断がつかない。ただし「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」の注では「它(谷皮)的纤维可以织布,也可以作纸浆。」と言うておる。ちなみにコウゾの学名は Broussonetia kazinoki Sieb. でカジノキと近縁種(シーボルトがコウゾとカジノキを混同したほど)。コウゾはカジノキとヒメコウジ(Broussonetia kazinoki)との雑種と云う説もある(日本語版ウィキペディア)。ちなみに「日本の和紙業界が現在原料として使うコウゾは約8割がタイからの輸入カジノキである(タイの文献側には1930年代にカジノキの白皮を輸出したという記録が残っている)そのタイも現在ではラオスからの輸入に仰ぐようになっている。(メコン圏に自生するカジノキ)」だそうな。取り敢えずの翻訳としては「穀皮」は、「コウゾの樹皮」とするのが、読者を distract しなくてすむから良いかなどと思う。

6)藤葛:「葛」も「葛藤」も「クズ (Pueraria lobata)」を意味する (「フジ」は含まれない) が、では「藤葛」はどうかと云うと、やはり「クズ(葛)」を意味するようだ。では「フジ」は中国語で何と呼ばれているかが問題になるが、これは例えば「紫藤 (Wisteria sinensis)」になるようだ(別名あり)。ただし、日本産の「フジ (Wisteria floribunda)」とは若干異なる。「紫藤」の生態は、私は無知だが、日本産の藤と同様なら、そのツルは木の枝から垂れ下がる筈で、切り立った崖をよじ登るのには向かないような気がする。「葛」は勿論、好適だろう。

7)芜菁(蕪菁):日本語での所謂「蕪(カブ又はカブラ)」のこと。というか、日本語でもカブ・カブラを「蕪菁」と表記することはある。「叶」は「葉」。

8)胡麻饭掺(胡麻飯糝):「胡麻」には、所謂「ゴマ」の他に「アマ(亜麻)」の意味があるらしいが、はたしてどちらか? ただし「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」の注によれば「芝麻」、つまり「ゴマ」。「掺」は「糁」に読み替えた。「饭糁」は「飯粒」。なお「胡麻饭掺」は「胡麻饭」+「掺」ではなく「胡麻」+「饭掺」と解釈した。

9)二三里:「里」は歴代長さが変わるので、数値は特定できないが、指呼の間ではないだろう。かと言って、「二三里」が、余り長距離であるのは文脈に堪えられない。しかし、そもそも、ここで「二三里」と云う具体的な数値が出てくることの方が興味深い。

10)得度山:「度」は「渡」とと通ずるから、「山を越えることができた」と云うことだろう。「苦労しながら」と云うニュアンスがある。

11)捉向所失流杯来:「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」の注によれば「刚才」。もしそうだとすると、つまり「今さっき」とか「たった今」と云う意味。

12)晨肇既不识之,缘二女便呼其姓(晨肇既不識之,緣二女便呼其姓):この位置に有る「缘」は意味不明。「之,缘」ではなく「之缘,」と切るなら、「劉と阮には理由が分からなかったが、二人の女は旧知の中のように姓を呼んだ」と、ある程度は意味が通じるので、そのように訳す。

13)来何晚邪?:直訳すると「どの晩に来るのか?」だが、「今晩来ないか?」と云う含みが有る。字面としては晩餐に招待しているとみることができるだろう。

14)邀:「招待」

15)絳羅帳:「絳」は「真紅の」。「羅」は「紗」や「絽」のような織物。一応「紅絹(もみ)の帳(とばり)」と訳しておく。

16)山岨:「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」の注によれば「山里险峻难行的地方」のことで、「岨」とは「戴土的石山」だそうだ。

17)琼实(瓊實):ようするに、劉・阮が山上で食べた「桃の実」のことだが、単純な美称であるか、あるいは西王母の蟠桃のような、より具体的な内容をもっているものなのか判断がつかない。今のところは「桃の実」と訳しておくしかあるまい。ただ、劉・阮が食べた「桃の実」は、平たく丸い物を数える「枚」で数えられていることに注意。実は、蟠桃も「枚」で数えられることがある。漢の武帝が、西王母に蟠桃を賜わったと云う故事があるが、それは次のようなものである:

漢武故事曰.東郡獻短人.呼東方朔.朔至.短人因指朔謂上曰.西王母種桃.三千歲一為子.此兒不良也.已三過偷之矣.後西王母下.出桃七枚.母因噉二.以五枚與帝.帝留核著前.母問曰.用此何.上曰.此桃美.欲種之.母笑曰.此桃三千年一著子.非下土所植也.
--中央研究院 漢籍電子文獻/選自【古籍三十四種】/藝文類聚/第八十六卷 果部上/桃 - 1467 -

もっとも、[漢武帝內傳] では、以下のようになっているらしい:

又命侍女更索桃果,須臾,以玉盤盛仙桃七顆,大如鴨卵,形圓青色,以呈王母。母以四顆與帝,三顆自食。桃味甘美,口有盈味。帝食輒收其核,王母問帝,帝曰:「欲種之。」母曰:「此桃三千年一生實,中夏地薄,種之不生。」帝乃止。
--詩詞典故:王母桃

18)虚弊:「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」の注によれば「身体虚弱疲惫」を指す。「身体が疲労衰弱している」(「虚弱」が「衰弱」。「疲」も「惫」も「疲れる」の意。)

19)胡麻飯:「吃在武夷山」(下記引用参照) に記されている「胡麻飯」と同一のものであるならば、それは、極上等なモチ米に水を含ませてから蒸し、石臼に入れて木槌でつき崩し、捏ねて小さい塊にしたものに、上質なゴマ・白糖を混ぜ込んだものである。一応「胡麻餅」と訳しておく。ここで、注意すべきは、多くの武夷山伝説で、神仙が里人を持てなすのに必ず「胡麻飯」を使っていることで、そのために「神仙飯」とも呼ばれると云うことである。「天台二女」において、劉と阮の晩餐の筆頭に「胡麻飯」が挙げられていると云うことは、「天台二女」が神仙であることの伏線になっている。

胡麻飯是武夷山最遠古的傳統小吃,俗稱麻餈稞。以上好的糯米用水浸透後蒸熟,置石臼中用木槌打爛、揉成小團,拌上芝麻、白糖,香甜可口,食後很久都有「飽肚感」。在不少武夷山神話傳說中,神仙都用胡麻飯招待鄉人,被稱為「神仙飯」。吳屯的金餈(以柴灰淋水浸糯米)、金粽,星村、興田的白稞也都和胡麻飯一樣講究糯、甜、滑的風味。 --吃在武夷山

20)行酒:「酒を勧める」

21)五三桃子:「五三」は「三乃至五」ぐらいの概数。「数個の桃の実」と訳しておく。概数を表わすのに、大きい数字を先行させることがあるのである。

22)欣怖交并:「喜びと恐怖を交々味わった」と云うことか?

23)宿福所牵:「天台山文化/民間伝説/劉阮遇仙」の注によれば「前生的福气把你牵引到这儿来的」。「前世からの果報が貴方を此処に引き寄せたのです」

24)悲思:「望郷の想い」だろう。(「鬱鬱多悲思,綿綿思故鄉」三國·魏·曹丕[雜詩])

25)晋太元八年:「太元」は東晋孝武帝 (こうぶてい、362年 - 396年、在位は372年 - 396年) 下の年号。「太元八年」は 383年に相当する。


[nouse: [幽明録 天台二女] に就いて:太平広記[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]テキスト] 中の4つのテキストのうち、1番目のもの2番目のものは、両方とも依った『太平広記』が「明鈔本」と註してあり (1番目は「出《神仙記》。明鈔本作出《搜神記》」、2番目は「明鈔本《太平廣記》六一」)、微妙に異なるがほぼ同一である。以下に、2番目のテキストを訳出しておく。

太平廣記 卷第六十一 女仙六 [天台二女]
劉晨、阮肇,入天台采藥,遠不得返,經十三日飢。遙望山上有桃樹子熟,遂躋險援葛至其下,?數枚,飢止体充。欲下山,以杯取水,見蕪菁葉流下,甚鮮妍。复有一杯流下,有胡麻飯焉。乃相謂曰:“此近人矣。”遂渡山。出一大溪,溪邊有二女子,色甚美,見二人持杯,便笑曰:“劉、阮二郎捉向杯來。”劉、阮惊。二女遂忻然如舊相識,曰:“來何晚耶?”因邀還家。南東二璧(南東二璧原作雨璧東壁,据明鈔本改。黃本作西璧東璧)各有絳羅帳,帳角懸鈴,上有金銀交錯。各有數侍婢使令。其饌有胡麻飯、山羊脯、牛肉,甚美。食畢行酒。俄有群女持桃子,笑曰:“賀汝婿來。”酒酣作樂。夜后各就一帳宿,婉態殊絕。至十日求還,苦留半年,气候草木,常是春時,百鳥啼鳴,更怀鄉。歸思甚苦。女遂相送,指示還路。鄉邑零落,已十世矣。(出《神仙記》。明鈔本作出《搜神記》。)

佚文:十五 劉晨阮肇入天台
劉晨、阮肇入天台取穀皮,遠不得返。經十三日,飢。遙望山上有桃樹,子實熟。遂躋險援葛至其下,噉數枚,飢止體充。欲下山,以杯取水。見蕪青26)葉流下,其鮮新。復有一杯流下,有胡麻焉。乃相謂曰:「此近人家矣。」遂渡山,出一大溪。溪邊有二女子,色甚美。見二人持杯,便笑曰:「劉、阮二郎捉向杯27)來。」劉、阮驚。二女遂欣然如舊相識曰:「來何晚耶?」因邀還家。南、東二壁各有絳羅帳,帳角懸鈴,上有金銀交錯。各有數侍婢使今28)。其饌有胡麻飯、山羊脯、牛肉,甚美。食畢,行酒。俄有群女持桃子,笑曰:「賀汝婿來。」酒酣作樂。夜後各就一帳宿,婉態殊絕。至十日,求還,苦留半年。氣候草木是春時,百鳥啼鳴,更懷鄉,歸思甚苦。女遂相送,指示歸路。既還,鄉邑零落,已十世矣。(一)(明鈔本《太平廣記》六一)

劉晨と阮肇はコウゾの樹皮を採るため天台山に入ったが、遠出をしすぎて戻れなくなり、十三日過ぎて、飢えてしまった。遠くの山上に桃の樹があり、その実が熟しているのが見えたので、険しい地形を葛のツルに縋りながら登っていくと、樹の下に辿り着けた。幾つか食べると空腹は収まり満足したので、山を降りるつもりで、椀で水を掬ったが、見ると、青々としたカブラの葉が流れ下りてくる。さらに椀が一つ流れ下ってきたが、その中には胡麻が入っていた。二人は「近くに人家があるぞ」と言い合って、山を越えていくと、大きな渓流に出た。そのほとりには非常に美しい顔だち女が二人いて、劉晨と阮肇はが椀を持っているのを見るや、笑って「劉さんと阮さんのお二人が、すぐにお椀を取って来てくれたわ」と言ったので、劉と阮は驚いたのであった。二人の女は、昔からの知り合いでもあるかのように喜びながら、「今晩いらっしゃらない?」と言ったので、招待に応じて女たちの家に附いて行ったのである。南と東の壁には、それぞれ、角に鈴が付いていて、金銀入交じりの縫い取りのある紅絹(もみ)の帳(とばり)が懸けてある。それぞれには、何人かの侍女や召し使いが控えていた。食事には、胡麻餅、ヤギ肉の干したもの、牛肉が出て、はなはだ美味であった。食事が了わると、酒が出された。突如として桃の実を持った女達が現われ、笑いながら言うには「貴女に御婿さんが出来ておめでとう。」酒がすすみ朗らかになり、夜がふけた後、それぞれが帳の内で寝たのである。そのしとやかな様は例えようもなかった。十日が過ぎて、帰りたいといったが、しきりに引き止められて半年の間留まった。気候も草木も春となったことを示し、さまざまな鳥が鳴いて、望郷の想いは更につのり、帰りたいと云う気持ちがひどく苛まれるようになった。ついに女は見送りに来て、帰り方を教えるのであった。返ってみると、故郷の村は寂れていた。十世代も過ぎてしまっていたのである。

26)蕪青:「蕪菁」と読み替える。

27)捉向杯:この文脈では、意味がとりにくいが「すぐにお椀を取って来て」と訳しておく。

28)使今:意味がとりがたい。これは、「太平廣記 卷第六十一 女仙六 [天台二女]」に見られるように、「使令」とすべきだろう。中国語の「指令」は、日本語の「使役(する)」に対応する言葉だが、「使役される人」の意味もある。


3番目のテキスト 「幽明录 南朝宋·刘义庆」は、『古小說鉤沈』版に類似し、独立して論ずるに足らないだろう。ただし、『古小說鉤沈』版では「遂停半年。气候草木是春时,百鸟啼鸣」となっていて、桃源郷にも時間推移があるとするのに対して、「遂住半年,天气常如二三月」と、日常時間がないことを暗示していて、物語としては、こちちの方が釈然とする。

幽明录 南朝宋·刘义庆 (珽案:此条原抄本阙字甚多,今依《太平广记》一百十二卷校补)
 汉明帝永平五年,剡县刘晨(一作晟)、阮肇共入天台山取谷皮,迷不得返。经十余日,粮食乏尽,饥馁殆死。遥望山上有一桃树,大有子实,而绝岩邃涧,了无登路,攀葛乃得至,啖数枚而饥止体充,复下山持杯取水,欲盥漱,见芜菁叶从山眼流出,甚鲜新,复一杯流出,有胡麻糁。相谓曰:“此去人径不远。”度出一大谿,谿边有二女子,姿质妙,绝见二人持杯出,便笑曰:“刘阮二郎捉向所流杯来。”晨、肇既不识之,二女便呼其姓,如与有旧,相见忻喜。问来何晚,即因要还家,家筒瓦屋,南壁及东壁下各有一大床,皆施绛罗帐,角县铃上金银交错,床头各十侍婢,便敕云:“刘、阮二郎经涉山阻,向西得琼实,犹尚虚弊,可速作食。”有胡麻饭、山羊脯甚美,食毕行酒,有群女来,各持三五桃子,笑而言:“贺女婿来”。酒甘作乐,刘阮忻怖交并。至暮,令各就一帐宿,女往就之,言声清婉,令人忘忧。至十日后,欲求还去,女云:“君已来此,乃宿福所招,与仙女交接,流俗何所乐哉。”遂住半年,天气常如二三月。晨、肇求归不已。女仍仙主,女子有三十人集会奏乐,共送刘阮,指示还路。既出,亲旧零落,邑屋全异,无复相识,问得七世孙,传闻上世入山,迷不得归。


この説話の詳細な分析に就いては別の機会に讓ろう。

しかし、簡単に読み取れる程度の特徴は纏めておくことにする。ただし、以下の覚え書きは、私個人のためだけのものである。 用語等、私自身にしか判らないであろう書き方をするが、ここで書いておくのが都合が良いので書いておくまでで、それ以上のものではないので御寛恕ねがいたい。

  • 男性主人公は二人組である。ただし、このことにはほぼ意味がない。女性主人公が二人組であることと釣りあいをとっただけではないか。むしろ、この説話が女性主人公の複数性を保存していることの方が興味深い。

  • 故郷を出発する契機になる事件の発生は存在しない。出発は、植物性有価物 (「コウゾの樹皮」。ヴァリアントによっては「薬草」とするものもあるようだ) の採取を目的とした自己都合的な物である。主人公の故郷からの出発を促す [賢者/守護者] は存在しない。

  • 男性主人公は、当初山中を彷徨する。彷徨の際、「乗り物」は利用されないかのように見えるが、葛のツルの利用が、「乗り物」の利用に相当する可能性がある。その結果、仙樹と思われる樹木の下に辿り着く。但し、この樹木の下には泉などの「水局面」は存在せず、ここでは女性主人公との遭遇も起こらない。その代わり、男性主人公は、この樹木の実を食べる(これには性的な意味があるのかもしれない)。

  • 「仙果」を食べた後、男性主人公は帰郷しようとするが、それを思いとどまる。その契機となるのが、川を流れくだってくる「蕪の葉」と「植物性の食物が入った椀」である。これは [スサノヲ/クシナダヒメ/ヤマタノヲロチ] や桃太郎伝説との類似性を感じさせる。

  • 結局、男性主人公は、水性の経路(川)を通って、しかも川の流れに逆らつて「異郷」に入る。

  • 男性主人公は、「水」のたもとで女性主人公に遭遇する。ただし、男性主人公が女性主人公の登場を待つのではなく、すでに女性主人公が待機している。女性主人公は複数である。

  • 男性主人公は女性主人公と共に、女性主人公の家に「還る」。

  • 女性主人公の家に帰っても、女性主人公の家の「家長」は登場しない。

  • 女性主人公の家に到着後における男性主人公の「正体」への言及はない。ただし、男性主人公と女性主人公との遭遇時点で、類似のことが既に起こっている。

  • 女性主人公の家で男性主人公は歓待される。

  • 男性主人公と女性主人公の「対形成」が行なわれる。

  • 女性主人公の家で時間が経過する。半年間。

  • 男性主人公が望郷の想いで苦悩する。

  • 男性主人公は、帰郷に就いて女性主人公と接触する。この際の女性主人公は神格性を帯びている。

  • 「神格」からの「授与」や「呪物の贈与」は発生しない。

  • 男性主人公の帰郷への送別が行なわれる。

  • 男性主人公は帰郷する。 [命名行為] は行なわれない。

  • 「失敗者との接触」は起こらない。「失敗者」そのものが存在しない。

  • 男性主人公は失踪する。[太祖] にはならない。

さらに、単なる「余談」になるかならないか、微妙な気もするのだが、もう一つ気がついたことを書いておこう。

一読、この説話で興味深いことは男性主人公が二人組であることである。これは、恐らく女性主人公が二人組であることに対応しているのだろうが、すでに述べたように、そのことの議論はここではしない。

ただ、これに関連して単純な連想として、私が思いついたのは宮沢賢治の『注文の多い料理店』だった。『天台二女』では男性主人公が二人組であるのは、女性主人公が二人組であることに照応していること以上の意味はあるとは思えないのだが、『注文の多い料理店』では、男性主人公が二人組であることでしっかりとした喜劇的効果があがっている。

やはり詳しい分析は別の機会に依ることにして、そのときのヒントになるかもしれないことを書き留めておくと:

  1. 冒頭死んでしまう猟犬は「山の神」への供犠と考えることができる。

  2. 「鉄砲」や「弾丸」に就いても同様。 この二つはあからさまに「道具」である。

  3. 物語の最後で帰郷した男性主人公は、あたかも長時間が経過した後の要に容貌が老人化する。

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2007年12月 5日 (水)

『孟子荀卿列伝』に就いて

先程 (2007/12/05 13:26:03) キーワード [孟子荀卿列伝 あらすじ] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「あらすじ」と言われてもねぇ。

要するに『史記列伝』中に収められた孟子・荀子・騶子・淳子その他の人々の伝記 (獵儒墨之遺文,明禮義之統紀,絕惠王利端,列往世興衰。作孟子荀卿列傳第十四。[太史公自序 93]) で、全部で12パラグラフほどしかないのだ。

[中國哲學書電子化計劃] によると:

《孟子荀卿列傳》
1 孟子荀卿... : 太史公曰:余讀孟子書,至梁惠王問“何以利吾國”,未嘗不廢書而嘆也。曰:嗟乎,利誠亂之始也!夫子罕言利者,常防其原也。故曰“放於利而行,多怨”。自天子至於庶人,好利之獘何以異哉!

2 孟子荀卿... : 孟軻,騶人也。受業子思之門人。道既通,游事齊宣王,宣王不能用。適梁,梁惠王不果所言,則見以為迂遠而闊於事情。當是之時,秦用商君,富國彊兵;楚、魏用吳起,戰勝弱敵;齊威王、宣王用孫子、田忌之徒,而諸侯東面朝齊。天下方務於合從連衡,以攻伐為賢,而孟軻乃述唐、虞、三代之德,是以所如者不合。退而與萬章之徒序詩書,述仲尼之意,作孟子七篇。其后有騶子之屬。

3 孟子荀卿... : 齊有三騶子。其前騶忌,以鼓琴干威王,因及國政,封為成侯而受相印,先孟子。

4 孟子荀卿... : 其次騶衍,后孟子。騶衍睹有國者益淫侈,不能尚德,若大雅整之於身,施及黎庶矣。乃深觀陰陽消息而作怪迂之變,終始、大圣之篇十餘萬言。其語閎大不經,必先驗小物,推而大之,至於無垠。先序今以上至黃帝,學者所共術,大并世盛衰,因載其禨祥度制,推而遠之,至天地未生,窈冥不可考而原也。先列中國名山大川,通谷禽獸,水土所殖,物類所珍,因而推之,及海外人之所不能睹。稱引天地剖判以來,五德轉移,治各有宜,而符應若茲。以為儒者所謂中國者,於天下乃八十一分居其一分耳。中國名曰赤縣神州。赤縣神州內自有九州,禹之序九州是也,不得為州數。中國外如赤縣神州者九,乃所謂九州也。於是有裨海環之,人民禽獸莫能相通者,如一區中者,乃為一州。如此者九,乃有大瀛海環其外,天地之際焉。其術皆此類也。然要其歸,必止乎仁義節儉,君臣上下六親之施,始也濫耳。王公大人初見其術,懼然顧化,其后不能行之。

5 孟子荀卿... : 是以騶子重於齊。適梁,惠王郊迎,執賓主之禮。適趙,平原君側行撇席。如燕,昭王擁彗先驅,請列弟子之座而受業,筑碣石宮,身親往師之。作主運。其游諸侯見尊禮如此,豈與仲尼菜色陳蔡,孟軻困於齊梁同乎哉!笔武王以仁義伐紂而王,伯夷餓不食周粟;衛靈公問陳,而孔子不答;梁惠王謀欲攻趙,孟軻稱大王去邠。此豈有意阿世俗茍合而已哉!持方枘欲內圜鑿,其能入乎?或曰,伊尹負鼎而勉湯以王,百里奚飯牛車下而繆公用霸,作先合,然後引之大道。騶衍其言雖不軌,儻亦有牛鼎之意乎?

6 孟子荀卿... : 自騶衍與齊之稷下先生,如淳于髡、慎到、環淵、接子、田駢、騶奭之徒,各著書言治亂之事,以干世主,豈可勝道哉!

7 孟子荀卿... : 淳于髡,齊人也。博聞彊記,學無所主。其諫說,慕晏嬰之為人也,然而承意觀色為務。客有見髡於梁惠王,惠王屏左右,獨坐而再見之,終無言也。惠王怪之,以讓客曰:“子之稱淳于先生,管、晏不及,及見寡人,寡人未有得也。豈寡人不足為言邪?何故哉?”客以謂髡。髡曰:“固也。吾前見王,王志在驅逐;后復見王,王志在音聲:吾是以默然。”客具以報王,王大駭,曰:“嗟乎,淳于先生誠圣人也!前淳于先生之來,人有獻善馬者,寡人未及視,會先生至。后先生之來,人有獻謳者,未及試,亦會先生來。寡人雖屏人,然私心在彼,有之。”后淳于髡見,壹語連三日三夜無倦。惠王欲以卿相位待之,髡因謝去。於是送以安車駕駟,束帛加璧,黃金百鎰。終身不仕。

8 孟子荀卿... : 慎到,趙人。田駢、接子,齊人。環淵,楚人。皆學黃老道德之術,因發明序其指意。故慎到著十二論,環淵著上下篇,而田駢、接子皆有所論焉。

9 孟子荀卿... : 騶奭者,齊諸騶子,亦頗采騶衍之術以紀文。

10 孟子荀卿... : 於是齊王嘉之,自如淳于髡以下,皆命曰列大夫,為開第康莊之衢,高門大屋,尊寵之。覽天下諸侯賓客,言齊能致天下賢?恳病?

11 孟子荀卿... : 荀卿,趙人。年五十始來游學於齊。騶衍之術迂大而閎辯;奭也文具難施;淳于髡久與處,時有得善言。故齊人頌曰:“談天衍,雕龍奭,炙轂過髡。”田駢之屬皆已死齊襄王時,而荀卿最為老師。齊尚修列大夫之缺,而荀卿三為祭酒焉。齊人或讒荀卿,荀卿乃適楚,而春申君以為蘭陵令。春申君死而荀卿廢,因家蘭陵。李斯嘗為弟子,已而相秦。荀卿嫉濁世之政,亡國亂君相屬,不遂大道而營於巫祝,信禨祥,鄙儒小拘,如莊周等又猾稽亂俗,於是推儒、墨、道德之行事興壞,序列著數萬言而卒。因葬蘭陵。

12 孟子荀卿... : 而趙亦有公孫龍為堅白同異之辯,劇子之言;魏有李悝,盡地力之教;楚有尸子、長盧;阿之吁子焉。自如孟子至于吁子,世多有其書,故不論其傳云。

13 孟子荀卿... : 蓋墨翟,宋之大夫,善守御,為節用。或曰并孔子時,或曰在其后。
--中國哲學書電子化計劃(史記 : 列傳 : 孟子荀卿列傳 - 中國哲學書電子化計劃)

後は、『史記列伝』の邦訳本でもご参照下さいとでもいうしかない。岩波文庫版では第1分冊の pp.231-242 (注込み) に記載されている。

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2007年11月30日 (金)

色色な言語で「宵の明星」

今日午前 (2007/11/30 10:29:20) キーワード[宵の明星 明けの明星 イタリア] でこのサイトを訪問されたかたがいらしたらしい。[nouse: 色色な言語で「明けの明星」] (2007年11月14日[水]) は作ったが、「宵の明星」の方はとサボっていたので、この機会に作っておく。

前回と同様 [LOGOS - Multilingual E-Translation Portal] の[evening star] の項と [Webster's Online Dictionary] の [Evening Star] の項を、内容未チェックのまま纏める。

英語: Evening Star
アフリカーンス語: Venus, Aandster
オランダ語: Venus, Avondster
フランス語: Vénus, l'étoile du soir
ドイツ語: Venus
ハンガリア語: Vénusz
イタリア語: Venere, la stella della sera
日本語: 宵の明星, 一つ星
マン島語: Rollage yn Astyr (Hesperus, the evening star). (various references)
Papiamento: Venus //"Papiamento" はカリブ海の所謂 ABC 諸島 で話されている言語。
偽ラテン語 (Pig Latin): eveningay arstay
ルーマニア語: luceafãrul de searã
ロシア語: вечерняя звезда
セルビア・クロアチア語: večernjača
トルコ語: venüs, akşamyıldızı, çulpan
ベトナム語: sao hôm
ユカテク・マヤ語 (Yucatec): Xnuk Ek'
ラテン語: Cytherea, Venus, vesper, vespere, vesperi, vespero, vesperum
スペイン語: la estrella vespertina
デンマーク語: Venus
フィンランド語:iltatähti
ペルシャ語: ناهيد

[nouse: サッポーの詩] にも呼格の形で出てきたが、古典ギリシャ語で「夕づつ」つまり「宵の明星」は Ἔσπερος である。

また、[nouse: 色色な言語で「明けの明星」] で触れたように、中国語では「宵の明星」は「長庚(长庚)」。これをハングル表記すると 장경 になる。

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2007年11月28日 (水)

「耗子」の読み方

先程 (2007/11/28 10:29:40) キーフレーズ [耗子の読み方] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだ。辿り着いたかどうかは分からないが [nouse: 信用できない引用句サイト(鄧小平の「猫論」に関係して)] の

不管白猫黑猫,抓住老鼠就是好猫
--寂寞如雪—写在午夜的思索集
--大参考総第2404期(2004.10.01)専門散播各種受中共査禁的新聞和評論
「老鼠」の代わりに「耗子」とするものもある(北方方言とのこと)。意味は同じで「ネズミ」。
--十一、不管白猫黑猫,抓住耗子就是好猫

//リンク切れはそのままにしてある。

にヒットしたものと思われる。残念ながら、発音に就いては書いていなかったので、補足すると、ピンインでは "hàozi" と表記されるものであるらしい。

例えば、"耗子 - Wiktionary" を参照されたい。

さらに "hàozi" をカタカナ化するとどうなるかと思ってネットを検索したら次のサイトが見つかった。それによると「ハオズ」ぐらいになるらしい。

中国料理用語辞典:鳥・動物

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2007年11月22日 (木)

「かざがまえに又」に就いて

さきほど、(2007/11/22 10:16 ごろ) キーフレーズ [中国語 かざがまえに又] で本サイトを訪問された方がいらっしゃったようだが、もしそれが「凤」のことであるなら、われわれが通常使っている文字では「鳳」に対応する中国簡体字でしょう。ちなみに音は「ホウ」、訓は「おおとり」。鳳蘭 (おおとりらん) の「おおとり」ですね。中国音では fèng と云うことになります。

これ以上は、取り敢えず [百度百科: 凤] あたりをご参照ください。

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2007年11月14日 (水)

色色な言語で「明けの明星」

昨夜、20時20分頃、キーフレーズ [イタリア語で明けの明星] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。 まぁ、"l'astro del mattino" ぐらいでしょうね。

「明星」、「明星」と、イチイチ面倒なので、纏めて書いてあるものを探したら [l'astro del mattino - Logos Dictionary - Logos Translations multilingual dictionary] と Webster's Online Dictionary の [Morning Star] と云うものが見つかった。内容未チェックのまま、それに従うと:

英語: morning star
イタリア語: l'astro del mattino
スペイン語: lucero del alba
フランス語: l'étoile du matin
ブルトン語: gwerelaouen
デンマーク語: morgenstjerne
フィンランド語: aamutähti
ラテン語: sidus matutinum //ゑびすや贅言: Lucifer で良さそうな気がするが、キリスト教文化内では、安易に使えない言葉なのだろう。
マプンズグアン語: wüñejfe
ペルシャ語: ستاره صبح
ポルトガル語: estrela da manha, estrela d'alva
ウェールズ語: seren y bore
アルバニア語: ylli i mëngjesit
ブルガリア語: зорницата
チェコ語: jitřenka
オランダ語: morgenster
エスペラント: matenstelo
ドイツ語: morgenstern
現代ギリシャ語: αυγερινόσ
ヘブライ語: עמוד השחר 参考: עמוד השחר
אילת השחר, אילת 参考:morning star | Hebrew | Dictionary & Translation by Babylon
שחר 参考: Isaiah 14:12
ברקאי 参考: Naftali Herz Imber
ハンガリア語: hajnalcsillag
インドネシア語: bintang timur
日本語: 暁星, ぎょうせい, ひとつぼし, よあけのみょうじょう, みょうじょう
マン島語: rollage ny madjin, maddinagh
偽ラテン語 (Pig Latin): orningmay arstay
ルーマニア語: luceafãrul de dimineaţã
ロシア語: утренняя звезда
セルビア・クロアチア語: zvezda danica, zornjača
スウェーデン語: morgonstjärna
トルコ語: sabah yıldızı
ベトナム語: sao mai

以上に追加すべきものとしたら、以下のようなところだろうか(こちらも、あまり自信はない):

中国語: 啓明(启明)
参考: 「太白金星_百度百科」で指摘されているように [诗·小雅·大东 (詩経/小雅/大東]) には 「东有启明 西有长庚」(诗经·小雅) と云う句がある。つまり「啓明」が「明けの明星」を「長庚」が「宵の明星」を指す。

韓国語: 샛별
参考: Paran 사전(辞典):「啓」

古典ギリシャ語: Φωσφόρος

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2007年6月27日 (水)

[詩経/小雅/谷風之什/信南山] 中の [菹]


[nouse: 韓国語版ウィキぺディア [김치 (キムチ)] 訳文] (2007年6月26日) 中の [語源と由来] に

キムチに関する最も古い文献は、約三千年前の中国における「詩経」であって、キュウリを使った蔬菜の塩漬けを意味すると推定される「菹(저)」と云う言葉が出てくる。

と云う箇所がある。どうやらそれは、小雅の [信南山] のことらしい。テキストを Wikisource から引用する(繁体版と簡体版):

詩經‧小雅‧谷風之什‧信南山
信彼南山,維禹甸之。
畇畇原隰,曾孫田之。
我疆我理,南東其畝。
上天同雲,雨雪雰雰。
益之以霢霂,既優既渥。
既霑既足,生我百穀。
疆埸翼翼,黍稷彧彧。
曾孫之穡,以為酒食。
畀我尸賓,壽考萬年。
中田有廬,疆埸有瓜。
是剝是菹,獻之皇祖。
曾孫壽考,受天之祜。
祭以清酒,從以騂牡,享于祖考。
執其鸞刀,以啟其毛,取其血膋。
是烝是享,苾苾芬芬。
祀事孔明,先祖是皇。
報以介福,萬壽無疆。
--詩經/信南山(繁体) - Wikisource

诗经‧小雅‧谷风之什‧信南山
信彼南山,维禹甸之。
畇畇原隰,曾孙田之。
我疆我理,南东其亩。
上天同云,雨雪雰雰。
益之以霡霂,既优既渥。
既霑既足,生我百谷。
疆埸翼翼,黍稷彧彧。
曾孙之穑,以为酒食。
畀我尸宾,寿考万年。
中田有庐,疆埸有瓜。
是剥是菹,献之皇祖。
曾孙寿考,受天之祜。
祭以清酒,从以骍牡,享于祖考。
执其鸾刀,以启其毛,取其血膋。
是烝是享,苾苾芬芬。
祀事孔明,先祖是皇。
报以介福,万寿无疆。
--詩經/信南山(簡体) - Wikisource

なお、「谷風(谷风)」を「穀風」に作るテキストもある([国風/邶] にも [谷風(谷风)] と云う一篇があるので注意。さらに [信南山] が収められている [穀風之什(谷風之什)] 中の冒頭にも「穀風」とも「谷風(谷风)」とも表記される一篇があり紛らわしい)。:

穀風之什·信南山 210
信彼南山,維禹甸之。
畇畇原隰,曾孫田之。
我疆我理,南東其畝。
上天同云,雨雪雰雰。
益之以霢霂,既優既渥,既沾既足,生我百穀。
疆埸翼翼,黍稷彧彧。
曾孫之穡,以為酒食。
畀我尸賓,壽考萬年。
中田有廬,疆埸有瓜,是剝是菹。
獻之皇祖,曾孫壽考,受天之祜。
祭以清酒,從以騂牡,享于祖考。
執其鸞刀,以啟其毛,取其血膋。
是烝是享,苾苾芬芬,祀事孔明。
先祖是皇,報以介福,萬壽無疆。
--詩經 卷五

眼目は、当然「中田有廬,疆埸有瓜。是剝是菹,獻之皇祖。(中田有庐,疆埸有瓜。是剥是菹,献之皇祖。)」なんだが、解釈が難しい。

[詩経] だから、注釈が汗牛充棟ただならぬものがあるだろうが、いっさい知らないので、以下適当にご託を並べておく(自宅の中を探せば、注釈付きのテキストが一、二出てくるとは思うのが、たしか以前も書いた事情で、家の中の何処にあるのかサッパリ分からない)。

「中田有廬」の「田」の一般的な語義は、所謂 [田] でも、[畑] でもありうるらしいが、ここでは、直前に「黍稷彧彧」とあるのだから、[キビ畑] だろう。しかし、私としては、つい [稲田] のイメージが沸いてくる。ここで連想しているのは、天智御製とされている「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」で、それを手掛かりに想像すると「中田有廬」も、見張りや収穫作業に都合の良い畑の中ほど、あるいは、「中央の畑」に仮小屋を作るような収穫(間近)の「秋」になったと云うことなのではなかろうか。、折しも、畦には瓜が実っている(「疆埸有瓜」)、その瓜をもいできて漬け物にし(「是剝是菹」)、ご先祖様にお供えしよう(「獻之皇祖」)と云うことだろう(ここで「皇」は、先代、特に亡くなった先代を示す言葉)。この後、詩は収穫を先祖に感謝する祭の描写に進む。

なお、どうでもいいことだが、[nouse: 南畝の由来] (2005年5月13日) で言及した [大田] は、[信南山] の2つ後にある([甫田之什] の2番目)。

ちなまれているのは:
nouse: 韓国語版ウィキぺディア [김치 (キムチ)] 訳文

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2007年6月19日 (火)

[幽明録 天台二女] に就いて:太平広記[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]テキスト

キーフレーズ [幽明録 天台二女] でこのサイト (nouse) を訪問された方がいらしたようだ。これは、[nouse: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること:「非関水雨能留客」か「非関小雨能留客」か?] (2006年12月4日) で書いた

表題の[玄都觀(玄都观)]は、唐の都長安にあった[観](道教施設)。第1句「前度劉郎」は中唐の詩人、劉禹錫(刘禹锡)を指す。「前度劉郎」は、失敗した政治革新に連なったため貶せられて朗州司馬になっていた彼が、居ること九年で長安に戻り、[玄都觀]を訪れた時に詠んだ詩「遊玄都觀: 紫陌紅塵拂面來,無人不道看花回。玄都觀裏桃千樹,儘是劉郎去後栽」と、この詩が原因で彼が忌避され、再度の左遷で連州刺史の生活を十数年した後に、長安に呼び戻され、再び[玄都觀]に遊んで詠んだ「再遊玄都觀: 百畝庭中半是苔,桃花淨盡菜花開。種桃道士歸何處, 前度劉郎今又來」と詠じたことを踏まえる。「複阮郎」は、「前度劉郎今又來」が、実は[太平広記]に収められた[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]([リップ・ヴァン・ウィンクル-浦島太郎]型の道教説話)を下敷きにしていることによる。詩人の姓が[元]であることも忘れてはなるまい。しかし、こうしたことは別の機会に書くことにしよう。

にヒットしたためだろう。そしてお探しのものは、上記文中の「[太平広記]に収められた[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]」のことと思われる。

残念ながら、今は別のブログ原稿にかかっているため、更に他の文書をまとめる餘裕がないので、[元好問「玄都觀桃花」。あるいは、・・・] を書いた際に収集しておいた資料を、そのまま転記しておく。
(2007-12-27[木]補足:訳文を作成した。[nouse: [幽明録 天台二女] に就いて:訳文] を見られたい。)

劉晨、阮肇,入天台采藥,遠不得返,經十三日飢。遙望山上有桃樹子熟,遂躋險援葛至其下,?數枚,飢止体充。欲下山,以杯取水,見蕪菁葉流下,甚鮮妍。复有一杯流下,有胡麻飯焉。乃相謂曰:“此近人矣。”遂渡山。出一大溪,溪邊有二女子,色甚美,見二人持杯,便笑曰:“劉、阮二郎捉向杯來。”劉、阮惊。二女遂忻然如舊相識,曰:“來何晚耶?”因邀還家。南東二璧(南東二璧原作雨璧東壁,据明鈔本改。黃本作西璧東璧)各有絳羅帳,帳角懸鈴,上有金銀交錯。各有數侍婢使令。其饌有胡麻飯、山羊脯、牛肉,甚美。食畢行酒。俄有群女持桃子,笑曰:“賀汝婿來。”酒酣作樂。夜后各就一帳宿,婉態殊絕。至十日求還,苦留半年,气候草木,常是春時,百鳥啼鳴,更怀鄉。歸思甚苦。女遂相送,指示還路。鄉邑零落,已十世矣。(出《神仙記》。明鈔本作出《搜神記》。)
劉晨和阮肇,進入天台山去采藥,因為路遠不能回家,已經餓了十三天了。遠遠地望見山上有桃樹,樹上的桃子熟了,就躋身險境抓著葛藤到了桃樹底下。他們吃了几個桃子,覺得不餓了,身体充實了,想要下山。用杯取水時,看見有蕪菁葉流下來,很鮮艷。又有一個杯子流下來,里面還有胡麻飯。于是兩人互相安慰說:“這里离人家近了。”就越過山,出現一條大溪,溪邊有兩個女子,姿色很美。她們看見二人拿著杯子,就笑著說:“劉、阮二位郎君拿回剛才的杯子來了。”劉晨、阮肇都很惊訝。兩個女郎就高高興興地如舊相識一般,跟他們說:“怎么來晚了呢?”便邀請劉晨、阮肇跟她們回家。南邊東邊兩壁各有大紅色的羅織床帳,帳角上懸著金鈴。上面有用金銀雕嵌的綜橫交錯的花紋圖案交錯。兩個女郎各有几個侍奉的婢女使喚。吃的東西有胡麻飯、羊脯、牛肉,味道很美。吃完飯又喝酒。忽然有一群女子拿著桃子,笑著說:“祝賀你們女婿到來!”酒喝到盡興時就奏樂。晚上,劉晨与阮肇各到一個女郎的床帳里去睡覺,女郎嬌婉的情態特別美妙。住了十天,兩人請求回家,二女又苦苦留住了半年。從气候、草木情形看,當是春天的時節,百鳥啼鳴,使他們更怀鄉思,思歸更苦。女郎就送他們,指點回去的道路讓他們看清。他們回鄉以后,看到鄉邑已經零落,才知道已經過了十代了。
--太平廣記 卷第六十一 女仙六 [天台二女]

十五 劉晨阮肇入天台
  劉晨、阮肇入天台取穀皮,遠不得返。經十三日,飢。遙望山上有桃樹,子實熟。遂躋險援葛至其下,噉數枚,飢止體充。欲下山,以杯取水。見蕪青葉流下,其鮮新。復有一杯流下,有胡麻焉。乃相謂曰:「此近人家矣。」遂渡山,出一大溪。溪邊有二女子,色甚美。見二人持杯,便笑曰:「劉、阮二郎捉向杯來。」劉、阮驚。二女遂欣然如舊相識曰:「來何晚耶?」因邀還家。南、東二壁各有絳羅帳,帳角懸鈴,上有金銀交錯。各有數侍婢使今。其饌有胡麻飯、山羊脯、牛肉,甚美。食畢,行酒。俄有群女持桃子,笑曰:「賀汝婿來。」酒酣作樂。夜後各就一帳宿,婉態殊絕。至十日,求還,苦留半年。氣候草木是春時,百鳥啼鳴,更懷鄉,歸思甚苦。女遂相送,指示歸路。既還,鄉邑零落,已十世矣。(一)(明鈔本《太平廣記》六一)
--佚文

 汉明帝永平五年,剡县刘晨(一作晟)、阮肇共入天台山取谷皮,迷不得返。经十余日,粮食乏尽,饥馁殆死。遥望山上有一桃树,大有子实,而绝岩邃涧,了无登路,攀葛乃得至,啖数枚而饥止体充,复下山持杯取水,欲盥漱,见芜菁叶从山眼流出,甚鲜新,复一杯流出,有胡麻糁。相谓曰:“此去人径不远。”度出一大谿,谿边有二女子,姿质妙,绝见二人持杯出,便笑曰:“刘阮二郎捉向所流杯来。”晨、肇既不识之,二女便呼其姓,如与有旧,相见忻喜。问来何晚,即因要还家,家筒瓦屋,南壁及东壁下各有一大床,皆施绛罗帐,角县铃上金银交错,床头各十侍婢,便敕云:“刘、阮二郎经涉山阻,向西得琼实,犹尚虚弊,可速作食。”有胡麻饭、山羊脯甚美,食毕行酒,有群女来,各持三五桃子,笑而言:“贺女婿来”。酒甘作乐,刘阮忻怖交并。至暮,令各就一帐宿,女往就之,言声清婉,令人忘忧。至十日后,欲求还去,女云:“君已来此,乃宿福所招,与仙女交接,流俗何所乐哉。”遂住半年,天气常如二三月。晨、肇求归不已。女仍仙主,女子有三十人集会奏乐,共送刘阮,指示还路。既出,亲旧零落,邑屋全异,无复相识,问得七世孙,传闻上世入山,迷不得归。
--幽明录 南朝宋·刘义庆 (珽案:此条原抄本阙字甚多,今依《太平广记》一百十二卷校补)

  本篇选自刘义庆《幽明录》。《幽明录》所记的也是神鬼怪异之事,今佚。在鲁迅《古小说钩沉》中辑得佚文二百六十六条。小说写刘晨、阮肇入山遇仙结为夫妇的事。整个故事并没有什么怪异色彩,而是洋溢着浓厚的人情味。叙述细致动人、委婉入情。特别是仙女们的音容笑貌显得逼真动人。长期以来,这一故事广为流传,已成了后来文学作品中常用的典故,常称去而复来的人为“前度刘郎”。
   原文:
   汉明帝永平五年,剡县刘晨、阮肇共入天台山取谷皮,迷不得返。经十三日,粮食乏尽,饥馁殆死。遥望山上,有一桃树,大有子实;而绝岩邃涧,永无登路。攀援藤葛,乃得至上。各啖数枚,而饥止体充。复下山,持杯取水,欲盥漱。见芜菁叶从山腹流出,甚鲜新,复一杯流出,有胡麻饭掺,相谓曰:“此知去人径不远。”便共没水,逆流二三里,得度山,出一大溪,溪边有二女子,姿质妙绝,见二人持杯出,便笑曰:“刘阮二郎,捉向所失流杯来⑥。”晨肇既不识之,缘二女便呼其姓,如似有旧,乃相见忻喜。问:“来何晚邪?”因邀还家。其家铜瓦屋。南壁及东壁下各有一大床,皆施绛罗帐,帐角悬铃,金银交错,床头各有十侍婢,敕云:“刘阮二郎,经涉山岨,向虽得琼实⑾,犹尚虚弊,可速作食。”食胡麻饭、山羊脯、牛肉,甚甘美。食毕行酒,有一群女来,各持五三桃子,笑而言:“贺汝婿来。”酒酣作乐,刘阮欣怖交并。至暮,令各就一帐宿,女往就之,言声清婉,令人忘忧。至十日后欲求还去,女云:“君已来是,宿福所牵⒁,何复欲还邪?”遂停半年。气候草木是春时,百鸟啼鸣,更怀悲思,求归甚苦。女曰:“罪牵君,当可如何?”遂呼前来女子,有三四十人,集会奏乐,共送刘阮,指示还路。既出,亲旧零落,邑屋改异,无复相识。问讯得七世孙,传闻上世入山,迷不得归。至晋太元八年,忽复去,不知何所。
   注释:
   永平五年;即公元六二年。
   剡(shan扇)县:今浙江省嵊县西南。天台山:浙江省天台县北。谷皮:楮(Chu楚,桑科,亦名构木)树的皮,它的纤维可以织布,也可以作纸浆。
   绝岩邃涧:陡峭的山峰,幽深的涧水。涧,山间流水的沟。 盥(guan贯):浇水洗手。 胡麻:芝麻。糁(san伞):饭粒。
   捉:拿。向:刚才。 如似有旧:似曾相识。旧,旧识,旧时相识的人。
   绛罗帐:红丝绸的帐子。绛,大红色。 山岨:山里险峻难行的地方。岨,戴土的石山。
   琼实:精美的果实。这里指上文刘阮两人所吃的桃子。 虚弊:指身体虚弱疲惫。 脯(fu府):干肉。
   宿福所牵:前生的福气把你牵引到这儿来的。 罪牵句:罪孽牵缠着你不放(指一定要回尘世),叫我有什么办法呢。
   晋太元八年:即公元三八三年。太元,晋武帝年号。
--刘阮遇仙


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2007年5月30日 (水)

毛岸英と毛岸青の母楊開慧 (杨开慧) の写真

楊開慧 (杨开慧) の写真に就いては、次のサイトを参照。

彼女は、1920年末、毛沢東と結婚した。二人の子に 毛岸英 (1950年11月25日朝鮮戦争で戦死)、毛岸青 (2007年3月23日4時18分北京市の人民解放軍総医院で死亡)、毛岸龍 (1931年5月夭折。一説に行方不明) がある。彼女は、1930年10月に湖南省国民党政府主席の部下により逮捕され、1930年11月14日に処刑された。

1957年春節、楊開慧の友人だった李淑一が、毛の詩の読後感を書いた手紙を送り、それに夫の柳直荀が1932年9月19日に死亡(彼自身中国共産党員だったが、内部抗争の結果処刑された。1945年4月「平反(名誉回復)」--人民网)した後の孤閨の嘆きを詠んだ [菩薩蛮] 詞「驚夢(惊梦)」を同封した(1933年夏の作らしい--柳直荀故居)。

これに対し、1957年5月11日の返信で、毛は、楊開慧と柳直荀とを偲ぶ詩を付した:

蝶戀花《答李淑一》
一九五七年五月十一日

我失驕楊君失柳,
楊柳輕直上重霄九。
問訊吳剛何所有,
吳剛捧出桂花酒。

寂寞嫦娥舒廣袖,
萬裏長空且為忠魂舞。
忽報人間曾伏虎,
淚飛頓作傾盆雨。
--毛澤東詩集
--漢文會館 - Yuzx.com


《蝶恋花•答李淑一》(1957年5月11日)

我失骄杨君失柳,
杨柳轻飏直上重霄九。
问讯吴刚何所有,
吴刚捧出桂花酒。
寂寞嫦娥舒广袖,
万里长空且为忠魂舞。
忽报人间曾伏虎,
泪飞顿作倾盆雨

李淑一原词《菩萨蛮·惊梦》

兰闺索莫翻身早,
夜来触动离愁了。
底事太难堪,
惊侬晓梦残。
征人何处觅,
六载无消息。
醒忆别伊时,
满衫清泪滋。
--新华网

ここで、毛はかっての妻を「驕」と形容している。私なぞは、単純に生活人の「乾いたユーモア」を感じるが(楊開慧処刑当時、毛が別の地で別の女性と暮らしていたことを込めても、そう思う)、中国人にとってはかなり引っ掛かりのある表現らしい。しばしば、彼女は「驕楊(骄杨)」として言及され、そして apologization が行なわれている。

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2007年5月16日 (水)

[「君子闻过而喜」に就いて] 補足: 「人告之以有過則喜」への注

[nouse:「君子闻过而喜」に就いて] で引用した、孟子 [公孫丑上] (3-8) で、焦点となるのは「子路,人告之以有過則喜」だが、岩波文庫 [孟子上] (小林勝人 訳註。東京 岩波書店。1968年) では、次のように註している。

人告之以有過、群書治要は引いて有を其の字に作り、意林も引くが以の字がない。趙岐は注して子路楽聞其過、過而能改也という。注文より推すと、趙岐拠るところの本は有を其の字に作ったらしい。金谷治博士の孟子上(朝日新聞社刊行)によれば、王叔民氏は有の字を其の字の誤りとしておられる由。訳者もまた、趙注・治要に据り其の字の誤りとみたい。
--岩波文庫 [孟子上] (小林勝人 訳註。東京 岩波書店。1968年) pp.142-143

しかりしこうして、その読み下しは「子路は人之に告ぐるに其の過ちを以ってすれば、則ち喜べり」。

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「君子闻过而喜」に就いて

キーワード「君子闻过而喜」で、このサイトを訪れた方がいらっしゃったようだが、残念ながら所望のものは見当たらなかったと思う。しかし、このままのキーワードでは他のサイトでもはかばかしい結果は得られなかったかもしれない。

まぁ、「君子は過を聞いて喜ぶ」又は「君子は過ちを聞いて喜ぶ」とでも読み下せて、それでそのまま釈義になっているが、敢えて更にパラフレーズするなら、自分の過失を指摘されるのを歓迎するのが「君子」だと云うことなんだろう。出典は、孟子の[公孫丑上]あたりか。

孟子曰:「子路,人告之以有過則喜。禹聞善言則拜。大舜有大焉,善與人同,舍己從人,樂取於人以為善。自耕、稼、陶、漁,以至為帝,無非取於人者。取諸人以為善,是與人為善者也。故君子莫大乎與人為善。」
--孟子/公孫丑上 - Wikisource

実際、この箇所は、「聞過則喜(闻过则喜)」として成語化しているようだ。"聞過則喜""闻过则喜" で検索すれば、それなりの情報が得られると思う。

また、同じことを、"聞過而喜" ("闻过而喜") と云う言い方をしているのも、確かに見受けられる。

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2007年4月18日 (水)

羅一秀: 毛沢東の「最初」の夫人

アクセス解析を見ていたら、毛沢東の最初の妻である [羅一秀(罗一秀)] を少なくとも名前を挙げて言及している日本語サイトで、Google/Yahoo-J にヒットするのはどうやらこの nouse だけらしいことを知った。新たに稿を起こすほどの必要性は、今のところ感じていないが、[羅一秀(罗一秀)] に就いて言及した非日本語サイトへのリンクを幾つかまとめておけば、誰かの役には立つこともあろうか、取り急ぎ、これを書く。

まず、やや面映いが、「日本でただ一つ」の部分を再録しておく。

試みに、中文版の wikipedia [毛泽东] を見た。ところが、それからは毛沢東が 1893年12月26日生まれであったことは分かったが、1909年/1910年の記載が見当たらない:

1893年12月26日,毛泽东出生在湖南省长沙府湘潭县韶山冲(今湖南省湘潭市韶山市)的一个中农家庭中。1908年,其父毛顺生为他配婚与罗氏(罗一秀),但毛泽东始终不承认这桩婚事。1911年春,到湖南长沙湘乡驻省中学求学。1912年,以第一名的成绩考入湖南全省公立高等中学校(今长沙市第一中学),次年春考入湖南省立第四师范学校,学校后来并入湖南省立第一师范。

ただ、父 毛順生 (毛顺生) により1908年に結婚させられた (其父毛顺生为他配婚与罗氏) 最初の妻 羅一秀 (罗一秀) が、1910年春に病死していることだけが分かっただけだ(个人生活)。
--nouse: 毛沢東郷関ヲ出ヅ

つまり、「最初の妻」と書いたが、毛沢東は妻として認めていなかったらしい(但毛泽东始终不承认这桩婚事)。

さて、ザッとネットを調べたところでは Wikipedia 系 (コピーを含む) を除けば [羅一秀(罗一秀、あるいは Luo Yixiu)]に言及しているのは、二・三にすぎない(ちなみに、日本語版 ウィキペディア には、今のところ言及なし)。

まず、本人に就いての Wikipedia の記事(英文版と中文版しか見つからなかった)。

ついでに、夫の方の wikipedia 記事を幾つか言語で:。

  • Mao Zedong - Wikipedia, the free encyclopedia
    Genealogy
      Mao Zedong had several wives which contributed to a large family. These were:
    1. Luo Yixiu (罗一秀, 1889-1910) of Shaoshan: married 1907 to 1910
    2. Yang Kaihui (杨开慧, 1901-1930) of Changsha: married 1921 to 1927, executed by the Kuomintang in 1930
    3. He Zizhen (贺子珍, 1910-1984) of Jiangxi: married May 1928 to 1939
    4. Jiang Qing: (江青, 1914-1991), married 1939 to Mao's death
  • Mao Zedong - Wikipedia
    Familie
      Frauen
    1. Luo Yixiu , (羅一秀, 1889 - 1910) aus der Provinz Hunan: geheiratet 1907 - 1910 (verstorben)
    2. Yang Kaihui (杨开慧, 1901 - 1930) aus Changsha: geheiratet 1921 - 1927, (1930 von der Kuomintang hingerichtet)
    3. Gui-yuan (He Zizhen) (贺子珍, 1910-1984) aus Jiangxi: geheiratet 1928; geschieden 1939
    4. Jiang Qing (江青, 1914-1991), geheiratet 1939
  • 毛沢東 - Wikipedia
    [羅一秀(罗一秀)] についての記載は見当たらない。
  • 毛泽东
    上記に引用済み。

なお、[马代伟 (Ma Daiwei)] と云う女性が、毛沢東の "the unpopular wife" (1912-1920) として付け加えられることもある。

Wikipedia 系以外では次のようなものが見つかった。

  • 毛澤東後代 「夾著尾巴做人」by [shingjia]
    毛澤東共有三任妻子(一說四任,元配羅一秀,不被毛承認)、十名子女(六名夭折),大兒子毛岸英在韓戰中去世。目前毛澤東仍在世的三名子女,是他與楊開慧所生的毛岸青、與賀子珍所生的李敏,與江青所生的李訥。
  • 毛主席的儿子是? 十名子女一戰死五夭亡 by [houni1986]
    毛澤東先後有四位妻子 毛澤東先後娶過四位妻子,她們分別是: 羅一秀:一九○七年由父母包辦結婚,一九一○年春患痢疾病逝。 楊開慧:一九二○年結婚,一九三○年底被當時南京國民政府湖南省主席何鍵槍殺。 賀子珍:一九二八年在井岡山與毛澤東同居,一九三七年前往蘇聯治病。 江靑:一九三八年在延安與毛澤東同居。

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聊斎志異中の一篇 [嬰寧] と落語 [崇徳院]

忘れてしまわないうちに書いておく。どうでもいいことなので、すぐに忘れてしまいそうなのだ。

この前、自宅で、本の探し物をしていたら目的の物ではなくて [聊斋志异选(聊斎志異選)] (1978年 第2版。北京 人民文学出版社) が出てきたのだった。少し気になったので、仕舞い返さずにおいて、時時は取り上げて中を覗いたりしている。鉛筆の書き込みがあって、昔、日本橋の丸善でバーゲンセールの際、勢いで買ったものらしい。酸性紙を使っているらしくて、表紙などボロボロになってしまって可哀想なくらいだ。

その中に [婴宁(嬰寧)] と云う一篇があって、こんな風に始まっていた(書籍から写して入力するのが面倒なので、以下ネット上に見つけたテキストの方をコピーする):

婴宁

王子服,莒之罗店人,早孤,绝慧,十四入泮。母最爱之,寻常不令游郊野。聘萧氏,未嫁而夭,故求凰未就也。

会上元,有舅氏子吴生邀同眺瞩,方至村外,舅家仆来招吴去。生见游女如云,乘兴独游。

有女郎携婢,拈梅花一枝,容华绝代,笑容可掬。...
--中国新世纪读书网: 蒲松龄-->聊斋志异-->婴宁
[人民文学出版社]版では「舅家仆来」ではなく--舅家有僕来--。

「良いネ」と思いながら、その先を読むともなく読むと:

...生注目不移,竟忘顾忌。女过去数武,顾婢子笑曰:“个儿郎目灼灼似贼!”遗花地上,笑语自去。

生拾花怅然,神魂丧失,怏怏遂返。至家,藏花枕底,垂头而睡,不语亦不食。母忧之,醮禳益剧,肌革锐减。医师诊视,投剂发表,忽忽若迷。母抚问所由,默然不答。

适吴生来,嘱秘诘之。吴至榻前,生见之泪下,吴就榻慰解,渐致研诘,生具吐其实,且求谋画。吴笑曰:“君意亦痴!此愿有何难遂?当代访之。徒步于野,必非世家,如其未字,事固谐矣,不然,拚以重赂,计必允遂。但得痊瘳,成事在我。”生闻之不觉解颐。

吴出告母,物色女子居里。而探访既穷,并无踪迹。
--中国新世纪读书网: 蒲松龄-->聊斋志异-->婴宁

ここまで読むと、如何に鈍感な私でも、落語の [崇徳院] の出だしに似ていると気付いた。まぁ、似ているのはここら辺ぐらいまでなんだが。

[聊斎志異] なら、角川文庫の柴田天馬訳で読んだことがある(と言うか、私にとって [聊斎志異] は柴田訳しか考えられない)。和訳を以前読んだ時には気がつかなかったことを、今回中国語で読んで気がついたわけだが、そう云うことは時時あるものだ。兎に角、まず繁体字版、ついで柴田訳を引用しておこう。

嬰寧

王子服,莒之羅店人,早孤。絕惠,十四入泮,母最愛之,尋常不令游郊野。聘蕭氏, 未嫁而夭,故求凰未就也。

會上元,有舅氏子吳生,邀同眺矚。方至村外,舅家有仆來, 招吳去。生見游女如雲,乘興獨遨。

有女郎攜婢,拈梅花一枝,容華絕代,笑容可掬。生 注目不移,竟忘顧忌。女過去數武,顧婢曰:「個兒郎目灼灼似賊!」遺花地上,笑語自 去。

生拾花悵然,神魂喪失,怏怏遂返。至家,藏花枕底,垂頭而睡。不語亦不食。母懮 之。醮禳益劇,肌革銳減。醫師診視,投劑發表,忽忽若迷。母撫問所由,默然不答。

適 吳生來,囑密詰之。吳至榻前,生見之小下。吳就榻慰解,漸致研詰。生具吐其實,且求 謀畫。吳笑曰:「君意亦復痴!此願有何難遂?當代訪之。徒步于野,必非世家。如其未 字,事固諧矣;不然,拚以重賂,計必允遂。但得痊瘳,成事在我。」生聞之,不覺解頤。

吳出告母,物色女子居里,而近代訪既窮,並無蹤緒。母大懮,無所為計。
--Wikisource 中文版: 聊齋志異/第02卷 [嬰寧]

嬰寧

王子服(おうしふく)は莒(きょ)の羅店(らてん)の人だった。早く父をうしなって孤(みなしご)になったのだが、大そうりこうで、十四のとき泮(はん)に入った1)。母は、ひどく、かわいがって、常々は游郊野(ゆさん)などもさせず、蕭氏(しょうし)をもらって配偶(めあわ)せるつもりであったのが、未嫁(こない)まえに若死にをしたので、求凰(つまさだめ)が、まだ、すまずにいた。

上元の節句である。舅氏子(いとこ)の呉が迎えに来て、いっしょに散歩をしたが、村はずれまで来ると、叔父の家の僕(しもべ)が呉を呼びに来て連れていった。王は遊女2)が雲のようにいるを見て、興に乗じて、一人で遊び歩くのであった。

婢(こしもと)をつれ、一枝の梅花を、ひねくりながら歩いている娘がいた。絶代(よにまれ)なきりょうで、笑うようすが、手にも掬(く)まれるようである。王はじっとみつめて、しまいには、変に思われるのさえ忘れていた。女は幾足か過(いっ)てから、腰元を見返って、「このひとの目は灼灼(ぎょろぎょろ)して賊(どろぼう)みたいね」と言って、花を地上に遺(す)て、笑いながら行ってしまった。

王は急いで花を拾ったが、がっかりして、気が抜けたようになり、わびしく帰ってきたのである。家につくと、王は花を枕の底にしまい、頭を垂れて睡(ね)たまま、話もしないし食べもしないのだ。母は心配して醮禳(まじない)をさせるけれども、ますますひどくなるばかりで、すっかり、やせ、医師が診察して薬をやり病気を発表(そとにだ)すと、うっとりして迷ったようになってしまった。母が、やさしく、わけを聞いても、黙って返事もしないのである。

おりから呉が来たので、母は呉に、ないないで、たずねてみてくれと頼んだ。呉が榻(ねだい)の前に来ると、王は呉を見て、ほろほろと涙を流すのであった。呉は寝台の傍によって慰めながら、聞いてみると、王はくわしく事実を話し、そして、何とか考えてくれろと言った。呉は笑って、「きみも亦復痴(ずいぶんばか)げている。そんなことは何でもないさ。よろしい。きみに代わって探してみよう。徒歩于野(のあそび)をするくらいなら、きっと世家(いえがら)ではあるまい。もし許婚がなければ、もちろん、話は、まとまるし、そうでなかったら、たくさんな賂(かね)をやれば、思うに、きっと、ととのうさ。ただ、なおることだ。話はぼくが成功させる」と言った。王は、それを聞いて、思わず、にっこりしたのであった。

呉は部屋を出て母に話した。そして娘の居里(いどころ)を探したのであるが、訪ね尽くしても、さらに蹤緒(あとかた)がないので、母は、ひどく心配して、途方に暮れた。
--角川文庫 [完訳 聊斎志異 第三巻 (全4冊)] 柴田天馬訳。1969年改版。東京 角川書店。pp.15-16

注:
1)「泮に入る」: 「泮」は孔子廟の前の池のこと。明清時代、童試(県試・府試・院試の3つ)に合格して者が国立大学である [國子監] の学生になることを「入泮」と言った。
2)「遊女」: 「游(遊)」は物見遊山で出歩くこと。

この後、娘 (嬰寧) を探し出せなかった呉は、探索を諦めてしまって、適当なことを王に言って誤魔化す。業を煮やした、呉がデタラメに娘が暮らしていると言ったに場所へと出かける。すると...と云う具合に話が進み、落語の [崇徳院] からズレてしまう。

落語の [崇徳院] のテキストは、本稿の目的に丁度合うものが見つからないのだが、取り敢えずは以下を参照していただきたい。

[嬰寧] と [崇徳院] の構造上の類似点を挙げると次のようになる:

1. 親から大切にされている独身の青年が外出する。青年には、少なくとも途中までは同性の同伴者がいる。
2. 外出先で、青年は、美しい娘に遭う。娘には「婢(こしもと)」が同伴している。季節は「春」で、青年や娘が外出していることには、おそらく宗教的・祭儀的な意味がある。
3. 青年は娘を見つめ、娘は青年に気づく。
4. 娘は、ある物を落とし(あるいは、捨て)、青年がそれを拾う。その「ある物」とは限らないが、娘の象徴になる物が、娘から青年にわたる。
5. 娘の象徴になる物を持って、青年は自分の家に還る。青年は娘の象徴物を大切に仕舞う。
6. 青年は、娘に恋をしているが、その娘が誰かさえわからないために、「恋煩い」に陥り、元気をなくして病人のようになる。
7. 青年の親は心配して手を尽くすが、効果がない。青年は「元気がない」理由を、親に話さない。
8. 青年の親は、青年を医者に見せる。医者は、青年の「病」が内にこもったものであると診断して、それが外に出るような処方をする。
9. 青年の友人が、青年の家を訪れる。青年の親は、青年の友人に、青年から「元気がない」理由を聞き出すよう依頼する。
10. 青年の友人が青年に会うと、青年は友人に、外出時の娘との顛末と、娘が身元が不明であることをを話す。
11. 青年の友人は、青年の親に、青年の「元気がない」理由が「恋煩い」であること伝える。
12. 青年の友人は、娘を探し出すことになり、探しはじめるが、娘は見つからない。

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2007年2月 7日 (水)

毛沢東郷関ヲ出ヅ

毛沢東に [改西乡隆盛诗赠父亲] (改西郷隆盛詩贈父親) と云う七言絶句がある。

七绝·改西乡隆盛诗赠父亲 (1909年)

孩儿立志出乡关,学不成名誓不还。
埋骨何须桑梓地,人生无处不青山!
--人民网>>中国共产党新闻>>领袖人物>>人民领袖毛泽东>>诗词作品

これは簡体字版だが、繁体字版(というか、日本語の旧字体版)では、次のものがネット上で見つかった。

留呈父親 毛澤東 (1910年)

孩兒立志出郷關,學不成名誓不還;
埋骨何須桑梓地,人間無處不靑山。
--毛沢東詩詞 留呈父親 詩詞世界 (碇豊長の詩詞 漢詩)

この二つの版を比べると、作成年度が一年、第四句が「人生」と「人間」とで異なっているが、いづれにしろ、この詩を藉りて郷関を出ようとする青年の志を述べたものと理解してよいだろう。しかし、具体的にはどのような状況であったのか?

試みに、中文版の wikipedia [毛泽东] を見た。ところが、それからは毛沢東が 1893年12月26日生まれであったことは分かったが、1909年/1910年の記載が見当たらない:

1893年12月26日,毛泽东出生在湖南省长沙府湘潭县韶山冲(今湖南省湘潭市韶山市)的一个中农家庭中。1908年,其父毛顺生为他配婚与罗氏(罗一秀),但毛泽东始终不承认这桩婚事。1911年春,到湖南长沙湘乡驻省中学求学。1912年,以第一名的成绩考入湖南全省公立高等中学校(今长沙市第一中学),次年春考入湖南省立第四师范学校,学校后来并入湖南省立第一师范。

ただ、父 毛順生 (毛顺生) により1908年に結婚させられた (其父毛顺生为他配婚与罗氏) 最初の妻 羅一秀 (罗一秀) が、1910年春に病死していることだけが分かっただけだ(个人生活)。

しかたがないので、別のサイトを探してみると、次のようなものが見つかった(簡体字版と繁体字版、双方を示す)。

  一九一○年秋天,毛泽东离开闭塞的韶山,走向外面更广阔的世界。这是他人生历程中的第一个转折。他的激动心情是可以想象的。临行前,他改写了一首诗,夹在父亲每天必看的帐簿里:“孩儿立志出乡关,学不成名誓不还。埋骨何须桑梓地,人生无处不青山。”
-- 中国共产党新闻>>毛泽东纪念馆>>一、出乡关

 一九一○年秋天,毛澤東離開閉塞的韶山,走向外面更廣闊的世界。這是他人生歷程中的第一個轉折。他的激動心情是可以想象的。臨行前,他改寫了一首詩,夾在父親每天必看的帳簿裡:“孩兒立志出鄉關,學不成名誓不還。埋骨何須桑梓地,人生無處不青山。”
--中國共產黨新聞>>毛澤東紀念館>>一、出鄉關

取り敢えず、この情報で良しとすべきだろう。つまり、詩は1910年秋に毛沢東が故郷を出る時に関わると云う訣だ(「他改寫了一首詩,夾在父親每天必看的帳簿裡/彼は、ある詩を書き直したものを、父親が毎日看る帳簿に挿み込んだ」)。

さらに [出乡关] に従って述べるなら、故郷(湖南省長沙府湘潭県韶山衝)を出た毛沢東は、韶山から五十里 (「公里 km」かどうか未確認) ほど離れた所の「湘郷県立東山小学堂 (湘乡县立东山小学堂)」に入学する。この小学堂は、湘郷県城近くの東山台の麓にあった。類似の私塾と比べて、伝統的な四書五経を始めとする経書以外に自然科学・地理・英語等の新学問を教えることが毛沢東には魅力だったらしい。

どうやら毛沢東を湘潭県城の米屋に徒弟奉公させるつもりだった父 毛順生 は、この進学には当初反対したらしく、親戚(母方の従兄弟? 文園昌)の説得でようやく同意してくれたのだが、そうした父に対し彼は「學不成名誓不還」と、意気込みを見せたかったのだろう。

1911年春に、東山小学堂にいた教師 賀嵐岡 (贺岚冈) が、長沙の湘郷駐省中学に転任すると、毛沢東もそれに合わせて、同校を入試合格したようだ。

さて、毛沢東が手本にした問題の詩は、西郷隆盛のものではなく、幕末の僧 [月性] の作と伝えられている詩 [將東遊題壁] (まさに東遊せんとして壁に題す) であることは良く知られているとおりだ([月性] は、西郷隆盛と共に錦江湾に身を投じた僧 [月照] とは別人)。特に「ジンカン到る所セイザンあり」と云う最後の一句は、諺にさえなっている。

將東遊題壁 釋月性

男兒立志出郷關  男児 志を立てて 郷関を出づ
學若無成不復還  学 もし成るなくんば 復還らず
埋骨何期墳墓地  骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を
             期せんや
人間到處有靑山  人間 到るところ青山あり
--釈月性 将東遊題壁 日本漢詩選 詩詞世界 (碇豊長の詩詞 漢詩)

月性版の出だし「男兒」を毛沢東が「孩兒」にしたのは、日本語と中国語の語感の違いの問題かもしれないが、第2句で「不復還」を「誓不還」としたのは、毛少年の客気だろう。

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2007年2月 6日 (火)

ちなみに: [人人為我,我為人人] ([人人为我,我为人人]) は、よく使われる「中国語表現」である。

記事 ["One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて] (2007年1月30日) 末尾で触れた [人人為我,我為人人] (簡体字では [人人为我,我为人人])、或いはむしろ [我為人人,人人為我] ([我为人人,人人为我]) は、よく使われる「中国語表現」である。

名人名言/經典名人名言30句」や「Yahoo! 雅虎 知识堂 [“我为人人,人人为我”出自何处?]」から分かるように、それが、アレクサンドル・デュマ・ペール (大仲马) の小説 [三銃士] ([三个火枪手] 又は [三劍客]) に由来すると云うことも、少なくともある程度は知られている(これは日本でも同様だろう)。

[雷锋纪念馆ウェブサイト中の或るページ] に見られるように、 [我為人人,人人為我] は、中国共産党が伝説的な労働英雄に仮託した期待される労働者像の属性であるだけでなく(「团结友爱,互相帮助,我为人人,人人为我的良好风气,雷锋正是在这样的时代精神熏陶下茁壮成长起来的」)、党が現在の人民に口を酸っぱくして説いている道徳律でもある。

形成我为人人、人人为我的社会氛围
2007年01月19日01:14

 ●我为人人和人人为我是辩证统一的整体,二者不能分割。只有先做到我为人人,才能实现人人为我。这种价值取向是与社会主义核心价值体系相一致的正确价值取向。
 ●我为人人、人人为我的价值取向,对国家、对社会、对他人充满责任感,是调节人际关系、维护社会秩序、促进社会和谐的润滑剂。
 推进和谐文化建设,构建社会主义和谐社会,是我们当前面临的重大战略任务。党的十六届六中全会《决定》指出,要“推动形成我为人人、人人为我的社会氛围。”和谐文化建设首先要求树立正确的价值取向。我为人人、人人为我,是处理个人与他人、个人与社会关系的正确价值取向。大力倡导我为人人、人人为我的价值取向,对于促进社会和谐具有极其重要的意义。

《人民日报》 (2007-01-19 第09版)

残念ながら、[我為人人,人人為我] が、いつごろから党中央のスローガンとして採用されたかは、確認できなかった。

北京大学付属中学の卒業生らしい [欧阳程] (北大附中63—11班) は、「1958—1963年,是国际共产主义大论战的年代,是国际风云变幻的年代;是中国人民告别大跃进、与自然灾害抗争的年代;是全国人民学雷锋,人人为我、我为人人的年代。」と回想している(难忘的五年)。

しかし、大躍進政策の惨澹たる失敗に応ずる形で毛沢東の後に劉少奇国家主席を襲ったのが 1959年4月27日、雷鋒の殉職は 1962年8月15日、毛沢東の「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」は、1963年3月5日で、若干の齟齬がある(ちなみに、所謂 [廬山会議] は、1959年7月/8月である)。どうやら、[我為人人,人人為我] は、大躍進政策の当時、既に使われていたらしい。毛沢東は、このスローガンに反対する立場を取っていたと云う。

      在群己關係上,1958年紅專討論的時候,曾有一個流行的觀點,即「人人為我,我為人人」,並把它看成是「無產階級的信條」14。毛澤東非常不以為然,他說15

    斯大林只談經濟,不談政治,雖然說忘我勞動,其實多作一小時也不行,都不能忘我。人的作用,勞動者的作用不談。如果沒有共產主義的運動,想過渡到共產主義是困難的。「人人為我,我為人人」不妥當,結果都離不開我。有人說馬克思講過的,是馬克思講過的我們可以不宣傳。人人為我,是人人都為我一個人,我為人人,能為幾個人?

    14:〈人人為我,我為人人〉,《人民日報》社論,1958年3月15日。
    15: 《毛澤東思想萬歲》(1969),頁248-49。
    --《二十一世紀》網絡版


政治関連以外のことも書いておこう。

日本語の [生活協同組合] に相当するのは "消費合作社" ("消费合作社") と呼ばれるものであるらしいが、これについて言えば、台湾 [國立勤益技術學院員生消費合作社] のスローガンは [我為人人。人人為我。互助合作。團結進步] である。

また [吴念鲁] と云う人物が亡父 [吴朗西] (吳朗西。作家、翻訳家。巴金と親交があったらしい。また、日本に留学していたことがある由) の想い出を綴った [忆父亲吴朗西] には、[吴朗西] が重慶で [消费合作社] を創設したと云うくだりがあるが、そこでも:

父亲于1939年9月回到重庆沙坪坝。后来,在父亲、巴金、田一文、陈辉等人努力下,终于在重庆民国路开办了文化生活出版社重庆分社,父亲任总经理,巴金任总编辑兼副总经理。
沙坪坝是重庆一个文化区,但是由于交通不便,销售渠道不畅通,使一些投机商人囤积居奇,特别是生活必需品的价格不断上涨,居民生活很不方便。
父亲为了改变这一状况,在他的互助、互爱、互利思想指导下,以"人人为我,我为人人"为服务宗旨,创办了消费合作社。

学校のモットーにも使われていて、香港のキリスト教系私立校 (幼稚園から、日本における高校ぐらいまでの一貫校) [民生書院 (Munsang College)] の校訓は、[人人為我,我為人人] である。

[生命保険] は、中国語では [人壽保險]。

人壽保險是「我為人人,人人為我」的經濟制度,以提供個人或家庭因生、老、疾病、殘廢及死亡所導致的生活不安定,給予確定的經濟生活保障為宗旨。
--壽險保戶手册

高尧 (高堯) と云うサッカー選手(山東魯能泰山隊所属)は、「你的座右铭是什么?」(あなたの座右の銘は?) と聞かれて、「我为人人,人人为我 」と答えている(高尧:我为人人,人人为我)。


ちなまれているのは: "One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて

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2007年2月 5日 (月)

中国語版 "Amazing Grace" なら

中国語版 "Amazing Grace" なら、"奇異恩典""奇异恩典" で検索すれば、いろいろでてくる。

例えば、私は内容をチェックしていないが、次のようなサイトが見つかったのでリンクを張っておく(歌い出しも引用しておく):

*【古老聖詩】奇異恩典-寂寞≠出軌的理由-新浪部落
奇異恩典,何等甘甜,我罪巳得赦免;前我失喪,今被尋回,瞎眼今得看見。

*蔚藍的水平線 - [歌詞] Amazing grace / 奇異恩典 (附MIDI)
奇異恩典,樂聲何等甜美 拯救了像我這般無助的人

*奇異恩典 Amazing Grace
奇異恩典,何等甘甜,我罪全得赦免;

*Songs 奇異恩典
奇異恩典 何等甘甜 我罪已得赦免

*【奇異恩典】詩集:生命聖詩,185
奇異恩典,何等甘甜,我罪已得赦免;

*[精选诗歌]-圣诗-奇异恩典amazing grace
奇异恩典 何等甘甜 我罪以得赦免

*奇异恩典
奇异恩典, 何等甘甜, 我罪已得赦免!


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2007年2月 2日 (金)

[八代集秀逸]中のよみ人知らず歌リンク集

藤原定家撰版の [八代集秀逸] (岩波文庫 [王朝秀歌選] 所収) には、[よみ人知らず]の歌が6首収められている。それぞれに就いてのリンクをまとめた(各歌の前の数字は、[八代集秀逸] 内での番号付け)。

2. 鳴きわたる 雁の涙や 落ちつらむ 物思ふ宿の 萩の上の露 (古今221)

古今和歌集の部屋 巻四 221
時代統合情報システム [古今集 巻四:秋上] [00221]
古今和歌集 [221]
「近代秀歌」翻字データベース [古今巻四221 読人しらず]
秀歌体大略 (千人万首) [秋 32 読人不知 古今]
源氏物語 36 柏木 第五章 夕霧の物語 柏木哀惜 [注釈326: もの思ふ宿は]
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [古今221]

本歌取り
  刑部卿頼輔、歌合し侍りけるに、よみて遣はしける
聞く人ぞ涙は落つる帰る雁鳴きて行くなる曙の空
--藤原俊成 [春 新古今] (千人万首) [新古今 59]

なき渡る雲ゐの雁の涙さへ露おく袖の夜半のかたしき
--俊成卿女 [水無瀬恋十五首歌合] 秋恋 [十三番 左 持]



8. 名取川 瀬々の埋れ木 あらはれば いかにせむとか 逢ひ見初めけむ (古今650)

古今和歌集の部屋 巻十三 650
時代統合情報システム [古今集 巻十三:恋三] [00650]
古今和歌集 [650]
近代秀歌 例歌 (千人万首) [恋 61]
秀歌体大略 (千人万首) [恋 94 読人不知 古今]
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [古今650]

本歌取り
  攝政太政大臣家歌合によみ侍りける
ありとても逢はぬためしの名取川朽ちだにはてね瀬々の埋木
--寂蓮 [新古今 卷第十二:戀歌二 1118]

なとり川わたればつらし朽ち果つる袖のためしのせぜの埋れ木
--定家朝臣 [水無瀬恋十五首歌合] 河辺恋 [六十一番 右] (「勝」は左「左大臣良経 泊瀬川ゐでこす波の岩の上におのれくだけて人ぞつれなき」)



10. たがみそぎ ゆふつけ鳥か 唐衣 立田の山に をりはへて鳴く (古今995)

古今和歌集の部屋 巻十八 995
時代統合情報システム [古今集 巻十八:雑下] [00995]
古今和歌集 [995]
古今集秀歌選 [0995]
吉川栄治研究室(滋賀大学) [古今集:巻18/雑下/0995/読人不知]
「ユフツケドリ」詠
鳥を詠める和歌 [古今和歌集 十八雑 よみ人しらず]

大和物語 百五十四段
大和の國なりける人のむすめ、いときよらにてありけるを、京よりきたりける男のかいまみて見けるに、いとおかしげなりければ、ぬすみてかき抱きて馬にうちのせて逃げていにけり。いとあさましうおそろしう思ひけり。日暮れて立田山にやどりぬ。草のなかにあふりをときしきて、女を抱きて臥せり。女、恐しと思ふことかぎりなし。わびしと思ひて、男の物いへど、いらへもせで泣きければ、男、
   たがみそぎゆふつけどりか唐衣立田の山におりはえてなく
女、かへし、
   立田川いはねをさしてゆく水の行方もしらぬわがごとやなく
とよみて死にけり。いとあさましうてなむ、男抱きもちて泣きけり。
--歌物語という「語り」~「大和物語」百四十九段~百五十五段 [154段]
--大和物語 [154:ゆふつけ鳥]



11. つつめども 隠れぬものは 夏虫の 身より余れる 思ひなりけり (後撰209)

詞書: 桂の皇女(みこ)の「蛍をとらへて」と言ひ侍りければ、童(わらは)の汗衫(かざみ)の袖につつみて
時代統合情報システム 後撰集 巻四:夏 [00209]
後撰集秀歌選 [巻第四:夏歌 0209]
後撰和歌集卷第四 夏歌 [桂のみこの螢を捕へてといひ侍りければ童のかざみの袖につゝみて]
「近代秀歌」翻字データベース [後撰巻四209 読人しらず]
和漢朗詠集
虫を詠める和歌 [後撰和歌集 四夏]
詠歌一體 藤原爲家 [国文研/後撰和歌集/後撰和歌集巻第四/夏歌 0209]

今物語 四
 ある殿上人ふるき宮ばらへ夜ふくる程に参りて。北のたいのめむだう(馬道)にたゝずみけるに。局におるゝ人の気色あまたしければ。ひきかくれてのぞきけるに。御局のやり水に蛍のおほくすだきけるを見て。さきにたちたる女房の。蛍火みたれとびてとうちながめたるに。つぎなる人。夕殿に蛍とんでとくちずさむ。しりにたちたる人。かくれぬものは夏むしのとはなやかにひとりごちたり。とりどりにやさしくもおもしろくて。此男何となくふしなからんもほいなくて。ねずなきをしいでたりける。さきなる女房。ものおそろしや。蛍にも声のありけるよとて。つやつやさはぎたるけしきなく。うちしづまりたりける。あまりに色ふかくかなしくおぼえけるに。今ひとり。なく虫よりもとこそととりなしたりけり。是もおもひ入たるほどおくゆかしくて。すべてとりどりにやさしかりける。
   後拾おもひにもゆる〔首書〕
音もせてみさほにもゆる蛍こそ鳴虫よりも哀成けれ
蛍火乱飛秋已近。辰星早没夜初長。
夕殿蛍飛思悄然。
後撰 つゝめともかくれぬ物は夏むしの身よリあまれる思ひ成けり
--今物語 第四話
//ゑびすや贅言: なんと艶やかな情景だろう。

参考:
  ほたるをよみ侍りける
音もせで思ひにもゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ (後拾遺216)
--源重之 (千人万首) [夏]

蛍火乱れ飛びて 秋已に近し
辰星早く 没(かく)れて 夜初めて長し
蛍火乱飛秋已近。辰星早没夜初長。元
--和漢朗詠集

元稹 [夜坐]
雨滯更愁南瘴毒,月明兼喜北風涼。
古城樓影橫空館,濕地蟲聲繞暗廊。
螢火亂飛秋已近,星辰早沒夜初長。
孩提萬里何時見,狼藉家書滿臥床。
--簫堯『中國詩苑』《全唐詩》卷四百一十五 [卷415_28 《夜坐》元稹]


14. 秋風に さそはれ渡る 雁がねは 物思ふ人の 宿をよかなむ (後撰360)

時代統合情報システム 後撰集 巻七:秋下 [00360]
後撰和歌集・ 巻第七 秋下 [360 題しらず]
後撰和歌集卷第七 秋歌下 [題志らず]
「近代秀歌」翻字データベース [後撰巻七360 読人しらず]
近代秀歌 [後撰和歌集/後撰和歌集巻第七/秋歌下 0360]
近代秀歌 (縦書き表示) [後撰和歌集/後撰和歌集巻第七/秋歌下 0360]
秀歌体大略 (千人万首) [秋 38 読人不知 後撰]
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [後撰360]
詠歌大概



24. いかにして しばし忘れむ 命だに あらば逢ふ夜の ありもこそすれ (拾遺646)

時代統合情報システム 拾遺集 巻十一:恋一 [00646]
拾遺和歌集 646
拾遺和歌集卷第十一 戀一
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [拾遺646]

清原深養父
いかで猶 しばし忘れん 命だに あらば逢ふ世の ありもこそすれ
--深養父集増補 [60-]

本歌取り
  題しらず
あすしらぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふよを待つにつけても
--新古今 巻第十二 恋歌二 殷富門院大輔 (新古1145)

  建保五年四月庚申、久恋といへる心をよみ侍ける
こひしなぬ身のをこたりぞとしへぬるあらばあふよのこゝろづよさに
--新勅撰和歌集 巻第十二 恋歌二 権中納言定家 [746]



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2007年1月30日 (火)

"One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて

記事 [「一人ひとりに、それぞれの必要に応じて。一人ひとりが、その能力に応じて。」と「全員が一人ひとりのために。一人ひとりは全員のために。」] (2007年1月26日) で書いた [三銃士 (ダルタニャン物語 第一部)] ("Les Trois Mousquetaires" 1844年) に現われる "Tous pour un, un pour tous." (「全員が一人のために。一人は全員のために。」) の対応英語形は "One for all, all for one" になる。この変異例としては "One for all, and all for one" や "all for one, one for all" 或いは "All for one, and one for all" がある。日本語の「一人は万人のために、万人は一人のために」も、この系統とみなして良いだろう。

"Voyage en Icarie ([イカリア旅行記] 第3版 1845年)" 表紙における "Tous pour chacun. Chacun pour tous." (全員が一人ひとりのために。一人ひとりは全員のために。) が、どう関わるのかは、未確認。


で、取り敢えず話を日本に限ると 「一人は万人のために、万人は一人のために」(変異例:「みんなが一人のために、一人はみんなのために」)や "One for all, all for one" 等は、様ざまな組織及び個人の pet philosophy になっている:

生活協同組合 (生協)
コープこうべ
全国生協連
大学生協
農業協同組合 (農協)。 ただし「"Each for All, All for Each (一人は万人のために 万人は一人のために)"」を採用している。
JA (農協) 東京中央会
JA 全農
JA 全中
その他の協同組合
全労済
労働組合
動労千葉
自治労群馬県本部
自治労横浜
関西合同労組
全日本郵政労働組合 英文による組織紹介のタイトルが "One for all, all for one"
チーム競技
ラグビー (愛知県「岡崎ラグビースクール」)
サッカー (神戸大学体育会サッカー部)
野球 (松坂大輔)
ソフトボール (茨城県東海村「舟石川ソフトボールスポーツ少年団」)
バレーボール (Vリーグ「トヨタ自動車」チーム)
フットサル (フットサルラボ:脱初級者フットサルブログ)
ラクロス (東京女子体育大学・ラクロス部)
駅伝 (99年北大駅伝)
モダンダンス (大東文化大学モダンダンス部)
チアリーディング (福井県 WENDYS)...
バンドスタイル又はシンガーチームスタイルのタレントの features
H.P.オールスターズ: "Hello! Project" のユニット。「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」は、その楽曲名。
氣志團ちゃんブログ:ONE FOR ALL.ALL FOR ONE. (2006年4月21日)
学校/課外活動のモットー
聖ドミニコ学園小学校(東京都世田谷区)
山口県立豊北高等学校
岡山県立矢掛高校吹奏楽部
学園祭・運動会のテーマ
西九州大学福祉医療専門学校・佐賀調理製菓専門学校の合同学園祭
沖縄キリスト教学院大学・沖縄キリスト教短期大学 学生会2006キリ学祭
横浜市國學院大學幼児教育専門学校“若葉祭”
文教大学付属中学・高等学校学園祭 (東京都品川区旗の台)
神戸山手女子中学校・神戸山手女子高等学校
啓新高校(福井県)
広島県立加計高等学校
大阪産業大学
横浜市立日限山中学校
舞鶴市立城南中学校
高知県立高知追手前高等学校吾北分校
山口県立南陽工業高等学校体育祭...
成人式の標語
秋田県横手市
政治家の看板文句
豊島区議会議員 池田なおひろ (自由民主党)
衆議院議員 後藤田 正純 (自由民主党)
前・衆議院議員 田中慶秋 (民主党)
山口県下関市議会議員 長ひでたつ (公明党)
千葉県浦安市議会議員 辻田あきら
福井県議会議員 のだ富久 (県民連合)
神奈川県知事 松沢成文
長野県下伊那郡下條村議会議員 宮島きよのぶ
衆議院議員 森喜朗 (自由民主党)
ブログのタイトル
多数。無慮数百あるようだ。
個人の「好きな言葉」/「座右銘」
多数。

なにか、こう目眩いがしてくるね。

保険会社も、しばしば「一人は万人のために、万人は一人のために」を標語にする:

その根拠にしているのは、ドイツ語形の "Einer für Alle, Alle für Einen" のようだ。これは、直接にはドイツ(その後米国に移住)の保険学者 Alfred Manes によるらしいが、それが更に由来するものがあるかどうかは、私には不明。

外国での対応表現の使われ方に就いて調べてみるつもりだったが、別の機会を俟つことにする。

    参考になるかもしれないサイト:
  • One for all, and all for one - Wikipedia: 記事中、"One for all, and all for one" をモットーとする団体として具体的に挙げられているのは "Hells Angels" だけである。
  • Panthéon de Paris - Wikipedia: 2002年11月30日に Alexandre Dumas がパリ・パンテオンに改葬された際に、棺にかけられた drap bleu には "Tous pour Un, Un pour Tous " と記されていたと云う (Alexandre Dumas, samedi 30 novembre 2002)。
  • Rugby School Internet Services: rugby football が始まったとされるイングランドの public school "Rugby School" のサイト。"one for all" や "all for one" に就いて特記している様子は見られない。「学校新聞」である "The Grapevine" 2006年2月号に "This term has been a pretty amazing one for all the badminton squads,..." とあるが、これは「今期は、バドミントンチームの全てが素晴らしい成績を残した」と云うこと。
  • Rugby Football Union: 英国ラグビーフットボール協会のサイト。"one for all" や "all for one" に就いて特記している様子は見られない。
  • RugbyRugby: Latest News: ラグビーフットボールの専門サイト中の記事。"one for all and all for one" と云うスローガンに就いての言及がある。
  • Unus pro omnibus, omnes pro uno - Wikipedia: ラテン語。非公式ながらもスイスの伝統的モットー。
  • Trivia for The Truman Show (1998) によれば、映画 "The Truman Show" (1998年) には、"UNUS PRO OMNIBUS, OMNES PRO UNO" が町のモットーとして登場する。この映画は、1967年のイギリステレビドラマシリーズ "The Prisoner" (「プリズナーNo.6」) を意識している。
  • Solidarität im Verfassungsstaat:「立憲国家における団結」"Einer für Alle, Alle für Einen" や Alfred Manes の話が出てくる。副題: "Grundzüge einer normativen Theorie der Verteilun" は「分配の標準理論の基本的特徴」と言ったところか。
  • 集団主義 - Wikipedia 曰わく: 「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)というスローガンは、個人主義的な成員に、心理的に集団と一体化しよう、と呼びかける理念・イデオロギーで、1844年にイギリスで生活協同組合運動が発足したときに考案されたもの。これを西欧的集団主義と把握する考え方がある。北朝鮮はこのスローガンを愛用し、全体主義批判に対し、自国は集団主義であると反論する。
  • 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法: 第5章 [公民の基本権利及び義務] 第63条 朝鮮民主主義人民共和国において公民の権利及び義務は、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という集団主義原則に基づく。
  • Rochdale - Wikipedia: イングランド西北部の都市。協同組合運動 (cooperative) 発祥の地。
  • Rochdale Principles - Wikipedia: 初期協同組合運動の原則。"one for all, all for one." に類する箇条は見当たらない。
  • Statement on the Co-operative Identity - Wikipedia: "International Co-operative Alliance" (ICA 国際協同組合同盟) による協同組合運動宣言。

ついでに書いておくと "one for all, all for one." 及び "one for all, and all for one." に対応するロシア語表現は,それぞれ "Один за всех, все за одного." 及び "Один за всех и все за одного." また、イタリア語形は "Uno per tutti, tutti per uno." 及び "Uno per tutti e tutti per uno."

"Один за всех" "все за одного" が、Сергей Михайлович Эйзенштейн (セルゲイ・エイゼンシュテイン)の 映画 "Броненосец Потёмкин" (「戦艦ポチョムキン」)に出てくるらしいが、未確認(ただし "Battleship Potemkin: Scenario and script by Sergei Eisenstein" 参照)。

"One for all, all for one." は、「ユートピア/革命の昂揚」の指標であるのと同時に、「ディストピア/革命の幻滅」隠蔽の指標でもあると言うべきか。

いみじくも、アレクサンドル・デュマ・ペール (Alexandre Dumas) は、このあたりの機微を、アトスとアラミスに「手を差し出して誓え!」と迫られたポルトスが、「ブツブツ口ごもりながらも、周りの勢いに気圧されて」(Vaincu par l'exemple, maugréant tout bas)、ダルタニャンとの四人で「全員が一人のために、一人は全員のために」と唱和したと、書いていることを忘れるべきではないだろう( [ダルタニャン物語 第一部「三銃士」"Les Trois Mousquetaires"] 第9章)。


    最後に、各国語おける問題の標語を改めてまとめておこう(主な変異例がある場合には、それも付ける):
  • フランス語: "Tous pour un, un pour tous."

  • 英語: "One for all, all for one." ("One for all, and all for one." )

  • ドイツ語: "Einer für Alle, Alle für Einen"

  • 日本語: 「一人は万人のために、万人は一人のために。」(「みんなは一人のために、一人はみんなのために。」)

  • イタリア語: "Uno per tutti, tutti per uno." ("Uno per tutti e tutti per uno.")

  • ラテン語: "Unus pro omnibus, omnes pro uno"

  • ロシア語: "Один за всех, все за одного." ("Один за всех и все за одного.")


    補足
  • スペイン語: "uno para todo, todo para uno." ("uno para todo y todo para uno.")

  • オランダ語: "Een voor allen, allen voor een." ("een voor allen en allen voor een.")

  • ポルトガル語: "um para todos, todos para um." ("um para todos e todos para um.")

  • 中国語形: "我為人人,人人為我" らしい。(中国語ウィキペディアのスイスの項 "瑞士" による。) "one" には「我」、"all" には「人人」が当てられているのが興味深い。

  • ハングル: "전체는 하나를 위해, 하나는 전체를 위해" 「チョンチェヌン ハナルル ウィフィェ, ハナヌン チョンチェルル ウィフィェ」か? (ハングル版ウィキペディアのスイスの項 "스위스" による。"전체"「チョンチェ」は「全体」の意、"는"「ヌン」は主題を表わす格助詞、"하나"「ハナ」は数詞「一」、"를"「ルル」は目的格助詞、"위해"「ウィフィェ」は目的を表わす用言「為である」。)


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2006年12月28日 (木)

ちなみに: バーミヤンの中国語表記は「巴米揚」

アクセス解析を覗いてみて思い出したのだが、「バーミヤン」の中国語表記を調べようとしていて忘れていたのだった。[元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること] (2006年12月4日) を書いた時に「煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べる」を、中国表記にするとどうなるか、ちょっと考えてみたのだ。

勿論、レストランチェーンの [バーミヤン] が、自らの中国語表記をどのようにしているか、と云うようなことは余り考えずに、スグに大仏遺跡がある(アフガニスタンの)のバーミヤンの中国語表記を調べ出したのだが、日本語ウィキペディアで [バーミヤン] の項目を出して([バーミヤーン] に転送される)、そこから中文ウィキペディア (维基百科) の対応項目に飛べば [巴米扬省] のページが現われる。これだと、簡体字だけどね。そうしたことは、必要に応じて適宜直せば良いだけの話で...

と云う訣で、「巴米揚」でした。

「巴米楊」や「巴米陽」と云う言い方もあるらしい。

簡体字なら、それぞれ「巴米扬」「巴米杨」「巴米阳」になる。

ただ、上記中文ウィキペディアの [巴米扬省] の記載によると、中国地名委員会が定める標準名は「巴米揚(巴米扬)」。木偏の方の「巴米楊(巴米杨)」は、「誤写」だと云う。「巴米陽」に就いては、調査がつかなかった。



ちなまれているのは: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること

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2006年12月11日 (月)

ちなみに:「前度劉郎 (前度刘郎)」は現代中国語としても使われいてる

「前度劉郎」に就いて説明している日本語サイトで google 検索に引っ掛かるのは、実質的に「四字熟語: 前度劉郎(ぜんどりゅうろう)」だけのようで、日本語リテラシの中に十分に入っているとは見えない。しかし、中国語としてはシッカリと現代に生きている。

1.北京师范大学出版社 基础教育教材网“前度刘郎今又来”
[北京师范大学出版社] (参照: 北京師範大学 - Wikipedia) による「基礎教育教材」用の語句解説中の「前度刘郎今又来」の項。
2.前度刘郎今又来——重返纽约
写真が何枚か掲載されている。曰わく:
[2006/10/15 11:24 | by blind]
纽约没有桃园,但是有秋色。
去年的十月底,我在纽约拍到了迄今我所见过的最美秋色。
今年来早了半个月,那就北上吧。不一样的地方,相似的风景。
ニューヨークには桃の庭園はないが、それでも秋の景観と云うものはある。
昨年の10月末、私はニューヨークで今まで見てきたうちで最も美しい秋景色の写真を撮った。
今年は半月程早かったので、北に行ったのだった。場所は違うが景色は似ている。
3.法国:前度刘郎今又来
2004年6月の雑誌からの引用らしい。「法国」とはフランスのこと。記事は 2004年6月12日-7月4日に行なわれた [サッカー欧州選手権2004 (ポルトガル大会)] の話題。"2002 FIFA World Cup Korea/Japan" において惨敗したフランス代表の今回の目標は、ただ一つ「冠军」(優勝) である、と云う内容。
ちなみに、その結果は「前回王者フランスは結果こそベスト8でまずまずと言えるかもしれないが、その内容は王者フランスにふさわしいものではなく特に準々決勝のギリシャ戦ではギリシャの規律と集中力はあるゆる場面でフランスを凌駕していたのである。--ウィキペディア [サッカー欧州選手権2004: 強豪国の低迷]

4.前度刘郎今又来?

中国雲南州の砂糖市場関連のサイト。 2006年9月12日の記事。(「本周(今週)」と云う書き方をしているが、9月の第2週のことだろうと思う) 木曜まで下落してきた砂糖相場が金曜日に反発したが・・・、と云うような話らしい。

ちなみのちなみに書いておくと、(やや旧い資料だが) [独立行政法人農畜産業振興機構]の[海外レポート/中国の砂糖産業の概要について 2004年5月] によれば「近年、中国では砂糖の生産量が急速に増加しているが、その多くは甘しゃ糖の生産増によるものである。特に新興産地の広西自治区と雲南省の伸びが大きい。」


5.前度刘郎今又来 “温州炒铺团”重返上海滩

上海関連のサイトでの2006年09月11日の記事。古来商才に長けるとされている「温州人」(温州は中国浙江省の都市) の「炒铺团」が再び上海にやってきている...と云うことなのだが、私には「炒铺团」が既に分からない。ただし、おそらく「投機グループ」の意か、と、ネットを探した所、次のようなものが見つかった。
大紀元時報-日本: 中国不動産市場のバブル化 2005/05/24
新华网News 日本語サイト: 不動産投機行為、隠れバブルを (日付がないが2004年4月らしい)


ちなまれているのは: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること

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2006年12月 9日 (土)

ちなみに:「非關貓狗」と云う中国語表現がある

「寵物 (宠物/pet)」愛好者のブログで見かけたのだが、「非關貓狗」と云う中国語表現もあるようだ。「犬猫以外に就いて」ぐらいの意味か。例えば、[新浪部落]と云うブログサービス内の[非關貓狗]を参照。ただし、そこにはイヌとネコの写真が多数掲載されていて、訣が解らない。

もっとも、[TOP寵物網]と云う BBS のトップページに、「寵愛狗狗話題區: 有關狗狗的各種討論話題」と「寵愛貓咪話題區: 有關貓咪的各種討論話題」とあった後で、[其他寵物話題區: 非關貓狗,您家的各種寵物都可來討論」と並んでいるから、「犬猫以外」で間違いないだろう(大きくはないが、「犬猫だけと云うことに限らず」になる可能性があるとは思うが)。

現代中国語では "blog" を「部落」と表記することもあるのだな(「博客」と書くことがあるのは、下記記事中で記した通り)。

ちなまれているのは: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること

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ちなみに:小説(映画)「運命ではなく」の中国語タイトルは「非關命運」

2002年度ノーベル文学賞(参考:スエーデン・アカデミーによる著作紹介)を受賞したハンガリーの作家 Imre Kertész (イムレ・ケルテース)が「みずからのナチス強制収容所体験をもとに描き出した自伝的小説」"Sorstalanság" (ISBN 9631502929) の邦題は「運命ではなく」。これは2005年に映画化もされていて、英語版のタイトルは "Fateless," 日本語版は、やはり「運命ではなく」。そして中国語タイトルは「非關命運」。

小説の邦訳は、国書刊行会からやはり「運命ではなく」(ISBN 4336045208) のタイトルで出版されている。

ちなまれているのは: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること

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ちなみに:テレビドラマ「アンフェア」の中国語タイトルは「非關正義」

CX のドラマ「アンフェア」の中国語タイトルは「非關正義」。

次を参照:
1. 日本のテレビドラマを紹介している(介紹日本電視劇內容)中国語サイト[日本偶像劇場]中の[非關正義=アンフェア UNFAIR/]。これには簡体字版の[非关正义]もある。

ちなまれているのは: 元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること

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2006年12月 4日 (月)

元好問「玄都觀桃花」。あるいは、老生、煩悶しながらバーミヤンで麻婆豆腐を食べること:「非関水雨能留客」か「非関小雨能留客」か?

[すかいらーく]系列で[バーミヤン]と云う中華料理店チェーンがある。私が住んでいる所の近くにも、その一店があって、たまに食事をしにいくのだが、そこの壁に懸かっている書幅が僅かながら気になって、行く度に「一体、どう云う意味だろう」と思っていた。ただし、店を出てしまうとスグに忘れてしまう。その程度の気になり方なのだ。

しかし、度重なると(額は、結構長期間懸かっている)、家にいても何かの拍子に思い出すことがある。「非関水雨能留客」と云う一句である。これの意味が分からない。勿論、余所で読んだ記憶も、聞いた記憶もない。「[墨場必携]に載っています」と言われたら、「そうでしたか」とでも答えるしかない文言なのだが、「だから何なんだ」とも思ってしまいそうだ。まぁ、「能留客」の三字は、客商売のおマジナイとして解らんでもないんだが、それだけなのか?

念晴らしのため、ネット上を検索してみた(google)。しかし、そのママでは(つまり、ダブルクオートで囲んで "非関水雨能留客" で調べると)何もヒットしないのだな。日本語サイトでは探すのを諦めて、「関」を「關」として "非關水雨能留客" に代えても、「关」として "非关水雨能留客" に代えても結果は同じ(この記事の原稿作成時での話)。

その後、いつも通りの「ジタバタ」が始まった。そして、ここで「ゆくりなくも」と付け加えるべきだろうが(あまりにジタバタしすぎたので、どのような経緯でたどり着いたか、今となっては再確認できないのだ)、とにかく、次のようなものを見つけた。

玄都觀桃花

前度劉郎複阮郎
玄都觀裏醉紅芳。
非關小雨能留客
自是桃花要洗妝。
人世難逢開口笑
老夫聊發少年狂。
一杯盡吸東風了
明日新詩滿晉陽。
--dsuan 发布于 2006-10-20 08:25

この七言律詩は、[北方博客]と云うブログサーヴィス(私は今回初めてブログを中国語で[博客]と表記するのを知った)中の[读书山] (読書山) と云うブログにあった。作者は [元好問] (元好问)。ちなみに「読書山」は、詩人が隠棲処に付けた名らしい。

ついでに、簡体字の形のものも引用しておこう。

元好问《玄都观桃花》诗:

前度刘郎复阮郎,
玄都观里醉红芳。
非关小雨能留客,
自是桃花要洗妆。
人世难逢开笑口,
老夫聊发少年狂。
一杯尽吸东风了,
明日新诗满晋阳。
--从玄都观看唐代道教的兴盛变迁
第5句の「开笑口」は、出典のママ。

私のように無教養なものには荷が重いが、話を進めねばならないので、とにかく仮の読み下しを付けておく。

玄都觀桃花

前度の劉郎、また阮郎
玄都觀のなか、紅芳に醉ふ。
小雨に關せず、能く客を留む
おのづから是れ、桃花洗妝せむとす。
人世、開口して笑ふに逢ふは難し
老夫、聊か發す少年の狂。
一杯吸ひ盡せば東風たちぬ
明日新詩晉陽に滿たむ。

表題の[玄都觀(玄都观)]は、唐の都長安にあった[観](道教施設)。第1句「前度劉郎」は中唐の詩人、劉禹錫(刘禹锡)を指す。「前度劉郎」は、失敗した政治革新に連なったため貶せられて朗州司馬になっていた彼が、居ること九年で長安に戻り、[玄都觀]を訪れた時に詠んだ詩「遊玄都觀: 紫陌紅塵拂面來,無人不道看花回。玄都觀裏桃千樹,儘是劉郎去後栽」と、この詩が原因で彼が忌避され、再度の左遷で連州刺史の生活を十数年した後に、長安に呼び戻され、再び[玄都觀]に遊んで詠んだ「再遊玄都觀: 百畝庭中半是苔,桃花淨盡菜花開。種桃道士歸何處, 前度劉郎今又來」と詠じたことを踏まえる。「複阮郎」は、「前度劉郎今又來」が、実は[太平広記]に収められた[幽明録]逸文[劉晨阮肇入天台]([リップ・ヴァン・ウィンクル-浦島太郎]型の道教説話)を下敷きにしていることによる。詩人の姓が[元]であることも忘れてはなるまい。しかし、こうしたことは別の機会に書くことにしよう。

と云う訣で、問題は第3句の「非關小雨能留客」だ。「小雨」であって「水雨」ではない。面食らって、おもわず、バーミヤンに行ってしまった。問題の書幅の傍に座って、麻婆豆腐を食べながら、しげしげと見てみたが、やはり「水雨」と読める。隷書だから、嗜みのない私でも見間違いはしてないだろうとは思う。

「小雨」の方のなら、意味は「小雨が降ってはいるが(桃花が素晴らしいので)気にならない。とても立ち去ろうとは思えない」とでもなるのだろう(「立ち去れないのは雨が降っているせい、つまり、『遣らずの雨』ではない」とは取らない)。

では「水雨」ではどうか? 「ビミョー」とでも言うしかない。「水雨」は、中国語として熟した言葉であるのかと云う点を措くとして(詩には新奇な表現を熟させると云う機能があるから、この点をあげつらうことには意味がない)、「小雨」の方が情景として美しい。それに、その後の「自是桃花要洗妝」は、「(雨は)もともと、それで桃花が顔を洗おうとしているのだ」ぐらいの意味だろう。ここは細かな雨であるべきではないか。

しかし、では「水雨」はあり得ないかと言うと、何とも言えない。そもそも、「非関水雨能留客」が、[玄都觀桃花]から採ったもの([小雨]から[水雨]への変化が意図的であるかどうかは別として)であるかどうかも分からない。元好問の詩とは無関係であることもありうる訣だ。ただ、そうだとすると、初めの感想に帰ってしまう: 「一体、どう云う意味だろう」。

結局振り出しに戻ってしまったので、元好問関連のリンクだけでもまとめておこう。

1. 金史巻一百二十六[列伝第六十四文藝下] (父[元徳明]と合わせた伝記がある)。繁体字版(金史卷一百二十六 列傳第六十四 文藝下)もある。
2. 元好問 (新華網山西頻道 2005-07-20 來源)
3. 《元遺山集》一(金)元好問 撰
4. 《元遺山集》二(金)元好問 撰
5. 《元遺山集》三(金)元好問 撰
6. 《元遺山集・遺山先生新樂府》四(金)元好問 撰
7. 《元遺山集・續夷堅志》完(金)元好問 撰
8. 读书山
9. 元好問
10.逸海書城--現代文學--魯迅--雜文集--且介亭雜文--儒術

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2005年9月 8日 (木)

信用できない引用句サイト(鄧小平の「猫論」に関係して)

猫に就いての引用句をネット上で探していたら、引用句サイト WorldOfQuotes.comCats と云うページで、次のようなものを見つけた(Catlines Mewsletter Volume 3 Issue 2 でも同様):

His friends he loved. His direst earthly foes--
Cats--I believe he did but feign to hate.
My hand will miss the insinuated nose,
Mine eyes the tail that wagged contempt at Fate.
Author: Sir William Watson (2)
Source: An Epitaph

Black cat or white cat, it's a good cat that catches the mice.
Author: Sir William Watson (2)
Source: An Epitaph

It doesn't matter if a cat is black or white, as long as it catches mice.
Author: Sir William Watson (2)
Source: An Epitaph

最初の一つは、まぁ良い(大体、これは猫に就いての詩ではなく、犬に就いての詩らしいが、まぁ良い)。問題は、後の二つだ。どちらも、鄧小平 (1904-1997。四川省出身) の有名な「猫論」そのままではないか。

Sir William Watson (1858-1935) は英国の詩人だが、何故こんなことが起こったのか? 偶然の一致? それとも、二人の間に何らかの接点が(直接ではないにしろ)あったのか? そう言えば、鄧小平は十代で渡仏している(1920年)。その時にでも William Watson の詩を読んだのか。それとも、晩年に至るまで、ブリッジ好き、サッカー好きの鄧小平は、その一方で英語詩の愛好者でもあったのか? これは一つ調べてみようと、あれこれのサイトを覗いてみたのだが、結論は何の事はない。WorldOfQuotes.com の編集ミスですね。

大体、調べだすとすぐ話が奇妙になっていったのだ。

鄧小平が「白い猫でも黒い猫でも鼠を取る猫は良い猫だ」と云う意味のことを最初に言ったのは、1962年のことらしい(ただし、日付は資料により区区)。

原文を確定しようと、中国語サイトを覗いてみてみると、サイトにより、微妙に異なる言い回しで引用がなされている。こられには、鄧小平の言葉自体と云うより、「猫論」の主旨をのべたものもあるようだ(以下、当方のシステムで文字化けする中国語サイト中の文字は、対応する表示可能漢字に適宜置き換えた)。

1. 不管白猫黑猫,会捉老鼠就是好猫。
「老鼠」は、「老」が付いていても(付くと俗語になるらしいが)「ネズミ」の意。
--鄧小平理論的核心不是"猫論"
--小参考総第292期 1999.01.01 全面報道中国政治反対派的新聞和評論


2. 不管白猫黑猫,抓住老鼠就是好猫
--寂寞如雪—写在午夜的思索集
--大参考総第2404期(2004.10.01)専門散播各種受中共査禁的新聞和評論
「老鼠」の代わりに「耗子」とするものもある(北方方言とのこと)。意味は同じで「ネズミ」。
--十一、不管白猫黑猫,抓住耗子就是好猫


3. 不管白猫黑猫,能抓住老鼠就是好猫
--大参考総第1239期(2001.06.22)専門散播各種受中共査禁的新聞和評論


4. 不管白猫黑猫,能抓老鼠的就是好猫
--Wikiquote: 鄧小平

しかし、注目すべきは、こうした変異例の中で「白猫」が「黄猫」になっているものだろう。なぜなら、それが鄧小平が使った本来の表現であり、そして、もともとは、彼の同僚であった劉伯承(りゅうはくしょう。1892-1986。四川省出身)が常常口にしていた四川省に伝わる諺であったと云うことだから。以下が、その例(ちなみに、中国語の「黄」は、日本語の場合より広義で、赤みがかったもの、つまり茶色っぽいものも含むとのこと)。

5. 他引用刘伯承経常説起的四川諺語: "不管黄猫黑猫,只要捉住老鼠就是好猫。"
--"猫論"—民諺背后的真理
「他」は勿論鄧小平のこと。


6. 刘伯承同志経常講一句四川話:"黄猫、黑猫,只要捉住老鼠就是好猫。"
--領袖人物資料庫
ここでの話者は鄧小平。


7. 不管黄猫黑猫,能抓老鼠的就是好猫
--Wikiquote: 鄧小平 (注)


8. 不管黄猫黑猫,能抓耗子的那只就是好猫。
--也来淡淡方舟子

つまり、現在中国語サイトから収集できる情報による限り、Sir William Watson が鄧小平の「猫論」に影響を与えた可能性はないと結論できる。

では何故、ここまで表現が一致したのか?

ここで、話が一挙にグズグズになるのだが、別の引用句サイト GIGA QuotesCATS と云うページでは、次のようになっている。

His friends he loved. His direst earthly foes--
Cats--I believe he did but feign to hate.
My hand will miss the insinuated nose,
Mine eyes the tail that wagged contempt at Fate.
- Sir William Watson (2), An Epitaph

If a dog jumps in your lap, it is because he is fond of you; but if a cat does the same thing, it is because your lap is warmer.
- Alfred North Whitehead

Black cat or white cat, it's a good cat that catches the mice.
- Deng Xiaoping

It doesn't matter if a cat is black or white, as long as it catches mice.
- Deng Xiaoping

WorldOfQuotes.com は、これを「編集」して、自らのサイトに組み込んだのだろう。その際、"Deng Xiaoping" を誤って "Sir William Watson (2)" としてしまったとかなり断定的に推定できる。

強力な状況証拠があって、実は "WorldOf.." と "GIGA" のどちらにも (Sir 抜きの) "William Watson" と云う人物(17世紀初頭のイギリスにおける「Bye Plot バイ事件」の首謀者)の言葉が再録されているのだが、"GIGA" の方の人名索引では、どちらの Watson も "W" の項にあって並んでいる。だから "William Watson (1)" と "Sir William Watson (2)" とのように番号を付けて区別している。しかし、"WorldOf.." の人名索引では "William Watson (1)" は "W" の項、"Sir William Watson (2)" は "S" の項に入っているので番号を付けて区別する必要がない。それなのに、番号は付けたままになっている。これは、"WorldOf.." が "GIGA" の内容を写したときに、番号を削除し忘れたためだろう。

ちなみに "WorldOf.." は、"William Watson (1)" においても、似たような「編集ミス」をして、別人からの引用句を組み込んでいる。とうてい信用できないサイトと言えるだろう。


以下のサイトも参考のこと:
The Poems of William Watson, by William Watson

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2005年5月13日 (金)

南畝の由来

詩経と言えば、「小雅」中の「大田」に、

以我覃耜   我が覃耜(たんし)を以って
俶載南畝   載(こと)を南畝(なんぼ)に俶(はじ)む

とあるが、蜀山人大田覃の号が「南畝」なのはこれによるのだろう。



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2005年5月11日 (水)

一青窈さんの「窈」

「一青窈」(ひととよう)さんと云う歌手の方がいらっしゃる。私なぞは、ほんとど名前を存じあげるだけなんだが、それでも若干の興味を持ったりすることはある。勿論、名前についてである。

「窈」と云う文字が「詩経」(詩經)に出てくることは、ある程度の年齢以上なら、憶えている人も少なくあるまい。「周南」の冒頭を飾る「關雎」に出てくるからだ。そして、(調べてみたことはないが)今でも、高校レベルの漢文教科書の定番素材なのではないか。

改めて引用するほどの事はないのだが、話を続けるために、その冒頭を示せば:

關關雎鳩   關關(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は
在河之洲   河(かわ)の洲(す)に在り
窈窕淑女   窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は
君子好逑   君子(くんし)の好逑(こうきゅう)

雌雄の仲睦まじいとされていた雎鳩(ミサゴ "Pandion haliaetus haliaetus")を引き合いに出して、「窈窕たる」、つまり「奥ゆかしく美しい」お嬢さんは、良い嫁御になるだろうと寿いでいるのだろう。

だから、窈や窕は、実際に「中国」で広く使われているかは別として、中国文化圏内の女性の名前にとして似つかわしいものではある。

そこで、一青窈さんなんだが、彼女の父君が台湾の方であり、母堂が日本女性(旧姓が「一青」とのこと)、そして「窈」は、戸籍名だそうだから(これくらいは、新聞で読んだ記憶がある。ネット上では、たとえば Wikipedia を参照)、当然、「詩経」の語句を踏まえた命名なんだろう。

さて、ここで疑問が生じる。もし、窈さんに姉妹(順当には、妹だろうな)がいらしたとしての話、彼女は「窕」さんだろうか?

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