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本ブログ記事[等角速度円運動の旅行者における「双子のパラドクス」(2008年3月24日 [月])] 補足。あるいは、アインシュタインの「奇妙な結論」

本ブログの記事、[等角速度円運動の旅行者における「双子のパラドクス」] (2008年3月24日 [月]) に於いて、私は、表題その通りに、「等角速度円運動の旅行者」における「双子のパラドクス」を論じた。

実は、この時、私は重大な失態をしていた。それは、『等角速度円運動の旅行者における「双子のパラドクス」』の現象そのもの (当時としては、正確には、「現象の可能性」だが) は、「円」のみならず「一般の閉曲線上を等速度で移動させられる時計」の場合に就いて、アインシュタインが、"Zur Elektrodynamik bewegter Körper. In: Annalen der Physik und Chemie. 17, 1905, S.891–921" (「移動中の物体の電気力学」) で指摘していたのを言及しなかったのだ (ちなみに "bewegt" は、「運動する」と云う語感より「移動させられる」と云う語感だと思う)。

問題の箇所は、原論文では、第904頁第16行目 (式を含む) から第905頁第5行目である。岩波文庫「アインシュタイン・相対性理論」では第35頁下から2行目から第37頁第2行、ちくま学芸文庫「アインシュタイン論文選」では、第270頁下から4行目から第271頁第18行に相当する。

それも、言及するのを「失念していた」と云うレベルではなく、当の論文の該当箇所を漫然と読み流してしまったか、あるいは、もっと酷いことには、既知感覚に流されて、読み飛ばしてしまった (つまり、読まなかった) 可能性が高い。振り返ってみると、私は、アインシュタインの論文をどれ一つとして精読した記憶がない (この原稿を書いている時点での話である)。

私の告白を俟たないでも、「そんなことは気づいていた」と云う方々も多いだろうから、これ以上、結局弁解にしかならない懺悔話をするのは控えるが、そのこととは独立して、私にとって興味深い事実は、この「双子のパラドクス」を記述するに当たって、アインシュタインは、

Hieraus ergibt sich folgende eigentümliche Konsequenz.
--"Zur Elektrodynamik bewegter Körper" 第904頁第16行目
上に述べたことから, ここに次のような奇妙な結果が導かれる。
--岩波文庫「アインシュタイン・相対性理論」第35頁下から2行目
と云う一文で始めていることだ (ただし、この場合 "Konsequenz" は「結果」よりも「結論」の方が良いだろう)。

言うまでもないだろうが、"Zur Elektrodynamik bewegter Körper" (1905年) は、特殊相対論の第一論文であり、主論文である。しかし、「双子のパラドクス」は、一般相対論の相の下で解釈すべき現象であって、その一般相対論の完成と発表 は、10年程後のことになる。当然、アインシュタインは、と言うか、世界中の誰もが、一般相対論を知らなかった。従って、『「双子のパラドクス」は「加速度の発生に対応する重力ポテンシャルの差に従う固有時の進み方の違い」に起因する』と云う「正解」(知の大きな整合的体系の中の一齣としての描像) とは無縁であった。

それでも、アインシュタインは、後に「双子のパラドクス」と呼ばれるようになる現象が、「一般の閉曲線上を等速度で移動させられる時計」において発生する筈であることを正しく予言し、しかも、同時に、それが「奇妙な (eigentümlich)」ことだと感じている。「双子のパラドクス」が、特殊相対論の枠組みに収まり切れないものであることを感じ取っていたのだろう。

私には、ここで、後に一般相対論の創設に至るアインシュタインの物理的直観の凄みを見るべきか、あるいは、その逆に、アインシュタインが作り上げたばかりの特殊相対論の理論としての「筋の良さ」(極めて有効だが、自らの限界が何処にあるのかが明確になっている) を感じるべきか、到底判断がつかない。凡人としては「まぁ、両方なんでしょうね」とごまかすしかあるまい。

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[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] (2011年6月10日[金]) への補足。オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell) の言葉へのリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク (Friedrich August von Hayek) の言及

経済学者 (と云う一言で片づけて良いのか私には判断が付かない。ただし、世間的な通りが良い言い方をするなら所謂「ノーベル経済学賞」1974年受賞者) フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク (Friedrich August von Hayek) に、"The Constitution of liberty" (邦訳名「自由の条件」) と云う著作がある。その第1部第3章 THE COMMON SENSE OF PROGRESS のエピグラフとして、次の一文が銘されている。

Man never mounts higher than when he knows not where he is going.
—Oliver Cromwell
人と云うものは、何処まで登るのか分かっていない時にこそ、一番の高みに到達する。
-オリバー・クロムウェル

本ブログの『メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」』及び『[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] (2011年6月10日[金])の訂正』で取り上げたクロムウェルの言葉

A man never goes so far as when he doesn't know where he is going.
のもとの形は、これだったのだろう (ちなみに、クロムウェルには言及していないが、『ドイツ語と英語の初歩。または、私は如何にして心配するのを止めて [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] 補足を書くことになったか』もご参照頂きたい)。

注意すべきは、「原形」では、出発点からの移動の大きさが「遠近」ではなく「高低」で表されていることだ。

メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」』でも書いたことだが、「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くにゆくことは決してない。」と云う (岩波新書1969年[エスプリとユーモア]でタレーランによると紹介されていた) 言葉を読んだ時、私は、それが「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」ぐらいの意味だと感じた訣だが、これが、「人間は、何処まで登るのか分かっていない時にこそ、一番の高みに到達する。」であったのだったら、解釈の仕方は、「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」に対応する一通りだっただろう。

このことに就いてもう少し書いておくことができる。なぜなら、このエピグラフに続く文章で、ハイエクは、この言葉の出典を明らかにしているからだ。曰く

The quotation at the head of the chapter is taken from Jean François Paul de Gondi de Retz, Mémoires du Cardinal de Retz, de Guy-Joli, et de la duchesse de Nemours, contenant ce qui s'est passé de remarquable en France pendant les premières années du règne de Louis XIV (6 vols. in 8; Nouvelle édition; Paris:Chez Étienne Ledoux, 1820), vol. 2, p. 497, where President Bellièvre is recorded as having said that Cromwell once told him "on ne montait jamais si haut que quand on ne sait où l'on va."
--The Constitution of Liberty: The Definitive Edition - F. A. Hayek - Google ブックス
本章冒頭の引用句は、ジャン・フランソワ・ド・ポール・ド・ゴンヂ・ド・レ他著「レ枢機卿、ギ=ジョリ、ヌムール公爵夫人回想録。ルイ十四世治世初年時代にフランスで起こった著しいことども」(全6巻。八つ折判。新版。パリ:エチエンヌ・ルドゥ書店。1820年) 第2巻第497頁からのものである。当該箇所では、ベリーブル法院長が、かって、クロムウェルより、"on ne montait jamais si haut que quand on ne sait où l'on va." (人と云うものは、何処まで登るのか分かっていない時にこそ、一番の高みに到達する) と言われたことがあると、記録されている。

この "Mémoires du Cardinal de Retz, de Guy-Joli, et de la duchesse de Nemours" もまた、ネット上で閲覧することができる。問題の文の少し前から引用すると

Je vous entends, répondit le président de Bellèvre, et je vous arrête en même temps pour vous dire ce que j'ai appris de Cromwel (M. de Bellièvre l'avait vu et connu en Angleterre): il me disait un jour qu'on ne montait jamais si haut que quand on ne sait où l'on va.
--Mémoires du cardinal de Retz, de Guy Joli, et de la ... c.1 v.2. - Full View | HathiTrust Digital Library | HathiTrust Digital Library
となっている。自信がないが、一応、訳を試みてみると、

ベリーブル法院長は答えた。君の言うことは分かるよ。けれど、止めておいた方がいいね。もっとも、私がクロムウェルの知遇を受けていた当時 (ベリーブル殿は、イギリスでクロムウェルと会って、交友を結んだことがあるのだ)、 ある日、彼は私に「人と云うものは、何処まで登るのか分かっていない時にこそ、一番の高みに到達する。」と語ったことがあるとも付け加えておくがね。

つまり、ベリーブルがイギリスにおいてクロムウェルの知遇を得ていたことが書き添えされており、クロムウェルの言葉は、そうした出会いの中でのものだったことがうかがえる。

この「ベリーブル法院長」に就いては "The Constitution of liberty" の編集者が

Pomponne de Bellièvre (1606–57), grandson of two chancellors of France and the first president of the Parlement of Paris, at one point served as French ambassador to England.
--The Constitution of Liberty: The Definitive Edition - F. A. Hayek - Google ブックス
ポンポンヌ・ド・ベリーブル (1606–57) は、フランスの二人の大法官の孫であり、パリ高等法院の法院長となった。一時期、イギリスにおけるフランス大使を務めたこともある。
と云う注釈を付けている。つまり、この Pomponne de Bellièvre は、二世 (Pomponne II de Bellièvre) の方のこと。彼は、無印の Pomponne de Bellièvre (1529-1607) Pomponne de Bellièvre の孫にあたる。彼がイギリスへの大使を務めたのは、1637年-1640年と1646年のことだったらしい (1637-1640 et de nouveau, en 1646, pour offrir la médiation de Louis xiv entre Charles Ier et son Parlement (Correspondance française de Guy Patin, éditée par Loïc CapronFamille de Bellièvre 及び Archives nationales - Thèse Pour le diplôme d’archiviste paléographe も参照されたい)。

しかし、所謂「短期議会」が招集され、ケンブリッジ選出の議員となった1640年以前のクロムウェルは、ほぼ無名だったらしいから、ベリーブルがクロムウェルと出会ったのは1646年だったろう。当時、クロムウェルは未だ単一権力を握っていないとは言え、清教徒軍が、チャールズ一世軍に決定的な勝利を収めつつある時期であり、チャールズ二世の亡命、チャールズ一世の処刑、共和国の建国と続く流れの中で、クロムウェルはまさに意気軒高としていたはずだ。そうした状況下で、彼が、フランスからの大使と面談して、「人間は、何処まで登るのか分かっていない時にこそ、一番の高みに到達する。」と語ったとしたら、それは、彼が自分の行き先が何処か分からないと云うことを告白したことを意味するのではあるまい。むしろ、「行き先」への展望は確信へと変わっていたが、それは他者、そしてもしかすると、仲間に対してさえ秘匿する必要を本人が感じるほどの「高み」だったと云うことだろう。

廃車寸前のポンコツ老人である私だが、「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くにゆくことは決してない。」を読んで「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」と云う意味だろうと考えた18歳の私に、「目的地」を悟られたくない時にも、人は「目的地は分からない」と言うものだと云うことを教えてやりたい。

ハイエクの著作に戻ろう。

ハイエクは、引き続いて、このクロムウェルの言葉が、18世紀の思想家たちに深い感銘を与えたようだ (The phrase apparently made a deep impression on eighteenth century thinkers,...) と、書いている。

そして、そうした思想家として、デイヴィッド・ヒューム (David Hume)、アダム・ファーガソン (Adam Ferguson) 、アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー (Anne Robert Jacques Turgot)、アルバート・ヴェン・ダイシー (Albert Venn Dicey) 、そして、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) を挙げている (ジャンバッティスタ・ヴィーコ (Giambattista Vico) にも言及している)。

また、ゲーテに就いては、彼の言葉

Man geht nie weiter, als wenn man nicht mehr weiss, wohin man geht.
が引用されている。

ハイエクは、タレイラン=ペリゴールには言及していないようだ。

だが、ベリーブルの回想録での記載がある以上、「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くにゆくことは決してない。」の「言い出しっぺ」が、英 (クロムウェル)、仏 (タレイラン)、独 (ゲーテ) の誰かと云う疑問は、活躍した時代の前後関係そのままに、クロムウェルと断定してよいだろう。

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[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] (2011年6月10日[金])の訂正

本ブログの記事 [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] (2011年6月10日[金])で、私は、こう書いた。

日付が変わってしまったので、昨日の話になるが、先程、1日遅れでたまたま手にした「2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 (東京本社13版)」を流し読みした所、[天声人語] がこう始まっていた (現時点では、同内容の物がウェブ上の [asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2011年6月8日(水)] で見ることができる) ([ゑ]引用時補足:現在ではリンクが切れている)。

〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉。ゲーテの言葉である。目的地が定まらないと足取りが重くなる。そんな意味だろう。逆に、確かな目標があれば急坂や回り道をしのぎ、転んでも起き上がり、大きな事を成せる
--2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 (東京本社13版) 第1面 [天声人語]

これを読んだ時の、私の感想は「ヤッチマッタナー」(© クールポコ) と云うものだった。箸にも棒にも掛からない詰まらないことを「したり顔」(最近は「ドヤ顔」と謂うらしいが) で書いてある。大体、「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」では警句にならない。「当たり前」にさえなっていない。当たり前の日本語を使いたいなら、せめて「行き先を決めない限り、遠くまで行くことはできない」ぐらいにしろよ、と言いたい。

浩瀚なゲーテの著作の中の何処かで、そんなことも書かれているかもる知れないが、そして私はまことに無教養で無知蒙昧ではあるが、私の知っているゲーテは、「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」とは言ってはいない。少なくとも、私が子どもの時に読んだ小辞典 (福音館書店刊であったか、昭文社刊であったかだと思う) の巻末についていた名言集では、そんなことを言っていなかった。うろ覚えだか、こんな感じだったのだ。

人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない。

(子どもだった私にも、これが「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」ぐらいの意味だと云うことが感じられた。)
(以下略)

しかし、この「私が子どもの時に読んだ小辞典 (福音館書店刊であったか、昭文社刊であったかだと思う) の巻末についていた名言集では、そんなことを言っていなかった。」は、私の記憶違いだったのだ。

その後、自宅にある段ボールの山の中に詰め込んであった私のシガナイ「蔵書」から出てきた、福音館書店 [ことわざ 故事金言 小辞典] (編者: 江藤寛子/加古三郎。1957年) の巻末の [金言・名句集] には、そうした文言は見当たらなかったからだ (「昭文社刊」は、誤り。福音館書店版が出てきた時の「これだ! 」と云う懐かしさは、余人には共感していただけないと思う。中学生の頃の私の [愛読書] だったのだ)。

福音館書店の [小辞典シリーズ] は、そのころ、小遣いをつぎ込んで、かなり買い揃えたが、身の憂き節の間ハザマに、大部分を「処分」してしまった。本・雑誌を [捨てる] ことに、生理感覚的な苦しみを覚える人間としては、「処分」と云う言葉さえ恨めしいが、そうした思いも時間は押し流してしまう。「これだけは」と取っておいた [ことわざ 故事金言 小辞典] も、結局は、[本の山] の中に紛れ込んでしまっていた。

まぁ、老人となった今では、「処分」は正解だったと、中年の頃の私に声ならぬ声をかけるしかない。買い揃えただけで、ほぼ読むことはなかった、それらの [雑書] の前に「取り敢えず読まなければ基本的な書籍」が、あと何回生まれ変わったとしても足りないくらいあるのだから。

しかし、僥倖により見出した [あの本] の中に目当ての文言が見当たらないのは、どうしたことだろう。索漠たる思いに一瞬とらわれたが、結局、そのままになった。「取り敢えずしなければならない野暮用」が山積している身としては、感慨に耽っている暇はないのだ。

ところが、偶然と云うものはあるので、その後しばらくしてから、やはり本の堆積の中から出てきた [懐かしい一冊] (書き込みを見ると、高校三年の3月27日に購入したものだ。私としては珍しく、読了日の書き込みがあって、購入当日である。卒業式が終わって、大学入学迄の間、暇だったのだな)

岩波新書 青版730 [エスプリとユーモア] (著者: 河盛好藏。1969年)

を、旧友に再会した思いで披見していると、いきなり出てきたのだ。ただし、ゲーテの言葉としてではなく、タレイラン=ペリゴールの言葉として

「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くにゆくことは決してない。」

[あぁ、これだったか] と、廻りまわって釈然とした。

少し脱線すると、つまり『これが「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」ぐらいの意味だと云うこと』を感じた「私」は、18歳だったのだ。さすがに、「子どもだった」とは言いづらい年齢である訣で、この点も間違っていた。

その時、すぐに訂正をアップすべきだったのだろうが、単に訂正ではなく、ある程度しっかりした補足を行うべきだろうと、つまらぬ色気を出したために、放置したまま、延々と遅れてしまった。ところが、最近新しく記事を書こうとして、簡単にかけそうな話題が全くないことに気が付き、ツメクサ代わりに、こうして訂正のみの記事を書いているという訣だ。

[エスプリとユーモア] の問題の箇所を、その前の部分から引用しておこう。今、読んでも面白いので、やや長めになる (この本は、現行の言葉遣いでい云う「コピペ」と云うか、「マトメ」でできたようなものだが、そのことを、とやかくは言うまい。私自身が、このブログで類似のことをしていると云うこともあるが、概括的な情報を纏めることには、十分な意味があるからだ)。ただ、引用するだけでは曲がないので、ネットで見つかった対応するフランス文を挿入しておく、最後の3つの bon mots を除けば、同一の書物 "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots" (Louis Thomas. Les Bibliophiles fantaisistes, 1909) 「タレイラン殿の機知: 逸話と警句」(ちなみに、彼は伯爵家の長男だったが、ある事情で家督を継ぐことなく、僧籍に入った。彼が時に「オータンの司教/l'évêque d'Autun」と呼ばれることはあっても、「タレイラン伯爵」とは呼ばれないのは、そのためである) で見出せる。これが [種本] かもしれない。

フランスの政治家に鋭いエスプリの持主の多いことはすでに書いたが、その代表的な天才はタレーランであったことは通説になっている。彼の名文句を集めた本はいろいろあるが、その言葉の矢を少し紹介してみよう。

彼はある若い外交官に向かっていった。「言葉というものは、自分の考えをかくすために、人間に与えられたものであることをを覚えておきたまえ。」
Un jeune auditeur au Conseil d'Etat, admis chez M. de Talleyrand, parlait de sa sincérité et de sa franchise.
« Vous êtes jeune, lui dit M. de Talleyrand ; apprenez que la parole a été donnée à l'homme pour dissimuler sa pensée. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文では、"Un jeune auditeur au Conseil d'Etat" 「国務院 (参事院とも) の新人評議官」ぐらいだろうから、「外交官」とはニュアンスが異なる。ただ、時代によっても意味合いが異なっている可能性はある。

ナポレオンの死をきいたとき、
「十年前なら大事件だったろうが、現在では単なるニュースにすぎないね。」
Quand on annonça à M. de Talleyrand la mort de Napoléon : «C'est une nouvelle, dit-il; ce n'est plus un événement. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文には「十年前」と云う言及はない。それから、"une nouvelle" は、「ニュース」とするのは微妙。「通知」とか「情報」ぐらいになると思う。実は、タレイランの口ぶりは、かなりそっけないのだが、その「そっけなさ」を出すのが意外と難しい。特に "n'est plus" を言葉として訳すと、訳文内の力点が、本来あるべきところからずれてしまう。「『情報』の一つだね。『事件』ではない。」ぐらいだろう。

ある日、友人のナルボンヌと散歩していると、彼はいろいろの情報をさかんに教えてくれる。そのとき偶然二人のそばを通った男が大きなあくびをした。それを見たタレーランはいった。
「君、声が大きすぎるようだぜ」
Le comte Louis de Narbonne, un de ceux que M. de Talleyrand aima le mieux, s'il aima quelqu'un, se promenait avec lui en récitant des vers de sa façon.
M. de Talleyrand aperçut un promeneur qui bâillait :
« Regarde donc, Narbonne, dit-il à son ami, tu parles toujours trop haut. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文 "en récitant des vers de sa façon" は「いろいろの情報をさかんに教えてくれる」と云うより、「独特な節回しで詩の朗誦をした」だろう。

スタール夫人は、彼女ともう一人の女性のどららか好きかと知りたいと思って質問した。
「もしあのかたと二人で河のなかへ落っこちたら、どらちらを先に助けて下さいますか。」
「わかってますよ、奥さん、あなたが水泳の名人でいらっらしゃることは」とタレーランは答えた。
Madame de Staël, qui partageait avec Madame de Flahaut les préférences de M. de Talleyrand, voulut un jour savoir de celui-ci laquelle des deux il aimait le mieux. Madame de Staël insistait beaucoup sans pouvoir obliger le galant abbé à se prononcer.
« Avouez, lui dit-elle, que, si nous tombions toutes deux ensemble dans la rivière, je ne serais pas la première que vous songeriez à sauver?
— Ma foi, madame, c'est possible, vous avez l'air de savoir mieux nager. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

「わたくしども二人が、一緒に川に落ちたら、貴方が最初に助けようと思うのは私ではないとお認めなさいまし。」
「マダム、正直に申して、それはありそうなことですな。貴方は、泳ぎがお得意でいらっしゃるようお見受けいします。」
フランス文では、タレイランは「水泳の名人でいらっらしゃる」と云う直截な言い方をしていない。
ちなみに、スタール夫人ももう一人の女性 「フラオ夫人」 も、タレイランの愛人だった。勿論、二人ともタレイラン以外の男性を「夫」を持っていた (二人とも「夫人」である。ただし、当該文献内での呼称が統一されていて、この逸話の当時は未婚だった可能性はある)。かれは艶福家だったのだ。この他にも、画家ドラクロア (Eugène Delacroix) の実の父親が彼だったと云う話は、かなり信じられている (ドラクロアの戸籍上の父親シャルル・フランソワ・ドラクロア Charles-François Delacroix は、タレイランの前任外務大臣)。
外交官・艶福家としてのタレイランに就いては、中公文庫 [タレイラン評伝] 上下2巻 (著:ダフ・クーパー。訳:曽根保信。1979) を参照のこと。

この外交官からしばしば馬鹿にされたスタール夫人は、いかなる政体にもうまく立ちまわる彼のことを、頭がコルクで足が鉛で作られた、いくら投げてもすぐ起き上がる、おきあがりこぼしにたとえていた。

不確実なニュースとして、イギリスのジョージ三世の死がパリに伝えられたとき、ある相場師がタレーランのところへ真相をききにやってきた。この外交官は次のように答えた。
「あるものはイギリス国王が死んだというし、また別の情報は国王が死んでいないという。僕としてはこのどちらも信用しないんだ。しかしこれは君にだけ内密に知らせるんだから、ひとにしゃべって貰っては困るよ。」
Un spéculateur lui demandant s'il était vrai que le roi d'Angleterre fût mort,
M. de Talleyrand répondit: « Les uns disent que le roi d'Angleterre est mort, les autres disent qu'il n'est pas mort. Pour moi, je vous le dis en confidence — surtout ne me trahissez pas! — je ne crois ni les uns, ni les autres. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文では、後半、順序が違っていて、ちゃんと落ちが付いている。「英国王は死んだと言う者もいれば、死んでいないと言うものもいる。私の意見を君だけに打ち明けると -- 絶対他言は無用だよ -- どちらも信じていないのさ。」

タレーランの言葉を少しばかり。
「中傷よりもっとおそろしい武器がある。それは真実だ。」
「私は自分と同意見でない人は許すが、彼自身のもっている意見に一致しない人間は許せない。」
「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くへゆくことは決してない。」

--岩波新書 青版730 [エスプリとユーモア] (著者: 河盛好藏。1969年) pp.112-114

上記引用中のタレイラン=ペリゴールの言葉の最後の3つの原文は、次のとおりである。

「中傷よりもっとおそろしい武器がある。それは真実だ。」
"Il y a une chose plus terrible que la calomnie, c'est la vérité."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde

フランス文では「武器」と云う言葉は使われていない。単に「もの (chose)」である。

「私は自分と同意見でない人は許すが、彼自身のもっている意見に一致しない人間は許せない。」
"Je pardonne aux gens de n'être pas de mon avis, je ne leur pardonne pas de n'être pas du leur."
Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Ses citations - Dicocitations & Le Monde

「自分と同意見」より「私と同意見」の方が良かろう。

「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くへゆくことは決してない。」
"On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va."

問題は、この3つ目である。

確認できる資料が少ないのだ。例えば、"Mes citations en vrac: Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord" と云うウェブページに見出されるのだが、これだけでは心もとない。ただし、これとは、別に、閲覧が不自由な形であるとは言え、google books に収められている Des enjeux éthiques pour demain - André Beauchamp の p.104 には、

Mais la lucedité cynique de Talleyrand nous prévient: « On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va! »
しかし、頭脳明晰な冷笑家タレイランは、「人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない」と、我々に教えてくれている。
と云う記述がみられる (ちなみに、この文章は、科学技術の倫理問題を論じているらしい。)

後はここで指摘するには「喰い足りない」ものが、幾つかあっただけだった。それでも、一応、これで一件落着したと言いたいところだ。ところが、そうは簡単に問屋が卸してくれなかった。

実は、"On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va." をネットで検索すると、これをタレイランの言葉としてではなく、クリストファー・コロンブスの言葉だとするサイトや、さらには、Antoine de Rivarol (Antoine Rivaroli) と云う人物と云うサイトまであって、訣が分からなくなった。

結局、クロムウェル (Oliver Cromwell [1599年4月25日 - 1658年9月3日])と、タレイラン (Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord [1754年2月13日(2月2日説も) - 1838年5月17日])と、ゲーテ(Wolfgang von Goethe [1749年8月28日 - 1832年3月22日])との三人 が、ほぼ同一の発言

a man never goes so far as when he doesn't know where he is going. クロムウェル
On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va. タレイラン
man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht. ゲーテ
をしているとされているだけでなく、コロンブス他一名も乱入してきてしまい、「英仏独そろい踏みで、話が良くできてらぁ」と笑っていられなくなった。なにしろ、コロンブスはイタリア生まれだといわれ、それがポルトガル・スペインと流れていったらしいから、なにやらタチの悪い冗談でも聞いているようで、嫌気がさしてきた。

と云う訣で、これ以上調べるのは、当面やめにしておく。再開するにしても何年先になることやら。。。 (鬼の哄笑が聞こえてくるようだ)

最後に、タレイランの言葉を調べているうちに、検索に引っかかったものを幾つか列挙しておこう。

"Les femmes pardonnent parfois à celui qui brusque l'occasion, mais jamais à celui qui la manque."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
女は、好機をもぎ取る男を許すことはあっても、好機をつかみ損ねる男は決して許さない。

"Ne dites jamais du mal de vous; vos amis en diront toujours assez."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
君は自分の欠点なんか一切言わんでいいのさ。そんなことなら、君の友達が常々たっぷりと言っているよ。

"Café : Noir comme le diable Chaud comme l'enfer Pur comme un ange Doux comme l'amour."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
コーヒー : 黒きこと悪鬼の如く、熱きこと地獄の如く、清澄なること天使の如く、甘美なること恋愛の如し。

"La vie serait supportable s'il n'y avait pas les plaisirs."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
快楽と云うものが無くなってさえくれたなら、人生は、我慢しうるものになるだろう。

"En politique, il n'y a pas de convictions, il n'y a que des circonstances."
--Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Ses citations - Dicocitations & Le Monde
政治においては、信念などと云うものは存在しない。あるのは、情勢だけである。

"Pas de zèle!"
--Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
「熱心」禁止!

"Dans les temps de révolutions, on ne trouve d'habileté que dans la hardiesse, et de grandeur que dans l'exagération."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
革命の時代、人々は、大胆な行為の中のみに技巧を感じ、誇張の中のみに偉大を感じていた。

"En France nous avons 300 sauces et 3 religions. En Angleterre, ils ont 3 sauces mais 300 religions."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
我がフランスでは300種類のソースと3種類の宗教がある。しかし、かの英国では、3種類のソースに対し300種類の宗教がある。

"Il y a trois sortes de savoir: le savoir proprement dit, le savoir-faire et le savoir-vivre; les deux derniers dispensent assez bien du premier."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
知識には3種類あるのだ: 本来の意味での「知識」と、「行為の知識」と、「人生の知識」だ。後の二つがあれば、最初の一つはなくても十分に足りる。

"Qui n'a pas vécu dans les années voisines de 1780 n'a pas connu le plaisir de vivre."
--Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
1780年頃を生きたことがないものは、「生きる歓び」を経験しなかったと云うことだ。

"Le meilleur auxiliaire d'un diplomate, c'est bien son cuisinier."
--Citations de Talleyrand - abc-citations
外交官にとって、彼の優秀な料理人が、最良の懐刀である。

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Ricci の回転係数 (Ricci rotation coefficient) の第2、第3添え字に関する反対称化が満たす恒等式

数式を多く含む文書を作成するのに、気がすすまない状況にあるので、一般相対論的な文脈において、所謂「Ricci の回転係数 (Ricci rotation coefficient)」(Cf. "Christoffel symbols - Wikipedia") の3つの添え字の内、反対称性を有する添え字対とは異なる添え字対に就いての反対称化の2倍として定義されるスカラー場に関連する恒等式が「Bianchi の恒等式 (Bianchi identity)」(Cf. Bianchi Identities -- from Wolfram MathWorld)に「似て非なる」ものだったのが面白かったと云う体験の、その「似て非なる」部分だけを書いておく。

多様体は、異なるマッピングによる異なる「アトラス/地図帳」を許容するが、特に、物理的実在としての、一般相対論的な時空多様体は、異なるマッピングにより異なる計量テンソルを伴う場合でも、その間に共変変換が存在するなら、その物理的同一性が担保される。と云うか、話は逆で、そうした複数ありうる「地図帳」が、共変変換で等価に結びついていると云うことが、時空の多様体の物理的アイデンティティの意味だと云うことが、一般相対論的世界の根幹をなす、まさに「世界観」である。

しかし、ある同一の時空多様体のもとで、同一の計量テンソルを伴う地図帳であっても、個々の地図をなす局所基準系ミンコフスキー空間の基底 (所謂「標構」) は一意に決まらない (「地図帳」からとられているので、「標構」は、もとの時空多様体上の「場」をなす -- 「(標構)バンドルでの切断」と云った方が、ヨリ適切だが、ここでは、そうしたことには拘らないことにしよう)。そうした複数ありうる基準系基底 (本稿では、「場の古典論(原書第6版)」に倣って、記号 \vvec{e} を用いて表す) から4組の線形独立なものをとって、さらに、その4組の基底の場が一定の条件を満たす時、それをまさに「4つの組」に意味する「テトラード (tetrad)」(あるいは「テトラッド」) と呼ぶ (「場の古典論(原書第6版)」第98節参照)。

ただし、現在では、"tetrad" と云う用語より "frame field" と云う用語の方が一般的らしい (「枠の場」とも「標構場」とも、さらには「動標構場」とも訳せるが、いずれも語感が悪い。なお、「標構場」と云う用語は実際に使われている)。とは言え、本稿では「場の古典論」に倣って、「テトラード」と呼ぶことにする。

なお、個々のテトラードを構成する4つの基底ベクトルを示すのに、"tetrad" の対応ドイツ語 "Vierbein" の含意、「4本脚」(ドイツ語で「4本の脚」なら、正確には "vier Beine" だろうけれど。。。) を踏まえて、以下、「脚」と呼ぶことにしよう。

4組あるテトラードを識別する添え字を、括弧 (, ) で囲んだラテン文字を、例えば (a),(b),(c),(d) のように用いて、それぞれのテトラードを \vvec{e}_{(a)},\vvec{e}_{(b)},\vvec{e}_{(c)},\vvec{e}_{(d)} と記し、更に、各テトラードの脚となるベクトルの添え字を、括弧で囲わない裸のラテン文字、例えば i,j,k,l で表すことにすると、4組のテトラードの脚となる基底ベクトルを表す記号は \vvec{e}_{(a)}^{i},\vvec{e}_{(b)}^{j},\vvec{e}_{(c)}^{k},\vvec{e}_{(d)}^{l} のような形式となる。

こうした、記号法は、基本的には「場の古典論(原書第6版)」第98節に準拠しているが、そこでは「式を書くとき余りに繁雑になるのを避けるため」(「場の古典論」p.326脚註1) 適宜に行われている括弧の省略を、本稿ではしないでおく。そうすると、テトラードの定義要件を表す関係式は、符号系 (+---) の固定した対称行列 \eta_{(a)(b)} が、場の上の全ての点に対して共通に存在して

\[
  \vvec{e}_{(a)}^{i}\vvec{e}_{(b)i}=\eta_{(a)(b)}
\]
が満たされることと表現される (「場の古典論(原書第6版)」p.326 式(98.1))。

勿論、ベクトル場 (1階テンソル場) としてのテトラードの裸の添え字の上げ下げは、計量テンソル g_{ij} 及び、その逆テンソル g^{ij} で行われる (言うまでもなかろうが、「計量テンソル」も正確に言うなら「計量テンソル場」である)。つまり
\[
 \vvec{e}_{(b)i}=g_{ij}\vvec{e}_{(b)}^{j}
\]
である。

また、行列 \eta_{(a)(b)} に対して、括弧で囲われた上付き添え字を有する逆行列 \eta^{(b)(c)} (つまり \eta_{(a)(b)}\eta^{(b)(c)} = \delta_{(a)}^{(c)}) が考えられるのに対応して、括弧で囲われた上付き添え字を有する「テトラードの相反」(「場の古典論(原書第6版)」p.326) が
\[
 \vvec{e}_{i}^{(a)}\vvec{e}_{(b)}^{i}=\delta_{(b)}^{(a)}
\]
を満たす場として定義される (「場の古典論(原書第6版)」p.326 式(98.2))。そして、これから
\[
 \vvec{e}_{i}^{(a)}\vvec{e}_{(a)}^{k}=\delta_{i}^{k}
\]
が導かれる(「場の古典論(原書第6版)」p.326 式(98.3))。さらに
\[
 \vvec{e}_{i}^{(b)} = \eta^{(b)(c)}\vvec{e}_{(c)i}, \qquad \vvec{e}_{(b)i} = \eta_{(b)(c)}\vvec{e}_{i}^{(c)}
\]
も得られる(「場の古典論(原書第6版)」p.326 式(98.4))。

このほか、「場の古典論(原書第6版)」pp.326-327 に示されたテトラードに就いての基本的関係式を書き写しておく。
\begin{align*}
 &g_{ik} = \vvec{e}_{(a)i}\vvec{e}_{k}^{(a)} = \eta_{(a)(b)}\vvec{e}_{i}^{(a)}\vvec{e}_{k}^{(b)} &(98.5)\\
 &ds^{2} = \eta_{(a)(b)}(\vvec{e}_{i}^{(a)}dx^{i})(\vvec{e}_{k}^{(b)}dx^{k}) &(98.6)
\end{align*}
ただし、ds は線素を表す。

また、任意の反変ベクトル \vvec{A}^{i} 及び共変ベクトル \vvec{A}_{i} に対して、個々のテトラードへの「射影」(「場の古典論(原書第6版」) を、例えば、\vvec{e}_{(a)} への「射影」では
\[
 \vvec{A}_{(a)} \coloneqq \vvec{e}_{(a)}^{i}\vvec{A}_{i}, \qquad \vvec{A}^{(a)} \coloneqq \vvec{e}_{i}^{(a)}\vvec{A}^{i} = \eta^{(a)(b)}\vvec{A}_{(b)}
\]
で定義する (「場の古典論(原書第6版)」p.327 式(98.7))。そして、これから
\[
 \vvec{A}_{i}=\vvec{e}_{i}^{(a)}\vvec{A}_{(a)}, \qquad \vvec{A}^{i}=\vvec{e}_{(a)}^{i}\vvec{A}^{(a)}
\]
が得られる (「場の古典論(原書第6版)」p.327 式(98.8))。

さらに、スカラー場 \phi$ に対して、各テトラードを基準とする微分 (「場の古典論(原書第6版)」の言い方では「方向に沿う微分」) を、例えば、\vvec{e}_{(a)} を基準とする微分を
\[
 \phi,_{(a)} \coloneqq \vvec{e}_{(a)}^{i}\pdiff{\phi}{x^{i}}
\]
で定義する (「場の古典論(原書第6版)」p.327)。これは、反変ベクトル場と共変ベクトル場との縮約だから、スカラー場になっていることを指摘しておこう。

「Ricci の回転係数 (Ricci rotation coefficient)」は、例えば、添え字 (a),(b),(c) に対するRicci の回転係数 \gamma_{(a)(b)(c)} が、次のように定義される (「場の古典論(原書第6版)」p.327 式(98.9))。
\[
\gamma_{(a)(b)(c)} \coloneqq \vvec{e}_{(a)i;k}\vvec{e}_{(b)}^{i}\vvec{e}_{(c)}^{k}
\]
ここで、添え字中のセミコロン記号 ; は、その後ろの添え字が示す局所座標変数に就いての共変微分を表す。つまり ;kx^{k} に就いての共変微分である。

言うほどのことではないだろうが、この「Ricci の回転係数」も、スカラー場であることに注意。そして、Ricci の回転係数の第2添え字と第3添え字に就いての反対称化 (antisymmetrization) の2倍を、記号 \lambda を使って
\[
 \lambda_{(a)(b)(c)} \coloneqq 2\gamma_{(a)[(b)(c)]}
\]
で表す。あるいは、「場の古典論(原書第6版)」p.327 式(98.10) 通りに書くと、次のようになる。
\begin{align*}
  \lambda_{(a)(b)(c)} &= \gamma_{(a)(b)(c)} - \gamma_{(a)(c)(b)}\\
        &= (\vvec{e}_{(a)i;k}-\vvec{e}_{(a)k;i})\vvec{e}_{(b)}^{i}\vvec{e}_{(c)}^{k} = (\vvec{e}_{(a)i,k}-\vvec{e}_{(a)k,i})\vvec{e}_{(b)}^{i}\vvec{e}_{(c)}^{k}
\end{align*}

「場の古典論(原書第6版)」p.327 式(98.11) と式(98.11) では、\gamma\lambda に就いての基本的な関係式が示されている。
\[
 \gamma_{(a)(b)(c)} = \frac{1}{2}(\lambda_{(a)(b)(c)}+\lambda_{(b)(c)(a)}-\lambda_{(c)(a)(b)})
\]

つまり、Ricci の回転係数 \gamma_{(a)(b)(c)} は、3つの添え字の内の1対、つまり、第1番目の添え字と第2番目の添え字に就いて反対称である。\lambda_{(a)(b)(c)} は、Ricci の回転係数の添え字のうち、反対称性を有することを保証されている添え字の対ではない第2番目と第3番目の添え字の対に就いての反対称化の2倍として定義される。

これで、「テトラード」に就いてなじみの無かった方々にも、次の式を見て面食らわないだろうと思う。つまり、Ricci の回転係数の第2添え字と第3添え字に就いての反対称化の、テトラードの脚を基準とする微分に就いて、次の恒等式が成り立つのである。

\[
 3\lambda^{(c)}_{[(a)(b),(c)]} = \lambda^{(c)}_{(a)(b),(c)} + \lambda^{(c)}_{(b)(c),(a)} + \lambda^{(c)}_{(c)(a),(b)} = -\vvec{e}_{(c);i}^{i}\lambda^{(c)}_{(a)(b)}
\]

これを見て分かるように、等式の左辺は Bianchi の恒等式を連想させるが、右辺は、Bianchi の恒等式と異なり 0 になっていない。

私は、この恒等式を、「場の古典論(原書第6版)」p.328 式(98.14) の成立を確認する過程で、気が付いた。と云うことは、この式は、ほぼ確実に既知で、それどころか当該分野では常識化している可能性が高いが、ネットをザット見たところ、それらしい記載は見られなかったので、「『面白い』は、個人の感想です」と、定番 disclaimer を付けた上で発表することにする。

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私家版 [周期表記憶法]

自分用に、周期表を記憶するための語呂合わせを作ってみた。所謂「定番」(「水兵リーベ・・・」など) と一括して記録しておく。なお、以下において、特定の地名・組織名その他の名称と一致又は類似する音の並びがあっても、他意はないので悪しからず。

本題に入る前に、「語呂合わせ」の前提として、周期表を掲げておく。

IA IIA IIIB IVB VB VIB VIIB VIII IB IIB IIIA IVA VA VIA VIIA 0
1 1
H
水素
2
He
ヘリウム
2 3
Li
リチウム
4
Be
ベリリウム
5
B
ホウ素
6
C
炭素
7
N
窒素
8
O
酸素
9
F
フッ素
10
Ne
ネオン
3 11
Na
ナトリウム
12
Mg
マグネシウム
13
Al
アルミニウム
14
Si
ケイ素
15
P
リン
16
S
硫黄
17
Cl
塩素
18
Ar
アルゴン
4 19
K
カリウム
20
Ca
カルシウム
21
Sc
スカンジウム
22
Ti
チタン
23
V
バナジウム
24
Cr
クロム
25
Mn
マンガン
26
Fe
27
Co
コバルト
28
Ni
ニッケル
29
Cu
30
Zn
亜鉛
31
Ga
ガリウム
32
Ge
ゲルマニウム
33
As
ヒ素
34
Se
セレン
35
Br
臭素
36
Kr
クリプトン
5 37
Rb
ルビジウム
38
Sr
ストロンチウム
39
Y
イットリウム
40
Zr
ジルコニウム
41
Nb
ニオブ
42
Mo
モリブデン
43
Tc
テクネチウム
44
Ru
ルテニウム
45
Rh
ロジウム
46
Pd
パラジウム
47
Ag
48
Cd
カドミウム
49
In
インジウム
50
Sn
スズ
51
Sb
アンチモン
52
Te
テルル
53
I
ヨウ素
54
Xe
キセノン
6 55
Cs
セシウム
56
Ba
バリウム
L
ランタノイド
72
Hf
ハフニウム
73
Ta
タンタル
74
W
タングステン
75
Re
レニウム
76
Os
オスミウム
77
Ir
イリジウム
78
Pt
白金
79
Au
80
Hg
水銀
81
Tl
タリウム
82
Pb
83
Bi
ビスマス
84
Po
ポロニウム
85
At
アスタチン
86
Rn
ラドン
7 87
Fr
フランシウム
88
Ra
ラジウム
A
アクチノイド
104
Rf
ラザホージウム
105
Db
ドブニウム
106
Sg
シーボーギウム
107
Bh
ボーリウム
108
Hs
ハッシウム
109
Mt
マイトネリウム
110
Ds
ダームスタチウム
111
Rg
レントゲニウム
112
Cn
コペルニシウム
113
Uut
ウンウントリウム
114
Uuq
ウンウンクアジウム
115
Uup
ウンウンペンチウム
116
Uuh
ウンウンヘキシウム
117
Uus
ウンウンセプチウム
118
Uuo
ウンウンオクチウム
L
ランタノイド
57
La
ランタン
58
Ce
セリウム
59
Pr
プラセオジム
60
Nd
ネオジム
61
Pm
プロメチウム
62
Sm
サマリウム
63
Eu
ユウロピウム
64
Gd
ガドリニウム
65
Tb
テルビウム
66
Dy
ジスプロジウム
67
Ho
ホルミウム
68
Er
エルビウム
69
Tm
ツリウム
70
Yb
イッテルビウム
71
Lu
ルテチウム
A
アクチノイド
89
Ac
アクチニウム
90
Th
トリウム
91
Pa
プロトアクチニウム
92
U
ウラン
93
Np
ネプツニウム
94
Pu
プルトニウム
95
Am
アメリシウム
96
Cm
キュリウム
97
Bk
バークリウム
98
Cf
カリホルニウム
99
Es
アインスタニウム
100
Fm
フェルミウム
101
Md
メンデレビウム
102
No
ノーベリウム
103
Lr
ローレンシウム

まず、横方向の並びの語呂合わせ。勿論、「水兵リーベ・・・」で始まっている。

第1巡-第3巡. (H)(He)(Li)(Be)(B,C)(N,O)(F,Ne)(Na)曲がる(Mg,Al)シップ(Si,P)(S)(Cl,Ar)入り。

  1. H: 水素 (hydrogen), He:ヘリウム。
  2. Li:リチウム, Be:ベリリウム, B:ホウ素 (boron), C:炭素 (carbon), N:窒素 (nitrogen), O:酸素 (oxygen), F:フッ素 (fluorine), Ne:ネオン
  3. Na: ナトリウム, Mg: マグネシウム, Al:アルミニウム, Si:ケイ素 (silicon), P:リン (phosphorus), S:硫黄 (sulfur), Cl:塩素 (chlorine), Ar:アルゴン

第4巡. (K)カァ(Ca)好かん(Sc)(Ti)(V)(Cr)マン(Mn)ジュウ、(Fe)(Co)(Ni)どう(Cu)? かん、くえん(Zn)! ガリ(Ga)っとしたのは。。。(Ge)!! (As,Se)臭い(Br)(Kr)

  1. K:カリウム, Ca:カルシウム, Sc:スカンジウム, Ti:チタン, V:バナジウム, Cr:クロム, Mn:マンガン, Fe:鉄 (ラテン語 ferrum), Co:コバルト, Ni:ニッケル, Cu:銅 (後期ラテン語 cuprum), Zn:亜鉛 (zinc), Ga:ガリウム, Ge:ゲルマニウム, As:ヒ素 (arsenic), Se:セレン, Br:臭素 (bromine), Kr:クリプトン

第5巡. 5丁目にあるビ(Rb)ストロ(Sr)「青い鳥(Y)」の青(Zr)臭う(Nb)盛り(Mo)、喰いてくねぇ(Tc)、帰るって(Ru)老人(Rh)、すきっ(Pd)(Ag)座の(Cd)イン(In)して、スズ(Sn)ラン(Sb)通りで遣ってる(Te)(I)食屋の季節(Xe)料理を食べた。

  1. Rb:ルビジウム, Sr:ストロンチウム, Y:イットリウム, Zr:ジルコニウム, Nb:ニオブ, Mo:モリブデン, Tc:テクネチウム, Ru:ルテニウム, Rh:ロジウム, Pd:パラジウム, Ag:銀 (ラテン語 argentum), Cd:カドミウム, In:インジウム, Sn:スズ (ラテン語 stannum), Sb:アンチモン (ラテン語 stibium), Te:テルル, I:ヨウ素 (iodine), Xe:キセノン

第6巡. せし(Cs)めた(Ba)かりのラー(L)メン、ハーフ(Hf)タン(Ta)タン(W)(Re)麺。お酢(Os)入れ(Ir)ても、はっきり(Pt,Au)(Hg)足り(Tl)(Pb)ビー(Bi)ルはサッポロ(Po)あと(At)コーラドン(Rn)ドン持ってきて。

  1. Cs:セシウム, Ba:バリウム, L:ランタノイド, Hf:ハフニウム, Ta:タンタル, W:タングステン (ドイツ語 Wolfram), Re:レニウム, Os:オスミウム, Ir:イリジウム, Pt:白金 (platinum), Au:金 (ラテン語 aurum), Hg:水銀 (近世ラテン語 hydrargyrum 但し古典時代に hydrargyrus と云う語形での使用例がある), Tl:タリウム, Pb:鉛 (ラテン語 plumbum), Bi:ビスマス, Po:ポロニウム, At:アスタチン, Rn:ラドン

第7巡. フランス(Fr)ラジ(Ra)コン、空き地(A)で飛ばす。ラフ(Rf)越え、ドブ(Db)すぐ(Sg)ボッ(Bh)チャン。ハッ(Hs)とした、参った(Mt)ダーッと取りに行ったが、ダだった、こし遅かっ(Da)。取れん(Rg)かった。腹ペコペ(Cn)コ。

  1. Fr:フランシウム, Ra:ラジウム, A:アクチノイド, Rf:ラザホージウム, Db:ドブニウム, Sg:シーボーギウム, Bh:ボーリウム, Hs:ハッシウム, Mt:マイトネリウム, Ds:ダームスタチウム, Rg:レントゲニウム, Cn:コペルニシウム

ランタノイド. (La)(Ce)プラッ(Pr)ネオ(Nd)プロメテウス(Pr)(Sm)登場。(Eu)(Gd)に遣ってる(Tb)。食事済(Dy)ませて、(Ho)エール(Er)釣り(Tm)行って(Yb)るって(Lu)

  • La:ランタン, Ce:セリウム, Pr:プラセオジム, Nd:ネオジム, Pm:プロメチウム, Sm:サマリウム, Eu:ユウロピウム, Gd:ガドリニウム, Tb:テルビウム, Dy:ジスプロシウム, Ho:ホルミウム, Er:エルビウム, Tm:ツリウム, Yb:イッテルビウム, Lu:ルテチウム

アクチノイド. (Ac)(Th)プロ(Pa)恨ん(U)(Np)。タップリ(Pu)儲かる(Am)(Cm)(Ba)かり(Cf)か、真似たアイ(Es)ドル増える(Fm)。なめん(Md)(No)やめ(Lr)

  • Ac:アクチニウム, Th:トリウム, Pa:プロトアクチニウム, U:ウラン, Np:ネプツニウム, Pu:プルトニウム, Am:アメリシウム, Cm:キュリウム, Bk:バークリウム, Cf:カリホルニウム, Es:アインスタイニウム, Fm:フェルミウム, Md:メンデレビウム, No:ノーベリウム, Lr:ローレンシウム

縦方向の語呂合わせは以下の通り。

第IA族. エッチ(H)リッチ(Li)(Na)カー(K)ちゃん、ルビー(Rb)せし(Cs)めてフランス(Fr)へ。

    H: 水素 (hydrogen), Li:リチウム, Na: ナトリウム, K:カリウム, Rb:ルビジウム, Cs:セシウム, Fr:フランシウム

第IIA族. ベリ(Be)ッと破ったマグ(Mg)カル(Ca)タ、洗って干すと(Sr)(Ba)(Ra)バラに。

    Be:ベリリウム, Mg: マグネシウム, Ca:カルシウム, Sr:ストロンチウム, Ba:バリウム, Ra:ラジウム

第IIIB族. スカ(Sc)(Y)ラーク(L,A)は3B階。

    Sc:スカンジウム, Y:イットリウム, L:ランタノイド, A:アクチノイド

第IVB族. 外人の(Ti)が混じっ(Zr)てるハーフ(Hf)のブラザホー(Rf)

    Ti:チタン, Zr:ジルコニウム, Hf:ハフニウム, Rf:ラザホージウム

第VB族. 鼻血(V)が出るほど匂う(Nb)(Ta)ドブ(Db)

    V:バナジウム, Nb:ニオブ, Ta:タンタル, Db:ドブニウム

第VIB族. (Cr)(Mo)天狗(W)死亡(Sg)

    Cr:クロム, Mo:モリブデン, W:タングステン, Sg:シーボーギウム

第VIIB族. (Mn)画家、テク無(Tc)(Re)載無(Bh)

    Mn:マンガン, Tc:テクネチウム, Re:レニウム, Bh:ボーリウム

第VII族-I. (Fe)を売るって(Ru)おっさ(Os)ハッス(Hs)ル。

    Fe:鉄, Ru:ルテニウム, Os:オスミウム, Hs:ハッシウム

第VIII族-II. 小林(Co)老人(Rh)炒り(Ir)卵うまい(Mt)

    Co:コバルト, Rh:ロジウム, Ir:イリジウム, Mt:マイトネリウム

第VIII族-III. (Ni)本のパラダ(Pd)イス、白金(Pt)のマダムスタチ(Ds)

    Ni:ニッケル, Pd:パラジウム, Pt:白金, Ds:ダームスタチウム

第IB族. (Cu)(Ag)(Au)れんと拳(Rg)骨よ。

    Cu:銅, Ag:銀, Au:金, Rg:レントゲニウム

第IIB族. 君に逢えな(Zn)い街(Cd)(Hg)コッペ(Cn)パン食べる。

    Zn:亜鉛, Cd:カドミウム, Hg:水銀, Cn:コペルニシウム

第IIIA族. 放送(B)ある(Al)(Ga)(In)たり(Tl)来ず。

    B:ホウ素, Al:アルミニウム, Ga:ガリウム, In:インジウム, Tl:タリウム

第IVA族. (C)(Si)ゲイ(Ge)すん(Sn)(Pb)

    C:炭素, Si:ケイ素, Ge:ゲルマニウム, Sn:スズ, Pb:鉛

第VA族. (N)(P)秘書(As)アンチ(Sb)(Bi)ジネス。

    N:窒素, P:リン, As:ヒ素, Sb:アンチモン, Bi:ビスマス

第VIA族. (O)代続く凄いおお(S)金持ちのセレ(Se)ブがやってる(Te)スポーツはポロ(Po)

    O:酸素, S:硫黄, Se:セレン, Te:テルル, Po:ポロニウム

第VIIA族. (F)漬け(Cl)っぱ臭い(Br)(I)アスタ(At)喰お。

    F:フッ素, Cl:塩素, Br:臭素, I:ヨウ素, At:アスタチン

第O族 (He)ネー(Ne)ちゃん、ある(Ar)クルッ(Kr)と回って奇声(Xe)あげたらドン(Rn)と打たれた。

    He:ヘリウム, Ne:ネオン, Ar:アルゴン, Kr:クリプトン, Xe:キセノン, Rn:ラドン

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シュレディンガー「固有値問題としての量子化 (Quantisierung als Eigenwertproblem)」原論文

本ブログの記事 [1926年のシュレディンガー論文 "Quantisierung als Eigenwertproblem" (固有値問題としての量子化) に就いて: ファインマンの言及箇所探し] (2009年3月8日[日]) でも書いたことだが、シュレディンガーの波動力学の基本論文は1926年に "Annalen der Physik" (アナーレン・デア・フィジーク) の第79巻から第81巻にかけて、次の通り4回に分けて発表された ("Annalen der Physik" は現在 John Wiley & Sons, Inc. のドイツにおける子会社 Wiley-VCH Verlag GmbH & Co. KGaA から発行されている)。

  1. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Erste Mitteilung)" Annalen der Physik, (4), 79, (1926), 361-376
  2. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Zweite Mitteilung)" Annalen der Physik, (4), 79, (1926), 489-527
  3. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Dritte Mitteilung: Storungstheorie, mit Anwendung auf den Starkeffekt der Balmerlinien)" Annalen der Physik, (4), 80, (1926), 437-490
  4. "Quantisierung als Eigenwertproblem (Vierte Mitteilung)" Annalen der Physik, (4), 81, (1926), 109-139

ドイツ語文法の初歩の初歩を端折って決めつけて言うと "Mitteilung" が「報告」ぐらいの意味であり、"Erste", "Zweite", "Dritte", "Vierte" は、それぞれ「第1の」、「第2の」、「第3の」、「第4の」を意味する。まぁ、日本語に大雑把に置き換えるなら、"Erste Mitteilung", "Zweite Mitteilung", "Dritte Mitteilung", "Vierte Mitteilung" は、それぞれ「第1論文」、「第2論文」、「第3論文」、「第4論文」としておいても当座は問題ないだろう。と云う訣で、以下、この呼び方をする。

第2論文と第3論文との間に、"Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen" (Annalen der Physik, (4), 79, (1926), 734-756) 「ハイゼンベルク・ボルン・ヨルダンの量子力学の私の量子力学に対する関係に就いて」も発表している。

これらの論文は、フランスのデジタルアーカイブ [Gallica, bibliotheque numerique - Plus d'un million de livres et de documents gratuits] で閲覧可能である。以下、各論文の冒頭ページへのリンクを作っておく。ただし、私の経験からして、旨く繋がらないことがあるかもしれない (理由は私には分からない)。その場合は悪しからず。

  1. 第1論文 (Erste Mitteilung)
  2. 第2論文 (Zweite Mitteilung)
  3. 第3論文 (Dritte Mitteilung)
  4. 第4論文 (Vierte Mitteilung)
  5. ハイゼンベルク・ボルン・ヨルダンの量子力学の私の量子力学に対する関係に就いて "Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen"

また、第1論文だけならは "Wiley Online Library" でも自由に見ることができるようだ。

このほかにも、ネット上を捜索するなら、上記の5論文の pdf ファイルを探し出すことは可能である。例えば、簡単に見つけられる例としては、英訳も雑じっているが、第1論文と第2論文、それに「ハイゼンベルク・ボルン・ヨルダンの量子力学の・・・」は、次のサイトで、他の主として量子力学を扱った基本的な論文とならべてリンクが公開されている。

  1. Clasicos_2
  2. Archivos historicos de la mecanica quantica

しかしその他の論文は探し出すのが若干苦労するかもしれないので、ここで、この記事の項目として5論文全てに就いてダウンロード出来るようにしておく (全てドイツ語原論文である)。

  1. Quantisierung als Eigenwertproblem (Erste Mitteilung)
  2. Quantisierung als Eigenwertproblem (Zweite Mitteilung)
  3. Quantisierung als Eigenwertproblem (Dritte Mitteilung)
  4. Quantisierung als Eigenwertproblem (Vierte Mitteilung)
  5. Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen
Quantisierung als Eigenwertproblem (Erste Mitteilung) Quantisierung als Eigenwertproblem (Zweite Mitteilung) Quantisierung als Eigenwertproblem (Dritte Mitteilung) Quantisierung als Eigenwertproblem (Vierte Mitteilung) Über das Verhältnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinen

最後に [Wiley Online Library] の該当ページへのリンクも作っておく (ただし、利用方法を私は知らない)。

  1. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  2. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  3. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  4. Quantisierung als Eigenwertproblem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library
  5. Uber das Verhaltnis der Heisenberg-Born-Jordanschen Quantenmechanik zu der meinem - Schrodinger - 2006 - Annalen der Physik - Wiley Online Library

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Errata and Typographical Remarks on Alan Turing's "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"

INTRODUCTION

I'm writing this article to provide you a list of typos found in Alan Turing's [main paper 1937](1) as well as a few typographical remarks. Punctuative and other trivial errors are excluded from the list. (e.g., “If there is no \alpha\rightarrow\mathfrak{B}.” should read “If there is no \alpha$, $\rightarrow\mathfrak{B}.” in the first right column on p.237.) None of his own peculiar wording, some of which appear to me too informal, are taken in either. (e.g., on p.237, he wrote “= \mathfrak{q}, say” where I would write “=, say, \mathfrak{q}”, and “the first symbol marked \alpha”, “the first symbol marked with \alpha”.)

The first half of the paper shows tables describing how the machine (the Turing Machine, which has a format superficially different from the current versions) computes. Unfortunately, there are no captions nor sections in those tables. With different numbers of lines in columns from table to table, the line number can't be effectively used to locate a letter/word on a page. Therefore, I will quote a piece of text including a concerned point for an enough length when I think it helps you to find quickly where the issue is.

Notes on the mathematical font: The fraktur font used here is a little different from the one seen in the [main paper 1937]. Though, they are so similar as to cause no difficulties, I believe. As for the script font, contrarily, the discrepancy is so great that I wish you cautious not to be misled by the different appearances of the typefaces.

LIST

page 238, rows 6-7 of the table It reads as follows:

\begin{tabular}{lll}
$\mathfrak{cr}(\mathfrak{C},\mathfrak{B},\alpha)\quad$ & $\quad\mathfrak{c}\Big(\mathfrak{re}(\mathfrak{C},\mathfrak{B},\alpha,a),\mathfrak{B},\alpha\Big)\qquad$  &\multirow{2}{2cm}{\rightcolumnnote{43mm}{\vspace{1mm}\quad$\mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha)$ differs from $\mathfrak{ce}(\mathfrak{B},\alpha)$ only in that the letters $\alpha$ are not erased.  The $m$-configuration $\mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha)$ is taken up when no letters “$a$” are on the tape.}}\\
$\ \mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha)$ & $\mathfrak{cr}\Big(\mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha), \mathfrak{re}(\mathfrak{B},a,\alpha),\alpha\Big)$ & \end{tabular}
However no typos are seen here, it may puzzle you until you realize that there are two different letters \alpha and a, which look quite alike in the original copy of the [main paper 1937]. Worse, using the Latin letter a deviates from Turing's own general convention of using a small Greek letter for a symbol (cf. p.236, l.1). The table should be rewritten by replacing a with a small Greek letter, say \beta, as follows:

\begin{tabular}{lll}
$\mathfrak{cr}(\mathfrak{C},\mathfrak{B},\alpha)\quad$ & $\quad\mathfrak{c}\Big(\mathfrak{re}(\mathfrak{C},\mathfrak{B},\alpha,\beta),\mathfrak{B},\alpha\Big)\qquad$  &\multirow{2}{35mm}{\rightcolumnnote{43mm}{\vspace{1mm}\quad$\mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha)$ differs from $\mathfrak{ce}(\mathfrak{B},\alpha)$ only in that the letters $\alpha$ are not erased.  The $m$-configuration $\mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha)$ is taken up when no letters “$\beta$” are on the tape.}}\\
$\ \mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha)$ & $\mathfrak{cr}\Big(\mathfrak{cr}(\mathfrak{B},\alpha), \mathfrak{re}(\mathfrak{B},\beta,\alpha),\alpha\Big)$ & \\
\end{tabular}

page 238, row 8 of the table: The row

\begin{tabular}{ll}
 $\hspace{5mm}\mathfrak{cp}(\mathfrak{C},\mathfrak{A},\mathfrak{E},\alpha,\beta)\qquad$ &$\mathfrak{f}^{\prime}\left(\mathfrak{cp}_{1}(\mathfrak{C}_{1}\mathfrak{A},\beta),\mathfrak{f}(\mathfrak{A},\mathfrak{E},\beta),\alpha\right)$
\end{tabular}
should read

\begin{tabular}{ll}
 $\hspace{5mm}\mathfrak{cp}(\mathfrak{C},\mathfrak{A},\mathfrak{E},\alpha,\beta)\qquad$ &$\mathfrak{f}^{\prime}\left(\mathfrak{cp}_{1}(\mathfrak{C},\mathfrak{A},\beta),\mathfrak{f}(\mathfrak{A},\mathfrak{E},\beta),\alpha\right).$
\end{tabular}
.
Here, the subscript “1” after \mathfrak{C} in (\mathfrak{C}_{1}\mathfrak{A},\beta) is an error for a comma “,”.

page 239, rows 1-7 of the table: Two m-functions \mathfrak{q}(\mathfrak{C}) and \mathfrak{q}(\mathfrak{C},\alpha) are defined as follows:

\begin{tabular}{ll}
$
\mathfrak{q}(\mathfrak{C}) \qquad\ 
<br /><br />\begin{cases}
 \text{Any}\  \qquad R \quad & \quad\mathfrak{q}(\mathfrak{C})\\
 \text{None} \qquad R \quad & \quad\mathfrak{q}_{1}(\mathfrak{C})
\end{cases}
\qquad$
 & \hspace{5mm}\rightcolumnnote{40mm}{\vspace{2mm}\quad$\mathfrak{q}(\mathfrak{C},\alpha)$. \quad The machine finds the last symbol of form $\alpha. \quad \rightarrow\mathfrak{C}.$}
\\
\end{tabular}

\begin{tabular}{ll}
$
\mathfrak{q}_{1}(\mathfrak{C}) \qquad
\begin{cases}
 \text{Any}  \qquad\ R \quad & \quad\mathfrak{q}(\mathfrak{C})\\
 \text{None} \qquad \phantom{R} \quad & \quad\mathfrak{C}
\end{cases}
$
 &\\
\end{tabular}

\begin{tabular}{ll}
$\mathfrak{q}(\mathfrak{C},\alpha) \phantom{\text{Any}  R \qquad \quad \mathfrak{q}(\mathfrak{C})}$
 &$\quad\mathfrak{q}\left(\mathfrak{q}_{1}(\mathfrak{C},\alpha)\right)$\\
\end{tabular}

\begin{tabular}{ll}
$
\mathfrak{q}_{1}(\mathfrak{C},\alpha) \quad
<br /><br />\begin{cases}
 \quad\alpha  \phantom{L} \quad & \quad\mathfrak{C}\\
 \text{not}\ \alpha \qquad L \quad & \mathfrak{q}_{1}(\mathfrak{C},\alpha)
\end{cases}
$
 &\\
\end{tabular}
Notwithstanding, neither appears again in the paper. Instead, an m-function \mathfrak{g}(\mathfrak{C},\alpha) is used where \mathfrak{q}(\mathfrak{C},\alpha) should be. We must amend the original text to adopt only one of the two. Hence, I discard \mathfrak{g} with \mathfrak{q} left in, and proceed with my work.

page 244, the table and the note for the m-function \mathfrak{con}(\mathfrak{C,\alpha}): It reads:

\begin{tabular}{lll}
$\mathfrak{con}(\mathfrak{C},\alpha)$&
$
\begin{cases}
 \text{Not}\ A  \quad R,R & \mathfrak{con}(\mathfrak{C},\alpha)\\
 \quad A \quad L,P\alpha,R & \mathfrak{con}_{1}(\mathfrak{C},\alpha)
\end{cases}
$
 &\multirow{2}{3.5cm}{\rightcolumnnote{45mm}{\vspace{-2mm}\quad $\mathfrak{con}(\mathfrak{C},\alpha)$. Starting from an $F$-square, $S$ say, the sequence $C$ of symbols describing a configuration closest on the right of $S$ is marked out with letters $\alpha$. \qquad $\rightarrow{\mathfrak{C}}.$}}
\\
\vspace{-12mm}
$
\mathfrak{con}_{1}(\mathfrak{C},\alpha) $&$
\begin{cases}
 \quad A \quad R,P\alpha,R & \mathfrak{con}_{1}(\mathfrak{C},\alpha)\\
 \quad D \quad R,P\alpha,R & \mathfrak{con}_{2}(\mathfrak{C},\alpha)
\end{cases}
$\\
&&\\

$
\mathfrak{con}_{2}(\mathfrak{C},\alpha) $&$
\begin{cases}
 \quad C \quad R,P\alpha,R & \mathfrak{con}_{2}(\mathfrak{C},\alpha)\\
 \text{Not}\ C \quad R,R & \mathfrak{C}
\end{cases}
$&\rightcolumnnote{45mm}{\vspace{13mm}\quad $\mathfrak{con}(\mathfrak{C},\ )$. In the final configuration the machine is scanning the square which is four squares to the right of the last square of $C$.  $C$ is left unmarked.}
\\
\end{tabular}
In the second column of the table, the letter C refers to a single symbol in the standard description (S.D[.]) of a Turing machine for a specific computation (cf. p.240), while in the right column the letter C represents a sequence of symbols that makes up a configuration of the machine (cf. p.231). To avoid ambiguity, the right column should be rewritten to get rid of the letter C, though I'm afraid I must decline to write out the details.

page 244, the table and the note for the m-configuration \mathfrak{anf}: It reads as follows:

\begin{tabular}{lll}
$\mathfrak{anf}\hspace{25mm}$ &$\mathfrak{g}(\mathfrak{anf}_{1},:)$ &\hspace{5mm}\multirow{2}{3.5cm}{\rightcolumnnote{45mm}{\vspace{1mm}\quad $\mathfrak{anf}$. \quad The machine marks the configuration in the last complete configuration with $y$.\quad $\rightarrow{\mathfrak{kom}}$.}}
\\
$\mathfrak{anf}_{1}\hspace{10mm}$ &$\mathfrak{con}(\mathfrak{kom},y)$&
\\
\end{tabular}
Here \mathfrak{g}(\mathfrak{anf}_{1},:) should read as \mathfrak{q}(\mathfrak{anf}_{1},:).

page 244, the table and the note for the m-configuration \mathfrak{kmp}: It reads as follows:

\begin{tabular}{ll}
$
\mathfrak{kmp} \qquad\ \mathfrak{cpe}\left(\mathfrak{e}(\mathfrak{kom},x,y),\mathfrak{sim},x,y\right)$
 & \hspace{5mm}\rightcolumnnote{43mm}{\vspace{15mm}\quad$\mathfrak{kmp}$. \quad The machine compares the sequences marked $x$ and $y$. It erases all letters $x$ and $y$. \quad $\rightarrow\mathfrak{sim}$ if they are alike.  Otherwise $\rightarrow\mathfrak{kom}.$}
\\
\end{tabular}
In the first, the m-function \mathfrak{e}(\mathfrak{B},\alpha,\beta) is not defined in the paper, and should be given as \mathfrak{e}(\mathfrak{e}(\mathfrak{B},\beta),\alpha) (The definition of \mathfrak{e}(\mathfrak{B},\alpha) is seen on p.237).

Secondly, until the \mathfrak{kmp} process reaches \mathfrak{sim}, it should not end in \mathfrak{kom}, but in \mathfrak{anf}. The interested subroutine repeats a searching loop from \mathfrak{anf} to \mathfrak{kmp} to find a configuration in the S.D. that coincides with the last configuration in the complete configuration under construction. Therefore, \mathfrak{kmp}, which seems to stand for a German word “\mathfrak{Komparation}” (“comparison” in English), goes back to \mathfrak{anf} (“\mathfrak{Anfang}”, “start”) to start another search routine when the comparison shows a disparity. Therefore, the table and its note should be corrected to:

\begin{tabular}{ll}
$
\mathfrak{kmp} \qquad\ \mathfrak{cpe}\left(\mathfrak{e}(\mathfrak{anf},x,y),\mathfrak{sim},x,y\right)$
 & \rightcolumnnote{43mm}{\vspace{17mm}\quad$\mathfrak{kmp}$. \quad The machine compares the sequences marked $x$ and $y$. It erases all letters $x$ and $y$. \quad $\rightarrow\mathfrak{sim}$ if they are alike.  Otherwise $\rightarrow\mathfrak{anf}.$}
\\
\end{tabular}

pages 245-246: There are a few typos:

  • The table for \mathfrak{sim}_{2} (p.245)
    
\begin{tabular}{l}
 $\mathfrak{sim}_{2}
\begin{cases}
 \quad A & \mathfrak{sim}_{3}\\
 \text{not}\ A \qquad R,Pu,R,R,R \quad & \mathfrak{sim}_{2}
\end{cases}$
\end{tabular}
    should read
    
\begin{tabular}{l}
 $\mathfrak{sim}_{2}
<br /><br />\begin{cases}
 \quad A & \mathfrak{sim}_{3}\\
 \text{not}\ A \qquad L,Pu,R,R,R \quad & \mathfrak{sim}_{2}
\end{cases}$
\end{tabular}.
.
  • The table for \mathfrak{mk} (p.245)
    
\begin{tabular}{ll}
 $\quad\mathfrak{mk}$& $\hspace{30mm}\mathfrak{g}(\mathfrak{mk},:)$\\
\end{tabular}
    should read

    
\begin{tabular}{ll}
 $\quad\mathfrak{mk}$& $\hspace{30mm}\mathfrak{q}(\mathfrak{mk}_{1},:)$\\
\end{tabular}.
.
  • The table for \mathfrak{sh}_{2} (p.245)
    
\begin{tabular}{l}
 $\mathfrak{sh}_{2}
<br /><br />\begin{cases}
 \quad D \qquad R,R,R,R \qquad & \mathfrak{sh}_{2}\\
 \text{not}\ D & \mathfrak{inst}
\end{cases}$
\end{tabular}
    should read
    
\begin{tabular}{l}
 $\mathfrak{sh}_{2}
<br /><br />\begin{cases}
 \quad D \qquad R,R,R,R \qquad & \mathfrak{sh}_{3}\\
 \text{not}\ D & \mathfrak{inst}
\end{cases}$
\end{tabular}.
.
  • The table for \mathfrak{inst} (p.246)
    
\begin{tabular}{ll}
 $\quad\mathfrak{inst}$& $\hspace{30mm}\mathfrak{g}\left(\mathfrak{l}(\mathfrak{inst}_{1}),u\right)$\\
\end{tabular}
    should read
    
\begin{tabular}{ll}
 $\quad\mathfrak{inst}$& $\hspace{30mm}\mathfrak{q}\left(\mathfrak{l}(\mathfrak{inst}_{1}),u\right)$\\
\end{tabular}.
.

page 246: The m-function \mathfrak{inst}_{1}(\alpha) is defined as follows:

\begin{tabular}{ll}
 $\mathfrak{inst}_{1}(L)$& $\hspace{15mm}\mathfrak{ce}_{5}(\mathfrak{ov},v,y,x,u,w)$\\
 $\mathfrak{inst}_{1}(R)$& $\hspace{15mm}\mathfrak{ce}_{5}(\mathfrak{ov},v,x,u,y,w)$\\
 $\mathfrak{inst}_{1}(N)$& $\hspace{15mm}\mathfrak{ce}_{5}(\mathfrak{ov},v,x,y,u,w),$\\
\end{tabular}
The m-function \mathfrak{ce}_{5} has not been defined explicitly in the paper, while the definitions of \mathfrak{ce}_{2} and \mathfrak{ce}_{3} are seen on p.239. Naturally, \mathfrak{ce}_{4} and \mathfrak{ce}_{5} should be defined as follows:

\begin{tabular}{ll}
$\mathfrak{ce}_{4}(\mathfrak{B},\alpha,\beta,\gamma,\delta)$ & $\hspace{15mm}\mathfrak{ce}\left(\mathfrak{ce}_{3}(\mathfrak{B},\beta,\gamma,\delta),\alpha\right)$\\
$\mathfrak{ce}_{5}(\mathfrak{B},\alpha,\beta,\gamma,\delta,\epsilon)$ & $\hspace{15mm}\mathfrak{ce}\left(\mathfrak{ce}_{4}(\mathfrak{B},\beta,\gamma,\delta,\epsilon),\alpha\right)$\\
\end{tabular}.
.

page 247, the 4th line from the bottom:H” should read “\mathscr{H}”.

page 252, line 20: The formula

\begin{tabular}{l}
 $(\exists{u})N(u) \mathand (x)\Big(N(x)\rightarrow{}(\exists{y})F(x,y)\Big) \mathand \Big(F(x,y)\rightarrow{N(y)}\Big)$
\end{tabular}
should read

\begin{tabular}{l}
 $(\exists{u})N(u) \mathand (x)\Big[N(x)\rightarrow{}\Big((\exists{y})F(x,y) \mathand (y)\big(F(x,y)\rightarrow{N(y)}\big)\Big)\Big]$\\
\end{tabular}
.

page 254, the 7th line from the bottom: The formula

\begin{tabular}{l}
 $\mathfrak{A}_{\phi} \mathand F^{(N^{\prime})} \rightarrow \left(-H(u^{(n)},u^{(m)}\right)$\\
\end{tabular}
should read

\begin{tabular}{l}
 $\mathfrak{A}_{\phi} \mathand F^{(N^{\prime})} \rightarrow \left(-H(u^{(n)},u^{(m)})\right)$.\\
\end{tabular}
.

page 255, line 1:\alpha_{n}=0” should read “\alpha_{n}=\pm{\infty}”.

page 256, line 3:-G(\alpha) \rightarrow \alpha \geqslant \xi” should read “-G(\alpha) \rightarrow \alpha > \xi”.

page 256, lines 7-11: There is a passage:

Owing to this restriction of Dedekind's theorem, we cannot say that a computable bounded increasing sequence of computable numbers has a computable limit. This may possibly be understood by considering a sequence such as

\hfill -1,\ -\frac{1}{2},\ -\frac{1}{4},\ -\frac{1}{8},\ -\frac{1}{16},\ \frac{1}{2},\ \cdots\ .\hfill
.

No matter of what I can't understand the passage, it refers unambiguously to, among others, what we call today the Specker sequence, that is “a computable, strictly increasing, bounded sequence of rational numbers whose supremum is not a computable real number.” (Wikipedia “Specker sequence”.)

He might argue here in effect a sequence \{\varepsilon_{K}\}_{K\in\pint} defined by

\varepsilon_{K} \equiv -2+\sum_{N=1}^{K}2^{N-R(N)-1}
where R(N) is the number of satisfactory positive integers (cf. p.241 and p.247) not greater than a positive integer N. The sequence is increasing with an upper bound, and has a supremum real number \displaystyle{}\lim_{K  \rightarrow \infty}{\varepsilon_{K}}. He might refer to a fact that every partial sum is rational and thus computable, though the supremum is not computable (cf. p.247).

As far as following Turing's convention in the [main paper 1937], the first positive integers reaching to a few thousands are unsatisfactory. As many first members of the sequence \{\varepsilon_{K}\}_{K\in\pint} are identical with those of a geometric sequence \{-2^{-K}\}_{K\in\pint}, that is

\hfill -1,\ -\frac{1}{2},\ -\frac{1}{4},\ -\frac{1}{8},\ -\frac{1}{16},\ -\frac{1}{32},\ \cdots\ .\hfill
.

page 257, line 9: The formula

\begin{tabular}{l}
  $\hspace{5mm}\mathand \Big[H(w,z) \mathand G(z,t) \mathbin{\mathrm{v}} G(t,z) \rightarrow \Big(-H(w,t)\Big)\Big]$
 \end{tabular}
should read

\begin{tabular}{l}
 $\hspace{5mm}\mathand \Big[H(w,z) \mathand \Big(G(z,t) \mathbin{\mathrm{v}} G(t,z)\Big) \rightarrow \Big(-H(w,t)\Big)\Big]$
 \end{tabular}
.
Composition of Logical conjunction “\&” and sum “\mathrm{v}” are not associative, and thus a pair of parentheses must be added to enclose “G(z,t) \mathbin{\mathrm{v}} G(t,z)”.

page 257, the 2nd line from the bottom:m \neq \eta(u)” should read “m \neq \eta(n)”.

page 257, the last line: The formula

\begin{tabular}{l}
 $\hspace{5mm} \mathfrak{A}_{\eta} \mathand F^{(M^{\prime})} \rightarrow G(u^{\eta((n))},u^{(m)}) \mathbin{\nu} G(u^{(m)},u^{\eta((n))})$\\
\end{tabular}
should read

\begin{tabular}{l}
 $\hspace{5mm} \mathfrak{A}_{\eta} \mathand F^{(M^{\prime})} \rightarrow G(u^{\eta((n))},u^{(m)}) \mathbin{\mathrm{v}} G(u^{(m)},u^{\eta((n))})$.
\end{tabular}
.
In the paper, the small Latin letter “\mathrm{v}” seems a prescribed symbol for the logical sum, and the small Greek letter “\nu” should be replaced with “\mathrm{v}”.

page 258, lines 2-3: The formula

\begin{eqnarray*}
  &&\mathfrak{A}_{\eta} \mathand F^{(M^{\prime})} \rightarrow \Big[\big\{G(u^{(\eta(n))},u^{(m)}) \mathbin{\nu} G(u^{(m)}, u^{(\eta(n))})\hspace{20mm}\\
 &&\hspace{40mm} \mathand H(u^{(n)},u^{(\eta(n))} \big\} \rightarrow \left(-H(u^{(n)},u^{(m)})\right) \Big]
 \end{eqnarray*}
should read

\begin{eqnarray*}
  &&\mathfrak{A}_{\eta} \mathand F^{(M^{\prime})} \rightarrow \Big[\Big\{\Big(G(u^{(\eta(n))},u^{(m)}) \mathbin{\mathrm{v}} G(u^{(m)}, u^{(\eta(n))})\Big)\hspace{20mm}\\
 &&\hspace{40mm} \mathand H(u^{(n)},u^{(\eta(n))}) \Big\} \rightarrow \left(-H(u^{(n)},u^{(m)})\right) \Big]
 \end{eqnarray*}
.

page 258, line 10: “the m-configuration b” should read “the m-configuration \mathfrak{b}”.

page 258, the 6th line from the bottom: The row

\begin{tabular}{ll}
 $\hspace{5mm} \mathfrak{u}_{2}$ & $\hspace{30mm}\mathfrak{re}(\mathfrak{u}_{3},\mathfrak{u}_{3},k,h)$\\
\end{tabular}
should read

\begin{tabular}{ll}
 $\hspace{5mm} \mathfrak{u}_{2}$ & $\hspace{30mm}\mathfrak{re}(\mathfrak{u}_{3},\mathfrak{b},k,h)$\\
\end{tabular}
.
The machine \mathscr{N}^{\prime} repeats the computation of the machine \mathscr{N} to get a figure \phi_{n}(n) for every positive integer n, and must bring its m-configuration back to \mathfrak{b}, the first m-configuration of \mathscr{N}, each time one figure is computed and the symbol k disappears from the complete configuration of \mathscr{N}^{\prime}. (I would warn you that the appearance of the script capital \mathscr{N} used here is quite different from the one seen in the [main paper 1937]).

page 259, the last line:S” should read “S_{l}” to accord with the term “R_{S_{l}}(x,y)” on the one line before.

page 260, lines 7-9: In his [correction paper 1938, p.544](2), Turing changed the definition of \mathrm{Inst}\{q_{i}S_{j}S_{k}Lq_{l}\} from

\begin{eqnarray*}
&&(x,y,x^{\prime},y^{\prime})\Big\{\Big(R_{S_{j}}(x,y) \mathand I(x,y) \mathand K_{q_{i}}(x) \mathand F(x,x^{\prime}) \mathand F(y^{\prime},y)\Big)\\
&&\rightarrow \Big(I(x^{\prime},y^{\prime}) \mathand R_{S_{k}}(x^{\prime},y) \mathand K_{q_{l}}(x^{\prime})\\
&&\hspace{40mm}\mathand (z)\left[F(y^{\prime},z) \mathbin{\mathrm{v}} \left(R_{S_{j}}(x,z) \rightarrow R_{S_{k}}(x^{\prime},z)\right)\right]\Big)\Big\}
\end{eqnarray*}
to

\begin{eqnarray*}
&&(x,y,x^{\prime},y^{\prime})\Big\{\Big(R_{S_{j}}(x,y) \mathand I(x,y) \mathand K_{q_{i}}(x) \mathand F(x,x^{\prime}) \mathand F(y^{\prime},y)\Big)\\
&&\rightarrow \Big(I(x^{\prime},y^{\prime}) \mathand R_{S_{k}}(x^{\prime},y) \mathand K_{q_{l}}(x^{\prime}) \mathand F(y^{\prime},z) \mathbin{\mathrm{v}} \Big[\big(R_{S_{0}}(x,z) \rightarrow R_{S_{0}}(x^{\prime},z)\big)\\
&&\mathand \big(R_{S_{1}}(x,z) \rightarrow R_{S_{1}}(x^{\prime},z)\big) \mathand \ldots \mathand \big(R_{S_{M}}(x,z) \rightarrow R_{S_{M}}(x^{\prime},z)\big)\Big]\Big)\Big\}.
\end{eqnarray*}
However, the new definition should be amended as follows:

\begin{eqnarray*}
&&(x,y,x^{\prime},y^{\prime})\Big\{\Big(R_{S_{j}}(x,y) \mathand I(x,y) \mathand K_{q_{i}}(x) \mathand F(x,x^{\prime}) \mathand F(y^{\prime},y)\Big)\\
&&\rightarrow \Big(I(x^{\prime},y^{\prime}) \mathand R_{S_{k}}(x^{\prime},y) \mathand K_{q_{l}}(x^{\prime}) \mathand (z)\Big(F(y^{\prime},z) \mathbin{\mathrm{v}} \Big[\big(R_{S_{0}}(x,z) \rightarrow R_{S_{0}}(x^{\prime},z)\big)\\
&&\mathand \big(R_{S_{1}}(x,z) \rightarrow R_{S_{1}}(x^{\prime},z)\big) \mathand \ldots \mathand \big(R_{S_{M}}(x,z) \rightarrow R_{S_{M}}(x^{\prime},z)\big)\Big]\Big)\Big)\Big\}
\end{eqnarray*}
to include the universal quantifier (z).

page 260, line 15: As Turing wrote in the [correction paper 1938, p.545, l.14], “logical sum” should read “conjunction”.

page 260, lines 18-21: The definition of \mathrm{Un}(\mathscr{M}) given on lines 18-21 was withdrawn and replaced with the new definition (the [correction paper 1938, p.545]):

 (\exists{u})A(\mathscr{M}) \rightarrow (\exists{s})(\exists{t})R_{S_{1}}(s,t)
where A(\mathscr{M}) is abbreviation for

 Q \mathand (y)R_{S_{0}}(u,y) \mathand I(u,u) \mathand K_{q_{1}}(u) \mathand \mathrm{Des}(\mathscr{M})
and Q is abbreviation for

\begin{eqnarray*}
 &&(x)(\exists{w})(y,z)\Big\{F(x,w) \mathand \Big(F(x,y) \rightarrow G(x,y)\Big) \mathand \Big(F(x,z) \mathand G(z,y) \rightarrow G(x,y)\Big)\\
&&\hspace{5mm}\mathand \Big[G(z,x) \mathbin{\mathrm{v}} \Big(G(x,y) \mathand G(y,z)\Big) \mathbin{\mathrm{v}} \Big(F(x,y) \mathand F(z,y)\Big) \rightarrow \Big(-F(x,z)\Big)\Big]\Big\}
\end{eqnarray*}
.
Here, in my opinion, A(\mathscr{M}) might be changed to “A(\mathscr{M})(u)” because the formula comes along with the free variable u.

page 261, line 10:\mathand (y)F\Big((y,u^{\prime})\mathbin{\mathrm{v}}\ldots” should read “\mathand (y)\Big(F(y,u^{\prime})\mathbin{\mathrm{v}}\ldots”.

page 261, line 29: As Turing wrote in the [correction paper 1938, p.545, l.13], 
 r\big(n,i(n)\big) = a, r\big(n+1,i(n+1)\big) = c, k\big(i(n)\big)=b, \mbox{ and } k\big(i(n+1)\big)=d
should read

 r\big(n,i(n)\big) = b, r\big(n+1,i(n)\big) = d, k(n)=a, \mbox{ and } k(n+1)=c .

page 261, line 33: As Turing wrote in the [correction paper 1938, p.545, l.11],

 \mathrm{Inst}(q_{a}S_{b}S_{d}Lq_{c}) \mathand F^{(n+1)} \rightarrow (CC_{n} \rightarrow CC_{n+1})
should read

 \mathrm{Inst}(q_{a}S_{b}S_{d}Lq_{c}) \mathand Q \mathand F^{(n+1)} \rightarrow (CC_{n} \rightarrow CC_{n+1}).

page 262, line 9:A(\mathscr{M}) \mathand F^{(N)} \rightarrow CC^{N}” should read “A(\mathscr{M}) \mathand F^{(N)} \rightarrow CC_{N}”.

page 263, line 20:1+\phi_{\gamma}(u)” should read “1+\phi_{\gamma}(n)”.

page 264, the 4th line from the bottom:U” should read “U_{\gamma}”.

page 265, the 8th line from the bottom: The definition of “Q

\begin{tabular}{l}
  $\hspace{5mm} \Big\{\{Q\}{W_{\gamma}}\Big\}(N_{s}) \mathbin{\mathrm{conv}} N_{r(z)}$
\end{tabular}
should read

\begin{tabular}{l}
  $\hspace{5mm} \Big\{\{Q\}{W_{\gamma}}\Big\}(N_{s}) \mathbin{\mathrm{conv}} N_{r(s)}$.
\end{tabular}
Namely, the subscript “{}_{r(z)}” should be changed to “{}_{r(s)}”.

REFERENCE

  1. [main paper 1937]
    Turing, Alan.
    “On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem”
    Proceedings of the London Mathematical Society. ser.2 vol.42: pp.230-265. 1937.
  2. [correction paper 1938]
    Turing, Alan.
    “On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem. A Correction”
    Proceedings of the London Mathematical Society. ser.2 vol.43: pp.544-546. 1938.

NOTE

1. I have drafted the PDF version of this article.

2. You can read the papers in the book below:

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ドイツ語と英語の初歩。または、私は如何にして心配するのを止めて [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] 補足を書くことになったか

[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」: nouse] (2011年6月10日[金]) を書いた時、そのうち、ゲーテの研究者ならずとも、どこの誰かが、問題の2011年6月8日付けの [天声人語] の文章に対して、議論の精粗はあるにしても何らかの形で「間違いの指摘」をするだろうと思っていた。

言葉に対しまともなセンスを持っている者が、「天声人語」中の「ゲーテの言葉」(〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉) を読んだなら、それが警句の態をなしていないことに気づく筈で、そして読者がドイツ語又は英語に若干の知識があって、自分が感じた違和感から、「ゲーテの言葉」の出典を調べたとするなら、容易に、英文で

One never goes so far as when one doesn't know where one is going.
Letter to Karl Fiedrich Zelter [December 3, 1812]
--"Bartlett's Familiar Quotations" (16th ed. 1992) p.350
--Johann Wolfgang von Goethe - Wikiquote

なり、ドイツ語文で

man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht.
An Carl Friedrich Zelter. Weimar d. 3. December 1812
--Goethe, Johann Wolfgang, Briefe, 1812 - Zeno.org
--Johann Wolfgang von Goethe: Maximen und Reflektionen - Allgemeines, Ethisches, Literarisches - X.
--Man geht nie weiter, als wenn man nicht mehr ... - Johann Wolfgang von Goethe | Aphorismen-Archiv

なりに辿りつけただろう。だとするなら、本来の「ゲーテの言葉」と天声人語版の「ゲーテの言葉」とでは、「意味が殆ど真逆」(何故『殆ど』と付けるかと云うと、天声人語版を読んで、私は「何が言いたいのだろう」と思ってしまったからだ。「意味不明」なのである。あれを、何の疑問もなく読み通せる人は、「スゴイ」と思う) であることが解るだろうから、その内の一部であるにしても「つぶやく」ぐらいのことはするだろうと思っていたのだ。

特に、引用句辞典に採録されているような「ゲーテの言葉」が、所謂「全国紙」の一面で、根本的に間違って解釈されたのを放置するのは、ゲーテ研究者としての自分達の存在意義を自ら否定することになりかねないと、少なくとも一部のゲーテ研究者は考えて、それを防ぐ意味で何らかの意見表明をするだろうと、私には思われた。

しかし、ネットで見られる限り、そのようなことは、これまで起こらなかったようだ。

私のリアルタイムの情報は、現在実質的にネットに限られているから (新聞は定期購読していない。また TV は観るが、「リアルタイムな情報源」にはなっていない)、ネットに反映されていない現象を私が捉まえられないだけでいるかもしれない。あるいは、「ゲーテ研究者」なるものが、所謂 digital divided であるかもしれない。更に、あるいは、「ゲーテ研究者」は新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていないのかもしれない。

しかし、「ゲーテ研究者」自体がネット環境とは疎遠な所で活動しているとしても、その周囲には、それなりにネット社会に参入している人々がいるだろうから、その人々を経由して、ゲーテ研究者間に発生した「さざ波」が、全くネットに反映しないことは考えにくい。だから第1のケースと第2のケースに起因して、「ゲーテ研究者」の反応が不明だと云うのは解しがたい。

この第3のケースのうち「新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていない」は、意外と有りうるかもしれないと、チラリと思った。私自身、そのようなことがあるからだ。

私が実際に目にすることが多い新聞コラムが「天声人語」であるために、この話題に繋がった訣だが、総じて新聞のコラム、特に所謂「第一面コラム」は詰まらない。細かい分析をしたことがなかったので、今たまたま思いついた形容をすると、イメージとての「オジサンのスピーチ」の詰まらなさだ (やはり、今気が付いたことは、私は、或る意味「オジサンのスピーチ」を聞かないような「人生の選択」をしてきたから、これは完全な食わず嫌いなのだが)。「知性と感性が爆睡している人間の寝言」とでも言いたいところがあるのだ。

論旨が逸れかねないが、一応書いておくと、「読むに耐える」と言うべき文章が書かれることあることは認めておく。これは、担当者の違いに拠るのかもしれない。

議論が取り散らかりそうだが、もう一つ付け加えておくと、私は [オジサン] をアナガチ否定するものではない。斯く言う私も [オジサン] である。ただし、[オジサン] は [スピーチ] をしてはならないと思っている。[オジサン] と [スピーチ] には相容れないものがあるのだ。そして、「日本の」と修飾語を付けるべきかどうか、わからないが、新聞のコラムでは、[オジサン] が [スピーチ] をしていることが多いのだ (言うまでもなかろうが、この [オジサン] は生物学的・医学的な意味での [ヒト・オス・成体] ではない)。

しかし、思い返すなら、私自身、「天声人語」を読んで、シバシバ「相変わらず詰まらないな」と思っても、別段読まなくなっている訣ではないし、また、その間違いに対して、このようにして反応している。つまり、私も「天声人語」と云う新聞コラムを、私なりに「重要視」している、と言うか、無視していない訣だ。その私が、「ゲーテ研究者」は「新聞のコラム、あるいは、少なくとも『天声人語』を重要視していない」あるいは「無視している」と結論するには、何らかの補強的な証拠が必要だろう。しかし、私はそのようもものは持っていない。

あと、もう一つ、朝日新聞又は「天声人語」担当者と、「ゲーテ研究家」とが「仲良し」で、「身内の恥は隠蔽する」と云うことがあった可能性もあるな。。。などと、まぁ、こう云うのは「ゲスの勘繰り」と呼ぶべきなのでしょうな。

だが、段々心配になってきた。事は、一私企業の一人又は何人かの社員 (朝日新聞が「天声人語」の作成を外注していると云う可能性はないとは言えないかもしれないが、そう云うことを含めて「社員」と呼んでおく) の失敗ではなくて (それならば、理念としては、必要な訂正作業をして、検証し、それが「重大な失敗」であったら、再発防止策を取れば良いだけのことだ)、「ゲーテ研究者」と呼ばれるべき人々の存在意義に関わってしまっているからだ。

我ながら、「大きなお世話」だと思ったが、取り敢えず、fact finding の為に、久しぶりにヤヤ遠方にある大きめの図書館に行ってきた。ゲーテ全集を見て、「ゲーテ研究」の現状の一端を知りたかったのだ。現在、市場に流通している「ゲーテ全集」は [潮出版社] 刊のものだが、やはりそれが開架に並べられていた。問題のカール・フリードリヒ・ツェルター宛の1812年12月3日付けの書簡は第15巻に収められていたことは収められていたのだが、部分訳で目的とする部分の翻訳が省略されていたのは残念だった。

しかし "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." と云う警句は、上記にもあるように、後人の編集になるゲーテの警句集である "Maximen und Reflektionen" (「箴言と省察」) にも収録されているので、その翻訳が入れられいてる第13巻の方を当たってみた。これも部分訳で、しかも順番が編集されていいるようだったが、流し読みしていくと、その最後のページに次のようなものが発見できたのだ。

もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない。
--[ゲーテ全集第13巻] p.414 (新装普及版。東京 2003年 潮出版社)

うーん。これはやはり "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." の「翻訳」の積もりでしょうな。しかし、あからさまな誤訳である。

と云う訣で、決心がついた。わざわざ説明するまでもないと思って、していなかったドイツ語に就いての初歩的な注意を試みる。

以下、2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] を単に「天声人語」、その作成者を「天声人語子」、そして、潮出版社刊 [ゲーテ全集第13巻] 中の p.414 で「もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない」部分を担当した翻訳者を、「ゲーテ研究家」と呼ぶことにする。「ゲーテ研究家」に就いては全体と個人との均衡を欠くかの如くだが、「天声人語」への反応が見られない状況では、あながち「過度の同一視」とも言えないものがあるのではないか。

ドイツ語において (並行したことが英語でも言えるが)、形容詞又は副詞の比較級を用いて不等比較を表す時は、"als" の前後に「比較対照」が示される。ただし、この「比較対象」(「比較対照」の対象、何だかめんどくさいな ) は単純な名詞とは限らず、節文で表わされる「状況」であることもあり、さらに節文から適宜一部省略して「肝心」な部分だけが残されることも多い。例文を小学館の [独和大辞典第2版] から、原文の「~」を "als" に戻した上で引用すると

Er ist älter <nicht älter> als ich.  彼は私よりも年上だ <ではない>
Er ist viel <weit> älter, als ich gedacht habe.  彼は私が思っていたよりもはるかに年をくっている。
Sie ist mehr shön als klug.  彼女はあまり賢くはないが美人だ。
Sie versteht mich besser als du <dich>.  彼女の方が君よりも私を <彼女は君よりも私の方を> 良く理解してくれる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

そして、「比較対照」は wenn から始まる節文であっても良い。やはり [独和大辞典第2版] から引用すると

Die Welt hat mehr Nutzen, wenn er shreibt, als wenn er liest.  彼には読書するより著作をしてもらった方が世の為になる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

これを踏まえて「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」と云う形の文が、どのような意味になるか説明すると、「動詞」を修飾する「副詞」の意味する「状態の程度」は、如何なる場合にあっても、「wenn 節」が成り立つ状況における「状態の程度」を超えることが決してないと云うことなのである (ちなみに "nie" は、英語の "never" と同様「決して・・・しない」ぐらいを意味する否定詞)。つまり、「wenn 節」が成り立つ状況において、「状態の程度」が最高になると云う、最高級表現の代替表現なのだ。

ここで、「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」の例文をネット上で探してみたが、"geht nie weiter, als wenn ..." では「ゲーテの言葉」ばかりがヒットするので、副詞部分を変更して検索してみると、例えば、Karl Kraus は "Nachts" と云う警句集の "1915" と云う章に

Das Übel gedeiht nie besser, als wenn ein Ideal davorsteht.
--Karl Kraus - Aphorismen: 1915 - Spruche
--Projekt Gutenberg-DE - SPIEGEL ONLINE - Nachrichten - Kultur

と書いている (英語の "well" の対応語で「良く」とか「十分に」とかを意味する"wohl" の比較級 "besser" が用いられて "gedeiht nie besser, als wenn ..." の形になっていることに注意) が、これは

何かの「理想」が実現しようとする時ほど悪がはびこることはない。

と云う意味だろう。

意地悪なようだが、これを「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」してしまうと

理想が実現すると悪は栄えなくなる。

となるが、これでは「知性のひらめき」が消えうせて、「鈍感な官僚/政治家の答弁」風、と言うか、やはり [オジサンのスピーチ] になってしまう。

副詞 "wohl" の比較級には "besser" の他に "wohler" という形のものもある。これは「健康である」とか「気分が良い」と云う意味だが、それを用いた例文としては、エドガー・エーラー (Edgar Oehler) と云うスイスの実業家に就いての記事に

«Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite», sagt Oehler, auf diese Einschätzung seiner Freunde angesprochen. Das einzige Hobby, das er sich gönnt, ist eine Modelleisenbahn: Buco Spur 0.
--Edgar Oehler: Der Tycoon aus dem Rheintal

と云うものがあった。

友人が語ったこの評価 [「トンでもない仕事好き」] に対して、エーラーは「私は仕事をしている時が一番体調が良いんだよ」と言う。自らに許しているただ一つの趣味と言えば鉄道模型、Buco 社の O ゲージ、だけなのだ。

再び、意地悪して、"Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite" を「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」すならば

私は仕事をすると体調が悪くなるんだよ

になる。これは「タイクーン」と呼ばれている実業家にはふさわしくない言葉ではなかろうか。

もっとも、「天声人語子」は、自分が読んだのは英訳であって、ドイツ語の事は関知しないと言うかもしれない。しかし、英語であっても、事情は同じである。上記に示したバートレットの引用句辞典中における「ゲーテの言葉」(「天声人語」英文版には、全く同一の文章が使われてるいる) は、英訳であることを離れて英文として見ても正しく成立してるからだ。それは、やはり「人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない」ぐらいの意味になって「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」にはならない。

実際、英語においても、上述のドイツ語に対する説明と並行的内容のことが 「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than + when 節」に対して言えて (ドイツ語と英語では、否定詞と動詞の順序が逆転する。また、ドイツ語の "als" は文脈によって、英語の "as" に対応することもあれば "than" に対応することもある。そして、この場合は、"than" が対応する)、それは「副詞の最高級」相当の意味を形成する。ただし、問題のゲーテの言葉の英訳では、「否定詞 + 動詞 + 副詞の比較級 + than」から、等価な「否定詞 + 動詞 + so + 副詞の原形 + as」への置き換え用いれているだけなのだ。

だから「ゲーテの言葉」には、「置き換え」のない

One never goes further than when they do not know where they are going.
--Famous Johann Wolfgang Von Goethe Quotations - Page 4

と云う英訳も存在する。

英語でも、幾つか例文を拾っておく。まず、バートレットの引用句辞典に収められた「ゲーテの言葉」、つまり英文版「天声人語」における「ゲーテの言葉」に合わせて「never + 動詞 + so + 副詞の原形 + as when」の形のもの。どうやら、会社の経営者・従業員への「教訓」らしい。

A man never likes you so well as when he leaves your company liking himself. (Source Unknown)
--Dictionary of Quotes
ある人があなたのことを好ましいと思っている最高の形態とは、あなたの会社が、その人を好ましいと考えていられるようにしてくれていることである。

パスカルの「パンセ」の一節 (Jamais on ne fait le mal si pleinement et si gaiement que quand on le fait par conscience. ) の英訳

Men never do evil so completely and cheerfully as when they do it conscientiously.
Blaise Pascal, Pensées (# 894 or 895)
--Evil - Wikiquote
人は良心に従っている時ほど、悪を徹底的且つ喜びを以って行うことはない。

次に「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than whenn」の形のもの

まず、調理器の紹介だか宣伝の記事の一部

Food never tastes better than when it's cooked long and slowly, so we know you'll love this Slow Cooker.
--Rosemary Conley Slow Cooker | Kitchen Essentials | Rosemary Conley TV
食べ物は、長い時間をかけてゆっくりと調理する時が一番おいしくなりますので、この「スロー・クッカー」のことが気に入って頂けるに違いありません。

スキーを主題にしたスポーツ医学に就いてのウェブページで、

If you are one of the experienced millions or if you plan for that first skiing experience, you may never feel better than when you're experiencing the excitement of a perfect downhill run. Then again, you may never feel worse than when you're laid up with torn knee ligaments or some other mishap that the slopes frequently offer up.
--Caring For Athletes - Fit For You - Ski Fitness
あなたが、経験を積んだ何百万人かのスキーヤーの一人であるにしろ、初めてのスキーを計画している人であるにしろ、ダウンヒルを完全に滑りきった興奮を体験する時ほど素晴らしい気分になることはないでしょう。その一方で、滑降中にシバシバ発生する、膝靱帯の断裂等の事故で寝込んでいる時ほど落ち込んだ気分になることもないだろうと思います。

なんで、こんな初歩的なことをクドクド書いているのかと云うと、どの程度までレベルを下げてよいのか、見当がつかないからで、実は、自分でもさっきからウンザリしている。このへんで止めておくことにしよう。

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メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」

日付が変わってしまったので、昨日の話になるが、先程、1日遅れでたまたま手にした「2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 (東京本社13版)」を流し読みした所、[天声人語] がこう始まっていた (現時点では、同内容の物がウェブ上の [asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2011年6月8日(水)] で見ることができる)。

〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉。ゲーテの言葉である。目的地が定まらないと足取りが重くなる。そんな意味だろう。逆に、確かな目標があれば急坂や回り道をしのぎ、転んでも起き上がり、大きな事を成せる
--2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 (東京本社13版) 第1面 [天声人語]

これを読んだ時の、私の感想は「ヤッチマッタナー」(© クールポコ) と云うものだった。箸にも棒にも掛からない詰まらないことを「したり顔」(最近は「ドヤ顔」と謂うらしいが) で書いてある。大体、「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」では警句にならない。「当たり前」にさえなっていない。当たり前の日本語を使いたいなら、せめて「行き先を決めない限り、遠くまで行くことはできない」ぐらいにしろよ、と言いたい。

浩瀚なゲーテの著作の中の何処かで、そんなことも書かれているかもる知れないが、そして私はまことに無教養で無知蒙昧ではあるが、私の知っているゲーテは、「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」とは言ってはいない。少なくとも、私が子どもの時に読んだ小辞典 (福音館書店刊であったか、昭文社刊であったかだと思う) の巻末についていた名言集では、そんなことを言っていなかった。うろ覚えだか、こんな感じだったのだ。

人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない。

(子どもだった私にも、これが「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」ぐらいの意味だと云うことが感じられた。)

取り敢えず、手持ちのバートレットの引用句辞典 ("Bartlett's Familiar Quotations" 16th ed.) で調べた所、英訳が採録されていた。

One never goes so far as when one doesn't know where one is going.
Letter to Karl Fiedrich Zelter [December 3, 1812]
--"Bartlett's Familiar Quotations" (16th ed. 1992) p.350

そして、滑稽と謂えるが、天声人語の英訳版 (asahi.com(朝日新聞社):VOX POPULI: Japan must see the big picture on energy policy - English) では、この "One never goes so far as when one doesn't know where one is going." が「ゲーテの言葉」として、そのまま使われているのだ。

"One never goes so far as when one doesn't know where one is going." The quote is attributed to the German writer Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832). I think the idea is that when our destination is uncertain our steps become heavy. Conversely, as long as we have a clear goal, we can climb steep slopes, take all sorts of detours, get up when we fall down, and ultimately succeed in what we set out to do.
--asahi.com(朝日新聞社):VOX POPULI: Japan must see the big picture on energy policy - English

問題の [天声人語] 記事日本語版を書いた人物と、英語版を書いた人物が同一であるとは限らないが、それでも、当然の考え方をするなら、日本語版を英語版に「翻訳」したのだろう。だとすると、英語版の作成者は「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」と "One never goes so far as when one doesn't know where one is going." とでは、意味が殆ど真逆であると云う高校生レベルの英語力があれば気が付くだろうことを見過ごした訣だ (下記に見られるように、"never goes so far as" はドイツ語の "geht nie weiter, als" の訳、特に、"as" は、ドイツ語 "als" の対応英語なのだが、ここは "never goes further than" と訳した方が、英語初学者には親切かもしれない)。

もし、英文ヘの翻訳者が日本語版作成者と別人であって、気が付いたけれども、日本語版作成者に指摘するのを「遠慮した」のであったとしたら、それはそれで組織として悲惨な事態だ。関節が外れたような政党や社会 (ホボ「会社」に等しい) の騒ぎを他人事のように喋喋している場合ではない。De te fabula narratur...

ちなみに、ドイツ語原文は次のようなものであるらしい:

man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht.
--Goethe, Johann Wolfgang, Briefe, 1812 - Zeno.org
--Johann Wolfgang von Goethe: Maximen und Reflektionen - Allgemeines, Ethisches, Literarisches - X.
--Man geht nie weiter, als wenn man nicht mehr ... - Johann Wolfgang von Goethe | Aphorismen-Archiv

なお、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599年4月25日--1658年9月3日)が "A man never goes so far as when he doesn't know where he is going." と云う言葉を残したと云う話がネットで見られるが、出典は未確認。

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メモ:ジョン・フォン・ノイマンの所謂 "Axiom of limitation of size"

最近はしばらく集合論や数理論理学のお勉強をしてきた。だいたい峠を越しつつあるような感じだ。もっとも、これまでも何度も峠を越しそうだと思った後で、大きな岩が上から転がり落ちてきて、麓へともんどり打つハメになってきているので、油断はできないけれども。

そんな「お勉強」の最中に「ナンダカナァ」と思ったことがあったので、書いておく。

それは、フォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル公理系集合論に就いて書かれた英文版ウィキペディアの記事 "Von Neumann-Bernays-Godel set theory (last modified on 28 January 2011 at 18:05)" を読んだことがキッカケだった。

記事の中に "Limitation of Size" (「規模制限」と訳しておく) と云う公理への言及があったのだ。初耳でしたね。集合論の公理の中に知らないものがあるなんて、世界中の人に嗤われても仕方がないが (私自身も笑うしかない)、それはともかく、そこには

For any class C , a set x such that x=C exists if and only if there is no bijection between C and the class V of all sets.
--Von Neumann-Bernays-Godel set theory (last modified on 28 January 2011 at 18:05)

任意の「類」C に対し、 x=C を満たす集合 x が存在する為の必要十分条件は、C と、全ての集合が作る「類」との間に全単射が存在しないことである。

と書いてあった。

ちなみに、私は集合論における「類」と云う用語に馴染めない。原語の "class" も感心しない (だから「クラス」と云う用語も使いたくない)。どちらにしろ不用意に一般的な言葉を採用してしまった感じで、使用する際にミスリードを避けることを念頭に置いて文章を書かねばならないからだ。しかし、ここで、そうした話を展開しても始まらないので、取り敢えずカギカッコで括って「類」と云う形で用いることにする。

これは面白いし、魅力的だ (勿論、「全単射」は「類」間の写像としての「全単射」である。以下、同様)。今、『全ての集合が作る「類」』を「全集合系」(これが「真の類」であるのは良く知られている) と呼んでおくと、任意の「類」は全集合系の「部分類」となるから、当然標準的な包含単射が存在する。だから、「類」が集合であるか「真の類」であるかの区別に、全集合系との全単射が存在することを用いるのは、集合において、無限集合と有限集合の区別に自分自身と真の部分集合との全単射の存在の有無を用いるのとパラレルな構造になっていて、素直だし、「有りそうなこと」だ。

これはこれでよかった。

しかし、この "Limitation of Size" と云う公理名には、別の英文版ウィキペディア記事へのリンクが付いていたのだな。それが "Axiom of limitation of size" (last modified on 26 April 2010 at 13:28) と云う短いもので、こんなことが書かれている。

In class theories, the axiom of limitation of size says that for any class C, C is a proper class (a class which is not a set (an element of other classes)) if and only if V (the class of all sets) can be mapped one-to-one into C.

 \begin{eqnarray*}
 &&\forall{C} [\lnot \exists{W}{(C \in W)} \iff \exists{F} (\forall{x}[\exists{W} (x\in{W}) \Rightarrow \exists{s} (s\in{C} \wedge \langle x, s \rangle \in{F})] \wedge\\
 &&\hspace{5mm}\forall{x} \forall{y} \forall{s} [(\langle x, s \rangle \in{F} \wedge \langle y, s \rangle \in{F}) \Rightarrow x = y])]
 \end{eqnarray*}

This axiom is due to John von Neumann. It implies the axiom schema of specification, axiom schema of replacement, and axiom of global choice at one stroke. The axiom of limitation of size implies the axiom of global choice because the class of ordinals is not a set, so there is an injection from the universe to the ordinals. Thus the universe of sets is well-ordered.

Although together the axiom schema of replacement and the axiom of global choice (with the other axioms of Morse-Kelley set theory) imply this axiom, they are each at least as complicated as the axiom of limitation of size and no more intuitive (once you understand this axiom). So using this axiom instead of them is a net improvement.
--Wikipedia "Axiom of limitation of size" (last modified on 26 April 2010 at 13:28)

「類」の理論において「規模制限の公理」とは、任意の「類」C が「真の類」(集合ではない「類」、つまり他の「類」の要素とはならない「類」) となるための必要十分条件は、全ての集合からなる「類」(訳註:この記事では「全集合系」と呼んでいるので、以下そのように訳す) Vから C への1対1写像が存在することである。

 \begin{eqnarray*}
 &&\forall{C} [\lnot \exists{W}{(C \in W)} \iff \exists{F} (\forall{x}[\exists{W} (x\in{W}) \Rightarrow \exists{s} (s\in{C} \wedge \langle x, s \rangle \in{F})] \wedge\\
 &&\hspace{5mm}\forall{x} \forall{y} \forall{s} [(\langle x, s \rangle \in{F} \wedge \langle y, s \rangle \in{F}) \Rightarrow x = y])]
 \end{eqnarray*}

この公理はジョン・フォン・ノイマンが提案したものであり、それには「特殊化の一般公理」、「置換の一般公理」、「大域選択公理」が全て含意されている。規模制限の公理が大域選択公理を含んでいるのは、全ての順序数からなる「類」」(訳註:これを「全順序数系」と呼ぶことにする) は集合ではないので、全集合系から全順序数系内への単射が存在し、それ故、全集合系は整列可能になるからである。

置換の一般公理と大域選択公理と (更に、モース・ケリーの集合論の他の公理も) を組み合わせるなら、この規模制限の公理は導出されるとは言え、こうした公理は、一つ一つが、少なくとも規模制限の公理と同程度には複雑であって、(規模制限の定理を理解できているとしてでの話であるが) ヨリ直感に訴えると云うようなものではない。このため、こうした公理の代わりに、規模制限の公理を用いることは、実質的な改良になっている。

[訳註:]

  1. "axiom schema of specification" は、通常「分出公理」又は「分出公理型」と訳されているようだ。しかし「分出公理」では「選択公理」と紛らわしいので採用しない。そこで "specification" は「特殊化」と訳しておく。また "axiom schema" は「公理型」と訳されるようだが、これも「公理系」と音が同じなのを嫌つて「一般公理」にしておく。或いは、数学的には微妙だが「特殊化の一般形式の公理」とでもした方がよいかもしれない。
  2. 「真の類」と「集合」とを区別する為の判定条件が必要であることはフォン・ノイマン以前から認識されていた。フォン・ノイマンは、「写像」を用いて、その判定条件を定式化した訣だ。

最初、この文章を読んだ時、論理式の所で混乱してしまった。直前に書いてあった "the axiom of limitation of size says that for any class C, C is a proper class ... if and only if V (the class of all sets) can be mapped one-to-one into C" (「規模制限の公理」とは、任意の「類」C が「真の類」・・・となるための必要十分条件は、全集合系 Vから C への1対1写像が存在することである。」) と整合しないのだ。

ここで「Vから C への1対1写像」とは、全集合系 Vから「類」C への「類」間写像としての単射の意味である。上に述べたように C から Vへの標準的包含写像は常に存在するから、Vから C への単射が存在するなら、類においてもベルンシュタインの定理が成立するので (ここでベルンシュタインの定理の証明には選択公理は必須ではないことに注意)、VC との間には全単射が存在する。従って 英文版ウィキペディア記事 "Axiom of limitation of size" での「規模制限の公理」の定式は、英文版ウィキペディア記事 "Von Neumann-Bernays-Godel set theory" での規模制限の公理の定式と一致するから、それはそれでよい。

しかし、一目で解るように、論理式中の Fは「全集合系 Vから C への1対1写像」を含意しない。正確に言えば、Fは「1対1」ではあるけれども、写像にはなっていないのだ。もう少し細かく言うなら、英文版ウィキペディアの文脈での始域(関係記号の左)と終域(関係記号の右)の捉え方に即するなら、Fが「1対1関係である」ためには「左一意的」であることが必要十分であり、更に、Fが写像であるためには「左全域的・且つ・右一意的」であることが必要十分である。しかし、この論理式が意味しているのは Fが「左全域的・且つ・左一意的」であって、ウィキペディア記事の文脈に即そうとすると、Fは「写像」でさえないことになる。

つい「一目で解るように」と書いてしまったが、草稿を読み直して、これでは不親切に過ぎると反省した。少し補足する (論理式が解かりやすくなるように括弧を補足しておく)。

上記の論理式を初めから読んで行くなら、C は着目している「類」であって、この C が「真の類」であるかどうかを判定することが問題になる。そこで \forall{C} で全体を括っている訣だ。

[\ ] のなかの最初にある \Longleftrightarrow の左側にある) \neg(\exists{W})(C\in{W}) は、C を要素とする如何なる「類」も存在しないことを意味する。『何らかの「類」の要素になっている「類」を「集合」と呼ぶ』と云うのがフォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル集合論 (及び、その派生形であるモース・ケリー集合論) での定義であるから、これは C が集合ではない「類」、つまり「真の類」であることを定義の側から表現したものである。

\Longleftrightarrow の右側は「規模制限」を判定する基準の内容を述べている。そのために関係性を規定する Fと云う「類」の存在を \exists{F} で要請して、その後の括弧内に Fが満たすべき2つの要件が記述されている。

そのうちの第1の要件は
(\forall{x})[(\exists{W})(x\in{W}) \Rightarrow (\exists{s})((s\in{C})\wedge(\langle{x,s}\rangle\in{F}))]
である。これは任意の「類」xに就いて、 (\exists{W})(x\in{W}) が成り立っているなら (\exists{s})((s\in{C})\wedge(\langle{x,s}\rangle\in{F})) が成り立つと云う意味だ。つまり (\exists{W})(x\in{W}) とは「類」xを要素とする「類」W が存在することを前提条件として要求している訣だ。しかし、それは「類」xが「真の類」ではなく「集合」であることだから、この第1の要件の内容は、任意の集合 xに対して \Rightarrow の右側が成り立つと云うことであることが解る。

要するに、「第1の要件」とは、「任意の集合 xに対して (\exists{s})((s\in{C})\wedge(\langle{x,s}\rangle\in{F})) が成り立つと云うことだが、これは、任意の集合 xに対して \langle{x,s}\rangleF の要素となるような C の要素 s が存在する」と云うことである。これは、 全集合系 Vと「類」C との間の関係 Fが「左全域的」であることを意味する。

第2の要件
(\forall{x})(\forall{y})(\forall{s})[((\langle{x,s}\rangle\in{F})\wedge(\langle{y,s}\rangle\in{F})) \Rightarrow (x=y)]
では、「類」を扱う集合論では、一般の「類」を表わす変数には大文字を用い、集合に限った変数を扱う場合には小文字を使うと云う慣習に基づいた記法が採用されていることに注意するならば、共通の集合 (つまり Vの要素) s に対して関係 F を満たす集合 (Vの要素) が2つあるように見える場合、それら x, y は実は同じものであることを意味する。これは関係 Fが左一意的であると云うことである。ただし、ここには問題点がある。それは F の終域が C に含まれること、つまり、変数 sC の要素であるべきことを指定し忘れていることだ。

纏めるならば、論理式全体としては、関係 Fは「左全域的・且つ・左一意的」であることを示し (しかも終域が C 内に限定されておらず)、従って「左全域的・且つ・右一意的」であるべき Vから C への写像とはならない。「ナンダカナァ」と呟きたくもなると云うものだ。

終域の問題は限定を補足すればよいし、Fも所謂「多価関数」・「多値写像」にはなっていると云う辯駁もあり得るかもしれないが、しかし、圏論での射が対象になっているのなら兎も角も、この局面で議論に「多価関数」・「多値写像」を含めるのは可訝しい。伝統的な数理論理学に即した議論をしているからだ。

ここらへんで、「結局フォン・ノイマンはどう言っておるのか」と、私が知りたくなったのは当然だろう。。。。と云う訣で、フォン・ノイマンの原論文 (John von Neumann "Eine Axiomatisierung der Mengenlehre" in Journal für die reine und angewandte Mathematik 第154巻 (1925年), pp.219-240) を覗いてみた (Gottinger Digitalisierungszentrum: GDZ からダウンロード可能)。

拾い読みしてみたが、内容がサッパリ分からない。だからと言って、どうやら内容の手ごわいらしいドイツ語の論文を最初から読んでいくのは正直言ってシンドイ。

困ってしまって、思い出したのは、英訳文が "From Frege to Godel: A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931 (Source Books in History of Sciences)" に収められているかもしれないと云うことだった。それなら、ふた昔も前に買ったのが、部屋の何処かに埋もれている筈だ。。。。と云う訣で、探しましたよ。そうしたら拍子抜けするほど簡単に見つかった (表題から窺える通り、ゲーデルの「不完全性定理」の論文の英訳も収録されているのだが、この前、ゲーデルに就いて [メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] 中の誤植その他] (2010年12月13日[月]) とか [メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] のある一節の微妙訳] (2010年12月25日[土]) とか書いた時は、面倒臭がって探さなかったのだ)。

英訳だと、通読するのに苦労するほどの分量ではないから、最初から読んでいったのだが、当初は面食らった。集合論の記法が、現在通常に見かけるものと全く異なっているのだ。それに、読み始めて気が付いたのは、フォン・ノイマンがこの論文の前に書いた "Zur Einfuhrung der transfiniten Zahlen" (英訳 "On the introduction of transfinite numbers" がやはり "From Frege to Godel: A Source Book in Mathematical Logic" に収められている) の知識も必要だった。まぁ、こちらの方は、整列集合と順序数に就いての基本を述べたもので必要な情報自体は、ザッと読むだけで済んだけれども (ついでに書いておくと、取っ付きの良さ・悪さの違いはあるものの、どちらの論文も大変面白かった。「『あざやかな問題解決』の見本」のようなところがある)。

なお、この記事の草稿をかなり書き進んだ段階で、"Zur Einfuhrung der transfiniten Zahlen" の内容がウェブ上で公開されていることに気が付いた。内容はチェックしていないが、一応リンクを貼っておく (Zur Einfuhrung der transfiniten Zahlen)。

その結果解ったのは、フォン・ノイマンの記法は独特なので、「集合」と「類」ではなく、「引数」と「関数」とで集合論を構築していて (それは、公理的集合論の教科書で読み知っていた話だったが、私の凡庸な予想を超えて徹底していた)、その関数と引数を、LISP を連想させる括弧 (ただし角括弧) [\ ] を用いた形になっていたことだった。そして、「関数」は「類」に該当するが、「引数」は、微妙に「集合」概念からズレる。「集合」に該当するのは、「取り敢えず」は、「関数」にもなり「引数」にもなる "Ding" なのだ (実は、丸括弧 (\ ) も用いられる。ただし、こちらは、「引数」の順序対を表現するためのものである)。

"Ding" は、対応英語は "thing" のドイツ語で、この論文の文脈だと、「対象」とでも訳すしかないので、用語「対象」を使って説明すると、フォン・ノイマンは引数となりうる対象を「第 I 種」、関数となりうる対象を「第 II 種」、引数でも関数となりうる対象を「第 I-II 種」と呼んでいる。公理上の表現には「関数」又は「引数」と云う言葉は出てこない。そして、記号 [a\ x] があった時 a は第 II 種対象でなければならず、xは第 I 種対象でなければならない。そして、 [a\ x] そのものは第 I 種対象になることが公理になっている (これに対して (a\ x) と云う記号は a, x 共に第 I 種対象の時にのみ意味を持ち、 (a\ x) 自身も第 I 種対象になる)。これは公理的集合論を「関数」と「引数」と云う概念で構成する際には当然の処理だろうが、「拾い読み」には向かない書き方ではあるだろう。

そして、第 I 種対象であり第 II 種対象でもある (それが「第 I-II 対象」と呼ばれる) は、2つだけの「関数値」を有する第 II 種対象として特徴づけられる。この第 I-II 対象の働きを表現する為に、特別な第 I 種対象である A の存在が公理になっている (同時に A と異なる第 I 種対象 B の存在も要求されている)。実は、 a を第 I-II 対象とし xを第 I 種対象とすると、 [a\ x] は論理式 x\in{a} に対応する。そして A は謂わば「エラーコード」なので、 x\notin{a} の時、そしてその時にのみ [a\ x]=A となるのだ。逆に言えば [a\ x]\neq{A}x\in{a} を意味する。

実は、フォン・ノイマンは論文の最後のほうになって、そこまで彼が検討してきた公理系が、広範過ぎて規範性をもつことができないとして、「全ての第 I 種対象は第 II 種対象である」と云う公理 VI.1 を付け加えている (p.238 の下から6行目)。

これだけの準備の後なら、次の公理{IV-2}の含意は明確であろう。

IV 2. Ein II. Ding a , ist dann und nur dann kein I.II. Ding, wenn es ein II. Ding b gibt, so daß zu jedem I. Dinge x ein y mit [a\ y\neq{A}, [b\ y]=x existiert.
--p.225, ll.7-5 from the bottom
[訳註:] 原文の [a\ y\neq{A}[a\ y]\neq{A} の誤植と思われるので、訳文ではそのように訂正してある。

IV 2. ある第 II 種対象 a が第 I-II 対象でないための必要十分条件は、任意の第 I 種対象 xに対して、 [a\ y]\neq{A} である yで以って [b\ y]=x を満たすようにする第 II 種対象 b が存在することである。

つまり、これが所謂「規模制限の公理」なのである。これを、用語「類」と「集合」を使ってパラフレーズするなら:

「類」a が集合ではない、つまり「真の類」であるための必要十分条件は、 a から全集合系への写像 b で、任意の集合 xに対して、 a の要素である集合 yを対応させる (x=b(y)) ようなものが存在すると云うこと、つまり a から全集合系への全射 (b) が存在することである。

これを論理式として表わすなら、こうなる (Vで全集合系を表わす):

\begin{eqnarray*}
 &&\forall{C} \Big[\big[\neg(\exists{W}){(C\in{W})}\big] \Longleftrightarrow \big[(\exists{F})(F\subset(C\times{V}))\wedge\\
&&\big[[(\forall{s\in{C}})(\exists{x\in{V}})((s,x)\in{F})]\wedge\\
&&[(\forall{s\in{C}})(\forall{x\in{V}})(\forall{y\in{V}})[((s,x)\in{F})\wedge((s,y)\in{F}))\Rightarrow(x = y)]]\wedge\\
&&[(\forall{x\in{V}})(\exists{s}\in{C})((s,x)\in{F}))]\big]\Big]
\end{eqnarray*}

ちなみに、「真の類」から全集合系への全射についてはフォン・ノイマンも明言している (彼の流儀に従えば「真の類」と云う言い方ではなく、第 II 種対象 a に就いて [a\ x]\neq{A} となることが「多すぎる」と云う言い方になっている)。

Dabei präzisieren wir dieses ,,zu oft'' folgendenmaßen:
  Diese ,,Funktion'' a wird dann und nur dann nicht ,,Argument'' sein, wenn die Gesamtheit der Argumente x, für die [a\ x]\neq{A} ist, auf die Gesamtheit aller Argumente überhaupt abgebildet werden kann. (Die Abbildung muß aber durch eine unserer ,,Funktionen'' erfolgen, d.h. sie muß die Form y=[b\ y] haben. Eindeutig muß sie sein, eindeutig-unkehrbar zu sein braucht sie nicht.) (Siehe Axiom IV.2.)
--p.223 ll.7-13
[訳註:] 原文の y=[b\ y]y=[b\ x] の誤植と思われるので、訳文では訂正しておいた。

ここで、「多すぎる」の意味を以下のように明確にしておく:
  この「関数」a が「引数」にならないための必要十分条件は、 [a\ x]\neq{A} となる引数 xの全体から全ての引数の全体上への写像が存在しないことである。(ただし、この写像は、我々が言うところの「関数」によって実現されねばならない。つまり、それは y=[b\ x] と云う形をしている必要がある。それは一価でなければならないが、単射である必要はない。) (公理 IV.2 参照)

つまり、フォン・ノイマンの当初の定式では、「規模制限の公理」は、「類」C が「真の類」であるための必要十分条件として C から全集合系 Vへの全射の存在を要求するものだったのだ。勿論、「全射版」であっても「規模制限の公理」は有効に機能する。

実際、例えば「全射版」から大域選択公理を導くには、C を全順序数系として、C から Vへの全射を$f$とする時、任意の集合 s に対して$f(x)=s$となる順序数 x が少なくとも1つ存在する。そうした順序数のうち最小のもの$m(s)$の選択は、C が全順序数系であることから選択公理を用いずに可能である。そこで、 s に順序数$m(s)$を対応させるなら、全ての集合に一意に順序数を対応させることができ、従って、順序集合として全順序数系の部分順序集合 (これは整列集合になる) と順序同型となるから、全集合系は整列可能である。従って、整列可能定理と選択公理の等価性により、全集合系での選択公理、つまり大域的選択公理が導かれるのである。

以上をまとめると、英文版ウィキペディアの記載の不備に関らず、それを補正するなら「単射版」も「規模制限の公理」としては有効であって、「類」C が「真の類」であるための必要十分条件として、次の3つは等価である:

  1. C から Vへの全射が存在する。
  2. Vから C への単射が存在する。
  3. CVとの間には全単射が存在する。

そして「規模制限の公理」から大域選択公理を導くだけなら、上記の3つの定式に優劣はない。

集合での「濃度」又は「基数」は、集合間の単射を用いて、集合間の順序関係も規定することで定義するのが一般的であるから、もし「単射版」の「規模制限の公理」を用いるなら、「濃度」(「基数」) の定義を「類」に迄拡張するなら、定義から直接『「類」が「真の類」である為の必要十分条件は、その「類」の濃度が、全集合系の濃度と等しいことである』が導き出せる。

しかし、それでも、私は「全射版」の方が、公理として優れていると思う。何故なら、「全射版」によるならば、「規模制限の公理」から「置換の一般公理」(したがって、「特殊化の一般公理」) を導く場合には、選択公理を用いなくてもすむと云う利点が存在するからである (勿論、「全射版」であると否とに関らず、規模制限の公理から大域選択公理をが言えるので、まず、大域選択公理を導いてから、「置換の一般公理」や「特殊化の一般公理」を導けば良いと云う議論も可能であろうが、公理の導出からは「依存関係」はできる限り排除した方が良いと私は思う)。

なお、圏論では、この「規模制限の公理」は「置換の公理」として言及されることがある、例えば "Abstract and Concrete Categories: The Joy of Cats" の第15ページでは、集合論における "Axiom of Replacement" として

there is no surjection from a set to a proper class.
集合から「真の類」への全射は存在しない。
--J. Adámek et al. "Abstract and Concrete Categories: The Joy of Cats" p.15, l.9

が掲げられている。

なお、フォン・ノイマンの論文 "Eine Axiomatisierung der Mengenlehre" 中、上記のほかにも、次の部分は誤植と思われる:

  1. p.230 の下から15行めの (x,y)(x,y)_{\Sigma^{\prime}} の誤り。
  2. p.232 の11行めの "alle II. Dinge" は "alle I. Dinge" の誤り。

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