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[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] (2011年6月10日[金])の訂正

本ブログの記事 [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] (2011年6月10日[金])で、私は、こう書いた。

日付が変わってしまったので、昨日の話になるが、先程、1日遅れでたまたま手にした「2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 (東京本社13版)」を流し読みした所、[天声人語] がこう始まっていた (現時点では、同内容の物がウェブ上の [asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2011年6月8日(水)] で見ることができる) ([ゑ]引用時補足:現在ではリンクが切れている)。

〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉。ゲーテの言葉である。目的地が定まらないと足取りが重くなる。そんな意味だろう。逆に、確かな目標があれば急坂や回り道をしのぎ、転んでも起き上がり、大きな事を成せる
--2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 (東京本社13版) 第1面 [天声人語]

これを読んだ時の、私の感想は「ヤッチマッタナー」(© クールポコ) と云うものだった。箸にも棒にも掛からない詰まらないことを「したり顔」(最近は「ドヤ顔」と謂うらしいが) で書いてある。大体、「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」では警句にならない。「当たり前」にさえなっていない。当たり前の日本語を使いたいなら、せめて「行き先を決めない限り、遠くまで行くことはできない」ぐらいにしろよ、と言いたい。

浩瀚なゲーテの著作の中の何処かで、そんなことも書かれているかもる知れないが、そして私はまことに無教養で無知蒙昧ではあるが、私の知っているゲーテは、「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」とは言ってはいない。少なくとも、私が子どもの時に読んだ小辞典 (福音館書店刊であったか、昭文社刊であったかだと思う) の巻末についていた名言集では、そんなことを言っていなかった。うろ覚えだか、こんな感じだったのだ。

人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない。

(子どもだった私にも、これが「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」ぐらいの意味だと云うことが感じられた。)
(以下略)

しかし、この「私が子どもの時に読んだ小辞典 (福音館書店刊であったか、昭文社刊であったかだと思う) の巻末についていた名言集では、そんなことを言っていなかった。」は、私の記憶違いだったのだ。

その後、自宅にある段ボールの山の中に詰め込んであった私のシガナイ「蔵書」から出てきた、福音館書店 [ことわざ 故事金言 小辞典] (編者: 江藤寛子/加古三郎。1957年) の巻末の [金言・名句集] には、そうした文言は見当たらなかったからだ (「昭文社刊」は、誤り。福音館書店版が出てきた時の「これだ! 」と云う懐かしさは、余人には共感していただけないと思う。中学生の頃の私の [愛読書] だったのだ)。

福音館書店の [小辞典シリーズ] は、そのころ、小遣いをつぎ込んで、かなり買い揃えたが、身の憂き節の間ハザマに、大部分を「処分」してしまった。本・雑誌を [捨てる] ことに、生理感覚的な苦しみを覚える人間としては、「処分」と云う言葉さえ恨めしいが、そうした思いも時間は押し流してしまう。「これだけは」と取っておいた [ことわざ 故事金言 小辞典] も、結局は、[本の山] の中に紛れ込んでしまっていた。

まぁ、老人となった今では、「処分」は正解だったと、中年の頃の私に声ならぬ声をかけるしかない。買い揃えただけで、ほぼ読むことはなかった、それらの [雑書] の前に「取り敢えず読まなければ基本的な書籍」が、あと何回生まれ変わったとしても足りないくらいあるのだから。

しかし、僥倖により見出した [あの本] の中に目当ての文言が見当たらないのは、どうしたことだろう。索漠たる思いに一瞬とらわれたが、結局、そのままになった。「取り敢えずしなければならない野暮用」が山積している身としては、感慨に耽っている暇はないのだ。

ところが、偶然と云うものはあるので、その後しばらくしてから、やはり本の堆積の中から出てきた [懐かしい一冊] (書き込みを見ると、高校三年の3月27日に購入したものだ。私としては珍しく、読了日の書き込みがあって、購入当日である。卒業式が終わって、大学入学迄の間、暇だったのだな)

岩波新書 青版730 [エスプリとユーモア] (著者: 河盛好藏。1969年)

を、旧友に再会した思いで披見していると、いきなり出てきたのだ。ただし、ゲーテの言葉としてではなく、タレイラン=ペリゴールの言葉として

「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くにゆくことは決してない。」

[あぁ、これだったか] と、廻りまわって釈然とした。

少し脱線すると、つまり『これが「目的地が明確でないと、とんでもないところに彷徨っていくことになる」か、或いは「目的地に縛られない時こそが、もっとも遠くまで進むことができる」ぐらいの意味だと云うこと』を感じた「私」は、18歳だったのだ。さすがに、「子どもだった」とは言いづらい年齢である訣で、この点も間違っていた。

その時、すぐに訂正をアップすべきだったのだろうが、単に訂正ではなく、ある程度しっかりした補足を行うべきだろうと、つまらぬ色気を出したために、放置したまま、延々と遅れてしまった。ところが、最近新しく記事を書こうとして、簡単にかけそうな話題が全くないことに気が付き、ツメクサ代わりに、こうして訂正のみの記事を書いているという訣だ。

[エスプリとユーモア] の問題の箇所を、その前の部分から引用しておこう。今、読んでも面白いので、やや長めになる (この本は、現行の言葉遣いでい云う「コピペ」と云うか、「マトメ」でできたようなものだが、そのことを、とやかくは言うまい。私自身が、このブログで類似のことをしていると云うこともあるが、概括的な情報を纏めることには、十分な意味があるからだ)。ただ、引用するだけでは曲がないので、ネットで見つかった対応するフランス文を挿入しておく、最後の3つの bon mots を除けば、同一の書物 "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots" (Louis Thomas. Les Bibliophiles fantaisistes, 1909) 「タレイラン殿の機知: 逸話と警句」(ちなみに、彼は伯爵家の長男だったが、ある事情で家督を継ぐことなく、僧籍に入った。彼が時に「オータンの司教/l'évêque d'Autun」と呼ばれることはあっても、「タレイラン伯爵」とは呼ばれないのは、そのためである) で見出せる。これが [種本] かもしれない。

フランスの政治家に鋭いエスプリの持主の多いことはすでに書いたが、その代表的な天才はタレーランであったことは通説になっている。彼の名文句を集めた本はいろいろあるが、その言葉の矢を少し紹介してみよう。

彼はある若い外交官に向かっていった。「言葉というものは、自分の考えをかくすために、人間に与えられたものであることをを覚えておきたまえ。」
Un jeune auditeur au Conseil d'Etat, admis chez M. de Talleyrand, parlait de sa sincérité et de sa franchise.
« Vous êtes jeune, lui dit M. de Talleyrand ; apprenez que la parole a été donnée à l'homme pour dissimuler sa pensée. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文では、"Un jeune auditeur au Conseil d'Etat" 「国務院 (参事院とも) の新人評議官」ぐらいだろうから、「外交官」とはニュアンスが異なる。ただ、時代によっても意味合いが異なっている可能性はある。

ナポレオンの死をきいたとき、
「十年前なら大事件だったろうが、現在では単なるニュースにすぎないね。」
Quand on annonça à M. de Talleyrand la mort de Napoléon : «C'est une nouvelle, dit-il; ce n'est plus un événement. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文には「十年前」と云う言及はない。それから、"une nouvelle" は、「ニュース」とするのは微妙。「通知」とか「情報」ぐらいになると思う。実は、タレイランの口ぶりは、かなりそっけないのだが、その「そっけなさ」を出すのが意外と難しい。特に "n'est plus" を言葉として訳すと、訳文内の力点が、本来あるべきところからずれてしまう。「『情報』の一つだね。『事件』ではない。」ぐらいだろう。

ある日、友人のナルボンヌと散歩していると、彼はいろいろの情報をさかんに教えてくれる。そのとき偶然二人のそばを通った男が大きなあくびをした。それを見たタレーランはいった。
「君、声が大きすぎるようだぜ」
Le comte Louis de Narbonne, un de ceux que M. de Talleyrand aima le mieux, s'il aima quelqu'un, se promenait avec lui en récitant des vers de sa façon.
M. de Talleyrand aperçut un promeneur qui bâillait :
« Regarde donc, Narbonne, dit-il à son ami, tu parles toujours trop haut. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文 "en récitant des vers de sa façon" は「いろいろの情報をさかんに教えてくれる」と云うより、「独特な節回しで詩の朗誦をした」だろう。

スタール夫人は、彼女ともう一人の女性のどららか好きかと知りたいと思って質問した。
「もしあのかたと二人で河のなかへ落っこちたら、どらちらを先に助けて下さいますか。」
「わかってますよ、奥さん、あなたが水泳の名人でいらっらしゃることは」とタレーランは答えた。
Madame de Staël, qui partageait avec Madame de Flahaut les préférences de M. de Talleyrand, voulut un jour savoir de celui-ci laquelle des deux il aimait le mieux. Madame de Staël insistait beaucoup sans pouvoir obliger le galant abbé à se prononcer.
« Avouez, lui dit-elle, que, si nous tombions toutes deux ensemble dans la rivière, je ne serais pas la première que vous songeriez à sauver?
— Ma foi, madame, c'est possible, vous avez l'air de savoir mieux nager. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

「わたくしども二人が、一緒に川に落ちたら、貴方が最初に助けようと思うのは私ではないとお認めなさいまし。」
「マダム、正直に申して、それはありそうなことですな。貴方は、泳ぎがお得意でいらっしゃるようお見受けいします。」
フランス文では、タレイランは「水泳の名人でいらっらしゃる」と云う直截な言い方をしていない。
ちなみに、スタール夫人ももう一人の女性 「フラオ夫人」 も、タレイランの愛人だった。勿論、二人ともタレイラン以外の男性を「夫」を持っていた (二人とも「夫人」である。ただし、当該文献内での呼称が統一されていて、この逸話の当時は未婚だった可能性はある)。かれは艶福家だったのだ。この他にも、画家ドラクロア (Eugène Delacroix) の実の父親が彼だったと云う話は、かなり信じられている (ドラクロアの戸籍上の父親シャルル・フランソワ・ドラクロア Charles-François Delacroix は、タレイランの前任外務大臣)。
外交官・艶福家としてのタレイランに就いては、中公文庫 [タレイラン評伝] 上下2巻 (著:ダフ・クーパー。訳:曽根保信。1979) を参照のこと。

この外交官からしばしば馬鹿にされたスタール夫人は、いかなる政体にもうまく立ちまわる彼のことを、頭がコルクで足が鉛で作られた、いくら投げてもすぐ起き上がる、おきあがりこぼしにたとえていた。

不確実なニュースとして、イギリスのジョージ三世の死がパリに伝えられたとき、ある相場師がタレーランのところへ真相をききにやってきた。この外交官は次のように答えた。
「あるものはイギリス国王が死んだというし、また別の情報は国王が死んでいないという。僕としてはこのどちらも信用しないんだ。しかしこれは君にだけ内密に知らせるんだから、ひとにしゃべって貰っては困るよ。」
Un spéculateur lui demandant s'il était vrai que le roi d'Angleterre fût mort,
M. de Talleyrand répondit: « Les uns disent que le roi d'Angleterre est mort, les autres disent qu'il n'est pas mort. Pour moi, je vous le dis en confidence — surtout ne me trahissez pas! — je ne crois ni les uns, ni les autres. »
--Full text of "L'esprit de M. de Talleyrand : anecdotes et bons mots"

フランス文では、後半、順序が違っていて、ちゃんと落ちが付いている。「英国王は死んだと言う者もいれば、死んでいないと言うものもいる。私の意見を君だけに打ち明けると -- 絶対他言は無用だよ -- どちらも信じていないのさ。」

タレーランの言葉を少しばかり。
「中傷よりもっとおそろしい武器がある。それは真実だ。」
「私は自分と同意見でない人は許すが、彼自身のもっている意見に一致しない人間は許せない。」
「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くへゆくことは決してない。」

--岩波新書 青版730 [エスプリとユーモア] (著者: 河盛好藏。1969年) pp.112-114

上記引用中のタレイラン=ペリゴールの言葉の最後の3つの原文は、次のとおりである。

「中傷よりもっとおそろしい武器がある。それは真実だ。」
"Il y a une chose plus terrible que la calomnie, c'est la vérité."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde

フランス文では「武器」と云う言葉は使われていない。単に「もの (chose)」である。

「私は自分と同意見でない人は許すが、彼自身のもっている意見に一致しない人間は許せない。」
"Je pardonne aux gens de n'être pas de mon avis, je ne leur pardonne pas de n'être pas du leur."
Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Ses citations - Dicocitations & Le Monde

「自分と同意見」より「私と同意見」の方が良かろう。

「どこへゆくかわからないときほど人間は遠くへゆくことは決してない。」
"On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va."

問題は、この3つ目である。

確認できる資料が少ないのだ。例えば、"Mes citations en vrac: Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord" と云うウェブページに見出されるのだが、これだけでは心もとない。ただし、これとは、別に、閲覧が不自由な形であるとは言え、google books に収められている Des enjeux éthiques pour demain - André Beauchamp の p.104 には、

Mais la lucedité cynique de Talleyrand nous prévient: « On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va! »
しかし、頭脳明晰な冷笑家タレイランは、「人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない」と、我々に教えてくれている。
と云う記述がみられる (ちなみに、この文章は、科学技術の倫理問題を論じているらしい。)

後はここで指摘するには「喰い足りない」ものが、幾つかあっただけだった。それでも、一応、これで一件落着したと言いたいところだ。ところが、そうは簡単に問屋が卸してくれなかった。

実は、"On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va." をネットで検索すると、これをタレイランの言葉としてではなく、クリストファー・コロンブスの言葉だとするサイトや、さらには、Antoine de Rivarol (Antoine Rivaroli) と云う人物と云うサイトまであって、訣が分からなくなった。

結局、クロムウェル (Oliver Cromwell [1599年4月25日 - 1658年9月3日])と、タレイラン (Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord [1754年2月13日(2月2日説も) - 1838年5月17日])と、ゲーテ(Wolfgang von Goethe [1749年8月28日 - 1832年3月22日])との三人 が、ほぼ同一の発言

a man never goes so far as when he doesn't know where he is going. クロムウェル
On ne va jamais aussi loin que lorsqu'on ne sait pas où l'on va. タレイラン
man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht. ゲーテ
をしているとされているだけでなく、コロンブス他一名も乱入してきてしまい、「英仏独そろい踏みで、話が良くできてらぁ」と笑っていられなくなった。なにしろ、コロンブスはイタリア生まれだといわれ、それがポルトガル・スペインと流れていったらしいから、なにやらタチの悪い冗談でも聞いているようで、嫌気がさしてきた。

と云う訣で、これ以上調べるのは、当面やめにしておく。再開するにしても何年先になることやら。。。 (鬼の哄笑が聞こえてくるようだ)

最後に、タレイランの言葉を調べているうちに、検索に引っかかったものを幾つか列挙しておこう。

"Les femmes pardonnent parfois à celui qui brusque l'occasion, mais jamais à celui qui la manque."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
女は、好機をもぎ取る男を許すことはあっても、好機をつかみ損ねる男は決して許さない。

"Ne dites jamais du mal de vous; vos amis en diront toujours assez."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
君は自分の欠点なんか一切言わんでいいのさ。そんなことなら、君の友達が常々たっぷりと言っているよ。

"Café : Noir comme le diable Chaud comme l'enfer Pur comme un ange Doux comme l'amour."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
コーヒー : 黒きこと悪鬼の如く、熱きこと地獄の如く、清澄なること天使の如く、甘美なること恋愛の如し。

"La vie serait supportable s'il n'y avait pas les plaisirs."
--//evene.lefigaro.fr/citation/
快楽と云うものが無くなってさえくれたなら、人生は、我慢しうるものになるだろう。

"En politique, il n'y a pas de convictions, il n'y a que des circonstances."
--Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Ses citations - Dicocitations & Le Monde
政治においては、信念などと云うものは存在しない。あるのは、情勢だけである。

"Pas de zèle!"
--Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
「熱心」禁止!

"Dans les temps de révolutions, on ne trouve d'habileté que dans la hardiesse, et de grandeur que dans l'exagération."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
革命の時代、人々は、大胆な行為の中のみに技巧を感じ、誇張の中のみに偉大を感じていた。

"En France nous avons 300 sauces et 3 religions. En Angleterre, ils ont 3 sauces mais 300 religions."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
我がフランスでは300種類のソースと3種類の宗教がある。しかし、かの英国では、3種類のソースに対し300種類の宗教がある。

"Il y a trois sortes de savoir: le savoir proprement dit, le savoir-faire et le savoir-vivre; les deux derniers dispensent assez bien du premier."
--Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
知識には3種類あるのだ: 本来の意味での「知識」と、「行為の知識」と、「人生の知識」だ。後の二つがあれば、最初の一つはなくても十分に足りる。

"Qui n'a pas vécu dans les années voisines de 1780 n'a pas connu le plaisir de vivre."
--Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Citations de Charles Maurice, prince de Talleyrand-Périgord - Dicocitations & Le Monde
1780年頃を生きたことがないものは、「生きる歓び」を経験しなかったと云うことだ。

"Le meilleur auxiliaire d'un diplomate, c'est bien son cuisinier."
--Citations de Talleyrand - abc-citations
外交官にとって、彼の優秀な料理人が、最良の懐刀である。

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パスカルのパンセ中の一節「完全な静止は死である」に就いて

本日と言っても、午前1時過ぎ (2012/06/07 01:09:45)、キーフレーズ [パンセ 完全な静止は死である 英語] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

この「完全な静止は死である」は "complete rest is death." と英訳されるのが普通のようだ。ただし、これには前段があって、それは "Our nature consists in motion;" になっている。

たまたま、手元に中公文庫版の [パンセ] があったから、それを参照してみると

われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。
--中公文庫 [パンセ] (パスカル。訳者:前田 陽一、山本 康) p.88 (第2章 [神なき人間の惨めさ]129)

とされている。ただし、勿論、原文はフランス語で

Notre nature est dans le mouvement; le repos entier est la mort.

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ドイツ語と英語の初歩。または、私は如何にして心配するのを止めて [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] 補足を書くことになったか

[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」: nouse] (2011年6月10日[金]) を書いた時、そのうち、ゲーテの研究者ならずとも、どこの誰かが、問題の2011年6月8日付けの [天声人語] の文章に対して、議論の精粗はあるにしても何らかの形で「間違いの指摘」をするだろうと思っていた。

言葉に対しまともなセンスを持っている者が、「天声人語」中の「ゲーテの言葉」(〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉) を読んだなら、それが警句の態をなしていないことに気づく筈で、そして読者がドイツ語又は英語に若干の知識があって、自分が感じた違和感から、「ゲーテの言葉」の出典を調べたとするなら、容易に、英文で

One never goes so far as when one doesn't know where one is going.
Letter to Karl Fiedrich Zelter [December 3, 1812]
--"Bartlett's Familiar Quotations" (16th ed. 1992) p.350
--Johann Wolfgang von Goethe - Wikiquote

なり、ドイツ語文で

man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht.
An Carl Friedrich Zelter. Weimar d. 3. December 1812
--Goethe, Johann Wolfgang, Briefe, 1812 - Zeno.org
--Johann Wolfgang von Goethe: Maximen und Reflektionen - Allgemeines, Ethisches, Literarisches - X.
--Man geht nie weiter, als wenn man nicht mehr ... - Johann Wolfgang von Goethe | Aphorismen-Archiv

なりに辿りつけただろう。だとするなら、本来の「ゲーテの言葉」と天声人語版の「ゲーテの言葉」とでは、「意味が殆ど真逆」(何故『殆ど』と付けるかと云うと、天声人語版を読んで、私は「何が言いたいのだろう」と思ってしまったからだ。「意味不明」なのである。あれを、何の疑問もなく読み通せる人は、「スゴイ」と思う) であることが解るだろうから、その内の一部であるにしても「つぶやく」ぐらいのことはするだろうと思っていたのだ。

特に、引用句辞典に採録されているような「ゲーテの言葉」が、所謂「全国紙」の一面で、根本的に間違って解釈されたのを放置するのは、ゲーテ研究者としての自分達の存在意義を自ら否定することになりかねないと、少なくとも一部のゲーテ研究者は考えて、それを防ぐ意味で何らかの意見表明をするだろうと、私には思われた。

しかし、ネットで見られる限り、そのようなことは、これまで起こらなかったようだ。

私のリアルタイムの情報は、現在実質的にネットに限られているから (新聞は定期購読していない。また TV は観るが、「リアルタイムな情報源」にはなっていない)、ネットに反映されていない現象を私が捉まえられないだけでいるかもしれない。あるいは、「ゲーテ研究者」なるものが、所謂 digital divided であるかもしれない。更に、あるいは、「ゲーテ研究者」は新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていないのかもしれない。

しかし、「ゲーテ研究者」自体がネット環境とは疎遠な所で活動しているとしても、その周囲には、それなりにネット社会に参入している人々がいるだろうから、その人々を経由して、ゲーテ研究者間に発生した「さざ波」が、全くネットに反映しないことは考えにくい。だから第1のケースと第2のケースに起因して、「ゲーテ研究者」の反応が不明だと云うのは解しがたい。

この第3のケースのうち「新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていない」は、意外と有りうるかもしれないと、チラリと思った。私自身、そのようなことがあるからだ。

私が実際に目にすることが多い新聞コラムが「天声人語」であるために、この話題に繋がった訣だが、総じて新聞のコラム、特に所謂「第一面コラム」は詰まらない。細かい分析をしたことがなかったので、今たまたま思いついた形容をすると、イメージとての「オジサンのスピーチ」の詰まらなさだ (やはり、今気が付いたことは、私は、或る意味「オジサンのスピーチ」を聞かないような「人生の選択」をしてきたから、これは完全な食わず嫌いなのだが)。「知性と感性が爆睡している人間の寝言」とでも言いたいところがあるのだ。

論旨が逸れかねないが、一応書いておくと、「読むに耐える」と言うべき文章が書かれることあることは認めておく。これは、担当者の違いに拠るのかもしれない。

議論が取り散らかりそうだが、もう一つ付け加えておくと、私は [オジサン] をアナガチ否定するものではない。斯く言う私も [オジサン] である。ただし、[オジサン] は [スピーチ] をしてはならないと思っている。[オジサン] と [スピーチ] には相容れないものがあるのだ。そして、「日本の」と修飾語を付けるべきかどうか、わからないが、新聞のコラムでは、[オジサン] が [スピーチ] をしていることが多いのだ (言うまでもなかろうが、この [オジサン] は生物学的・医学的な意味での [ヒト・オス・成体] ではない)。

しかし、思い返すなら、私自身、「天声人語」を読んで、シバシバ「相変わらず詰まらないな」と思っても、別段読まなくなっている訣ではないし、また、その間違いに対して、このようにして反応している。つまり、私も「天声人語」と云う新聞コラムを、私なりに「重要視」している、と言うか、無視していない訣だ。その私が、「ゲーテ研究者」は「新聞のコラム、あるいは、少なくとも『天声人語』を重要視していない」あるいは「無視している」と結論するには、何らかの補強的な証拠が必要だろう。しかし、私はそのようもものは持っていない。

あと、もう一つ、朝日新聞又は「天声人語」担当者と、「ゲーテ研究家」とが「仲良し」で、「身内の恥は隠蔽する」と云うことがあった可能性もあるな。。。などと、まぁ、こう云うのは「ゲスの勘繰り」と呼ぶべきなのでしょうな。

だが、段々心配になってきた。事は、一私企業の一人又は何人かの社員 (朝日新聞が「天声人語」の作成を外注していると云う可能性はないとは言えないかもしれないが、そう云うことを含めて「社員」と呼んでおく) の失敗ではなくて (それならば、理念としては、必要な訂正作業をして、検証し、それが「重大な失敗」であったら、再発防止策を取れば良いだけのことだ)、「ゲーテ研究者」と呼ばれるべき人々の存在意義に関わってしまっているからだ。

我ながら、「大きなお世話」だと思ったが、取り敢えず、fact finding の為に、久しぶりにヤヤ遠方にある大きめの図書館に行ってきた。ゲーテ全集を見て、「ゲーテ研究」の現状の一端を知りたかったのだ。現在、市場に流通している「ゲーテ全集」は [潮出版社] 刊のものだが、やはりそれが開架に並べられていた。問題のカール・フリードリヒ・ツェルター宛の1812年12月3日付けの書簡は第15巻に収められていたことは収められていたのだが、部分訳で目的とする部分の翻訳が省略されていたのは残念だった。

しかし "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." と云う警句は、上記にもあるように、後人の編集になるゲーテの警句集である "Maximen und Reflektionen" (「箴言と省察」) にも収録されているので、その翻訳が入れられいてる第13巻の方を当たってみた。これも部分訳で、しかも順番が編集されていいるようだったが、流し読みしていくと、その最後のページに次のようなものが発見できたのだ。

もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない。
--[ゲーテ全集第13巻] p.414 (新装普及版。東京 2003年 潮出版社)

うーん。これはやはり "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." の「翻訳」の積もりでしょうな。しかし、あからさまな誤訳である。

と云う訣で、決心がついた。わざわざ説明するまでもないと思って、していなかったドイツ語に就いての初歩的な注意を試みる。

以下、2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] を単に「天声人語」、その作成者を「天声人語子」、そして、潮出版社刊 [ゲーテ全集第13巻] 中の p.414 で「もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない」部分を担当した翻訳者を、「ゲーテ研究家」と呼ぶことにする。「ゲーテ研究家」に就いては全体と個人との均衡を欠くかの如くだが、「天声人語」への反応が見られない状況では、あながち「過度の同一視」とも言えないものがあるのではないか。

ドイツ語において (並行したことが英語でも言えるが)、形容詞又は副詞の比較級を用いて不等比較を表す時は、"als" の前後に「比較対照」が示される。ただし、この「比較対象」(「比較対照」の対象、何だかめんどくさいな ) は単純な名詞とは限らず、節文で表わされる「状況」であることもあり、さらに節文から適宜一部省略して「肝心」な部分だけが残されることも多い。例文を小学館の [独和大辞典第2版] から、原文の「~」を "als" に戻した上で引用すると

Er ist älter <nicht älter> als ich.  彼は私よりも年上だ <ではない>
Er ist viel <weit> älter, als ich gedacht habe.  彼は私が思っていたよりもはるかに年をくっている。
Sie ist mehr shön als klug.  彼女はあまり賢くはないが美人だ。
Sie versteht mich besser als du <dich>.  彼女の方が君よりも私を <彼女は君よりも私の方を> 良く理解してくれる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

そして、「比較対照」は wenn から始まる節文であっても良い。やはり [独和大辞典第2版] から引用すると

Die Welt hat mehr Nutzen, wenn er shreibt, als wenn er liest.  彼には読書するより著作をしてもらった方が世の為になる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

これを踏まえて「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」と云う形の文が、どのような意味になるか説明すると、「動詞」を修飾する「副詞」の意味する「状態の程度」は、如何なる場合にあっても、「wenn 節」が成り立つ状況における「状態の程度」を超えることが決してないと云うことなのである (ちなみに "nie" は、英語の "never" と同様「決して・・・しない」ぐらいを意味する否定詞)。つまり、「wenn 節」が成り立つ状況において、「状態の程度」が最高になると云う、最高級表現の代替表現なのだ。

ここで、「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」の例文をネット上で探してみたが、"geht nie weiter, als wenn ..." では「ゲーテの言葉」ばかりがヒットするので、副詞部分を変更して検索してみると、例えば、Karl Kraus は "Nachts" と云う警句集の "1915" と云う章に

Das Übel gedeiht nie besser, als wenn ein Ideal davorsteht.
--Karl Kraus - Aphorismen: 1915 - Spruche
--Projekt Gutenberg-DE - SPIEGEL ONLINE - Nachrichten - Kultur

と書いている (英語の "well" の対応語で「良く」とか「十分に」とかを意味する"wohl" の比較級 "besser" が用いられて "gedeiht nie besser, als wenn ..." の形になっていることに注意) が、これは

何かの「理想」が実現しようとする時ほど悪がはびこることはない。

と云う意味だろう。

意地悪なようだが、これを「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」してしまうと

理想が実現すると悪は栄えなくなる。

となるが、これでは「知性のひらめき」が消えうせて、「鈍感な官僚/政治家の答弁」風、と言うか、やはり [オジサンのスピーチ] になってしまう。

副詞 "wohl" の比較級には "besser" の他に "wohler" という形のものもある。これは「健康である」とか「気分が良い」と云う意味だが、それを用いた例文としては、エドガー・エーラー (Edgar Oehler) と云うスイスの実業家に就いての記事に

«Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite», sagt Oehler, auf diese Einschätzung seiner Freunde angesprochen. Das einzige Hobby, das er sich gönnt, ist eine Modelleisenbahn: Buco Spur 0.
--Edgar Oehler: Der Tycoon aus dem Rheintal

と云うものがあった。

友人が語ったこの評価 [「トンでもない仕事好き」] に対して、エーラーは「私は仕事をしている時が一番体調が良いんだよ」と言う。自らに許しているただ一つの趣味と言えば鉄道模型、Buco 社の O ゲージ、だけなのだ。

再び、意地悪して、"Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite" を「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」すならば

私は仕事をすると体調が悪くなるんだよ

になる。これは「タイクーン」と呼ばれている実業家にはふさわしくない言葉ではなかろうか。

もっとも、「天声人語子」は、自分が読んだのは英訳であって、ドイツ語の事は関知しないと言うかもしれない。しかし、英語であっても、事情は同じである。上記に示したバートレットの引用句辞典中における「ゲーテの言葉」(「天声人語」英文版には、全く同一の文章が使われてるいる) は、英訳であることを離れて英文として見ても正しく成立してるからだ。それは、やはり「人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない」ぐらいの意味になって「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」にはならない。

実際、英語においても、上述のドイツ語に対する説明と並行的内容のことが 「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than + when 節」に対して言えて (ドイツ語と英語では、否定詞と動詞の順序が逆転する。また、ドイツ語の "als" は文脈によって、英語の "as" に対応することもあれば "than" に対応することもある。そして、この場合は、"than" が対応する)、それは「副詞の最高級」相当の意味を形成する。ただし、問題のゲーテの言葉の英訳では、「否定詞 + 動詞 + 副詞の比較級 + than」から、等価な「否定詞 + 動詞 + so + 副詞の原形 + as」への置き換え用いれているだけなのだ。

だから「ゲーテの言葉」には、「置き換え」のない

One never goes further than when they do not know where they are going.
--Famous Johann Wolfgang Von Goethe Quotations - Page 4

と云う英訳も存在する。

英語でも、幾つか例文を拾っておく。まず、バートレットの引用句辞典に収められた「ゲーテの言葉」、つまり英文版「天声人語」における「ゲーテの言葉」に合わせて「never + 動詞 + so + 副詞の原形 + as when」の形のもの。どうやら、会社の経営者・従業員への「教訓」らしい。

A man never likes you so well as when he leaves your company liking himself. (Source Unknown)
--Dictionary of Quotes
ある人があなたのことを好ましいと思っている最高の形態とは、あなたの会社が、その人を好ましいと考えていられるようにしてくれていることである。

パスカルの「パンセ」の一節 (Jamais on ne fait le mal si pleinement et si gaiement que quand on le fait par conscience. ) の英訳

Men never do evil so completely and cheerfully as when they do it conscientiously.
Blaise Pascal, Pensées (# 894 or 895)
--Evil - Wikiquote
人は良心に従っている時ほど、悪を徹底的且つ喜びを以って行うことはない。

次に「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than whenn」の形のもの

まず、調理器の紹介だか宣伝の記事の一部

Food never tastes better than when it's cooked long and slowly, so we know you'll love this Slow Cooker.
--Rosemary Conley Slow Cooker | Kitchen Essentials | Rosemary Conley TV
食べ物は、長い時間をかけてゆっくりと調理する時が一番おいしくなりますので、この「スロー・クッカー」のことが気に入って頂けるに違いありません。

スキーを主題にしたスポーツ医学に就いてのウェブページで、

If you are one of the experienced millions or if you plan for that first skiing experience, you may never feel better than when you're experiencing the excitement of a perfect downhill run. Then again, you may never feel worse than when you're laid up with torn knee ligaments or some other mishap that the slopes frequently offer up.
--Caring For Athletes - Fit For You - Ski Fitness
あなたが、経験を積んだ何百万人かのスキーヤーの一人であるにしろ、初めてのスキーを計画している人であるにしろ、ダウンヒルを完全に滑りきった興奮を体験する時ほど素晴らしい気分になることはないでしょう。その一方で、滑降中にシバシバ発生する、膝靱帯の断裂等の事故で寝込んでいる時ほど落ち込んだ気分になることもないだろうと思います。

なんで、こんな初歩的なことをクドクド書いているのかと云うと、どの程度までレベルを下げてよいのか、見当がつかないからで、実は、自分でもさっきからウンザリしている。このへんで止めておくことにしよう。

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"signal des chemins de faire francais" ?

先程 (2010/02/09 10:59:57)、キーフレーズ [signal des chemins de faire francais] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

"francais" は "français" で読み替えればよいとしても、これ一体、どういう意味なんでしょうね?

"faire" は普通動詞「作る」・「成す」・「行う」ぐらいの意味で使われるけれども、こうした文字の並びでは、動詞でありえない。しかし、気どった言い方や古語では「手法」とか「行為」を意味する名詞として使われることがあるようだ。"chemins" は "chemin" の複数形。基本は「道」と云う意味だけれども「径路」・「手段」・「道筋」と言った意味で使われることもある。だから、「フランス人の行為の道筋の合図」???

サッパリ分からない。

そこで、私も google で検索してみたところ "Étude sur les signaux des chemins de fer français" と云う書籍名がヒットした。

これなら分かる。「フランス鉄道信号機調査」。"fer" は「鉄」で "chemins de fer" は逐語訳では「鉄の道」だけれども、実際は「鉄道」(まぁ、そのままだね)。"signaux" は "signal" の複数形で、この文脈なら「信号機」の意味でしょう。"étude" は「研究」と訳されることもあるけれども、ここでは「調査」と云う意味でしょうね。

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サグナックとは乃公のことかとサニャック言い

昨日 (2010-01-08 [金])、生ログを眺めていて、Sagnac を「サグナック」と読む人たちがいることに気が付いた。

しかし Georges Sagnac はフランス人だから (フランス語版 Wikipedia の [Georges Sagnac] の項冒頭に曰わく "Georges Sagnac (1869-1928) est un physicien français qui a laissé son nom à l'effet Sagnac,...")、カタカナ語化するなら「ジョルジュ・サニャック」ぐらいの方が穏当といえるだろう。

だから Sagnac effect (フランス語なら "l'effet Sagnac") は、「サグナック効果」ではなくて、「サニャック効果」になる。

なんで、こんな当たり前の事を書くのかと云うと、["サグナック効果"] でネットを検索 (google) してみると、結構の数 (10以上!) がヒットするからだ。

こうなると、軽佻浮薄な私なぞは、「サグナック」も「有り」なのかと、すぐに逃げ腰になったりするから情けない。そう言えば、native English speakers なら「原音主義」には拘らずに Sagnac の "g" を硬く発音していそうな気もする訣だ。

だから「私はどうしても『サグナック』と読む」と言うなら、別に止める気はしない。ただ、そうした人たちには、是非、Cognac は「コニャック」ではなく「コグナック」と読んでほしい。

ついでに、このブログにおける「サニャック効果」関連の記事をリストにしておく。

  1. [飛行機に原子時計を載せて・・・] 補足: 相対論の話を少しばかり
  2. 英語版ウィキペディア "Sagnac effect" 訳文
  3. ドイツ語版ウィキペディア "Sagnac-Interferometer" 訳文
  4. フランス語版ウィキペディア "Effet Sagnac" 訳文
  5. オランダ語版ウィキペディア "Sagnac-effect" 訳文
  6. 一般相対論によるサニャック効果の導出
  7. 等角速度円運動の旅行者における「双子のパラドクス」
  8. 英文版ウィキペディア "Born coordinates" 導入部、第1節-第3節翻訳草稿
  9. ホロノミー (holonomy) としてのサニャック効果 (Sagnac effect): 数学的準備
  10. ホロノミー (holonomy) としてのサニャック効果 (Sagnac effect): 物理篇
  11. 日本語版ウィキペディアの「サニャック効果」に対する誤った解説について。付けたし:欧州宇宙機関の HYPER プロジェクト
  12. ニール・アシュビー「GPS における相対論」第1章及び第2章訳文 (草稿)

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メモ:パーテル・ノステル (pater noster)

["pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」] (2009年9月26日[土]) の最後のほうで、「願わくば」よりも「願わくは」(歴史仮名遣いでは「願はくは」) の方が、古典語としては正しいと云うことを書いたが、恐らく、現代日本人が聞き知っている可能性が一番多い用例は、文語聖書における「主の祈り」(pater noster) だろう。

イエスが「汝らは斯く祈れ」(マタイ傅6:9) と指定していると云う意味で、キリスト教において最も重要な祈祷文である。

天にいます我らの父よ、
願(ねがは)くは、御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
御意(みこころ)の天のごとく、地にも行はれん事を。
我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。
我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)に遇(あは)せず、
惡より救ひ出(いだ)したまへ。
--マタイ傅6:9-6:13
[ルカ]にも平行記述が存在する。
父よ、願(ねがは)くは御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
我らの日用の糧を日毎(ひごと)に與へ給へ。
我らに負債(おひめ)ある凡(すべ)ての者を我ら免せば、我らの罪をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)にあはせ給ふな。
--ルカ傅11:2-11:4

もっとも、私などは、子どものころ、出だしを「天にまします我らの父よ」と覚えたのだが、これはこれで、そのように訳している会派もあるるらしい (「くろはたホームページ:主の祈り」及び「主の祈り - Wikisource」を参照。その他、「主の祈り」の変異例に就いては「クリスチャン・ネット:主の祈り」も参考)。

"Pater Noster" はラテン語で「我らの父よ」("pater" は呼格で「父よ」。"noster" は複数第1人称所有代名詞男性形「我らの」)で、「主の祈り」が、こう呼ばれるのは、そのラテン語版が、この言葉で始まることによる。

そう云う訣で "Pater Noster" が Vulgata ではどうなっているかと云うと:

Pater noster qui in caelis es
sanctificetur nomen tuum
veniat regnum tuum
fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra
panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie
et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimisimus debitoribus nostris
et ne inducas nos in temptationem
sed libera nos a malo
--SECUNDUM MATTHEUM6:9-6:13
Pater sanctificetur nomen tuum
adveniat regnum tuum
panem nostrum cotidianum da nobis cotidie
et dimitte nobis peccata nostra siquidem et ipsi dimittimus omni debenti nobis
et ne nos inducas in temptationem
--SECUNDUM LUCAM11:2-11:4
新約聖書だからギリシャ語テキストも引用しておこう:
Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου, ὡς ἐν οὐρανῷ, καὶ ἐπὶ τῆς γῆς·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν, ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφίεμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν,
ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ.
--ΚΑΤΑ ΜΑΘΘΑΙΟΝ6:9-6:13
Πάτερ, ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δίδου ἡμῖν τὸ καθ᾿ ἡμέραν·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν· καὶ γὰρ αὐτοὶ ἀφίεμεν παντὶ τῷ ὀφείλοντι ἡμῖν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν.
--ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ11:2-11:4
ただ、私の場合、"Pater Noster" と云うと、次の4行から始まる ジャック・プレヴェール (Jacques Prevért) の詩も懐かしい:
Notre Père qui êtes aux cieux
Restez-y
Et nous, nous resterons sur la terre
Qui est, quelquefois, si jolie.
--« Pater noster », dans Paroles, Jacques Prévert, éd. Pléiade Gallimard, 1992, p. 40 (Jacques Prevert - Wikiquote, le recueil de citations libre)

天にまします我らの父よ
天に留まりたまえ
我らは地上に残ります
地上は時々美しい
Jacques Prevért の "Pater Noster" 全文は、例えば "Jacques Prevért : Pater Noster (Commentaire composé)" を参照。

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フランス語で「主の平和」

昨日夜 (2009/07/18 19:52:24) に、キーフレーズ [主の平和をフランス語訳にするとどうなるか] で、このサイトを訪問されたかたがいらしたようだ。

こう云うことを尋ねられても「どうなんでしょうなぁ」と答えるしかない。自らの教養の無さに恥じ入るばかりだ。

「主の平和」と聞いて思い出すのは、何かで聞き齧ったラテン語 "Pax Domini" だけだ。たぶん、カソリック典礼文中の言葉の筈 (この記憶は当たっていた。「ミサ聖祭の主な応答句」を参照)。

そして、私の当てずっぽうでしかないのだが、「主の平和」に対応する言葉は、フランス語のネイチヴスピーカであっても、ラテン語の "Pax Domini" を自然に使うことが少なくないような気がする (日本人が、本来は中国語である故事成語を日本語として使うように)。だとしたら、それを「フランス語」ではないと排除するのには、私は抵抗を感じる (フランス語のページに限定して "Pax Domini" を google 検索してみると2500件余がヒットする)。

勿論、私でも "Pax Domini" をフランス語に当て嵌めれば "la paix du Seigneur" になるぐらいの知識は持ってはいる (google で検索すると、10000 以上のヒット数があるから、流通している表現であることは確かだろう)。

しかし、それが「主の平和」に対応するかどうかは自信が持てなかったので、"Pax Domini" と "paix du Seigneur" とを AND 検索してみた。

すると "Ordinaire de la Messe selon le Rite de Saint Pie V: latin-français" と云う文書が出てきた。「ピウス5世典礼によるミサ通常文: ラテン語-フランス語」ぐらいの意味だろう。つまり、伝統的な「トリエント・ミサ/Rite tridentin」の羅仏対訳な訣だ。

この pdf イメージ、元のパンフレットの綴じを外して解体してからコピーしたものらしく、ページの順番が変わってしまって、左右対訳になっていないが、それでも、典礼文中において "Pax Domini" は、司祭 (で良いのかな?) が Pater Noster を唱えた後、Agnus Dei の直前に、司祭により会衆に対して投げかけられる "Pax Domini sit semper vobiscum." (主の平安が変わることなくあなたがたと共にあるように) として登場することが分かる (第14ページの下から3行目。この唱句そのものは、上記の「ミサ聖祭の主な応答句」でも確認できる)。

これに対するフランス語訳は "La paix du Seigneur soit toujours avec vous." (第15ページの下から3行目) である。

つまり、"Pax Domini" の「フランス語訳」は "la paix du Seigneur" とすることの裏付けが取れたと言って良いと思う。

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デカルトの正葉線の曲率

Folium of Descartes, or folium cartesii
デカルトの正葉線
Folium of Descartes (folium cartesii)

先日 (2009/05/22 17:22:28)、[デカルトの葉線 曲率] と言うキーフレーズでこのサイトを訪問された方がいらしたらしい。恐らくは、デカルトの葉線 (「デカルトの正葉線」とも言うが、要するに xy 平面上で、式 x^3 + y^3 - 3 a x y = 0 で表わされる曲線のことである。ちなみに、x + y + a = 0 が漸近線になる) の曲率の表示式をお探しだったのだろう。

[デカルトの葉線 曲率] では、デカルトの葉線の曲率表示式は、探しにくいかもしれないが、英語の "Folium of Descartes" や、或いは、ラテン語の "folium cartesii" を使うなら、なにも "curvature" を付けないでも、その検索結果 (Google 検索で "Folium of Descartes" 又は "folium cartesii") から、"Wolfram MathWorld" の "Folium of Descartes" のページに辿りつけて、そこで曲率の表示式を見つけることができる。ただし、その曲率の表示式では、パラメータ (t) が使われている。

「そもそも」と云うほど大げさなことではないが、少し遡って説明を補足するなら、デカルトの葉線は y = f(x) の陽関数で捉えようとすると、原点の近傍 (正確に言うなら、x が正の微小値である範囲内) では1価関数にならない。したがって、パラメータ (t とする) を使って、都合よく x = x(t),\ y = y(t) と表わすことができないかと考えて、葉線の形を見ると、原点を通る直線と葉線との原点以外の交点は、高々1つしかなく、また原点を通る直線の傾きが -1 以外なら、原点以外の交点が必ず1つ存在することが容易に確認できる。従って、 t = y/x をパラメータとするのが適当であると推測できるので、そのようにすると、x^3 + y^3 - 3 a x y = 0 から


\begin{eqnarray*}
x = \frac{3at}{1 + t^3} \\
y = \frac{3at^2}{1 + t^3}
\end{eqnarray*}

が簡単に得られる (ただし、t \ne -1)。従って、求める曲率もまた、このパラメータ t で表わすのが自然な流れとなる訣である。そして、それは "Wolfram MathWorld" の "Folium of Descartes" のページに書いてあるように、


k(t) = \frac{2(1 + t^3)^4}{3a(1 + 4t^2 - 4t^3 -4t^5 + 4t^6 + t^8)^{3/2}}

になる。

この曲率を計算するのは大学初年級の解析学の演習レベル (それどころか、高校生でも、「物好き」なら、この程度のことはするだろう) だから、くだくだしくは書かないが (つまり、書くと「くだくだしく」なる)、一言注意しておくと、平面曲線のパラメータ表記 x = x(t),\ y = y(t) による曲率の計算式


\[
\frac{x^\prime y^{\prime\prime} - y^\prime x^{\prime\prime}}{((x^\prime)^2 + (y^\prime)^2)^{3/2}}
\]

よりも、平面曲線の陰関数表示 F(x, y) = 0 からの曲率の計算式


-\frac{F_{xx}F_y{}^2 - 2F_{xy}F_xF_y + F_{yy}F_x{}^2}{(F_x{}^2 + F_y{}^2)^{3/2}}

を使って、曲率を一旦 x, y, a の式として表わしてから x = x(t),\ y = y(t) を代入した方が計算が若干簡単になる。

しかし、まぁ、こうしただけのことなら何も記事を書く必要はないのだ。放っておいても、自然にこの程度の結果は得られた筈だからだ (因みに、アクセスしてきたのは、数学とは非常に親近性のある技術系の大手メーカー内からである。相応のリソースが備わっていると信じてよいだろう)。

では、何故、今この記事を書いているのかと言うと、"Wolfram MathWorld" の"Folium of Descartes" のページを見たとき、最近 (2009年5月18日) 正式公開された検索エンジン "Wolfram|Alpha" のことを思い出したことから、話が始まる (そして、すぐ終わる)。

実は、"Wolfram|Alpha" の公開直後、一度試しに使ってみて、その「検索」の範囲が科学技術系に限定されているらしいことに気付き、そして反応が遅いことに落胆して、そのまま立ち去っていたのだった。私のように、ネット内を彷徨して知的冒険ならぬ知的遭難を繰り返しているような人間には、不向きな道具に思えたからである。

しかし、「デカルトの葉線の曲率」と云った明確な技術的課題を調べるには適切に思えた。

そこで、"Folium of Descartes" を "Wolfram|Alpha" を調べて見たのだが (私のシステムの場合、スクリプトの実行し続けるとコンピュータが反応しなくなる可能性があるとして、中止を示唆する警告が出るのだが、強いて続行したところ) 確かに、曲率の表示式を含む、幾つかの特徴が表示されたのだった。

しかし、その陰関数表示が x^3 + y^3 = 3xy となっていて、一般的な形式で書かれていなかったのだな。つまり、(やはりパラメータと呼ぶしかないのだが)パラメータの a --この記事の書き方でも、Wolfram|Alpha 内の書き方でも同じ記号 a が使われている-- が抜けいている。勿論、他の部分は a の存在を前提にした書き方をしているから、全体として不統一になってしまっている。

勿論、「検索エンジン」だから、内容のチェックをしていないと言われればそれまでなのだが、しかし、google 式の検索エンジンが、玉石混淆を、そのままブチまけるため、慣れた利用者には「石」の存在に耐性があるのに対し、「単一の答え」を提示する Wolfram|Alpha のスタイルでは、ここら辺で躓いてしまっては、早晩営業が苦しくなるのは目に見えている。

「デカルトの葉線」に就いて、デカルト (René Descartes) とフェルマー (Pierre de Fermat) とのメルセンヌ (Marin Mersenne) を介した応酬 (Cf.「The mathematical career of Pierre de Fermat, 1601-1665 - Google ブック検索」) や、デカルト自身は、「葉線」が第1象限と同じ図形が、第2象限・第3象限・第4象限で繰り返されている (つまり「四つ葉」風になっている) と信じていたらしいと云う話 ("La courbe possède une forme de nœud de ruban. Lors de leur étude, Descartes et Roberval se limitèrent à une boucle, ne considérant que les coordonnées positives (x>0,y>0) car ils pensaient que la boucle se répetait dans chaque quart de repère, à la manière des quatre pétales d'une fleur (d'où son nom de folium = feuille). "--フランス語版ウィキペディア"Folium de Descartes") の真偽などを調べて見たいのだが、今はその餘裕がない。後後の為に、参考になるかもしれないリンクを幾つか纏めて置くだけにする:

  1. Descartes - Œuvres, éd. Adam et Tannery, I.djvu
  2. Œuvres de Fermat - I
  3. persee.fr - Revue d'histoire des sciences, Annee 1998, Volume 51, Numero 51-2-3, pp. 355-362
  4. La géométrie by René Descartes - Project Gutenberg
  5. The mathematical career of Pierre de Fermat, 1601-1665 - Google ブック検索
  6. COMMENT L'HISTOIRE DE LA GEOMETRIE ANALYTIQUE PEUT AIDER LES ...
  7. Richard L. Amoroso Fe, Fi, Fo, Folium: A Discourse on Descartes’ Mathematical Curiosity
  8. Full text of "Oeuvres de Descartes"
  9. File:Folium of Descartes Curvature.svg - Wikimedia Commons

なお、「デカルトの葉線」はフランス語では "Folium de Descartes" だが "nœud de ruban" と呼ばれることもある (ドイツ語では "Kartesisches Blatt")。

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フランス語 "Le Système International d'Unités" の読み方

先程 (2009/03/24 10:05:30) も、キーフレーズ [Le Système International d'Unités フランス語 読み方] での訪問者があったようだ。

寡聞にして、私は "Le Système International d'Unités" (pdf/3.88MB) がカタカナ化して使われている例をしらない。と云う訣で、[フランス語 "comptes rendus" の読み方] で書いたこととは独立に、「読み方」で限定しようが限定しまいが、所望のページに辿り着くのは難しいかもしれないと思う。

「ル・システム・アンテルナショナル・デュニテ」ぐらいですかねぇ。

--補足 (2010-04-13 [火] 10:27)
意味は「国際単位系」である。

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フランス語 "comptes rendus" の読み方

未明 (2009/03/24 03:42:21) に、キーフレーズ [COMPTES RENDUS 読み方] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「読み方」で限定すれば、「読み方」が書いてあるウェブページがスグに検索できると思うのは、ヤヤ素朴過ぎるような気がするのだが、このパターンが結構頻繁に見られるのはそれなりに効果があるのだろうか?

そう言えば「とは」をつけるパターンでの訪問もよくある。新聞の「インターネット初心者」への検索エンジン指南として薦められているのを私も読んだことがあるが、素直にそうした教えに従われているのだろう。私自身は使った記憶はないので、どの程度役に立つのかはしらないが、そうした全ての方々に "feeling lucky" であることをお祈り申し上げたい。

いきなり脱線した。フランス語限定であるとして "comptes rendus" をカタカナ化するなら「コント・ランデュ」ぐらいだろう。「コント・ランデュ」が出てくる日本語ウェブ・ページはあることはあるのだが、意外と到達しづらいようなので、ここに1ページ増やしておくことにする。

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