カテゴリー「江戸/東京」の5件の記事

2009年3月 8日 (日)

長唄「都鳥」: たよりくる 船の内こそ ゆかしけれ 君なつかしと 都鳥...河上遠く 降る雨の 晴れて 逢う夜を 待乳山

数時間前 (2009/03/08 18:43:25) に、キーフレーズ [待乳山、逢ふて、うれしき、あれ、みやしゃんせ] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだが、ここに限らずはかばかしい結果は得られなかったのではなかろうか。

問題のキーフレーズは、恐らく長唄の「都鳥」の一節と思われるので、そちらに重点を移して検索することをお薦めする。

例えば、グーグルで [長唄 都鳥] を検索するとヒットする [nagauta] と云うウェブページが参考になるのではないかと思われる。

その「都鳥」の項に、次のようにあった:

都鳥

(本調子)たよりくる、船の内こそ、ゆかしけれ、君なつかしと、都鳥(合)幾代かここに、隅田川は、往来の人に、名のみ問はれて(合)花の蔭、水に浮かれて面白や(合)河上遠く、降る雨の(合)晴れて、逢う夜を、待乳山、逢ふて嬉しき、あれ見やしゃんせ、つばさ交はしてぬるる夜は、いつしか、更けて、水の音(合)思ひ思ふて、深みぐさ、結びつとひつ、みだれ逢ふたる、よもすがら、早やきぬぎぬの、鐘の声(合)憎やつれなく、明くる夏の夜

解説

 安政二年、二代目杵屋勝三郎の作曲で、清水清玄と桜姫の書き替え狂言である、(以下略)
--nagauta


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2009年2月 7日 (土)

今日は初午。練馬区高松の地口行灯

東京都練馬区高松に、所謂「激安スーパー」である [業務スーパー練馬店] (東京都練馬区高松3-21-18) があって、時時買い物をする。だから、その敷地の中に、恐らく以前はそこに大きな屋敷 (農家) があっただろう名残と思われる稲荷祠があることには気が付いていた。

いま google map のストリートビューで確認してみたら、看板や木が邪魔をして屋代そのものは見えづらいのだが、鳥居ぐらいは見ることができた (航空写真では、屋代の赤い屋根が見える)。

その [業務スーパー] に、たまたま昨日今日 (2009年2月5日・6日) と行く用事があったのだが、その「お稲荷さん」に地口行灯が五・六灯飾ってあったのだな。「ああ。そう言えば、もう初午なんだな」と思ってしまった。調べてみたら今日 (「こんにち」と読んでいただきたい) 2月6日が初午だった。

しかし、顧みてみると、初午に地口行灯が飾ってあるのを実見したのは初めてかもしれない。子どものころ見たことがあるかもしれないのだが、だとすると、忘れてしまっている (そう言えば、去年だったか一昨年だったか、板橋の下頭橋の豊敬稲荷だったかの前を初午の日に通りかかったら、太鼓が柵柱に吊り下げてあって、誰でも叩けるようにしてあったのを見た記憶があるが、その時にも地口行灯はなかったようだ)。

勿論、地口行灯そのものは、北千住の商店街や浅草寺門前の伝法院通りで見かけたことがあるのだが、あれは観光用であって常時掲げられており、初午とは関係ない。

今日見た地口行灯で私が読み取れたものはたった二つで、曰わく「小狐三本桜」と「狐道成寺」だけだった。まぁ「義経千本桜」と「娘道成寺」ぐらいなら私でも知っていると云うだけのことなのだが、そのほかも全て「狐」で通しているらしかった。かってそう云う風習があったのだろうか。浅学にして、その有無を承知しないのが残念である。

原稿を書いているうちに日付が変わってしまったが、このまま投稿することにする。

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2004年9月16日 (木)

本所の北斎その他

[江戸/本所](2004年8月21日付)に書き損ねましたが、本所にゆかりの人と言えば、葛飾北斎がそうですね。1760年(宝暦10年)9月 [本所割下水] (「北割下水」と区別して言うなら「南割下水」)の生まれ、と、されています。彼が、自らの画号に 一時期[葛飾] と云う土地呼称を被せたのは、少なくともその当時、[武蔵国豊島郡江戸] に対する [下総国葛飾郡本所] の生まれであることを意識していたからでしょう。

勿論、周知の如く、彼は画号を頻繁に代えており、我我にとって最も馴染み深い「葛飾北斎」にもそれほどの執着があったとは思われませんけれども。何しろ、生涯に使った画号の数は三十ほどに及び、晩年には「前 北斎 卍」とか、更には「前 北斎 改 画狂老人 卍」などと称したと言います。

何だか、"the Artist Formerly Known As Prince" みたいで楽しい。[以前北斎として知られていた画狂老人 卍] なんてね。でも、改名の果ての「卍」と云うのは興味深いですね。よく知られているように、[元プリンス] にも「発音不能」と称する、オス記号 ♂ とメス記号 ♀ を組み合わせて図案化したと思われる記号があります。
「発音不能」と言ったって、これは [元プリ] が命名を忌避したと云うことなんだろう。そんなこと言っても、「命名」は必然で、[以前プリンスとして知られていたアーチスト]と云うメタ言説的な指示子が、表層言説に繰り込まれてしまう。それかあらぬか、[元プリ] は、元の木阿弥ならぬ只のプリンスに戻った。

「卍」にしろ、[元プリンス] glyph にしろ、ウロボロスを連想させるのは、注意しておいて良い暗合でしょう。

脱線ついでに書いておくと、Bangles の "Manic Monday" は、彼が(pseudonym を使って)作ったとのこと。


時代は下がって、五代目古今亭志ん生の極貧時代、志ん生一家が住んだのが、本所業平橋の所謂「なめくじ長屋」。志ん生も、改名と転居を繰り返した人だった。まぁ、彼の場合は、「これも貧ゆえ」と云うことだったらしいけれど。


本所回向院に墓所がある山東京伝(弟の山東京山も)や鼠小僧、そのほか、やはり本所に縁がある河竹黙阿弥、三遊亭圓朝、長谷川平蔵、遠山金四郎、柳亭種彦。これらは、ただ名前だけを記しておきます。


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2004年8月21日 (土)

江戸/本所

[NIFTY翻訳フォーラム投稿(1998年1月7日?)]で、「[本所]は、お江戸のうちではない」と書いたのは、失言だったと反省しています。

ただ、単純に取り消す気にもならないのです。

そこら辺の私の気分を纏めることが、今、出来ないので、参考になりそうなリンクのリストだけでも作ろうとしたのですが、これも旨くいかない。従って、そうしたことを一切諦めて、調べているうちに気になったサイトを、主題の統一性や個個の内容の精粗を無視して、列挙しましょう。

1. 江戸の範囲
それでも、「江戸の範囲」の [公式見解] といった感じのもの挙げておく必要があるでしょう。それが、例えばこの東京都公文書館の公式サイトに書かれている説明。

文政元年 (1818) 8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。 「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。 この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。 その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。

東…中川限り
西…神田上水限り
南…南品川町を含む目黒川辺
北…荒川・石神井川下流限り

これは、寺社勧化場と札懸場の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
現在の行政区画でいえば、次のようになります。
千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区
品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区

東京都公文書館の公式サイトより, http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/edo.hani.htm

2. 江戸 - Wikipedia
[江戸の範囲] だけでなく、[江戸の歴史] や [江戸の都市計画] に就いても触れられています。

この記事が書かれている "Wikipedia" に就いては「Wikipedia:ウィキペディアについて」を参照。「ウィキペディア内の全ての記事はコピーレフトなライセンスの GNU Free Documentation License によって保護され、永久に「フリー」であることが保証されています。」とのこと。英語版ドイツ語版フランス語版中国語版などの非常に多くの言語(ラテン語版や、サンスクリット語版まである)で活動が進められているのだそうです。

3. 下町探偵団
これも[江戸の範囲]の話。隅田川の東側(今の江東区・墨田区あたり)が江戸にはいるかどうかに就いて。

4. 江戸時代の東京
森ビルが提供しているサイトに含まれている。江戸の全体的地形・都市構成の変遷がわかる地図多数。

5. 江戸時代に赤羽は「江戸」の内だったか
「赤羽」は、[東京都北区赤羽]。

6. 史料リスト・江戸時代細分
1603年~1867年までの史料を纏めたもの。これは、FUJIMAKI Sachio さんのサイト、聚史苑の下にある
日本史研究参考基礎史料一覧の一部。

7. 江戸期に「藩」はなかった? -○○藩と呼ばれる機構について-
こんなことが書いてありました。


  1. 現在、我我が「藩」と呼んでいる組織は、江戸時代、公式には「藩」と呼ばれたことはなかった。「藩」が公式名称化したのは、明治の版籍奉還後。

  2. 蝦夷松前の松前家は無高、下野喜連川の喜連川家も五千石だったが大名とされていた。これに対して、御三卿の一橋、田安、清水家は十万石だが大名とはされないのが普通。

8. 江戸の資料・基本用語
1955年TV時代劇草創期に演出家が使用した覚え書きノート。「正確な歴史資料ではなく、あくまでも時代劇の資料」

9. 本所の吉良屋敷, - Wikipedia
吉良屋敷について「『 松坂町二丁目』という住所を示すものも多い。ところが、武士の居住地には、住居表示のための住所というものはなかった。それに、松坂町は討入事件の4年後についた町名で、吉良屋敷があった場所は松坂町二丁目だけではなく、一丁目の一部も含む。」
これに関連して [元禄赤穂事件 - Wikipedia] の項も参照。

10. 勝小吉
勝小吉の自伝「夢酔独言」や子母沢寛の小説・エッセイに就いての感想が書かれています。

11. 本所両国
芥川龍之介のエッセイ。「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。」

12. 明治の東京
馬場孤蝶のエッセイ。

昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であつたといはれた。なほ窮迫の度の増すに従ひ、更に奥へ奥へと引つ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさへ、その家運衰退の度合ひが明らかに看取されるといふのであつた。即ち、初め両国橋を越える荷車には、まだしも少しは見栄えのする物が積まれてゐるのであるが、次の場所へと向ふ車上には、次第にガラクタの数さへ減つて行くといふのであつた。」「『南向茶話』の一節には、本所は本庄といふのが古い名であつて、今の信越線の熊谷の先きに本庄といふ地名があるので、同名を嫌つて、元禄年中本所と改めたとある。


それから、これは、1998年の投稿時点では、話が散らかるので書かなかったことですが、今の東京で、私が町なかを歩っている限り(まぁ、酷く狭い範囲なんですが、とにかく)、行き交う人々の言葉尻や態度に、昔の東京(江戸とは言わない)の雰囲気が一番残っているのは、墨田区とか江東区、以前の言い方で言えば、向島、本所、深川なんです。

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2004年7月18日 (日)

NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1998年1月7日?)


回顧と展望

皆さん、明けましておめでとうございます。

もうぢき、松が取れてしまいますので、今のうちに年頭らしいことをしておきます。

といっても、相変わらずノンキな話なんですが。

1997年中で、私にとってのベストソングはエレファントカシマシの「風に吹かれて」でした。昨日、テレヴィ・コマーシャルのバックグラウンド・ミュージックで聞きましたが、私が最初に聞いたのは、古本屋の店内で流していた(多分)有線放送においてでした。聞いていて、感激してしまった。

あれは、何なんでしょうね。私、例外は結構多いとはいえ、基本的に和製ロックが苦手で、そして「風に吹かれて」の歌詞も、和製ロックの常道で立派に歌謡曲している。説明に苦しむんだが、まぁ、あんまり焦って説明しても始まらないから、そのままにしておきましょう。


去年見たテレヴィのシリーズもの時代劇で印象に残っているのは CX の[御家人斬九郎]でした。多分、正月の特別番組態勢が終われば、まだ続きをやるのではないかな。

総体、今まともな時代劇をつくれるのは、あの局だけではないかと思います。[銭形平次]は稍々おちるが、[鬼平犯科帳]と[御家人斬九郎]は良く出来ていて、感心する。そして、最近では、この両者のうち[斬九郎]が勝る。

特に、年末近くの数本は見応えがありました。梶芽衣子さんが出ていた回は、彼女の魅力を活かしきれずに失敗していましたが、その外は、毎回毎回違った趣向で楽しませてくれました。

そう言えば、一回[用心棒]へのオマージュになっているのがありましたね。(勿論、三船敏郎が無くなる前のことです。)ストーリーではなく、あの映画の稍々荒涼とした雰囲気がそっくりに作ってあった。当然、アメリカのハードボイルド小説(ダシル・ハメットの[赤い収穫]!)や西部劇の雰囲気にも似ている。(ついでに書いておくと、私の狭い知識内では、日本映画史上、一番かっこいい男優の姿は、[用心棒]のラスト近くで、三船敏郎が「ヘヘっ」と云った感じで肩をゆすり上げつつ、破落戸たちに歩み寄っていくシーンです。)


ただ[斬九郎]で、一番優れいてると思われるのは、キャスティングです。まず、レギュラーが全員はまっている。[斬九郎]の渡辺謙、母親[麻佐女]の岸田今日子、与力[西尾伝三郎 ](原作ではこうなっているんだが、テレヴィの方では同心と云った格だね。)の益岡徹、岡っ引[南無八幡の佐治]塩見三省、芸者[蔦吉]若村麻由美(原作では、柳橋芸者[おつた]。でもテレヴィでは名前からして深川芸者っぽい)。どれも、みなキマっている。そして、もう一昨年になった筈だが、第二回シリーズからは、中間役で牧冬吉さん(なつかしや)が出ていらっしゃる。

特に若村麻由美の芸者姿には、目を瞠るがある。私は、彼女ほど芸者姿の似合う女優を知らない。もっとも、これには局側の対応もあるんでしょうね。彼女、NHK の金曜夜にやっていた(今、丁度再放送中らしい)[天晴れ夜十郎]に[三千歳]役で出ていたが、精彩がなかったと記憶する。

[天晴れ夜十郎]にしろ、たしかその後釜の[半七捕物帳]にしろ、それなりに良い素材を使っているのに、見事に詰まらなかった。[半七捕物帳]みたいな傑作を詰まらなくしてどうすんだ。

見られるのはエンディングだけでしたね。[天晴れ夜十郎]では切り絵、[半七捕物帳]では半七が現代の東京に紛れ込ませた姿をモノクロ・スチールで写し取って、見応えがあった。

若村麻由美さんは、この二日、[NHK教育]で放送した片岡仁左衛門襲名公演にゲスト出演していて、その時、アナウンサーが言うには、歌舞伎の「大ファン」で(ま、義理でも、こう云うわな)、踊りの名取りさんなんだそうです。分かったような、分からないような気分になりました。

そうそう、その時、一緒に[役者]中村又五郎さんが出ていらした。彼は、池波正太郎が、その風貌を[剣客商売]の秋山小兵衛のモデルにした人で(池波正太郎[小鍋だて])、そう聞くと床しい。この前も、NHK教育で対談番組に出ていたのを拝見したことがある(人間国宝になった記念?)。

もう一度そうそう、ややうろ覚えだが、彼は、去年(?)の[鬼平犯科帳]に、(確か逆縁の)仇討ちをしようとする老剣士の役で出ていた(それを[鬼平]がすけてやる)。セリフ廻しが、歌舞伎そのままなのにテレヴィ・ドラマのなかで浮いていなかった。たいしたもんだと思った記憶が有ります。

話を戻して、[御家人斬九郎]は、たしかに良く出来た作品なんだが、不満がないわけではない。それは、冒頭必ず出で来る[江戸本所]と云うキャプションなんです。

また、脱線します。[本所]は本来は[ほんじょう]と読んだそうです。今でも、志ん朝師などは、高座で確かに[ほんじょう]と発音している。

何度も「そうそう」と言って申し分けないが、そうそう。古今亭志ん朝で思 い出しましたが、いまの[鬼平犯科帳]ではなくて、昔の先代松本幸四郎 が主演していた時には、志ん朝師が[うさ忠]を演じていたと記憶します。主演が幸四郎と云うことではなく、そのことに「贅沢なことをするもんだ」と感心したように覚えています。

私の記憶が確かなら[本所]は、お江戸のうちではない。所謂[川向こう]と云う奴で、大川を挟んで、あっちかこっちかの違いは地元の人間には皮膚感覚として切実だった筈なんですがね。

勿論、川向こうには川向こうの良さがあるので、お江戸ほど窮屈ではなかったらしい。例えば、向両国(むこうりょうごく。今の墨田区両国)の見世物には際どいものがあったと言います。(あんまり、いい例じゃないね。)

でも、[本所]を江戸と言ってはいけないでしょう。そう言えば、こうしたことに厳しい都筑道夫は昨年版行した[さかしま砂絵](光文社)所収の[置いてけ掘](この外題は[本所七不思議]から取られている)で、本所に行った「センセー」に「見るからに、顔役というところだの。お太刀をきめているなんざあ、江戸では見られぬすがただ。」(54頁)と言わせています。

また、少なくとも、昭和30年代迄そうした雰囲気があったことは、純正の下町っ子であるなぎら健壱([なぎら]は確か[柳楽]と書いたと記憶するが、いま確認できない。もっとも通用名が開いた形だから、いいか。彼は、銀座木挽町生まれ)の[下町小僧](ちくま文庫)を読むと分かる。

川一本のことなんだけれども、やっぱり、気になりますね。

話題二つだけで、結構長くなったしまった。まだ、二つ・三つ残っているんですが、やめておきます。


最後に今後のことを一つ。

近日中(一両日中? 或いは、一・二週間中)に、極めて長文のアップを行ないます。実は、このフォーラムでの発言を再開するに当たって腹案にあったものです。ぜひ書いておきたかったので、組み立ててみたんですが、思った以上に長くなってしまった。自分でも、ハタ迷惑になりそうなのが分かる。当フォーラムで長文のアップをするのは、これを最後にします。


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