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都筑道夫「水見舞」(「なめくじ長屋捕物さわぎ」シリーズ) 中の地名「小村井」の読み

都筑道夫の「なめくじ長屋捕物さわぎ」シリーズ中の一篇に「水見舞」と云うものがある。本稿は、この作品中に登場する一語のルビに関する。

以下の記載は、光文社時代小説文庫「ときめき砂絵」所収のテキストに依っているが、ことの性質上、この刊本に固有の問題でありうることをあらかじめ断っておく。などと、大上段に構えてしまったが、実は、たかが一文字に就いての話だ。

「水見舞」冒頭の三文が

台風や大雨のために、河川が氾濫することを、出水(でみず)という。出水があった地域の知りびとの家に、様子をたずねにいくのが、水見舞(みずみまい)だ。八月すえの晴れた日、神田白壁町の御用聞、常五郎が東橋(あずまばし)をわたったのも、水見舞のためだった。きのうの嵐で、小梅(こうめ)で植木屋をやっている親戚の様子を、見にいくところなのだった。
--光文社時代推理文庫「ときめき砂絵」p.223 原文のルビを括弧 () に入れて示した。

で始まっていることがしめすように、事件の舞台は「向島」である。

常識的なところから、話を始めると、東京都区の内、隅田川左岸(東側)には、上流から足立・墨田・江東とならんで川に接している。

上流端で北区を貫通したり、下流端で分流して月島川として中央区を貫通していることなど、細かいところでは、いろいろ注釈を付けねばならないかもしれないが、ここでは詮索しない。現代行政的には、隅田川の起点は北区の「岩淵水門」なのだろうが、江戸時代の感覚を現代に移すなら、現足立区内の「千住大橋」だろう。下流に就いても、江戸時代に埋め立てたのが「ツキヂ」で、明治に入ってから埋め立てたのが「ツキシマ」だと云う話を聞いたことがあるから、本稿の文脈では、江東区より下流は気にしても始まるまい。

墨田区は、敗戦後の都区整理で、旧向島区と旧本所区を合併して作られたことは、東京都区内の小学校に通学したものなら、「わたしたちの××区」レベルの知識で知っている人が多いだろう。

その他に「旧大森区」と「旧蒲田区」を合わせて「大田区」にしたと云う話を最初に聞いた時、子供心にあきれた覚えがある。しかし、そんな話は多いようだ。「分寺駅」と「川駅」の間に新設された駅が「国立」と命名され、結局市の名前にもなってしまった。まぁ、「霞町」とか「笄町」とかの、ゆかしい町名を「西麻布」や「南青山」などと云う索漠たる町名にするよりマシかもしれない。地名と云う文化の中核は、「会議室で決めて、片々たる通知一つで変更」と云う拙速を取るべきものではないのだが、まことに「お前麻布で気が知れぬ」と言いたくなる。

閑話休題、そこで「向島」だが、これは、大ざっばには現墨田区の北半分に当たる。 物語の舞台は向島で、女性の遺体が発見されたのが、三囲稲荷そばの料理屋「平岩」の庭だった (「平岩」は実在した店で「鯉こく」で有名だった。その地域一番の店と云うことで「葛西太郎」を号していたと云う)。

また脱線するが、私の亡父は、本格的なものでは全くなかったが、それでも、川釣りや釣り堀が趣味で、と云うか、栃木の山奥の出身なので、子供のころは、山の中を跋渉するか、川で雑魚を捕まえるかぐらいの遊びしか覚えられなかったに違いない、とにかく、ある時、釣ってきた鯉で、鯉こくもどきを作ったことがある。しかし、素人料理の悲しさで、胆嚢 (にがだま) を潰してしまったらしく、苦くて食べられたものではなかった。しかし、鯉の胆嚢は有毒らしいから、食べなくて正解だったのだ。

東京ロコには、説明するのも気恥ずかしいが、三囲稲荷も実在して、宝井其角の雨乞いの句 (「ゆうだちや・田をみめぐりの・神ならば」) や、越後屋当主三井家の信仰で知られている。

しかし、こうしたことも本稿の主題とは関係がない。実は、私には、次の一文が引っかかったのだ。顔が四角くて、「下駄」のようだと云うので、陰では「下駄常」と呼ばれている「神田白壁町の御用聞、常五郎」が、平岩から、被害女性の実家がある向島請地村へ向かうくだりで、

下駄常は往来に出た。平岩のわきの道は、くねくね曲がって、請地村、中の郷村に通じている。
さらに小梅、押上 (おしあげ)、小村井 (こむらい)。葛飾郡 (かつしかごおり) の村むらは、源兵衛堀、大横川 (おおよこがわ)、北十間川 (きたじっけんがわ)、曳舟堀 (ひきふねぼり)、梅若堀(うめわかぼり)、荒川と、大小の河川に囲まれている、秋葉権現の森を目ざして、歩いていくと、泥水はたちまち、脛のなかばをまた越えた。
--光文社時代推理文庫「ときめき砂絵」p.237 原文のルビを括弧 () に入れて示した。

「請地」・「中の郷」(中之郷)・「小梅」・「押上」は分かる。いずれも、旧向島区内の地名だ。「押上」など「東京スカイツリー」のお蔭で、全国的な知名度が上がっているかも知れないから、ご存知の方も多いだろう。(なお、「断腸亭料理日記2012 東京スカイツリー界隈のこと その3」も参照されたい)

しかし、「小村井(こむらい)」が、引っかかる。旧向島区の「小村井」は「おむらい」と読ませるはずだからだ (行政上の地域名としての「小村井」は消滅しているが、「小村井駅」は現存する)。少なくとも現在は。。。

実際、ネットで検索してみると、墨田区の「小村井」は「おむらい」と読む、と云う「知らせ」や「気づき」は相当数ある。

その一方で、今回、本稿を起稿するうえで、調べなおして発見したのだが「東武・亀戸線再訪(廃駅跡をたずねて) - おやじのつぶやき」と云うブログでは、『「小村井」(ある時期から、この読みも「こむらい」から「おむらい」に変わっています)』と指摘するものもあることはある (私が見つけられたのは、この一件だけだった)。ただし、その根拠になる1965年頃の、国土地理院地形図のウェブ画像の該当箇所駅名が不鮮明で「むらい」は認識できるがその前の一文字が、読み取りがたい。「お」には見えないが、「こ」としても歪んでいる (細かいことを言えば、「駅名」と「近隣地名」が合致するとは、必ずしも言えない)。

それに、明治や江戸と云った、かなりの以前はともかく、1965年 (昭和40年) の段階で「こむらい」と読んでいたという情報には、首を傾げざるを得ない。実は、私の亡母は、旧向島区の出身だった (私の家では、母の実家を今でも「向島」と呼んでいる)。もっとも「小村井」は、南方にある「北十間川」を挟んで本所と対峙すると云う旧向島区の南部に位置するが、母の実家は、「百花園」や「言問団子」・「長命寺桜もち」が、、、と言っても、実感できない人には、情報として意味がないか。。。エーット、隅田川に架かる「白鬚橋」近くの、区内北部にあるわけだが、旧向島区内としては地元であることにかわりはないだろう。その母親が、「小村井」を「おむらい」と呼んでいたらしい (実は、私自身は、そう言っていたような気がする程度の、ウッスラとした記憶しかない。これは、姉からの伝聞情報。狭いといえば狭い同一区内で、だからこそ、母には、近隣地区への若干の対抗意識があったようだ)。大正年間の生まれの母は、若年時に聞き覚えた呼び方を、そのまま使ったはずで、だとしたら、昭和前半には「おむらい」と云う呼び方が一般的であったと思われる。

ただ、留保しなければならないのは、私の母は、「ダンプカー」を「タンプカー」と呼び、「デパート」を「デバート」と言ってしまう態の人間だったことだ。しかし、「おむらい」と「こむらい」は、言い分けられたと思う。

実は,私は母の言語能力をとやかく言える立場ではない。先ほども、「白髭橋」(しらひげばし) と入力したつもりが「白重橋」(しらしげばし) と変換されて腐った。

脱線に次ぐ脱線で申し訣ないが、以前、三島由紀夫の「邯鄲」(「近世能楽集」所収)を読んだ時、ワキとして登場する「菊」(四十がらみの地味な和服を着た女) が、シテである「次郎」に「パスじゃないよ、バスだってば。今でも君、デバートだの、ゲソリンだのって言っているだろう。」とからかわれた直後に、それを否定しながら「デバート」と言ってしまうくだりがあって、なにやら懐かしかった (新潮文庫「近世能楽集」(三島由紀夫) p.11)。

だったら「おむらい」で良いではないかと言われそうだが、著者の都筑道夫は、地名・人名・物称には、細かく気遣う人で、例えば、今も江東区を流れる「小名木川 (おなぎがわ)」の「小」は、「こ」ではなく「お」と読まねばならないことを、都筑道夫は、その複数の作品の中で、憤懣やるかたないと云った風情で断りを入れているくらいだ。我が偏愛の小説家都筑さんのことだから、「どうでもいいこと」とはわかりつつ、「お」と「こ」の違いは、なにやら見過ごせない。

単純な校正ミスである可能性も十分あるのだが、釈然としないまま、随分月日がたっているので、一旦文章化して、私のささやかな「鬱懐」を晴らした。

「ときめき砂絵」

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五代目菊五郎の「無事でめでてえ」

[古今亭円菊 [町内の若い衆] における「しかんけの犬」] (2012年11月12日 [月]) で、「実際に聞いてみるならば東京弁使用者を認識することはできる気がする」などと書いたが、これは勿論、極ごく内輪に見積もってもらいたいので、この数十年の間に数度、「この人は東京弁を喋っている」と感じた経験があると云うだけのことなのだ。

もっとも、江戸にしろ、東京にしろ、地方出身者 (この「地方」は、単に [江戸/東京] 以外の「地方」と云う意味である) が数百年に亘って「寄ってたかって作った」ような都市だから、その言葉にも「鵺」的なものがある。また、特に江戸時代やそれに直接続く頃の明治時代では、社会的地理的配置で言葉遣いに大きな差があったから、[江戸弁/東京弁] といっても一概には言えないので、現代において関心のある人々の一人ひとりに「私の [江戸弁/東京弁]」があるだろう。

これが「江戸っ子」となると、一層取り留めが付かなくなる。結局、純系の「江戸っ子」とは、歌舞伎や戯作本、町の評判の中にしか生息したことはなかったのではないかと、私には思われる。

ただ、そうした仮想の世界と現実の社会との間を行き来した人たちはいた訣で、さしずめ歌舞伎役者などは、その尤なるものと言ひつべきか。

孫引きになってしまうが、安藤鶴夫が [落語鑑賞(上)] 所収の [富久] のエピグラフに用いている五代目尾上菊五郎 (1844年7月18日--1903年2月18日/天保15年6月4日--明治36年2月18日) の次の逸話など、最初に読んだ時「江戸っ子だね」、と思ったものだった。

刺ッ子、草鞋履きの五代目菊五郎、扇蔵の家の近火を見舞う。 手早く燗をつけようとするのを、門口で苦々しげに "おめえも俺の弟子じゃアねえか、冷でくんな、冷でよ" また丼鉢に、蛸、芋の類(たぐい)のごった盛りにしたのを盆へ、箸をつけて出すと "こいつアいけねえよ、沢庵を二切(ふたッきれ)ばかり持ってきねえ、皿になんか入れちゃアいけねえぜ、じかに掌(てのひら)でくんな" そこで、冷をあおって、香のものをひょいとほうり込み、"無事でめでてえ"
-音羽屋百話-
--旺文社文庫 [落語鑑賞] (安藤鶴夫。旺文社。1976年) p.8
この [音羽屋百話] は、川尻清潭編の [名優芸談] (中央公論社。1936年) に収められているらしいのだが、私は未見。

もっとも、この音羽屋も、「御上」を相手にすると、「からっきししッこしのねえ」ことになる。

岩波文庫 [増補幕末百話] (篠田鉱造。岩波書店。1996年) の第23話「音羽屋の滑稽旅芝居」に依れば、「御維新間もなく」、日光への遊山半分で宇都宮に旅興行に出かけた「宗十郎、菊五郎、秀調、寿三郎」一座は、途中参拝した神社で、音羽屋が賽銭を吝嗇った為か、神主を怒らせてしまい、参拝の際に、籠に乘っていた役者衆を地元の顔役達が拝殿まで担ぎ上げたことを捉えて「下馬札」の定めを守らなかったと難詰される。這うはうの態で窮地を逃げ出して、宇都宮で芝居を開け、大評判をとっていたものの、神主が宇都宮の役所に訴え出たために、頭取や太夫元代理が捕まってしまう。役者達は宇都宮を逐電したが、神主が更に栃木 (栃木には1871年から1884年にかけて、栃木県の県庁があった。このころのことか) に「急訴」したため、菊五郎たちは栃木で裁判を受けることになってしまった。。。

・・・御召喚を待つ間も秀調なんかは翻(こぼ)し抜いて、「マアどうなる事でしょう」と末を案じる女形気質、廃(よせ)ばよいのに音羽屋が串戯口(じょうだんぐち)に「十日も牢へ打込(ぶちこ)まれりゃア済むんだろう」と言ったため「エーッ」と気絶したなんて騒ぎ。

 御裁判(おさばき)の日に、一同恐入ると、「縄打て」とあって、後で「シッカリ締(しめ)ろ」(これは反てゆるめ手を入れて縛るのだそうです)。この時音羽屋は藍弁慶の単衣に献上博多の角帯、侠気(いなせ)な好みでしたが、まさかと思ったのが、「縄打て」と来たので、歩けなくなってしまった。白州を出る時は人の肩へつかまって出たので(早腰が抜けたのでしょう)、外で待っていた女房(おかみ)さんは、コノ態を見ると、ワッと泣出す。実地の愁嘆場。
--岩波文庫[増補 幕末百話] (篠田鉱造。岩波書店。1996年) pp.73--74

まぁ、これも「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し口先ばかりではらわたはなし」の例と見るならば、「江戸っ子」らしいと言えるだろう (通常、この狂歌は「口ではきついことを言っても、気性がさっぱりしていて含むところがない」と説明されているが、むしろ「口では強がりを言うが、実は意気地がない」と解釈した方が狂歌の有り様として素直だろう)。

amazon に、旺文社文庫版の [落語鑑賞] が見当たらなかったので、その元になったと思われる苦楽社版へのリンクを貼っておく。こちらの方は、私は未見。

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古今亭円菊 [町内の若い衆] における「しかんけの犬」

2012年10月13日に、落語家古今亭円菊が亡くなって、既にほぼ一か月が過ぎてしまった。と、事ごとしく書いたが、円菊さんに就いては、テレビ番組で噺を一・二度聞いたことがあるような記憶がうっすらとあるばかり。後は、やはりテレビか新聞かで、自らの師匠である古今亭志ん生の逸話を聞いたか読んだような気がする。

志ん生は、茶わんに盛った御飯に焼酎を掛けて、茶漬のようにして掻き込んでいたと云うことを聞いたことがあるが、これは円菊さんから仕入れたのかもしれない。何れにしろ、『飲まば焼酎・死なば卒中』と豪語していた志ん生らしい逸話ではある。

それだけの縁しかないのに、なぜこの文章を書き始めたのかと云うと、随分昔に、古今亭円菊の高座で、かすかながらも気になった [言葉尻] があるからだ。「テレビ番組で噺を一・二度聞いたことがあるような記憶」と書いたばかりで胡乱なことを言う、と思われそうだが、実は、彼の高座の口述筆記なら、読んだことがあるのである。

角川文庫に、落語協会が編集した [古典落語] と云う10冊組みの、タイトル通り、古典落語の口演を書き起こしたものが収められている。10冊中初めの2冊は「艶笑・郭ばなし」が充てられているのだが、第2冊の3話めが、円菊師匠演じるところの [町内の若い衆] と云う噺なのだ。

所謂 [艶笑ばなし] に分類されていて、類話と云うことになっている落語 [氏子中] は、1941年10月に、高座に載せることが自粛された53種 (所謂「禁演落語」) のひとつである。私には確認できなかったが、[町内の若い衆] も口演が自粛された可能性が十分あるだろう。事実、現在では、[町内の若い衆] は「かっての禁演落語」として扱われているようだ。

私は落語の [氏子中] を聞いたことはなく、また口演の筆記も読んだことがない。従って、以下の議論は、サイト [落語あらすじ事典 千字寄席] 中の項目 [氏子中(うじこじゅう)] に示された概況に拠るので、自分でも心もとないところがあるのだが、それを留保しつつ断ずるなら、[氏子中] と[町内の若い衆] では、サゲの発想が同工であるとは言え、物語の構造が異なっているのだ。

[氏子中] は、確かに所謂 [バレ噺] だが、[町内の若い衆] は、バレるのはサゲだけで、基本は「真似そこない」型の笑話と看做せる。実際、円菊版の [町内の若い衆] のマクラは、次のような典型的な「真似そこない」話である。

 一席ごきげんをうかがいます。
 ええむかしからこのう、付け燒き刃ははげやすいなんてえことを申しまして、とかくこのう人まねというもんは、これはうまくいくもんじゃございませんよ。まあ、でもむかしは、このう、夏の暑い盛りに甘酒(あまざけ)を売って歩いたなんという商売がございます。
 「あまあーい甘酒ェ」
 「おっ甘酒屋!」
 「へえい」
 「あついかい?」
 「へえい、あつうがんす」
 「じゃ日陰歩きな」
 「ばかにしてるなあの野郎」
 なんてんで、甘酒屋をからかって……。これをそばで聞いていたのがわれわれ同様というのか、少々ぼうーっとしてやつで、
 「旨(ンま)いこと言いやがるなあの野郎、『甘酒屋、あついかい』ってやがる。『おあつうござんす』と言ったら日陰歩けって、ふふん、おれもからかってやれ」
 なんてよしゃいいのに
 「あまあーい甘酒ェ」
 「おいっ、甘酒屋!」
 「へえい」
 「あついかい?」
 「いいえ、飲みごろです」
  「ん、フッフ一杯くれ」
  なんてんでね、逆に飲まされちゃったりなんかしまして……。
  とかくこの人まねというものは、これァうまくいくもんじゃございません。
--[古典落語〈2〉艶笑・廓ばなし 下] (東京。角川書店。角川文庫 1974年) pp.44--45
なお、ここにリンクを付けたアマゾン出品のものは1980年刊。1974年のものを復刊したものか?

また、構造的に、わかりやすい相違点を指摘しておくと、[氏子中] では、女性主人公の妊娠が冒頭から明らかにされて、そこから物語が展開していくのだが、[町内の若い衆] では、女性主人公の妊娠は、物語の完結に直結する最後の段階で明らかにされる。

ちなみに、[落語あらすじ事典 千字寄席] でも項目 [町内の若い衆(ちょうないのわかいしゅう)] の解説で「別話」であると指摘されている。

[落語あらすじ事典 千字寄席] の [氏子中(うじこじゅう)] に従うなら、落語 [氏子中] の現在知られている最古の原話は、正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集「新話笑眉」中の [水中のためし] だと云う。この [水中のためし] が、その後半世紀経った宝暦12年(1762)刊の「軽口東方朔」巻二 [一人娘懐妊] 等、多くの模擬作品を産んで、その後の落語 [氏子中] につながったと云うことらしい。

ただ、ここで注意しておくなら、女性主人公は [水中のためし] では「下女」であり、[一人娘懐妊] では (私は、概況でさえ不承知なのだが、タイトルからホボ確実に) 「娘」であることだ。「物語」の層では「下女」はカテゴリとして「娘」であるから、笑話と落語 [氏子中] とでは物語としての「風合い」がかなり異なっている。議論を単純化しすぎであることを認めつつも、対比すると、笑話では「娘と後家は若衆のもの」を連想させるような、古代的な、更には、聖婚にまで遡りえるような神話的背景が感じられるのに対し、落語では、せいぜい中世以降、多分に近世的な、それも都市生活者間における cocuage が物語の要になっているからだ。

ただ、ここで実時代における「古代/近世」の対立に固執するのは意味がない。例えば、江戸時代、佐久間某の「下女」であった [お竹] が大日如来の化身であったと云う逸話に、川柳作者たちの間で「町内の若い衆」と同系の神話性が付与される機微を、石川淳は、その [江戸人の發想法について] で鮮やかに指摘している。

  佐久間の下女は箔附のちぢれ髪

  裏に來てきけばをとつひ象に乘り

 お竹大日如來のことは民俗學のはうではどうあつかふのか知らない。某寺の聖のはなしとか流しもとの飯粒を大切にするはなしとかがこれに關係づけられてゐるやうである。しかし、この風變りな如來縁起が市民生活の歴史のなかでいかなる關係物によつて支へられてゐるにしろ、前もつて能の江口といふものがあたへられてゐなかつたとすれば、すなはち江口に於て作品化された通俗西行噺が先行してゐなかつたとすれば、江戸の佐久間某の下女が大日如來の化けるといふ趣向は發明されなかつたらう。江口の君が白象に乘つて普賢菩薩と現じたといふ傳承は前代から見のこされて來た夢のやうなものだが、江戸人はその夢を解いて、生活上の現實をもつてこれに對應させつつ、そこにまたあらたなる夢を見直すことを知つてゐた。そして、かういふ操作がきはめてすらすらおこなはれてしまふので、それがかれらの生得の智慧のはたらきであること、同時に生活の祕術であることを、江戸人みづから知らなかつた。後世が作為の跡しか受け取らなかつたとすれば、當の江戸人はそのとほり駄洒落さと答へてけろりとしてゐるであらうが、じつは後世がむざむざとかれらの智慧にだまされてゐるようなものである。お竹大日如來の場合は、文學のはうではたまたま川柳の擔當になつてゐるので、後生の文藝批評家はなるべくこれをやすつぽく踏み倒すことによつて自家の見識を示さうとする。われわれは、その見識の高下をしらない。
 箔附のちぢれ髪といふ。おもての意味は明かに佛菩薩の螺髪のことをいつてゐる。しかし、箔附のとは、れつきとした、極めつきの、例のあれさ、といふ意味でもある。すると、ちぢれ髪とは何か。按ずるに、ちぢれ髪の女は情が濃いといふ俗説を踏まへてゐるのだらう。ここで「こなたも名におふ色好みの、家にはさしも埋木の、人知れぬことのみ多き宿に」といふ江口の本文をおもひ出しておいてよい。江戸の隠語に、來るもの拒まない女のことを、醫者の慣用藥にたとへて、枇杷葉湯といふ。お竹はけだし枇杷葉湯なのだらう。お竹とはかならずしも佐久間家の婢にはかぎるまい。市井の諸家の臺所に多くの可憐なるお竹がゐて、おそらくは時に町内の若者を濟度することを辭さなかつたのだらう。すなはち見立江口の君である。おろかな、たわいない、よわい女人はここにまで突き落とされたかと見るまに、一轉して後シテの出となる。臺所は「世をいとふ人とし聞けば假の宿に心とむなと思ふばかりぞ」といふ假の宿である。また「惜しむこそ惜しまぬ假の宿」である。すでにして、お竹は「これまでなりや歸るとて」白象に乘つた遠い普賢像であつた。その姿の消えた後に、裏に來て安否をとふものは、かならずやかつて濟度をかうむつた町内の若者の一人なのだらう。憶測をたくましくすれば、この相手方もまた一所不住の浮かれもの、見立西行といふこころいきであらうか。
--[文学大概] (東京。中央公論社。中公文庫 1976年) pp.74--76
--[石川淳選集 第14巻 評論・随筆 4] (東京。岩波書店。1980年) pp.173--174

しかし、現状では考える材料が調えられないので、これ以上、あれこれ頭をひねっても仕方がない。本題に入ろう。

角川文庫版の [町内の若い衆] には、次のようなくだりがある。

「なにを言ってんだい、夫が聞いてあきれるよ。[おっとおっと] って言いやがって、その下に [どっこい] をつけてごらん」
「おっとどっこい……なに言ってんだ、畜生め、ええ、いまなあ、ええ、感心しちゃったんだ、おらあ」
「なに言ってんだあ、感心しちゃ首曲げてやがらあ。しかんけの犬」
「なんだい、しかんけの犬てえのは」
「首を曲げてばかりいるからだよう」
--[古典落語〈2〉艶笑・廓ばなし 下] (東京。角川書店。角川文庫 1974年) p.49
上記引用文で [ と ] とで囲んで在る部分は、原文では「丶」による強調がされている。また、ここにリンクを付けたアマゾン出品のものは1980年刊。1974年のものを復刊したものか?

最初この部分を読んだ時、私には「しかんけの犬」が何を指しているのか分からなかった。そして多分、江戸時代、又は、かっての東京で使われていた「悪態」の一つなのだろうと思ったのだった。

しかし、その後、「町内の若い衆」を別のテキストを読んだ時に、上記引用文では「しかんけの犬」となっているところが「蓄音機の犬」といるのを読んで、自分の勘違いに気が付いた。「首を傾げた」仕草を、音楽レコードのブランドである HMV (His Master's Voice) の商標である犬「ニッパー (Nipper)」になぞらえたのだ。

ただ、「ちくおんき」が「しかんけ」になるのは、[江戸/東京弁] としても、やや特異であるかもしれない。

私自身、東京で生まれ育った人間で、例えば、子どもの頃、夏場に近所の友達と水の掛け合いをしていて、その友達に、水を浴びせた瞬間「シャッケー、シャッケー」と叫ばれた経験がある。その時、私は「『鮭』がどうしたのだろう」と不思議に思うばかりだった。東京近辺だけのことか、それ以外に拡がりがあるか承知しないが、取り敢えず、私の身の回りでは「酒」は「さけ」だが、「鮭」は「しゃけ」だったのである。勿論、「鮭」を「さけ」と呼ぶこともあって、しかも「酒」の「さけ」と、「鮭」の「さけ」とはアクセントが異なるから、混同はしない筈なのだが、私なぞは、子どもの頃、塩を吹いて真白になった中に赤くて堅い切り身が隠れている形で食膳に載る魚は「しゃけ」だと思いこんでいたし、また今でも「鮭」は「しゃけ」でないと、微妙な違和感がある。

勿論、「シャッケー」は「冷やっこい」の訛りである。実際の転訛の変遷を私は知らないが、図式的には「ひやっこい → しゃっこい → しゃっけー」と考えられる。ただ、当時小学校低学年だった私は「冷やっこい」と云う言葉を知らなかったから (家庭内でも使っていなかった。使っていたのは「つめたい」か、「つべたい」だった。もっとも、私の母親は家庭内では、しばしば「おべたい」などと言っていたが、これは、おどけて幼児語化していたのだろう)、連想の浮かびようもなかったのだ。

もっとも、「シャッケー」そのものも、本来は幼児語だった可能性はある。何故なら、江戸時代の江戸では、町内を廻って水を売る商売 (所謂「ボテフリ」の「水売り」) があったが、それは2種類に分けられて、日照りで井戸枯れの時、取り敢えず必要になる飲料水を売り歩く種類と、現在で言う清涼飲料水を扱う種類があった (砂糖を溶かしたり、白玉を加えて売られたらしい) が、少なくとも、この [清涼飲料水] タイプの方の売り声が「ひゃっこいひゃっこい」だったからだ (従って、彼らは「ひゃっこい」とも呼ばれた)。細かく言うなら、文字どおり「ひゃっこい」と発音されていたと云う保証はないかもしれないが、順当に考えるなら、[大のおとな] は、少なくとも、その気になれば、「ひゃっこい」と言えたし、実際にそう発音していたと云うことなのだろう。

後ればせながら断わっておくと、私は自分が所謂「東京弁」を常用しているとは思っていない。「ひ」と「し」の使い分けに難があるだけが、微かにそれらしいだけで、取り立てて「某某弁」と呼べるような特徴のある話し方はしていない筈である (「まっつぐ」なんて言わないよ。「まん真ん中」も余り使わないな。逆に、関西由来と思われる「ど真ん中」は、時どき使っているかもしれない。一番使っているだろうのは、無印の「真ん中」)。実際に聞いてみるならば東京弁使用者を認識することはできる気がするが、「この人は東京弁を使っている」と感じる実体験は滅多にない。それが、東京弁ネイチブ・スピーカーが絶滅危惧種であるためか、私の東京弁認識能力が似非なのか、なんとも言えないだろう (「両方」と云うこともある)。だから、この記事に書いてあることが基本的に間違っている可能性さえあるのだ。

そう断わっておいて、改めて設問すると、で、「ちくおんき」が「しかんけ」になったのは、どう云うことなのか?

実は、この稿を書き始めるまでチャンと考えたことがなかったような気がする。円菊さんが亡くなったから思い出したので、普段は忘れていたからだ。

円菊さんは、当然、この噺を、師匠の古今亭志ん生から受け継いだのだろう。事実、志ん生には(七代)金原亭馬生時代に吹き込んだ「氏子中」のSP盤レコードがあるというが、その内容は、通常の「氏子中」(落語) ではなく、むしろ「町内の若い衆」であると云う。

円菊さんの口演では、静岡茶を褒めるクダリがあって、これは静岡出身である円菊師匠が付け加えたのではないかと思われるが、そのように、全てが志ん生譲りとは言えなかろう。「ちくおんき」が「しかんけ」に変わるに就いては、志ん生、円菊、原稿作成・校正者の3つのレベルが関わりうるのだ。

東京で育った人間なら、例えば「文字焼き (もんじやき) → もんじゃき → もんじゃ」と云う転訛が、ごく自然に受け入れられる。同様に、「蓄音機 (ちくおんき) → ちこんき」と云う転訛なら、当然そう云うこともあるだろう、と、納得できる (「ちこんき → ちこんけ」と云うのもありうるのではないか)。

この原稿を書きだしてから、思いついて google 検索してみて気付いたのだが、「しかんけの犬」や「シカンケの犬」では、現時点で1件もヒットしないが、「チコンキの犬」なら多数ヒットする。

「ちこんき → しかんけ」が、円菊さんの聞き間違え・言い間違えや、原稿作成・校正者のミスと云う可能性も勿論ある。しかし、私は、志ん生師匠自身が、円菊さんの前で「しかんけ」に聞えるような発話をしていたのではないかと思うのだ。「だから何なのだ」と言われると、それまでなのだが。。。

古今亭円菊と同日に、丸谷才一も亡くなった。私はこのブログで、2008年3月頃、彼と大野晋との対談 [日本語で一番大事なもの] 中で取り上げられた引用文に就いての記事を数多く書いているが、その際、肝腎の書名を書きあやまると云う大失態を犯してしまった。その訂正かたがた、必要ならば、記事への補足、又は瑕疵の点検と訂正を行ないたいと思っていたが、全く手つかずのまま、2008年7月の大野晋の死去に続いて、丸谷才一まで鬼籍に入ってしまった訣で、自らの怠惰に忸怩たらざるを得ない。

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メモ:高田衛「国文学者の想像力」(日本經濟新聞 2006年6月3日)

日本經濟新聞 2006年6月3日 (日) 第45378号第32面 (文化) に掲載された、高田衛 (たかだ・まもる) 「国文学者の想像力」は読み応えがあった。

文化五年 (1808) 年正月下旬、時の勘定奉行 [松平信行] (1746--1821)が、身分を隠して、飯田町中坂 (現在の千代田区九段北辺り) に住んでいた [滝沢馬琴] (明和4年6月9日/1767年7月4日--嘉永元年11月6日/1848年12月1日) を突然訪問したが、馬琴は不在だった。訪問者は、懐紙に次のようにしたためて、馬琴の妻 [お百] に托す。

実は、松平信行は、かって元服前の馬琴が仕えていた主人だったのだ。しかし、彼は、父の死去に際して俸禄を半減した主家に落胆した兄が主家を去ったために家督を受け継いだものの、信行の子 [八十五郎] の横暴な振る舞いに堪え兼ねて十四歳の安永9年 (1780年) 十月に主家を退転してしまっていた・・・

  木がらしに
  思ひ立ちけり神の旅

といひし言の葉のむなしからで、今は東都にその名高し。

  名のらずに
  しる人ぞしる梅の宿

 

[ゑ]付言:「木枯らしに」云々は、滝沢少年が主家を脱走した際に、自室の障子に書き残した訣別の辞。

28年の歳月の後、かっての小身旗本は違例の出世を遂げて勘定奉行として幕府の中枢にある一方、その児小姓 (元服前の小姓) は、江戸で隠れもない戯作者に変身していた。

松平信行の行動は、今で言う「著名文化人」となっていた、過去の出奔者滝沢某に対して関係修復を図り、あわよくば、自家に取り込もうとする底意があったのだろう。それに対して、馬琴は一度は主家で催された小宴に伺候したものの、それ以降は息子を代理に立てて、自らは主家に赴くことは無かったと云う。

高田衛は、文章をこう結んでいる。

旧主家に対する敵愾心と、旧主家筋の権力性の対する誇りとの、隠された両義的な心情が、この戯作者の、『南総里見八犬伝』をはじめとする天下国家に立ち向かう物語の数々の見えない背後にあるように思われるのである。

老いた国文学者の想像は拡がる一方である。

 

[ゑ]付言:「旧主家筋の権力性」とは、松平信行の本家の当主が、天明から亨和、そして文化年間死去するまで老中として権勢を揮った [松平信明] (宝暦13年2月10日/1763年3月24日 -- 文化14年8月16日/1817年9月26日) を念頭に置いている。そして、高田衛は、松平信行の滝沢馬琴訪問の影に、この松平信明か、或いは、[根岸鎮衛] --[耳嚢] の著者-- の存在を推定している。

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勝小吉の「江戸」([江戸/本所] 補足)

これは、本ブログの記事 [江戸/本所] (2004年8月21日 [土]) への補足である。[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1998年1月7日?)]) (2004年7月18日 [日]) や [本所の北斎その他] (2004年9月16日 [木]) にも関連する。

天保の改革の際に禁足 (「押し込め」) 処分を受けた勝左衛門太郎惟寅が、処分解除後に郊外の鴬谷 (一般的な地名で言えば「根岸」と云うことになるのだろう) に隠居して [鴬谷庵] を結び [夢酔道人] と号して、その半生の記 [鴬谷庵独言]、所謂 [夢酔独言] を著わしたことは良く知られている。

大名貸しを営んでいた検校の末子として生まれ、その莫大な遺産を使って養子になる形で幕臣 (当初御家人、後に旗本) となった父、男谷平蔵 (おだに へいぞう) の三男 (妾腹) であった幼名亀吉はどうしようもない悪童で喧嘩に明け暮れ、悪戯を繰り返した。

どうやら、亀吉の生母は男谷平蔵の忌避にあったらしく、男谷家を出されたために、彼は生母の実家で生まれたのだが、平蔵の正室が強ひて引き取ったらしい。そのために、かえって、平蔵の正室 (亀吉が言う「本とふのおふくろ」) は夫に対して、亀吉のことを批判がましく言う訣にいかなかったようだ。

おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能よく不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝおやがおやぢの気にちがつて、おふくろの内で生れた。それを本とふのおふくろが引き取つて、うばでそだてゝくれたが、がきのじぶんよりわるさ斗 (ばか) りして、おふくろもこまったといふことだ、と。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.11-p.12
おふくろは中風と云ふ病ひで、たち居が自由にならぬ。あとは皆女斗りだから、ばかにして、いたづらのしたいだけして、日をおくつた。兄きは別宅していたから、なにもしらなんだ。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.12
出勤する父親と、用人の「利平治と云ぢゝい」に就いては、この前に触れてあるので、「あとは」では、この二人は除いてある。勿論、「利平ぢゝ」は、亀吉のことを平蔵に告げ口するようなことはない。
逸躰 (いつたい) は、おふくろがおれをつれて来た故、親父には、みんなおれがわるいいたづらは、かくしてくれた。あとの家来は、おふくろをおそれて、親父におれがことは少しもいふことはならぬ故、あばれほふだい育った。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.13

これは、亀吉が、男子の無かった御家人勝家に婿養子に入り、名を勝小吉と改めた (数え七歳) 後も、全く変わらなかった (勝家を継いでからも、油掘の男谷家で暮らし続けたのである。「油掘」は、現首都高深川線の下を、隅田川近辺から木場近辺の間を流れていた「十五間川」のこと)。男谷家そして当然「勝小吉」は、小吉八歳の時に本所亀沢町 (現在の「墨田区亀沢」とは異なる。今の住居表示では「墨田区両国4丁目」付近らしい) に転居する。そこでも、小吉の素行は全く収まらず、十歳から始めた乗馬に夢中になって、「学問」には目も呉れなかった (十六歳になっても、勝小吉は自分の名前が書けず、必要がある時は、人に頼んで書いてもらったと云う)。そして、十四歳には上方方面へ出奔して4ヵ月放浪する。その後、兄の任地である信州へ同道したり、兄の家の庭に建てた家で所帯を持ったり、2度目の出奔後、父の隠宅の座敷牢に3年ほど入れられたりしたが (二十一歳から二十四歳。この間、息子の麟太郎、つまり「勝海舟」 が生まれている)、二十四歳の時、独立して本所割下水に移り、更に二十九歳からは本所入江町 (現在の住居表示では「墨田区緑町四丁目」付近、つまり大横川沿い) で暮らすようになった。その間、そして、その後も喧嘩を繰り返し、道場破りの元祖のようなことをして、本所・下谷・浅草界隈の「顔役」になっていく。

要するに、彼は、「本所の銕」ならぬ「本所の小吉」であった訣だ (小吉の父が「平蔵」であったのは、なにやら可笑しい)。

話柄がヤヤ外れるが、芥川龍之介が関東大震災後の本所・両国界隈をスケッチした、タイトルもそのまま [本所両国] とする雑文がある。その末尾に、探訪後、芥川龍之介が家族と会話した内容を採録したものと思しいものが付されている (芥川龍之介は幼少のころから、母方の実家であった本所小泉町の芥川家で育てられ、12歳には実際に養子入籍している。ここの父・母とは、その養家でのことである)。

僕「『榛の木馬場 (はんのきばば)』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎が住んでいたことがある。」
僕「『割下水』もやっぱり変わってしまいましたよ。」
母「あすこには悪御家人 (わるごけにん) が沢山いてね。」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
--講談社文芸文庫 [大川の水・追憶・本所両国] p.129

面白いことに、芥川龍之介は「本所」を「御朱引外」だと勘違いしていたか、或いは、「御朱引外」も同然だと思っていたらしい。p.112 [大川の水・追憶・本所両国]
なお「榛の木馬場」は、現在の京葉道路と清澄通り (都営大江戸線) とが交差する当たりにあった。ここでは、勝小吉九歳の時、彼のイタヅラに腹を据えかねた子供や大人「四、五十人」が、本所横網にあった「柔術」の稽古場から帰宅途中の小吉を、待ち伏せして集まっていた所である。[夢酔独言 他] p.17-p.18
榛の木馬場とは、総武本線を挟んで北側に位置する、つまり、別の言い方をすると、都営大江戸線両国駅の西側にあたる、現江戸東京博物館及びその周辺一体に位置するところに幕府の米蔵があったが、もともとは竹や木のための倉庫であったので「お竹倉」と呼ばれており、周囲を掘割で囲まれていた (榛の木馬場で襲われた勝小吉が逃げ込んだのが、この掘割だった)。そして都営大江戸線両国駅付近 (江戸東京博物館と日大一高の境目) 当たりから東へ大横川 (現「大横川親水講演」) まで伸びていた排水路が「割下水」(現在の「春日通り」に重なる「北割下水」と区別する時は「南割下水」) である。現在は、埋め立てられて「北斎通り」と云う、他人事ながらヤヤ恥ずかしい名前が付けられていると云う。

とあるが、さしづめ勝小吉などはその「悪御家人」の筆頭であったのだろう。

その彼が、1度目の出奔をした時のことである。

十四の年、おれがおもふには、男は何をしても一生くわれるから、上方当りへかけおちをして、一生いよふとおもつて、五月の廿八日に、もゝ引をはいて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七、八両斗りぬすみ出して、腹に巻付て、先づ品川まで道をきゝきゝして来たが、なんだかこゝろぼそかった。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.22-p.23
「七、八両」は現代の感覚で言うと「40万円-50万円」ぐらいだと思う (あくまでも「その位の感じ」である)。

しかし、浜松で投宿した際、藤沢を過ぎたあたりから同行してきた町人の二人組みに、着物も有り金も盗まれてしまう。所謂「護摩の灰」だったのである。その時、宿の主人が、かれのことを「江戸っ子」と判断している。

亭主がいふには、「夫は道中のごまのはゐといふ物だ。わたしは江戸からの御連れとおもつたが、何にしろきのどくなことだ。どこを志してゆかしやる」とて、しんじつに世話をしてくれた。おれがいふには、「どこといふあてはないが、上方へ行くのだ」といつたら、「何にしろじゆばん斗 (ばかり) にてはしたがない。どふしたらよかろふ」と、十方 (とほう) にくれたが、亭主がひしやくを壱本くれて、「是まで江戸つ子が、此海道にてはまゝそんなことが有から、おまへも此ひしやくをもつて、浜松の御城下・在とも壱文づゝ貰つてこひ」とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方方貰つて歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文貰つて帰つた。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.23-p.24
「1文」は「10円」ぐらいだと思うと、「感じ」が分かるだろう。

「夢酔独言」の記述は、かならずしも時系列に沿っていないようで (小吉の記憶の間違いもあるかもしれない)、前後関係を穿鑿しても仕方がないところがあるので、そうしたことは気にしないで話を進めると、宿の亭主に「先づ伊勢へ行つて、身の上を祈りてくるがよかろふ」([夢酔独言 他] p.24) と勧められた小吉は、結局、伊勢に行き、そこでたまたま知り合った「江戸神田黒門町の村田といふ紙屋の息子」([夢酔独言 他] p.25) と云う乞食に教えられて、「抜け参り」の態で、龍太夫と云う御師から「一貫文」(1000文。なお、江戸時代当初の公定相場では1両が4000文だが、時代と共に、実勢レートは「両」が上昇していった。小吉が貰った「一貫文」は6分の1両ぐらいだと思っていいだろう。現代の感覚で言うと「1万円」ぐらい) 恵んでもらうが「夫から方々へ参つたが、銭はあるし、うまゐものを食いどふしだから、元のもくあみになつた。」([夢酔独言 他] p.25)

伊勢を出た小吉は東行して、駿河の府中 (「駿府」つまり現「静岡市」) まで戻る (「夫からこゝで貰ひあそこで貰ひ、とふとふ空 (から) に駿河の府中迄かへつた。なにをいふにも、じゆばん壱枚、帯はなわを〆 (しめ)、わらぢはいつにもはゐたことも禰 (ね) へから、ざまのわるいこじきさ」[夢酔独言 他] pp.25-26)。そして、城の傍の馬場の入り口で一晩寝たところ、

翌日、朝早く侍が十四、五人来て、借馬のけいこをしていたが、どいつもどいつもへただが、夢中になつて乗つていおるから、おれが目をさましておきあがつたら、馬引どもが見おつて、「爰 (ここ) にこじきが寝ていおつた。ふていやつだ。なぜ囲ひの内へ込 (へえ) りおつた」とさんざんしかりおつたが、いろいろわびをして其の内にかゞんでいて、馬乗を見たが、あんまりへたがおゝひからわらつたら、馬喰共が三、四人でしたゝかおれをぶちのめして外へ引づり出しおつた。おれがいふには、「みんなへただからへただといつたがわるいか」と大声でがなつたらば、四十ばかりの侍が出おつて、「これ、こじき。手前はどこのやつだ。子蔵 (こぞう) のくせに、侍の馬に乗るをさつきからいろいろといふ。国はどこだ。いへいへ」といふから、おれが、「国は江戸だ。それに元からこじきではない」といつたら、・・・
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.26-p.27 (なお、「借馬」は「駆馬」のつもりだろう)
驚くべきことに、この後、小吉は馬に乗せてもらい、さらに「四十ばかりの侍」の自宅で食事を得て、暫く滞在している。

つまり、勝小吉自身が、自らを「江戸」のものだと言っているのである。

その後、小吉は、「おれが腹の内でおもふには、こんなうちにしんぼうしていてもなんにもならぬから、上方へいきて、公家の侍にでもなるほうがよかろふとおもひて」([夢酔独言 他] pp.28)、再び西へ向かい、途中四日市で「村田」と再開して、ともに伊勢に向かう。しかし、四国の金比羅宮へ行くと云う「村田」とは、伊勢山田で別れて、小吉は伊勢で十日ほど滞在したあと、四日市方面に戻りはじめるのだが、四日市の手前伊勢白子と云うところで、重病に陥り、動けなくなる。

おれは伊勢に十日斗りふらふらしていたが、だんだん四日市の方へかいつて来たら、白子の松原へ寝たばんにづゝうが強くして、ねつが出てくるしみしが、翌日には何事もしらずして松原に寝ていたが、二日ばかり立ちて漸々人心地が出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日ばかり水を呑んで、よふよふ腹をこやしいたが、其の脇に半町斗り引こんだ寺があつたが、そこの坊主が見付けて毎日毎日麦の粥を呉れた故、よふよふ力がつゐた。
二十二、三日ばかり松原に寝ていたが、坊主がこも弐枚呉て、「壱枚は下へひき、壱枚は夜かけて寝ろ」といつた故、其通りにして、ぶらぶらして日をおくつたが、二十三日めごろから足が立つたゆへ、大きにうれしく、竹きれを杖にして少しづゝ歩行た。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.29-p.30

その後、寺に礼にいって、そこでも、古い笠と草鞋、そして100文を貰った小吉は、再出発するが、再び病気に倒れたりする。が、たまたま知り合った乞食仲間の看病で持ち直して、七月には駿府に戻る。そこで二丁町の廓の客から食事や銭、更には衣服を恵んでもらうが、その勧めにより木賃宿にとまり初め、その宿代等が払えなくなり、退去して三度目の西に向かう。しかし石部 (東海道石部宿?) 迄来た時、九州秋月藩江戸下りの「長持の親方」(「江戸下り」とは江戸に向かうこと。「長持の親方」とは今で言う運送業者だったのだろう) に逢い、その勧めに従って上方へ行くのを諦めて江戸に戻ることにするが、駿府で「親方」達は博奕のことで喧嘩をしていまい、それがもとで、小吉を江戸に連れて行くことをやめてしまう。そこで、小吉は一人で江戸に帰るのだった (閏八月)。

この家出の途中、時には、番太郎に六尺棒で殴られて卒倒すると云うような経験もしてはいるのだが、その一方で、上記のように、実に様ざまな人に助けられる。

実は、勝小吉には、「夢酔独言」より先に「平子龍先生遺事」と云う著作 (東洋文庫の [夢酔独言 他] に「夢酔独言」と共に収められている) がある。[平子龍] とは勝小吉が私淑した「武辺者」の御家人で、伊賀衆の一人だった平山行蔵であるが、平山に、十四歳の家出の物語にも (出来事の順序が [夢酔独言] とはかなり食い違っているのだが)、やはり勝小吉が様ざまな人に助けられたことが述べられているが、その局面において、小吉が出身を尋ねられた時の返答で、小吉が本所を「江戸」の内だと思っていたことが窺える記述が出てくる。

されどこれまで来りし事故、とてもの序に中国四国九州までも廻り見申すべしと存じ、石部まで上りしに、日向秋月侯の江戸下りと見え、長持の宰領三人参りかゝり、或茶屋に休み居けるが、拙者を見て、其方は煩ひしや。ことの外やつれしな。何にもせよ食事を与へ申すべし。此方へ参り申すべしと申す故に、側へ参りしに、手前は江戸か、江戸は何れの所と尋ねしに、拙者申すは、生国は江戸にて、道中にてごまのはいに逢ひし由咄しければ、それは気の毒なことなり。もしこれより江戸に帰りたくば、我等が連れ行き遣すべし。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.143-p.144
それより又々以前の通り乞食致し、駿河市中を歩行し、十五日も同所に逗留し、貰ひし銭は残らず遣ひなくし、或日ふと同所二丁町の廓へ貰ひに行きけり。或家にて近辺の田舎者女郎を揚げ居りしが、拙者を見て声を懸け、手前は伊勢参りと見えるが、襦袢一つにてさぞ困るべし。この単物も遣すべしとて、女郎に何やらさゝやきしが、女の単物の袖口に緋縮緬の付け候を出して、是を着候へ。食事杯も不自由なるべし、沢山たべ候へとて、いろいろとくれ候て、手前は江戸のいづこと尋ね候故に、本所の由答えければ、町人か武士かと申す。町人の子の由答ふ。いやいや武士の子なるべし。最前より手前が物言聞くに町人ではなし、早く江戸へ帰るべしとて、銭三百文くれ申候。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.144-p.145

勿論、勝小吉の相手になったのは、今で言う「地方」の人々だった。だから、発言時に江戸時代の江戸おける「大川」の持っている重要な意味合いを顧慮する必要はなかったろう。しかし、[夢酔独言] では自分の子孫に読まれることを想定していたし、更に [平子龍先生遺事] において勝小吉が語った相手は、四谷伊賀町に住んでいた。従って、当時にあっては、住民感覚において本所を江戸の内として一笑に付されるようなことはなかったと判断してよい。

ついでに書いておく。[夢酔独言] の自序末尾で「おれは今までも、なんにも文字のむづかしい事はよめぬから、こゝにかくにもかなのちがひも多くあるから、よくよく考えてよむべし」(東洋文庫 [夢酔独言 他] p.10) とあるが、確かにその通りで、読んでいて首を傾げたくなるところが、所どころにある。しかし「よくよく考えて」みると、文意が通じてくるところがあるし、いくら考えても分からないところもある。それを、自序に限って纏めておく。

  • p.5, l.4 「或は法悪しく」: この部分は自筆本の影印が見開きにあって、そこを見ると「ぼう悪くし」(「悪」は「あ」) のような気がする。つまり「暴悪し」なのではないか。もっとも、影印に濁点がハッキリ記されているのが奇妙と言えば奇妙なのだが。。。
  • p.5, ll.7-8「どんよくきようふしや故に」:「貪欲驕奢故に」
  • p.5, l.11「募悪の中よりして」:これは分からない。ただし司馬遼太郎は「竜馬がゆく」のなかで、この「募悪」を、上記の「法悪しく」と共に、「暴悪」と理解していた節がある。文春文庫 [竜馬がゆく (三)] p.155 参照。
  • p.6, l.2「息子がしつまい (実米?) 故に」:括弧内注記は編者 (勝部真長) によるもの。「しつまい」は、「実米」でなくて、恐らく「実明」(「実直」を意味する江戸弁) だろう。勝小吉は、実際には「ジツメー」と発音したのではないか。ちなみに、司馬遼太郎の引用では「意味不明」と注記されている。文春文庫 [竜馬がゆく (三)] p.156
  • p.7, l.4「俊ぽくの仁」:「淳朴の仁」か。(「仁」は「人」の意)。
  • p.7, ll.6-7「文武をもつて農事とおもふべし」:「農事」は「能事」だろう。ただし l.9 の「農事」は、そのママで可。
  • p.9, ll.10-11「万事きかつにうれゐわすれ」:「きかつ」は「うかつ」?
  • p.9, ll.12-13「美味をくらいうし」:「くらいうし」が分からない。「くらいどおし」?

一応断わっておくが、ここで「江戸」と呼んでいるのは徳川家康入府以降の「江戸」である。北条 (所謂「後北条氏」) の「江戸」は、別に論ずる必要がある。

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メモ: xyzzy の KaTeX モード。特に katexmth.l に就いて

かなり大きな tex ファイルの編集をし始めたので、TeX システムを更新し、合わせて、xyzzy に KaTeX モード (Thu Oct 11 2008 Version 1.67.1.12) をインストールした。

「や、此は便利だ」と下中濔三郎ばりの台詞を呟きたくなるほど、入力が楽だ。

しかし、便利な分だけ、瑕疵が、と言うか、私の「癖」との相性が気になる (KaTeX の使いやすさの一部は、私の癖を覚えさせた xyzzy 上で動くことによっている)。

で、まぁ、どこが不満かと云うと、取り敢えずは、数式モードで ;l と入力すると \ell と変換されることだった。これは dvi ファイルでは、所謂「リットルのエル」に変換される。スクリプト体のエルなど、あまり使うことはないと云う気がするので (大体、小学校の算数の教科書で最初に出会った時に感じた、前後の書体とそぐわない気持ちの悪さが忘れられない)、ここは \log が出るようにしたいと思ったものだった。

何とか直せないかな?

しかし、少し調べてみると、そして、もっとも直接的には katexmth.l の中を覗いてみると、【イメージ補完の追加方法】と云うコメントがあった。曰わく:

;;;	  標準のイメージ補完では、「;」で始まる数式記号補完と、「:」で始
;;;	まるギリシャ文字補完が使用可能ですが、これ以外の文字で始まる補完
;;;	シリーズも定義することができます。例えば、「,」で始まる次のよう
;;;	な補完シリーズを定義する場合を考えてみます。

で以って、そこに書いてあることに従って .xyzzy に

; 関数補完
(setq KaTeX-math-funcs-list
      '(("l"	"log")
	("as"	"arcsin")
	("ac"	"arccos")
	("at"	"arctan")
	("ch"	"cosh")
	("ln"	"ln")))

;補完用変数の登録
(setq KaTeX-math-key-list-private
      '(("," . KaTeX-math-funcs-list)))

と追加してみたのだが、何も起こらない (katexmth.l には「これらを ~/.emacs に書いておけば、math-mode で自分専用のイメージ補完が利用できます」とあるが、ここは断然 ~/.emacs を ~/.xyzzy と読み替えるべしだろう)。

結局、「;l で \log を出させる」その他の、私好みへの変更は、katexmth.l 内のリストを修正することで済ませたが、何となく釈然としない気分だ。「どこが悪いのかなぁ」と思いつつも、原因を特定できないでいるので、時々、ネット内を参考となる情報を求めてウロウロする (そう言えば、[ユーザー辞書] が出来ているのか出来ていないのかハッキリしないのも気にかかっている)。

そうしているうちに、KaTeX の親ソフトである YaTeX に就いて、以下のような注意に出会った。

§8 yatex/yatexmth.el について注意すべきところ
\bigtriangleup に対応するキーの /\- は /\\- の間違いじゃないかと思う。なぜなら /\- のままだと \leftharpoonup のキーである /- と衝突してしまうから。よって必要ならソースを修正して使ったほうがよい。
--YaTeX マニュアル

「あぁなるほどね」と思ったので、私の katexmth.l も修正した。

どうでもいいことなんだが、ついでなので書いておく:

YaTex と KaTex はひらがなで「やてふ」・「かてふ」と表記されたりする。ま、これ以外のひらがな表記はあり得ないだろう。で、これに漢字を当てて、「野鳥」・「花鳥」が使われていたりするのだ。

何らかの諧謔であるのだろうから、小言幸兵衛ばりに目くじらをたてるは薄みつともないとは思うのだが、「野鳥」・「花鳥」の「歴史仮名遣ひ」は「やてう」・「くわてう」であって「やてふ」・「かてふ」ではない。

「野鳥」はともかく、「花鳥」は「花鳥風月」という成句があるくらいで、人口に膾炙した表現なので、やや気になるのだ。

そう言えば、江戸時代の吉原に「花鳥」と云う花魁がいたそうな。自らの見世に火を放って捕えられ、当然火焙りになるところを、何故か八丈島に流されたのだが、その八丈から、佐原喜三郎らと「島抜け」をして (八丈島からの島抜けのたった一つの成功例の由)、挙げ句、再度捕えられて、山田浅右衛門に首を刎ねられたと云う。(岡本綺堂に「大阪屋花鳥」の一篇がある。[花鳥] は、子母沢寛の「真説・"座頭市"物語」の中でも触れられている。)

「てふ」に漢字を当てるなら、取り敢えずは「蝶」かなぁ。安西冬衛に [春] と云う一行詩があるのは良く知られている。



てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

--安西冬衛/[軍艦茉莉] (1929)

でも、「か」には、巧い言葉が思いつかない。「佳」とか「夏」とか、あることはあるのだが、釈然としない。「鹿」も、歴史仮名遣ひで「か」だが、「鹿蝶」だと、すぐ「猪鹿蝶」と混ぜっ返されそうだ。

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長唄「都鳥」: たよりくる 船の内こそ ゆかしけれ 君なつかしと 都鳥...河上遠く 降る雨の 晴れて 逢う夜を 待乳山

数時間前 (2009/03/08 18:43:25) に、キーフレーズ [待乳山、逢ふて、うれしき、あれ、みやしゃんせ] でこのサイトを訪問された方がいらしたようだが、ここに限らずはかばかしい結果は得られなかったのではなかろうか。

問題のキーフレーズは、恐らく長唄の「都鳥」の一節と思われるので、そちらに重点を移して検索することをお薦めする。

例えば、グーグルで [長唄 都鳥] を検索するとヒットする [nagauta] と云うウェブページが参考になるのではないかと思われる。

その「都鳥」の項に、次のようにあった:

都鳥

(本調子)たよりくる、船の内こそ、ゆかしけれ、君なつかしと、都鳥(合)幾代かここに、隅田川は、往来の人に、名のみ問はれて(合)花の蔭、水に浮かれて面白や(合)河上遠く、降る雨の(合)晴れて、逢う夜を、待乳山、逢ふて嬉しき、あれ見やしゃんせ、つばさ交はしてぬるる夜は、いつしか、更けて、水の音(合)思ひ思ふて、深みぐさ、結びつとひつ、みだれ逢ふたる、よもすがら、早やきぬぎぬの、鐘の声(合)憎やつれなく、明くる夏の夜

解説

 安政二年、二代目杵屋勝三郎の作曲で、清水清玄と桜姫の書き替え狂言である、(以下略)
--nagauta


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今日は初午。練馬区高松の地口行灯

東京都練馬区高松に、所謂「激安スーパー」である [業務スーパー練馬店] (東京都練馬区高松3-21-18) があって、時時買い物をする。だから、その敷地の中に、恐らく以前はそこに大きな屋敷 (農家) があっただろう名残と思われる稲荷祠があることには気が付いていた。

いま google map のストリートビューで確認してみたら、看板や木が邪魔をして屋代そのものは見えづらいのだが、鳥居ぐらいは見ることができた (航空写真では、屋代の赤い屋根が見える)。

その [業務スーパー] に、たまたま昨日今日 (2009年2月5日・6日) と行く用事があったのだが、その「お稲荷さん」に地口行灯 (地口行燈) が五・六灯飾ってあったのだな。「ああ。そう言えば、もう初午なんだな」と思ってしまった。調べてみたら今日 (「こんにち」と読んでいただきたい) 2月6日が初午だった。

しかし、顧みてみると、初午に地口行灯が飾ってあるのを実見したのは初めてかもしれない。子どものころ見たことがあるかもしれないのだが、だとすると、忘れてしまっている (そう言えば、去年だったか一昨年だったか、板橋の下頭橋の豊敬稲荷だったかの前を初午の日に通りかかったら、太鼓が柵柱に吊り下げてあって、誰でも叩けるようにしてあったのを見た記憶があるが、その時にも地口行灯はなかったようだ)。

勿論、地口行灯そのものは、北千住の商店街や浅草寺門前の伝法院通りで見かけたことがあるのだが、あれは観光用であって常時掲げられており、初午とは関係ない。

今日見た地口行灯で私が読み取れたものはたった二つで、曰わく「小狐三本桜」と「狐道成寺」だけだった。まぁ「義経千本桜」と「娘道成寺」ぐらいなら私でも知っていると云うだけのことなのだが、そのほかも全て「狐」で通しているらしかった。かってそう云う風習があったのだろうか。浅学にして、その有無を承知しないのが残念である。

原稿を書いているうちに日付が変わってしまったが、このまま投稿することにする。

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本所の北斎その他

[江戸/本所](2004年8月21日付)に書き損ねましたが、本所にゆかりの人と言えば、葛飾北斎がそうですね。1760年(宝暦10年)9月 [本所割下水] (「北割下水」と区別して言うなら「南割下水」)の生まれ、と、されています。彼が、自らの画号に 一時期[葛飾] と云う土地呼称を被せたのは、少なくともその当時、[武蔵国豊島郡江戸] に対する [下総国葛飾郡本所] の生まれであることを意識していたからでしょう。

勿論、周知の如く、彼は画号を頻繁に代えており、我我にとって最も馴染み深い「葛飾北斎」にもそれほどの執着があったとは思われませんけれども。何しろ、生涯に使った画号の数は三十ほどに及び、晩年には「前 北斎 卍」とか、更には「前 北斎 改 画狂老人 卍」などと称したと言います。

何だか、"the Artist Formerly Known As Prince" みたいで楽しい。[以前北斎として知られていた画狂老人 卍] なんてね。でも、改名の果ての「卍」と云うのは興味深いですね。よく知られているように、[元プリンス] にも「発音不能」と称する、オス記号 ♂ とメス記号 ♀ を組み合わせて図案化したと思われる記号があります。
「発音不能」と言ったって、これは [元プリ] が命名を忌避したと云うことなんだろう。そんなこと言っても、「命名」は必然で、[以前プリンスとして知られていたアーチスト]と云うメタ言説的な指示子が、表層言説に繰り込まれてしまう。それかあらぬか、[元プリ] は、元の木阿弥ならぬ只のプリンスに戻った。

「卍」にしろ、[元プリンス] glyph にしろ、ウロボロスを連想させるのは、注意しておいて良い暗合でしょう。

脱線ついでに書いておくと、Bangles の "Manic Monday" は、彼が(pseudonym を使って)作ったとのこと。


時代は下がって、五代目古今亭志ん生の極貧時代、志ん生一家が住んだのが、本所業平橋の所謂「なめくじ長屋」。志ん生も、改名と転居を繰り返した人だった。まぁ、彼の場合は、「これも貧ゆえ」と云うことだったらしいけれど。


本所回向院に墓所がある山東京伝(弟の山東京山も)や鼠小僧、そのほか、やはり本所に縁がある河竹黙阿弥、三遊亭圓朝、長谷川平蔵、遠山金四郎、柳亭種彦。これらは、ただ名前だけを記しておきます。


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江戸/本所

[NIFTY翻訳フォーラム投稿(1998年1月7日?)]で、「[本所]は、お江戸のうちではない」と書いたのは、失言だったと反省しています。

ただ、単純に取り消す気にもならないのです。

そこら辺の私の気分を纏めることが、今、出来ないので、参考になりそうなリンクのリストだけでも作ろうとしたのですが、これも旨くいかない。従って、そうしたことを一切諦めて、調べているうちに気になったサイトを、主題の統一性や個個の内容の精粗を無視して、列挙しましょう。

1. 江戸の範囲
それでも、「江戸の範囲」の [公式見解] といった感じのもの挙げておく必要があるでしょう。それが、例えばこの東京都公文書館の公式サイトに書かれている説明。

文政元年 (1818) 8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。 「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。 この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。 その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。

東…中川限り
西…神田上水限り
南…南品川町を含む目黒川辺
北…荒川・石神井川下流限り

これは、寺社勧化場と札懸場の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
現在の行政区画でいえば、次のようになります。
千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区
品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区

東京都公文書館の公式サイトより, http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/edo.hani.htm

2. 江戸 - Wikipedia
[江戸の範囲] だけでなく、[江戸の歴史] や [江戸の都市計画] に就いても触れられています。

この記事が書かれている "Wikipedia" に就いては「Wikipedia:ウィキペディアについて」を参照。「ウィキペディア内の全ての記事はコピーレフトなライセンスの GNU Free Documentation License によって保護され、永久に「フリー」であることが保証されています。」とのこと。英語版ドイツ語版フランス語版中国語版などの非常に多くの言語(ラテン語版や、サンスクリット語版まである)で活動が進められているのだそうです。

3. 下町探偵団
これも[江戸の範囲]の話。隅田川の東側(今の江東区・墨田区あたり)が江戸にはいるかどうかに就いて。

4. 江戸時代の東京
森ビルが提供しているサイトに含まれている。江戸の全体的地形・都市構成の変遷がわかる地図多数。

5. 江戸時代に赤羽は「江戸」の内だったか
「赤羽」は、[東京都北区赤羽]。

6. 史料リスト・江戸時代細分
1603年~1867年までの史料を纏めたもの。これは、FUJIMAKI Sachio さんのサイト、聚史苑の下にある
日本史研究参考基礎史料一覧の一部。

7. 江戸期に「藩」はなかった? -○○藩と呼ばれる機構について-
こんなことが書いてありました。


  1. 現在、我我が「藩」と呼んでいる組織は、江戸時代、公式には「藩」と呼ばれたことはなかった。「藩」が公式名称化したのは、明治の版籍奉還後。

  2. 蝦夷松前の松前家は無高、下野喜連川の喜連川家も五千石だったが大名とされていた。これに対して、御三卿の一橋、田安、清水家は十万石だが大名とはされないのが普通。

8. 江戸の資料・基本用語
1955年TV時代劇草創期に演出家が使用した覚え書きノート。「正確な歴史資料ではなく、あくまでも時代劇の資料」

9. 本所の吉良屋敷, - Wikipedia
吉良屋敷について「『 松坂町二丁目』という住所を示すものも多い。ところが、武士の居住地には、住居表示のための住所というものはなかった。それに、松坂町は討入事件の4年後についた町名で、吉良屋敷があった場所は松坂町二丁目だけではなく、一丁目の一部も含む。」
これに関連して [元禄赤穂事件 - Wikipedia] の項も参照。

10. 勝小吉
勝小吉の自伝「夢酔独言」や子母沢寛の小説・エッセイに就いての感想が書かれています。

11. 本所両国
芥川龍之介のエッセイ。「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。」

12. 明治の東京
馬場孤蝶のエッセイ。

昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であつたといはれた。なほ窮迫の度の増すに従ひ、更に奥へ奥へと引つ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさへ、その家運衰退の度合ひが明らかに看取されるといふのであつた。即ち、初め両国橋を越える荷車には、まだしも少しは見栄えのする物が積まれてゐるのであるが、次の場所へと向ふ車上には、次第にガラクタの数さへ減つて行くといふのであつた。」「『南向茶話』の一節には、本所は本庄といふのが古い名であつて、今の信越線の熊谷の先きに本庄といふ地名があるので、同名を嫌つて、元禄年中本所と改めたとある。


それから、これは、1998年の投稿時点では、話が散らかるので書かなかったことですが、今の東京で、私が町なかを歩っている限り(まぁ、酷く狭い範囲なんですが、とにかく)、行き交う人々の言葉尻や態度に、昔の東京(江戸とは言わない)の雰囲気が一番残っているのは、墨田区とか江東区、以前の言い方で言えば、向島、本所、深川なんです。

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