カテゴリー「歴史」の13件の記事

坂本龍馬の西郷隆盛評

坂本龍馬の西郷隆盛評「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」が、[礼記] 中の [学記第十八] の一節を踏まえた表現であることは、知っている人なら知っているだろう。

これが、[学記] とは別に龍馬の独創であったかもしれぬと云う想像は、論ずるに値しない。同じく [礼記] から特に挙げられて、[四書] 中に並べられている [大学] 及び [中庸] ほどではないにしろ、[礼記] 全体が [五経] の一つなのだから、儒教思想の根幹をなしている。また、卑近な例でいえば、[学記] は、人口に膾炙する「玉、みがかざれば器とならず。人、学ばざれば道を知らず」の出典でもある。「偶然の一致」とするのは迷妄にしかなりえない

ただ、だからと言って、龍馬が [礼記] なり、あるいは、その一篇としての [学記] を手に取り「勉強」したことがあるかどうかは、私には断定できない。しかし、そのことは問題にならない。龍馬が所属していた社会集団は、当然何重にも交錯していたはずだが、そのうちの「思想性」が接着剤となる集団では、その基本リテラシの中に、教育理念の祖型として「礼記」が組み込まれていに違いないからだ、たとえ、「机に向かって勉強」したことがなくとも、所謂「耳学問」をしていたことはありうる。

脱線するが、「玉、みがかざれば器とならず。人、学ばざれば道を知らず」は、昭憲皇太后御歌 (明治20年 [女子学習院] に下賜と云う事実を踏まえるなら「皇后御歌」の方が適切かもしれない。もっとも「皇太后」と云う追号に就いては、「イキサツ」があったらしい。参照: Wikipedia「昭憲皇太后」)「金剛石もみがかずば、珠のひかりはそはざらむ。人もまなびてのちにこそ、まことの徳はあらはるれ」の出典であるのも論を俟たない。皇太后 (又は、その「ブレーン」) が、[学記] を踏まえて詠んだものなのだろう。ちなみに、[学記] 原文は、「玉不琢、不成器、人不學、不知道」(明治書院「新釈漢文大系28」[礼記中] p.543)。

そもそも -- などと大仰なことを言ってしまって申し訣ないが -- 問題の「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」の「元ネタ」自体が、諸橋轍次の[中国古典名言事典]に採録されている (講談社学術文庫版 p.276)。「折紙」付の「名言」である訣だ。

話が後先になった。肝心の原典を示すことにしよう。

善待問者、如撞鐘、叩之以小者則小鳴、叩之以大者則大鳴
善く問を待つ者は、鐘を撞くが如し、之を叩くに小なる者を以てすれば則ち小さく鳴り、之を叩くに大なる者を以てすれば則ち大きく鳴る。
--明治書院「新釈漢文大系28」[礼記中] p.552

そして、龍馬の西郷評として知られているものは、次の勝海舟の「雑談」に由来する。

坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行つて会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやつたが、その後、坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。
--講談社文庫 (勝海舟) [氷川清話] 「西郷隆盛」p.60 (私の手元にあるものは、40年ほど前に発行されたもので、多分現在絶版。後継の版が、講談社学術文庫に収められているようだ。なお、引用文中「しばしば」及び「なかなか」の後半は、原文では「踊り字」の「くの字点」)

しかし、私に言わせれば、この西郷評の眼目は、「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と云う cliché ではない。核心は、「西郷といふ奴は、わからぬ奴だ」、そして、「馬鹿なら大きな馬鹿、利口なら大きな利口」の方だ。これは、勿論、西郷を大いに褒めている訣で、それは、この表現のネガ「西郷といふ奴は分かりやすい奴だ」と「馬鹿なら小さな馬鹿、利口なら小さな利口」を考えてみれば良い。だからこそ、西郷贔屓の勝安房守が「なかなか鑑識のある奴」とご満悦だった訣だ。

実際、龍馬の西郷評の後で、海舟自らが「答え合わせ」をするように「西郷は、どうも人にはわからないところがあつたヨ。大きな人間ほどそんなもので……小さい奴なら、どんなにしたつてすぐ腹の底まで見えてしまふが、大きい奴なるとさうでもないノー」と語っている。--講談社文庫 (勝海舟) [氷川清話] 「西郷隆盛」p.61

逆に言えば、「西郷贔屓」である勝を得心させるようなコースの変化球として、龍馬は自らの感想を海舟の心の中に投げ込んだと言える。勿論、これは単純な追従といったレベルのことではなくて、海舟と云う「師匠」と龍馬と云う「弟子」の間に孕む緊張感が許す細いただ一本の糸のようなコースであっただろう。

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メモ:高田衛「国文学者の想像力」(日本經濟新聞 2006年6月3日)

日本經濟新聞 2006年6月3日 (日) 第45378号第32面 (文化) に掲載された、高田衛 (たかだ・まもる) 「国文学者の想像力」は読み応えがあった。

文化五年 (1808) 年正月下旬、時の勘定奉行 [松平信行] (1746--1821)が、身分を隠して、飯田町中坂 (現在の千代田区九段北辺り) に住んでいた [滝沢馬琴] (明和4年6月9日/1767年7月4日--嘉永元年11月6日/1848年12月1日) を突然訪問したが、馬琴は不在だった。訪問者は、懐紙に次のようにしたためて、馬琴の妻 [お百] に托す。

実は、松平信行は、かって元服前の馬琴が仕えていた主人だったのだ。しかし、彼は、父の死去に際して俸禄を半減した主家に落胆した兄が主家を去ったために家督を受け継いだものの、信行の子 [八十五郎] の横暴な振る舞いに堪え兼ねて十四歳の安永9年 (1780年) 十月に主家を退転してしまっていた・・・

  木がらしに
  思ひ立ちけり神の旅

といひし言の葉のむなしからで、今は東都にその名高し。

  名のらずに
  しる人ぞしる梅の宿

 

[ゑ]付言:「木枯らしに」云々は、滝沢少年が主家を脱走した際に、自室の障子に書き残した訣別の辞。

28年の歳月の後、かっての小身旗本は違例の出世を遂げて勘定奉行として幕府の中枢にある一方、その児小姓 (元服前の小姓) は、江戸で隠れもない戯作者に変身していた。

松平信行の行動は、今で言う「著名文化人」となっていた、過去の出奔者滝沢某に対して関係修復を図り、あわよくば、自家に取り込もうとする底意があったのだろう。それに対して、馬琴は一度は主家で催された小宴に伺候したものの、それ以降は息子を代理に立てて、自らは主家に赴くことは無かったと云う。

高田衛は、文章をこう結んでいる。

旧主家に対する敵愾心と、旧主家筋の権力性の対する誇りとの、隠された両義的な心情が、この戯作者の、『南総里見八犬伝』をはじめとする天下国家に立ち向かう物語の数々の見えない背後にあるように思われるのである。

老いた国文学者の想像は拡がる一方である。

 

[ゑ]付言:「旧主家筋の権力性」とは、松平信行の本家の当主が、天明から亨和、そして文化年間死去するまで老中として権勢を揮った [松平信明] (宝暦13年2月10日/1763年3月24日 -- 文化14年8月16日/1817年9月26日) を念頭に置いている。そして、高田衛は、松平信行の滝沢馬琴訪問の影に、この松平信明か、或いは、[根岸鎮衛] --[耳嚢] の著者-- の存在を推定している。

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勝小吉の「江戸」([江戸/本所] 補足)

これは、本ブログの記事 [江戸/本所] (2004年8月21日 [土]) への補足である。[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1998年1月7日?)]) (2004年7月18日 [日]) や [本所の北斎その他] (2004年9月16日 [木]) にも関連する。

天保の改革の際に禁足 (「押し込め」) 処分を受けた勝左衛門太郎惟寅が、処分解除後に郊外の鴬谷 (一般的な地名で言えば「根岸」と云うことになるのだろう) に隠居して [鴬谷庵] を結び [夢酔道人] と号して、その半生の記 [鴬谷庵独言]、所謂 [夢酔独言] を著わしたことは良く知られている。

大名貸しを営んでいた検校の末子として生まれ、その莫大な遺産を使って養子になる形で幕臣 (当初御家人、後に旗本) となった父、男谷平蔵 (おだに へいぞう) の三男 (妾腹) であった幼名亀吉はどうしようもない悪童で喧嘩に明け暮れ、悪戯を繰り返した。

どうやら、亀吉の生母は男谷平蔵の忌避にあったらしく、男谷家を出されたために、彼は生母の実家で生まれたのだが、平蔵の正室が強ひて引き取ったらしい。そのために、かえって、平蔵の正室 (亀吉が言う「本とふのおふくろ」) は夫に対して、亀吉のことを批判がましく言う訣にいかなかったようだ。

おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能よく不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝおやがおやぢの気にちがつて、おふくろの内で生れた。それを本とふのおふくろが引き取つて、うばでそだてゝくれたが、がきのじぶんよりわるさ斗 (ばか) りして、おふくろもこまったといふことだ、と。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.11-p.12
おふくろは中風と云ふ病ひで、たち居が自由にならぬ。あとは皆女斗りだから、ばかにして、いたづらのしたいだけして、日をおくつた。兄きは別宅していたから、なにもしらなんだ。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.12
出勤する父親と、用人の「利平治と云ぢゝい」に就いては、この前に触れてあるので、「あとは」では、この二人は除いてある。勿論、「利平ぢゝ」は、亀吉のことを平蔵に告げ口するようなことはない。
逸躰 (いつたい) は、おふくろがおれをつれて来た故、親父には、みんなおれがわるいいたづらは、かくしてくれた。あとの家来は、おふくろをおそれて、親父におれがことは少しもいふことはならぬ故、あばれほふだい育った。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.13

これは、亀吉が、男子の無かった御家人勝家に婿養子に入り、名を勝小吉と改めた (数え七歳) 後も、全く変わらなかった (勝家を継いでからも、油掘の男谷家で暮らし続けたのである。「油掘」は、現首都高深川線の下を、隅田川近辺から木場近辺の間を流れていた「十五間川」のこと)。男谷家そして当然「勝小吉」は、小吉八歳の時に本所亀沢町 (現在の「墨田区亀沢」とは異なる。今の住居表示では「墨田区両国4丁目」付近らしい) に転居する。そこでも、小吉の素行は全く収まらず、十歳から始めた乗馬に夢中になって、「学問」には目も呉れなかった (十六歳になっても、勝小吉は自分の名前が書けず、必要がある時は、人に頼んで書いてもらったと云う)。そして、十四歳には上方方面へ出奔して4ヵ月放浪する。その後、兄の任地である信州へ同道したり、兄の家の庭に建てた家で所帯を持ったり、2度目の出奔後、父の隠宅の座敷牢に3年ほど入れられたりしたが (二十一歳から二十四歳。この間、息子の麟太郎、つまり「勝海舟」 が生まれている)、二十四歳の時、独立して本所割下水に移り、更に二十九歳からは本所入江町 (現在の住居表示では「墨田区緑町四丁目」付近、つまり大横川沿い) で暮らすようになった。その間、そして、その後も喧嘩を繰り返し、道場破りの元祖のようなことをして、本所・下谷・浅草界隈の「顔役」になっていく。

要するに、彼は、「本所の銕」ならぬ「本所の小吉」であった訣だ (小吉の父が「平蔵」であったのは、なにやら可笑しい)。

話柄がヤヤ外れるが、芥川龍之介が関東大震災後の本所・両国界隈をスケッチした、タイトルもそのまま [本所両国] とする雑文がある。その末尾に、探訪後、芥川龍之介が家族と会話した内容を採録したものと思しいものが付されている (芥川龍之介は幼少のころから、母方の実家であった本所小泉町の芥川家で育てられ、12歳には実際に養子入籍している。ここの父・母とは、その養家でのことである)。

僕「『榛の木馬場 (はんのきばば)』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎が住んでいたことがある。」
僕「『割下水』もやっぱり変わってしまいましたよ。」
母「あすこには悪御家人 (わるごけにん) が沢山いてね。」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
--講談社文芸文庫 [大川の水・追憶・本所両国] p.129

面白いことに、芥川龍之介は「本所」を「御朱引外」だと勘違いしていたか、或いは、「御朱引外」も同然だと思っていたらしい。p.112 [大川の水・追憶・本所両国]
なお「榛の木馬場」は、現在の京葉道路と清澄通り (都営大江戸線) とが交差する当たりにあった。ここでは、勝小吉九歳の時、彼のイタヅラに腹を据えかねた子供や大人「四、五十人」が、本所横網にあった「柔術」の稽古場から帰宅途中の小吉を、待ち伏せして集まっていた所である。[夢酔独言 他] p.17-p.18
榛の木馬場とは、総武本線を挟んで北側に位置する、つまり、別の言い方をすると、都営大江戸線両国駅の西側にあたる、現江戸東京博物館及びその周辺一体に位置するところに幕府の米蔵があったが、もともとは竹や木のための倉庫であったので「お竹倉」と呼ばれており、周囲を掘割で囲まれていた (榛の木馬場で襲われた勝小吉が逃げ込んだのが、この掘割だった)。そして都営大江戸線両国駅付近 (江戸東京博物館と日大一高の境目) 当たりから東へ大横川 (現「大横川親水講演」) まで伸びていた排水路が「割下水」(現在の「春日通り」に重なる「北割下水」と区別する時は「南割下水」) である。現在は、埋め立てられて「北斎通り」と云う、他人事ながらヤヤ恥ずかしい名前が付けられていると云う。

とあるが、さしづめ勝小吉などはその「悪御家人」の筆頭であったのだろう。

その彼が、1度目の出奔をした時のことである。

十四の年、おれがおもふには、男は何をしても一生くわれるから、上方当りへかけおちをして、一生いよふとおもつて、五月の廿八日に、もゝ引をはいて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七、八両斗りぬすみ出して、腹に巻付て、先づ品川まで道をきゝきゝして来たが、なんだかこゝろぼそかった。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.22-p.23
「七、八両」は現代の感覚で言うと「40万円-50万円」ぐらいだと思う (あくまでも「その位の感じ」である)。

しかし、浜松で投宿した際、藤沢を過ぎたあたりから同行してきた町人の二人組みに、着物も有り金も盗まれてしまう。所謂「護摩の灰」だったのである。その時、宿の主人が、かれのことを「江戸っ子」と判断している。

亭主がいふには、「夫は道中のごまのはゐといふ物だ。わたしは江戸からの御連れとおもつたが、何にしろきのどくなことだ。どこを志してゆかしやる」とて、しんじつに世話をしてくれた。おれがいふには、「どこといふあてはないが、上方へ行くのだ」といつたら、「何にしろじゆばん斗 (ばかり) にてはしたがない。どふしたらよかろふ」と、十方 (とほう) にくれたが、亭主がひしやくを壱本くれて、「是まで江戸つ子が、此海道にてはまゝそんなことが有から、おまへも此ひしやくをもつて、浜松の御城下・在とも壱文づゝ貰つてこひ」とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方方貰つて歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文貰つて帰つた。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.23-p.24
「1文」は「10円」ぐらいだと思うと、「感じ」が分かるだろう。

「夢酔独言」の記述は、かならずしも時系列に沿っていないようで (小吉の記憶の間違いもあるかもしれない)、前後関係を穿鑿しても仕方がないところがあるので、そうしたことは気にしないで話を進めると、宿の亭主に「先づ伊勢へ行つて、身の上を祈りてくるがよかろふ」([夢酔独言 他] p.24) と勧められた小吉は、結局、伊勢に行き、そこでたまたま知り合った「江戸神田黒門町の村田といふ紙屋の息子」([夢酔独言 他] p.25) と云う乞食に教えられて、「抜け参り」の態で、龍太夫と云う御師から「一貫文」(1000文。なお、江戸時代当初の公定相場では1両が4000文だが、時代と共に、実勢レートは「両」が上昇していった。小吉が貰った「一貫文」は6分の1両ぐらいだと思っていいだろう。現代の感覚で言うと「1万円」ぐらい) 恵んでもらうが「夫から方々へ参つたが、銭はあるし、うまゐものを食いどふしだから、元のもくあみになつた。」([夢酔独言 他] p.25)

伊勢を出た小吉は東行して、駿河の府中 (「駿府」つまり現「静岡市」) まで戻る (「夫からこゝで貰ひあそこで貰ひ、とふとふ空 (から) に駿河の府中迄かへつた。なにをいふにも、じゆばん壱枚、帯はなわを〆 (しめ)、わらぢはいつにもはゐたことも禰 (ね) へから、ざまのわるいこじきさ」[夢酔独言 他] pp.25-26)。そして、城の傍の馬場の入り口で一晩寝たところ、

翌日、朝早く侍が十四、五人来て、借馬のけいこをしていたが、どいつもどいつもへただが、夢中になつて乗つていおるから、おれが目をさましておきあがつたら、馬引どもが見おつて、「爰 (ここ) にこじきが寝ていおつた。ふていやつだ。なぜ囲ひの内へ込 (へえ) りおつた」とさんざんしかりおつたが、いろいろわびをして其の内にかゞんでいて、馬乗を見たが、あんまりへたがおゝひからわらつたら、馬喰共が三、四人でしたゝかおれをぶちのめして外へ引づり出しおつた。おれがいふには、「みんなへただからへただといつたがわるいか」と大声でがなつたらば、四十ばかりの侍が出おつて、「これ、こじき。手前はどこのやつだ。子蔵 (こぞう) のくせに、侍の馬に乗るをさつきからいろいろといふ。国はどこだ。いへいへ」といふから、おれが、「国は江戸だ。それに元からこじきではない」といつたら、・・・
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.26-p.27 (なお、「借馬」は「駆馬」のつもりだろう)
驚くべきことに、この後、小吉は馬に乗せてもらい、さらに「四十ばかりの侍」の自宅で食事を得て、暫く滞在している。

つまり、勝小吉自身が、自らを「江戸」のものだと言っているのである。

その後、小吉は、「おれが腹の内でおもふには、こんなうちにしんぼうしていてもなんにもならぬから、上方へいきて、公家の侍にでもなるほうがよかろふとおもひて」([夢酔独言 他] pp.28)、再び西へ向かい、途中四日市で「村田」と再開して、ともに伊勢に向かう。しかし、四国の金比羅宮へ行くと云う「村田」とは、伊勢山田で別れて、小吉は伊勢で十日ほど滞在したあと、四日市方面に戻りはじめるのだが、四日市の手前伊勢白子と云うところで、重病に陥り、動けなくなる。

おれは伊勢に十日斗りふらふらしていたが、だんだん四日市の方へかいつて来たら、白子の松原へ寝たばんにづゝうが強くして、ねつが出てくるしみしが、翌日には何事もしらずして松原に寝ていたが、二日ばかり立ちて漸々人心地が出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日ばかり水を呑んで、よふよふ腹をこやしいたが、其の脇に半町斗り引こんだ寺があつたが、そこの坊主が見付けて毎日毎日麦の粥を呉れた故、よふよふ力がつゐた。
二十二、三日ばかり松原に寝ていたが、坊主がこも弐枚呉て、「壱枚は下へひき、壱枚は夜かけて寝ろ」といつた故、其通りにして、ぶらぶらして日をおくつたが、二十三日めごろから足が立つたゆへ、大きにうれしく、竹きれを杖にして少しづゝ歩行た。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.29-p.30

その後、寺に礼にいって、そこでも、古い笠と草鞋、そして100文を貰った小吉は、再出発するが、再び病気に倒れたりする。が、たまたま知り合った乞食仲間の看病で持ち直して、七月には駿府に戻る。そこで二丁町の廓の客から食事や銭、更には衣服を恵んでもらうが、その勧めにより木賃宿にとまり初め、その宿代等が払えなくなり、退去して三度目の西に向かう。しかし石部 (東海道石部宿?) 迄来た時、九州秋月藩江戸下りの「長持の親方」(「江戸下り」とは江戸に向かうこと。「長持の親方」とは今で言う運送業者だったのだろう) に逢い、その勧めに従って上方へ行くのを諦めて江戸に戻ることにするが、駿府で「親方」達は博奕のことで喧嘩をしていまい、それがもとで、小吉を江戸に連れて行くことをやめてしまう。そこで、小吉は一人で江戸に帰るのだった (閏八月)。

この家出の途中、時には、番太郎に六尺棒で殴られて卒倒すると云うような経験もしてはいるのだが、その一方で、上記のように、実に様ざまな人に助けられる。

実は、勝小吉には、「夢酔独言」より先に「平子龍先生遺事」と云う著作 (東洋文庫の [夢酔独言 他] に「夢酔独言」と共に収められている) がある。[平子龍] とは勝小吉が私淑した「武辺者」の御家人で、伊賀衆の一人だった平山行蔵であるが、平山に、十四歳の家出の物語にも (出来事の順序が [夢酔独言] とはかなり食い違っているのだが)、やはり勝小吉が様ざまな人に助けられたことが述べられているが、その局面において、小吉が出身を尋ねられた時の返答で、小吉が本所を「江戸」の内だと思っていたことが窺える記述が出てくる。

されどこれまで来りし事故、とてもの序に中国四国九州までも廻り見申すべしと存じ、石部まで上りしに、日向秋月侯の江戸下りと見え、長持の宰領三人参りかゝり、或茶屋に休み居けるが、拙者を見て、其方は煩ひしや。ことの外やつれしな。何にもせよ食事を与へ申すべし。此方へ参り申すべしと申す故に、側へ参りしに、手前は江戸か、江戸は何れの所と尋ねしに、拙者申すは、生国は江戸にて、道中にてごまのはいに逢ひし由咄しければ、それは気の毒なことなり。もしこれより江戸に帰りたくば、我等が連れ行き遣すべし。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.143-p.144
それより又々以前の通り乞食致し、駿河市中を歩行し、十五日も同所に逗留し、貰ひし銭は残らず遣ひなくし、或日ふと同所二丁町の廓へ貰ひに行きけり。或家にて近辺の田舎者女郎を揚げ居りしが、拙者を見て声を懸け、手前は伊勢参りと見えるが、襦袢一つにてさぞ困るべし。この単物も遣すべしとて、女郎に何やらさゝやきしが、女の単物の袖口に緋縮緬の付け候を出して、是を着候へ。食事杯も不自由なるべし、沢山たべ候へとて、いろいろとくれ候て、手前は江戸のいづこと尋ね候故に、本所の由答えければ、町人か武士かと申す。町人の子の由答ふ。いやいや武士の子なるべし。最前より手前が物言聞くに町人ではなし、早く江戸へ帰るべしとて、銭三百文くれ申候。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.144-p.145

勿論、勝小吉の相手になったのは、今で言う「地方」の人々だった。だから、発言時に江戸時代の江戸おける「大川」の持っている重要な意味合いを顧慮する必要はなかったろう。しかし、[夢酔独言] では自分の子孫に読まれることを想定していたし、更に [平子龍先生遺事] において勝小吉が語った相手は、四谷伊賀町に住んでいた。従って、当時にあっては、住民感覚において本所を江戸の内として一笑に付されるようなことはなかったと判断してよい。

ついでに書いておく。[夢酔独言] の自序末尾で「おれは今までも、なんにも文字のむづかしい事はよめぬから、こゝにかくにもかなのちがひも多くあるから、よくよく考えてよむべし」(東洋文庫 [夢酔独言 他] p.10) とあるが、確かにその通りで、読んでいて首を傾げたくなるところが、所どころにある。しかし「よくよく考えて」みると、文意が通じてくるところがあるし、いくら考えても分からないところもある。それを、自序に限って纏めておく。

  • p.5, l.4 「或は法悪しく」: この部分は自筆本の影印が見開きにあって、そこを見ると「ぼう悪くし」(「悪」は「あ」) のような気がする。つまり「暴悪し」なのではないか。もっとも、影印に濁点がハッキリ記されているのが奇妙と言えば奇妙なのだが。。。
  • p.5, ll.7-8「どんよくきようふしや故に」:「貪欲驕奢故に」
  • p.5, l.11「募悪の中よりして」:これは分からない。ただし司馬遼太郎は「竜馬がゆく」のなかで、この「募悪」を、上記の「法悪しく」と共に、「暴悪」と理解していた節がある。文春文庫 [竜馬がゆく (三)] p.155 参照。
  • p.6, l.2「息子がしつまい (実米?) 故に」:括弧内注記は編者 (勝部真長) によるもの。「しつまい」は、「実米」でなくて、恐らく「実明」(「実直」を意味する江戸弁) だろう。勝小吉は、実際には「ジツメー」と発音したのではないか。ちなみに、司馬遼太郎の引用では「意味不明」と注記されている。文春文庫 [竜馬がゆく (三)] p.156
  • p.7, l.4「俊ぽくの仁」:「淳朴の仁」か。(「仁」は「人」の意)。
  • p.7, ll.6-7「文武をもつて農事とおもふべし」:「農事」は「能事」だろう。ただし l.9 の「農事」は、そのママで可。
  • p.9, ll.10-11「万事きかつにうれゐわすれ」:「きかつ」は「うかつ」?
  • p.9, ll.12-13「美味をくらいうし」:「くらいうし」が分からない。「くらいどおし」?

一応断わっておくが、ここで「江戸」と呼んでいるのは徳川家康入府以降の「江戸」である。北条 (所謂「後北条氏」) の「江戸」は、別に論ずる必要がある。

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續日本後紀第九巻仁明天皇承和七年五月「庚辰。停五日節 以後太上天皇不豫也」

昨日遅く (2009/05/07 23:33:20)、キーフレーズ [庚辰。停五日節 以後太上天皇不豫也] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

或いは、既に目的の情報を得られているかもしれないが、一応書いておくと、この言葉の出典は續日本後紀卷第九の仁明天皇承和七年五月の条にあると思われる。

    参考になるかもしれないサイト:
  1. 久遠の絆ファンサイト IN 台湾新編 續日本後紀卷第九 仁明天皇
  2. XMLの日本古典への応用の試み続日本後紀
  3. 國學院大學デジタルライブラリー続日本後紀 巻五 Page 015

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今日は初午。練馬区高松の地口行灯

東京都練馬区高松に、所謂「激安スーパー」である [業務スーパー練馬店] (東京都練馬区高松3-21-18) があって、時時買い物をする。だから、その敷地の中に、恐らく以前はそこに大きな屋敷 (農家) があっただろう名残と思われる稲荷祠があることには気が付いていた。

いま google map のストリートビューで確認してみたら、看板や木が邪魔をして屋代そのものは見えづらいのだが、鳥居ぐらいは見ることができた (航空写真では、屋代の赤い屋根が見える)。

その [業務スーパー] に、たまたま昨日今日 (2009年2月5日・6日) と行く用事があったのだが、その「お稲荷さん」に地口行灯 (地口行燈) が五・六灯飾ってあったのだな。「ああ。そう言えば、もう初午なんだな」と思ってしまった。調べてみたら今日 (「こんにち」と読んでいただきたい) 2月6日が初午だった。

しかし、顧みてみると、初午に地口行灯が飾ってあるのを実見したのは初めてかもしれない。子どものころ見たことがあるかもしれないのだが、だとすると、忘れてしまっている (そう言えば、去年だったか一昨年だったか、板橋の下頭橋の豊敬稲荷だったかの前を初午の日に通りかかったら、太鼓が柵柱に吊り下げてあって、誰でも叩けるようにしてあったのを見た記憶があるが、その時にも地口行灯はなかったようだ)。

勿論、地口行灯そのものは、北千住の商店街や浅草寺門前の伝法院通りで見かけたことがあるのだが、あれは観光用であって常時掲げられており、初午とは関係ない。

今日見た地口行灯で私が読み取れたものはたった二つで、曰わく「小狐三本桜」と「狐道成寺」だけだった。まぁ「義経千本桜」と「娘道成寺」ぐらいなら私でも知っていると云うだけのことなのだが、そのほかも全て「狐」で通しているらしかった。かってそう云う風習があったのだろうか。浅学にして、その有無を承知しないのが残念である。

原稿を書いているうちに日付が変わってしまったが、このまま投稿することにする。

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「大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる」: ユリウス・カエサルの面前に抛り込まれた一句。

[Quintus Fabius Maximus (クィントゥス・ファビウス・マクシムス) の言葉] を書いたついでに、セネカの [怒りについて (De ira)] に就いてもう少し書いておく。

例えば、次のような一節がある:

また、恐怖はそれを起こさせる張本人に常に戻ってきて、恐れられる者自身が安心していられない。この事実はどうであろう。ここで君は、ラベリウスの次の詩の一句を思い起こすであろう。この詩が内戦の最中に劇場で朗読された時、それは全国民の注意を一身に集め、正に一般大衆の感情が声となって投げつけられたかの観があった。
  大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる。
--岩波文庫 33-607-2 [怒りについて] セネカ。訳:茂手木元蔵。1980年。東京 岩波書店 p.66

Quid quod semper in auctores redundat timor nec quisquam metuitur ipse securus? Occurrat hoc loco tibi Laberianus ille versus qui medio civili bello in theatro dictus totum in se populum non aliter convertit quam si missa esset vox publici adfectus:
  necesse est multos timeat quem multi timent.
--"De ira" LIBER II, Cap.xi 3
上記引用和訳文中、「この事実」は、前文に係る。上記訳文に従えば「恐怖はそれを起こさせる張本人に常に戻ってきて、恐れられる者自身が安心していられないと云う、この事実はどうであろう?」と云うこと("Quid quod" は、「と云う事実はどうだろう」と云う意の成句)。
"in se ... convertit" は「(自らに)注意を集める」、"non aliter quam" は「正に」で良いだろうが、"populum" (populus 対格)を「国民」としたのはどうか。むしろ「聴衆」とすべきではなかったか。また「一般大衆の感情」とされている "vox publici adfectus" は「民衆の怨嗟の声」くらいまで訳せるかもしれない。"missa esset" は mitto の接続法過去完了三人称単数女性。拙訳を付けておくと:

恐怖と云うものは溢れて、恐怖を引き起こした人々にまで逆流するのが常なので、恐怖される者自身も安全ではないのだと云う事実はどうだろう。ここで、君は、内戦の中、劇場で朗読された際に、あたかも民衆の怨嗟の声が抛り込まれたかの感があったので聴衆が耳をそばだてたと云う、あのラベリウスの詩の一節を思い起こすだろう:
  大衆が恐れる者は、必ずや大衆を恐れる。

ここで、「内戦 (civilis bellum)」とは、ユリウス・カエサル (Gaius Iulius Caesar 或いは Gaius Julius Caesar) と反カエサル派との戦い (ルビコン川越境 49BC。ムンダ会戦45BC) のことだろう。

ラベリウス (Decimus Laberius) は、 カエサルの命により行なわされたプブリウス・シルス ( Publilius Syrus) 等との「黙劇」(mimus) 競演の際 (紀元前46年のことだと云う)、自作劇の前口上として゛カエサルの権力が大きくなりすぎたことを揶揄する詩をカエサルの面前で朗読した。そして、劇中シルスを当てこすった奴隷役で登場したラベリウスは、"Porro Quirites! libertatem perdimus" (「ところで、ローマ市民諸君! 我々は自由を失おうとしているぞ」) と叫ぶのだが、それから一呼吸置いて付け加えたのが問題の言葉だった。この「最後の一句」が発せられると、全聴衆がカエサルの方を向いて、彼に注目したという。

セネカが、下敷きにしたと言われるマクロビウス (Ambrosius Theodosius Macrobius) の "Saturnalia" の一節を引用しておく:

In ipsa quoque actione subinde se, qua poterat, ulciscebatur inducto habitu Syri, qui velut flagris caesus praeripientique se similis exclamabat:
  Porro Quirites! libertatem perdimus
et paulo post adiecit:
  Necesse est multos timeat quem multi timent.
Quo dicto universitas populi ad solum Caesarem oculos et ora convertit, notantes inpotentiam eius hac dicacitate lapidatam. Ob haec in Publium vertit favorem.
--Macrobii "Saturnalia" Liber II Cap.vii 4-5
"ora" は os の複数対格。



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メモ:岩波文庫「新科学対話(下)」

本来なら、岩波文庫「新科学対話(上)」に引き続いて「新科学対話(下)」(今野武雄・日田節次訳 1948年)に就いてメモを作るべきであろうが、どうも気分が乗らないので、一つだけ材料を記録して、作業を中断する。

その前に、背景を説明しておくと、話題になっているのは、無拘束の物体を上方に抛り上げた後の運動(暫く上昇した後落下する)で、サルヴィヤチが物体の速度が連続的に減少し後停止する(その後落下に転ずる)とするのに対し、シンプリチオは、速度が連続的(無段階的に)に減少するなら、それを経過するのに無限の時間がかかるだろうと反論する。つまり、シンプリチオは「ゼノンの逆理」(の変異例)を持ち出しているのだ。以下のサルヴィヤチの発言は、それに対するものである。

Salv. Accaderebbe cotesto, Sig. Simplicio, quando il mobile andasse per qualche tempo trattenendosi in ciaschedun grado; ma egli vi passa solamente, senza dimorarvi oltre a un instante; e perché in ogni tempo quanto, ancor che piccolissimo, sono infiniti instanti, però son bastanti a rispondere a gl'infiniti gradi di velocità diminuita. Che poi tal grave ascendente non persista per verun tempo quanto in alcun medesimo grado di velocità, si fa manifesto così: perché se, assegnato qualche tempo quanto, nel primo instante di tal tempo ed anco nell'ultimo il mobile si trovasse aver il medesimo grado di velocità, potrebbe da questo secondo grado esser parimente sospinto in su per altrettanto spazio, sì come dal primo fu portato al secondo, e per l'istessa ragione passerebbe dal secondo al terzo, e finalmente continuerebbe il suo moto uniforme in infinito.


SALV. This would happen, Simplicio, if the moving body were to maintain its speed for any length of time at each degree of velocity; but it merely passes each point without delaying more than an instant: and since each time-interval however small may be divided into an infinite number of instants, these will always be sufficient [in number] to correspond to the infinite degrees of diminished velocity.
That such a heavy rising body does not remain for any length of time at any given degree of velocity is evident from the following: because if, some time-interval having been assigned, the body moves with the same speed in the last as in the first instant of that time-interval, it could from this second degree of elevation be in like manner raised through an equal height, just as it was transferred from the first elevation to the second, and by the same reasoning would pass from the second to the third and would finally continue in uniform motion forever.

TNS Draft: Text and figures, through the end of the Third Day
(translated by Henry Crew and Alfonso de Salvio)

サルヴィヤチ: いやシムプリチオ君もし運動體がそれぞれの大きさの速さを任意の時間繼續するといふのでしたら、さういふことも起るでせう。しかし物體がその徑路上の各點を通過するのは只一瞬時に過ぎません。そしてその各の瞬間も尚ほ、小さい時間間隔に分割され、無限數の瞬間が生ずるのですから、それらは、まさしく減小しゆく速さの無限の程度に對應せしめるに十分です。かやうな抛上體が任意、有限の時間のあひだ、いかなる速さをもその儘保持するものではない、といふことは、次のことからみても明かです。即ちいま或る有限な時間間隔が與へられ、問題の物體がこの時間間隔の最初と最後の瞬間に於て同一の速さを持つてゐるとするならば、この第二の速度(最後の瞬間の速度)でもつて丁度、第一の高さから第二の高さに移つたのと同じやうにして、この第二段の高さから等しい高さだけ昇らせることができる。そして同じ理由に依つて、第二から(値は變らぬ)第三へと移り、結局、等速運動が無限に續け得ることになりませう。

岩波文庫「新科学対話(下)」(今野武雄・日田節次訳 岩波書店 1948年)

パラグラフの後半に就いて言えば、英文版自体がイタリア語からの逐語訳で意味がとりづらいから、岩波文庫版が変になっているのに同情すべき余地はあるのだが、前半は英文解釈上に取り立てて難しいところはないので、訳者が内容を理解していないことが目立ってしまっている。どこが悪いのかイチイチ指摘するのは面倒なので、以下に私の訳を示しておく。ただし、イタリア語から直接訳してあるので、英語版とは少し異なっている。

サルヴィヤチ: シンプリチオさん、そうした運動体が、速度の全ての値の一つ一つを、どのような長さにしろ或る時間維持するとするならば、そうしたことも起こりうるでしょうが、この運動体は、速度の夫々の値を正に瞬間に通り過ぎるのです。そして、どのように短い長さの時間であるにしろ、その中には無数の瞬間が含まれますから、低下していく速度の無数の値に十分対応できるのです。こうした上昇中の重い物体が、如何なる長さの時間にしろ、どの速度の値にも留まるものではないことは、以下のように明らかです。つまり、或る所定の長さの時間に対して、その最初の瞬間と最後の瞬間とで、こうした運動物体が同一の速度値を有するようなことがあるとするならば、当初の高度から次の高度に上昇したことが丁度繰り返されて、二番目の高度からも同じ高度差上昇することになるでしょう。同じことが、二番目の高度と三番目の高度についても言えるので、結局は一定速度の運動が永遠に続くことになってしまいます。

英語版や岩波文庫版の翻訳品質とは直接関わりのないことだが、ガリレオのこの議論は、時間軸及び/又は空間軸の平行移動に対して力学法則が変化しないことを前提にしている。

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電子テキスト版 "DUE NUOVE SCIENZE" (新科学対話)

電子テキスト版 "DUE NUOVE SCIENZE" (イタリア語原典[新科学対話])には、これまでにも引用した DISCORSI E "DIMOSTRAZIONI MATEMATICHE INTORNO A DUE NUOVE SCIENZE ATTENENTI ALLA MECANICA & I MOVIMENTI LOCALI" の他にも、次のものがネット上で見つかったので、記録しておく。

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岩波文庫「新科学対話(上)」に就いて


何時までも、「新科学対話(上)」)」(岩波文庫。今野武雄・日田節次訳 1937年)にかかづらっていられないので、後は簡単に済ます。

1. p.194 のページ末から数えて第4行から第3行に「その錘 D に對する抵抗力の比は既に證明しましたやうに CB:AB に等しく」とあるが、この "D" は --B-- と読み替えねばならない。対応原文は、

then, as we have already shown, its resistance to fracture [bending strength] at the end AD, owing to a load placed at the end B, will be less than the resistance at CI in the ratio of the length CB to AB.

la cui resistenza ad essere spezzato nell'estremità AD da una forza premente nel termine B è tanto minore della resistenza che si troverebbe nel luogo CI, quanto la lunghezza CB è minore della BA, come già si è dimostrato.


2. p.197 の第9行乃至第11行に「そして EG:FD=AE:CF ですから、比を變へれば EG:AE=FD:CF. 又距離 CD,AG は點 F, Eによつて同じ比に分けられてゐるのだから」とあるのは、「そして EG:FD=AE:CF ですから、内項交換して EG:AE=FD:CE. これは、線分 CD と AG とが点 F と E とにより同じ比に分けられていると云うことですから」ぐらいにした方が良い。

対応原文:

And since EG:FD = AE:CF, it follows, permutando, that EG:AE = FD:CF. Seeing that the distances DC and GA are divided in the same ratio by the points F and E,

E perché come EG ad FD, così AE a CF, sarà, permutando, come GE ad EA così DF ad FC; e però (per esser le due leve DC, GA divise proporzionalmente ne i punti F, E)


3. p.201 の第6行から第7行に「だから、私達が反對に假定したやうに、もし曲線三角形プラス X が矩形 CP の 1/3 に等しいとすれば」とあるのは、「だから、『曲線三角形プラス X が矩形 CP の 1/3 に等しくなる』と云う反論がありうるにしても、もしそうだとすると」ぐらいにして方が良いだろう。(「曲線三角形」と云う訳語の当否に就いては、ここでは論じない。)

対応原文:

Therefore if, as our opponent might say, the triangle plus X is equal to a third part of this rectangle CP,

Adunque, se il triangolo insieme con l'X pareggiava, per l'avversario, la terza parte del rettangolo CP,

参照

  1. DISCORSI E "DIMOSTRAZIONI MATEMATICHE INTORNO A DUE NUOVE SCIENZE ATTENENTI ALLA MECANICA & I MOVIMENTI LOCALI: GIORNATA SECONDA

  2. "TNS Draft: SECOND DAY" (translated by Henry Crew and Alfonso de Salvio)

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「複合變列」につまづく

ふと思い立って[ガリレオ・ガリレイ]の「新科学対話」を読みはじめた(トリノオリンピックの余波とは自分では思っていない)。上下ニ分冊の岩波文庫版である。

これがなかなか面白いのだが、全部読み切っていないことでもあるし、どう面白いのかの説明は、いづれ機会があったらすることにして、今回は、上巻を100ページも読んでいないのに、躓いてしまったことを書いておく。

galileo


上巻の92ページには、[第十二圖]として上記のような図が乗っていて、その一番右端の図形に関連して、こう書いてある。

與へられた圓に外接する多角形のうち、少邊數のものは多邊數のものより面積が大であるが、圓と等周の多角形の場合には多邊數のもの程少邊數のものより面積が大である、といふことを證明しませう。

(一応、岩波文庫版の原文の雰囲気を出すために、旧字旧かなを再現しようとしたが、字形が見当たらない場合は、普通のものにしてある。以下同様)

で、その内容はと云うと、

O を中心、OA を半徑とする圓に切線 AD を引き、この切線上に、圓 O の外接五角形の一邊の半分を表はす AD, 外接七角形の一邊の半分を表はす AC をとります。線分 OGC, OFD を引き、O を中心、OC を半徑として弧 ECI を描きます。さて
△DOC > 扇形EOC, 扇形COI > △COA
∴ △DOC : △COA > 扇形EOC : 扇形COI
即ち > 扇形FOG : 扇形GOA
そこで複合變列して、△DOA : 扇形FOA > △COA : 扇形GOA
從つて △DOA×10 : 扇形FOA×10 > △COA×14 : 扇形GOA×14
即ち外接五角形と圓との比は、外接七角形と同じ圓との比よりも大。故に、五角形は七角形よりも面積が大であります。

これで、証明しようとすることの前半が済んでいる訣だが、この「複合變列」と云うところで詰まってしまった。

暫く頭をひねったが、「複合變列」などと云う操作は、知りもしないし想像もつかない。

で、原文にあたることにした。

探してみると、次のようなものが見つかった。

  1. Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno à due nuoue scienze attenenti alla mecanica & i mouimenti locali / del signor Galileo Galilei
  2. DISCORSI E DIMOSTRAZIONI MATEMATICHE INTORNO A DUE NUOVE SCIENZE ATTENENTI ALLA MECANICA & I MOVIMENTI LOCALI

最初の方は原本の影印版、二番目の方は電子テキスト化してある。と云う訣で、扱いやすい二番目の方から、問題のところを探してみると:

Nel cerchio, il cui centro O, semidiametro OA, sia la tangente AD, ed in essa pongasi, per esempio, AD esser la metà del lato del pentagono circoscritto, ed AC metà del lato dell'ettagono, e tirinsi le rette OGC, OFD, e, centro O, intervallo OC, descrivasi l'arco ECI. E perché il triangolo DOC è maggiore del settore EOC, e'l settore COI maggiore del triangolo COA, maggior proporzione arà il triangolo DOC al triangolo COA, che 'l settore EOC al settore COI, cioè che'l settore FOG al settore GOA; e componendo e permutando, il triangolo DOA al settore FOA arà maggior proporzione che il triangolo COA al settore GOA, e dieci triangoli DOA a dieci settori FOA aranno maggior proporzione che quattordici triangoli COA a quattordici settori GOA, cioè il pentagono circoscritto arà maggior proporzione al cerchio che non gli ha l'ettagono; e però il pentagono sarà maggior dall'ottagono.

うーん。日本では [島原の乱] があったり、海禁政策が取られ出したりした時代、井原西鶴が生まれる前の著作だから、動詞なんかの言い回しが古いみたいですね。 私が持っている辞書では調べが付かない。

だから、内容を把握したと言い張るつもりは無いが、それでも、最後の "ottagono" は "ettagono" にしないと意味が通じないぐらいなら気が付いた(ま、動詞じゃないし)。

念のため影印版の方を当たってみたら、たしかにその通りでした(より正確には、"dall'ottagono" は --dell'ettagono-- にしないといけない)。

まぁ、それはともかく、問題の「複合變列(して)」は、原文では "e componendo e permutando," だね。

ははは。これならわかる。そして、自分の間抜けさが忌々しくなるほど単純なことだ。

「複合變列して」ではなくて、「複合し、そして變列して」とでも読むべきだったのだろうが、こうした言い換えでは分かりづらいかもしれない。もっと簡単な言い方がありそうなものだが、とにかく、その内容は、"componendo" は、比例式(「比例不等式」とでも謂うのか?)の、(正確な言い方かどうかはしらないが)後項を前項に足し合わせること、そして "permutando" は、内項どうしを交換することだ。記号を使うと:

△DOC : △COA > 扇形FOG : 扇形GOA が分っていいる。
それぞれ後項を前項にたして
(△DOC + △COA): △COA > (扇形FOG + 扇形GOA): 扇形GOA
つまり、
△DOA : △COA > 扇形FOA : 扇形GOA
内項どうしを入れ換えて
△DOA : 扇形FOA > △COA : 扇形GOA

返す返すも自分の頭の悪さが怨めしい。

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