カテゴリー「ウェブ跋渉」の16件の記事

2007年4月18日 (水)

羅一秀: 毛沢東の「最初」の夫人

アクセス解析を見ていたら、毛沢東の最初の妻である [羅一秀(罗一秀)] を少なくとも名前を挙げて言及している日本語サイトで、Google/Yahoo-J にヒットするのはどうやらこの nouse だけらしいことを知った。新たに稿を起こすほどの必要性は、今のところ感じていないが、[羅一秀(罗一秀)] に就いて言及した非日本語サイトへのリンクを幾つかまとめておけば、誰かの役には立つこともあろうか、取り急ぎ、これを書く。

まず、やや面映いが、「日本でただ一つ」の部分を再録しておく。

試みに、中文版の wikipedia [毛泽东] を見た。ところが、それからは毛沢東が 1893年12月26日生まれであったことは分かったが、1909年/1910年の記載が見当たらない:

1893年12月26日,毛泽东出生在湖南省长沙府湘潭县韶山冲(今湖南省湘潭市韶山市)的一个中农家庭中。1908年,其父毛顺生为他配婚与罗氏(罗一秀),但毛泽东始终不承认这桩婚事。1911年春,到湖南长沙湘乡驻省中学求学。1912年,以第一名的成绩考入湖南全省公立高等中学校(今长沙市第一中学),次年春考入湖南省立第四师范学校,学校后来并入湖南省立第一师范。

ただ、父 毛順生 (毛顺生) により1908年に結婚させられた (其父毛顺生为他配婚与罗氏) 最初の妻 羅一秀 (罗一秀) が、1910年春に病死していることだけが分かっただけだ(个人生活)。
--nouse: 毛沢東郷関ヲ出ヅ

つまり、「最初の妻」と書いたが、毛沢東は妻として認めていなかったらしい(但毛泽东始终不承认这桩婚事)。

さて、ザッとネットを調べたところでは Wikipedia 系 (コピーを含む) を除けば [羅一秀(罗一秀、あるいは Luo Yixiu)]に言及しているのは、二・三にすぎない(ちなみに、日本語版 ウィキペディア には、今のところ言及なし)。

まず、本人に就いての Wikipedia の記事(英文版と中文版しか見つからなかった)。

ついでに、夫の方の wikipedia 記事を幾つか言語で:。

  • Mao Zedong - Wikipedia, the free encyclopedia
    Genealogy
      Mao Zedong had several wives which contributed to a large family. These were:
    1. Luo Yixiu (罗一秀, 1889-1910) of Shaoshan: married 1907 to 1910
    2. Yang Kaihui (杨开慧, 1901-1930) of Changsha: married 1921 to 1927, executed by the Kuomintang in 1930
    3. He Zizhen (贺子珍, 1910-1984) of Jiangxi: married May 1928 to 1939
    4. Jiang Qing: (江青, 1914-1991), married 1939 to Mao's death
  • Mao Zedong - Wikipedia
    Familie
      Frauen
    1. Luo Yixiu , (羅一秀, 1889 - 1910) aus der Provinz Hunan: geheiratet 1907 - 1910 (verstorben)
    2. Yang Kaihui (杨开慧, 1901 - 1930) aus Changsha: geheiratet 1921 - 1927, (1930 von der Kuomintang hingerichtet)
    3. Gui-yuan (He Zizhen) (贺子珍, 1910-1984) aus Jiangxi: geheiratet 1928; geschieden 1939
    4. Jiang Qing (江青, 1914-1991), geheiratet 1939
  • 毛沢東 - Wikipedia
    [羅一秀(罗一秀)] についての記載は見当たらない。
  • 毛泽东
    上記に引用済み。

なお、[马代伟 (Ma Daiwei)] と云う女性が、毛沢東の "the unpopular wife" (1912-1920) として付け加えられることもある。

Wikipedia 系以外では次のようなものが見つかった。

  • 毛澤東後代 「夾著尾巴做人」by [shingjia]
    毛澤東共有三任妻子(一說四任,元配羅一秀,不被毛承認)、十名子女(六名夭折),大兒子毛岸英在韓戰中去世。目前毛澤東仍在世的三名子女,是他與楊開慧所生的毛岸青、與賀子珍所生的李敏,與江青所生的李訥。
  • 毛主席的儿子是? 十名子女一戰死五夭亡 by [houni1986]
    毛澤東先後有四位妻子 毛澤東先後娶過四位妻子,她們分別是: 羅一秀:一九○七年由父母包辦結婚,一九一○年春患痢疾病逝。 楊開慧:一九二○年結婚,一九三○年底被當時南京國民政府湖南省主席何鍵槍殺。 賀子珍:一九二八年在井岡山與毛澤東同居,一九三七年前往蘇聯治病。 江靑:一九三八年在延安與毛澤東同居。

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2007年4月11日 (水)

List of Links to Mercurius/Hermes Images (English Version)

Below is a list of links to web image resources of Mercurius (or, Mercury)/Hermes, the Roman/Greek gods of herald, commerce, travel, invention, music, agriculture and thievery, and to pages showing images of the gods.

I prepared a Japanese version of the list in the course of writing a blog piece "Foundation of Starbucks and Changeovers of its Logo" (in Japanese) and published it with a preface as another Japanese article on March 12, 2007 ("List of Links to Mercurius/Hermes Images: Iconography of the Il Giornarle logo").

Il_giornarle_logo"Il Giornarle" (1985-1987) was a coffee bar chain in Seattle, Washington, USA, managed by Howard Schultz, who created it after he left Starbucks (a coffee beans retailer in those days) and ran it until he purchased his ex-employer and merged the two companies into a new one, Starbucks Corporation.

Original_twin_tailed_siren_1Starbucks_logo_until_1987Il Giornarle logo was a profile of Mercury's head printed, as testified by Schultz, in green, which the new company took as a logo color instead of the original dark brown.

Unfortunately, the available copy of Il Giornarle logo has lost shadings, and it is hard to me to state whether in the icon the god wears a winged cap, one of his specialties. The image, however, looks a reproduction of what can be dated to many years ago, such is exactly the mermaid (siren or melusina) of the Starbucks first logo.

Roman_coin_mercury_syd_00875Il Giornarle's Mercury may have been got from something old like an ancient or medieval fine art work, a legendary relic, and (most plausibly) a punch mark of Greco-Roman coins. Maybe. So not maybe. That is a question. Thus I began to collect images, ancient or not, of Mercurius and Hermes, often never distinguishable between the two. I realized soon that the image resource relating to the word "Mercurius," "Mercury" or "Hermes" is surprisingly large, and, what was worse, many images are irrelevant to the Roman/Greek god, but often pictures of goods such as a French boutique's.

Mercurius/Hermes is the god of commerce, and may hide himself in all the commercial products, though what I was seeking was apparent images of the god. I suspended the work, and made up a list of the then found pages showing either of the two gods or both and some image files.

Unlike the Japanese version, some links have thumbnails for help to readers.

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2007年3月12日 (月)

メルクリウス/ヘルメス図像リンク集: イル・ジョルナーレ ("Il Giornale") ロゴに関連して

(Supplementary note. April 11, 2007: This page is in Japanese. Please take a look at an English article "nouse: List of Links to Mercurius/Hermes Images (English Version)" if you feel it better.)

2007年3月7日 (水) の記事 [nouse: スターバックスの成立と、そのロゴの変遷] で、スターバックス (Starbucks Corporation) の現 Chairman であるハワード・シュルツ (Howard Schultz) が一時期(1985年-1987年)スターバックスを離れていた際に経営していたコーヒー・ショップ・チェーンの「イル・ジョルナーレ ("Il Giornale")」のロゴが、ローマ神話の伝令神/商業神 メルクリウス (Mercurius. 英語表記は Mercury) であったことに付記して、そのロゴ中の横顔には、「翼の付いた帽子らしいものも見える」と書いただけで、それ以上は話を広げなかった。

勿論、話を広げようにも材料がないのだが、一応、何かを考える場合の手掛かりぐらいは作っておいた方がよいだろう。

と云う訣で、メルクリウス又はヘルメスの図像の簡単なリンク集を作成してみた。

その内容は、非常に雑多だが、これはある程度、メルクリウス/ヘルメスの性格が極めて多面的であるためかもしれない。まぁ、それはともかくも、雑多過ぎて、分類・整理するのが面倒なのは確かで、だからしていない。遺漏は当然あるだろうし(実際たとえば、ヘルメス文書関係のは大略落ちている筈である)、内容の当否のチェックもしていないので、本当にこれは手始めのものと言ってよい。

Il_giornarle_logoRoman_coin_mercury_syd_00875
ただ、それとは別に付言すると、「イル・ジョルナーレ ("Il Giornale")」のロゴに雛形がもしあったとするなら、それはコインに刻印された図像であった可能性が、それなりに大きいだろうから、そのことは僅かながら意識的に材料を収集した(近代になって、例えば切手の図案として描かれた可能性もあることはあるが、それにしても、その源流はコインの刻印になるのではないか)。とは言え、それもイル・ジョルナーレ・ロゴとの類似性の観点から採用したため、全体のごく一部である。

ここで、「イル・ジョルナーレ ("Il Giornale")」のロゴに右側に並べて示したのは、217-215 BC 頃のローマの貨幣で、表側 (obverse) に羽根の付いた帽子 (petasus 又は petasos) を被ったメルクリウスが刻印されているもので、元の画像は Wildwinds.com に掲載されている "Anonymous. 217-215 BC. Æ Semuncia (5.44 gm). Head of Mercury right wearing petasos / Prow of galley right; ROMA above. Crawford 38/7; Sydenham 87. * Sear RCV 620" の
Example No.6 に見られる。

Stc3a8le_de_mercure_01Fudomyouou_tnm_jp付言ついでに書いておくと、古拙なメルクリウス像には、我が文化における「鬼」の像を連想させるものがある。頭の翼が「角」で、手に持ったカドゥケウス(Caduceus) --ケリュケイオン (Κηρύκειον)-- が「金棒」と言う訣だ(不動明王や制託迦童子の像にも少し似ている)。

当然、メルクリウス像に配して、鬼の画像も並べたいところだが、適当な正対立像が見当たらなかったので、東京国立博物館に収蔵されている不動明王立像の画像を並べておく。似ているような似ていないような微妙なところではある。

不動明王が剣とは別の手で持っているのは、羂索、つまり縄である訣だが、メルクリウスが、カドゥケウスを持っている手と別の手で持っているのは、「小銭入れ」とか「袋」とかされているようだ。(「剣と索との組み合わせがカドゥケウスに対応することがありうるか?」は、一度考えた方が良いかもしれない)

ちなまれているのは: nouse: スターバックスの成立と、そのロゴの変遷

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2007年3月 7日 (水)

スターバックスの成立と、そのロゴの変遷

スターバックス (Starbucks) コーヒーショップ・チェーンのロゴに就いて検索されて、このサイトを訪問されるかたが頻頻といらっしゃるので、少し情報をまとめておく。

コーヒーショップチェーンとしてのスターバックスの創業者であるハワード・シュルツ (Howard Schultz) の著作 --Dori Jones Yang との共著-- "Pour Your Heart into It: How Starbucks Built a Company One Cup at a Time" (私は未見。邦訳 [スターバックス成功物語] もあるが、これも未見) に、ある程度のことが書いてあるとは思うが、ネット上で収集できた情報を、以下まとめておく。

撞着していることもある雑多な情報源から選択・再構成を行なったので、錯誤の混入したことや、あるいは「組み合わせによる錯誤」が生じたこともありうるだろうが、その点は悪しからず。

スターバックスがコーヒーショップチェーンになるまで

「スターバックス」を創設したのは、ジェリー・ボールドウィン (Jerry Baldwin), ゴードン・バウカー (Gordon Bowker), ゼヴ・シーグル (Zev Siegl) と云う3人の男だった。しかし、物語は、4人目の男、アルフレッド・ピート (Alfred Peet) から始まる。

アルフレッド・ピートは、1920年、オランダで生まれた。生家が アルクマールでコーヒーや紅茶をあきなう店だった彼だが、学校の成績が芳しくないこともあって、父親から認めてもらえず、第二次世界大戦後、逃げるようにして母国を出て、インドネシアで紅茶業界に身を置いた。その後、ニュージーランドに居たこともあるが、結局1955年、35歳の時に米国カルフォルニア州 (State of California) のサンフランシスコ・ベイエリア (San Francisco Bay Area) に移り住んで、コーヒーの輸入業に職を得る。この仕事をする中、アメリカのコーヒーに幻滅を憶えた彼は、ヨーロッパ風のコーヒー豆販売を考えるようになり、遂に1966年、カルフォルニア州バークレイ (Berkeley) のヴァイン街 (Vine Street) とウォルナット街 (Walnut Street) との交差点に、自家焙煎のコーヒー豆と紅茶を販売する店「ピーツ・コーヒー・アンド・ティー」 (Peet's Coffee & Tea) を開いたのだった。

(2007-10-04 [木] 追加及び補正:Alfred H. Peet は、2007年8月29日に死去。享年87。その後に書かれた英文版ウィキペディアの記事 "Alfred Peet" や、ニューヨーク・タイムズの記事 "Alfred H. Peet, 87, Dies; Leader of a Coffee Revolution" を読むと、第二次世界大戦前後の彼の経歴は、私が書いたものと異なっていた可能性がある。大雑把にまとめると、ピートは、戦前にロンドンに移り住んでおり、コーヒー・紅茶の会社に就職していたが、戦後リプトンに再就職し、さらに、リプトンの社員としてインドネシアやニュージーランドに赴任したらしい。)

彼の店から数ブロックの近さにはカリフォルニア大学バークレー校 (University of California, Berkeley) のキャンパスがあり、学生、芸術家、作家、音楽家、そしてヒッピー (Hippie) などが彼の店を訪れる(ピート自身は、「ヒッピー」の客を喜ばなかったらしい)。高品質を追求するピートの店の深い煎りのコーヒー豆は評判となって、熱狂的ともいえる愛好家も現われるようになる。ピートは、自分が売っているコーヒー豆の挽き方や淹れ方を、顧客に教えることもするのだった。

ジェリー・ボールドウィン (1942年サンフランシスコ生まれ) は、当時、サンフランシスコで学生生活をしていたが、ある人物から貰ったピートの豆に感動したことをきっかけにして、ピートの店の存在を知る。彼は、ピートの店のことを、サンフランシスコ大学 (University of San Francisco) の同窓生でルームメイトのゴードン・バウカーにも教える。その後、二人は、ワシントン州 (State of Washington) シアトル (Seattle) に引っ越すが、通信販売でピートの豆を取り寄せてまで、そのコーヒーを飲み続けた。

ところで、バウカーは、カナダブリティッシュコロンビア州 (British Columbia) バンクーバー (Vancouver) にある「マーチーズ・ティー・アンド・コーヒー」 (Murchie's Tea & Coffee) のコーヒー豆もお気に入りで、しばしば3時間かけて車をとばし、豆を買いに行っていた。しかし、ある日、コーヒー豆を買ってきた返りのドライブの途中、バウカーは、シアトルにコーヒー豆の販売店を作ることを思いつく。

相談を受けて良いアイデアだと思ったボールドウィンは、バウカーの隣に住んでいた、やはりサンフランシスコ大学同窓生のゼヴ・シーグルにも声をかけると、シーグルも賛成するのだった。三人は、様ざまな機会(特に、1970年のクリスマス休暇)にピートの店を訪れ、コーヒーに就いての専門的知識を身に付けていく。

こうして1971年、ボールドウィン(英語教師)、バウカー(作家)、シーグル(歴史教師)の三人は、焙煎コーヒー豆とコーヒーメーカー、それに紅茶とスパイスを販売する店を開いた。資金は、三人が1350ドルづつ出し合い、そして借入も5000ドルして工面した。場所は、ワシントン州シアトルのパイク・プレイス・マーケット (Pike Place Market) が選ばれた。

店の名前は「スターバックス・コーヒー・ティー・アンド・スパイス」("Starbucks Coffee, Tea and Spice")。当初、バウカーは、アメリカの作家ハーマン・メルヴィル (Herman Melville 1819年8月1日–1891年9月28日) の小説 [白鯨] (Moby-Dick) に登場し、物語の舞台であると言って良い捕鯨船 Pequod を店の名前にしようと主張した。

You may have seen many a quaint craft in your day, for aught I know;--square-toed luggers; mountainous Japanese junks; butter-box galliots, and what not; but take my word for it, you never saw such a rare old craft as this same rare old Pequod.
--Moby Dick, or, the whale Chap. 16 "The Ship"
何はあれ、諸君も若いころそれぞれに奇妙な船を見たことはあるだろう。--底の四角な斜桁(しゃげた)船、山なす日本のジャンク、パタ箱みたいなガリイ船、その他さまざま。だが絶対に断言してもいいが、このたぐいまれな古船ピークォドほど、たぐいまれな古船を見られた人はないであろう。
--「白鯨」 (訳:阿部知二) 筑摩世界文學体系 36 [メルヴィル] 1972年。東京 筑摩書房。p.51 ([八木 敏雄]訳の岩波文庫版全3巻もある。)

しかし、意見を聞いた宣伝コンサルタントのテリー・ヘクラー (Terry Heckler) に、"Pequod" からは "Pee-quod" (オシッコ-刑務所)が連想されるとして反対される。そして、ヘクラーは、シアトルっ子にとっての「お山 (The Mountain)」--日系人は「タコマ富士」と呼んだ-- であるレーニア山 (Mount Rainier) に19世紀末/20世紀初頭にあった鉱石採掘場の名 "Starbo" (又は "Storbo") を主張するのだった。

議論の結果、店の名称に選ばれたのは "Starbo" に音が似ており、捕鯨船 Pequod の一等航海士の名前である "Starbuck" (スターバック) にちなんだ "Starbucks" (スターバックス) だった。(ちなみに、私が簡単に調べた範囲では、「白鯨」中にはスターバックがコーヒーを好んだとか、飲んだと云う記述はないようだ。)

The chief mate of the Pequod was Starbuck, a native of Nantucket, and a Quaker by descent. He was a long, earnest man, and though born on an icy coast, seemed well adapted to endure hot latitudes, his flesh being hard as twice-baked biscuit. Transported to the Indies, his live blood would not spoil like bottled ale.
--Moby Dick, or, the whale Chap. 26 "Knights and Squires"
ピークォド号の一等航海士はスターバック。ナンタケット出身で、代々の震教徒(クエイカ)である。丈の高い、熱のある人物で、寒冷な海岸に育ったにもかかわらず、肉は二度焼きのビスケットのように堅くて、熱帯にも適合しうる人柄と見えた。インド諸島に送られても、そのいきいきとした血は、瓶詰のビール同様、くさることはないであろう。
--「白鯨」 (訳:阿部知二) 筑摩世界文學体系 36 [メルヴィル] 1972年。東京 筑摩書房。p.76

三人が新しい店を開いた際、当初のうちはピートからコーヒーの生豆を廻してもらったり、焙煎機等の器材の業者の探し方を教えてもらったりしていた。その店構えもピートの店を手本にして作られていた。客に試飲はさせるが、飲み物としてのコーヒーを販売しないと云う方針も踏襲された。

最初のうちはシーグルだけが有給で、その彼が店頭に立った。他の二人は、それまでの仕事を止めずに、昼休みや夕方にやってきて手伝った。ボールドウィンの担当は会計だったが、コーヒーに就いての知識を更に追求していた。バウカーは実務には向かなかった。

店は、1971年から1976年までは Western Avenue 2000番地にあったが、その後 Pike Place 1912番地に移転した。("Pike Place Market" 及び "Seattle City Clerk's Neighborhood Map Atlas - PIKE-MARKET" を参照)。

その後事業は拡大し、1980年には店舗も6店までに増えるが、この年には、既に事業に情熱を失っていたゼヴ・シーグルが、持ち株を、他の二人に売却してスターバックスを去ってしまう。また、バウカーは、オーナーの地位に留まっていたとはいえ、興味が別の事業に移ってしまっており、日々の具体的な経営を行なっていたのはボールドウィンだけだった。

開業してから10年後、1981年にシアトルのスターバックスを、ニューヨークのビジネスマン、ハワード・シュルツ (Howard Schultz) が訪れる。1953年7月19日ニューヨーク市 (New York City) ブルックリン地区 (Brooklyn) の貧しい家庭に生まれ育って、苦学して大学を出た後、ゼロックス (Xerox Corporation) のセールスマンなどを経て、当時のシュルツは、スウェーデン (Sverige) の家庭用プラスティック製品製造業者 Hammarplast の米国での営業マネージャーをしていた。彼は、Hammarplast 製のドリップ・コーヒーメーカーを、どのデパートよりも数多く仕入れてくれていたコーヒー豆販売店に興味を持ったのだった。パイク・プレイスの一号店を訪れたシュルツは、スターバックスでの丁寧で熱心な仕事ぶりに感銘を受ける。

スターバックスで働きたいと考えたシュルツは、東海岸の遣り手営業マンであるシュルツとの肌合いの違いに尻込みするスターバックスの二人のオーナー、ボールドウィンとバウカーを説得して、1982年9月にマーケティングと営業担当責任者としてスターバックスに入社する。

1983年春、国際見本市に出席するためイタリアのミラノを訪れたシュルツは、そこでのコーヒー・バーの居心地の良さに感激し、美味しいエスプレッソ・コーヒーが飲めるだけでなく、社会的・文化的な場としての役割も果たす店舗を米国とカナダに展開しようと、スターバックスの両オーナーに主張する。しかし、「良質な焙煎豆の販売」にこだわるオーナーたちは、「飲食業」への進出を望まず、シュルツの主張を認めなかった。逆に、ボールドウィンとバウカーは、1984年にサンフランシスコでのピートの事業を買収して、焙煎豆の小売販売に一層傾斜する。しかし、この結果、スターバックスは多額の負債を抱えることになった。

シアトルとサンフランシスコ双方で事業を管理しなければならなくなっボールドウィンのもと、シアトルのスターバックス従業員の士気は低下する。更に財政が逼迫したために賞与が支給されなくなった際に労働争議が発生する。これにショックを受けたボールドウィンはスターバックスの経営から逃げ腰になってしまった。

このころ、シュルツはボールドウィンを何とか説得して、試験的に飲料の販売をスターバックスの店舗で行なう。条件の悪いなか良好な成績があがってシュルツは喜び、ボールドウィンも考え方を改めるだろうと期待したが、ボールドウィンの態度はかたくなだった。

スターバックスの将来に展望を持てなくなったシュルツは、スターバックスを離れて、自分自身で新規事業を起こすことを考えるようになる。そうしたなかで、彼は弁護士のスコット・グリーンバーグ (Scott Greenberg) と出会い、自分の構想が有望であると励まされる。シュルツの不満を知ったボールドウィンとバウカーは、むしろシュルツが新規事業に始めることに肯定的で、計画が具体的なものになるまでは、それまでの地位に留まることに同意するのだった。

1985年、シュルツはスターバックスを去る。そして、自らシアトルにエスプレッソを提供するイタリアン・コーヒーの店舗チェーンを経営に乗り出した。ボールドウィンは開業資金を15万ドル投資してくれた上、シュルツの要請によって、新会社の取締役になった。バウカーも、6ヵ月契約で非常勤のコンサルタントを引き受けた。シュルツとバウカーは、1985年12月にイタリアのミラノとヴェローナにエスプレッソ・コーヒーバーの視察旅行に行っている。

店の名前はバウカーの提案に従って「イル・ジョルナーレ ("Il Giornale") 」になった。イタリア語で「日刊新聞」とか「日誌」を意味する言葉である。

1号店が1986年4月に開店したシュルツの「イル・ジョルナーレ」は成功する。半年後にはやはりシアトルに2号店、1987年4月にカナダ、バンクーバーに3号店が設けられた。そして1987年中間業績として、3店の販売年額は150万ドルに達した。

一方、スターバックス経営から別の事業へと興味が移っていたバウカーは、その事業のための資金が必要だった。また、ボールドウィンは、シアトルとサンフランシスコとの間の行き来や、スターバックスでの労働問題に倦んでいた。スターバックスと「ピートの店」とのうちの一つを選ぶと議論の余地なく「ピートの店」と云う気分だったのだ。1987年3月、二人はスターバックスの全てを売却する決心をする。

これを知ったシュルツはすぐに行動を開始する。彼は、自分の事業のためにスターバックスの獲得が必要であることを理解していた。数週間のうちに、シュルツは買収資金380万ドルを調達する。1987年8月に買収手続き完了。契約後、シュルツとグリーンバーグはイル・ジョルナーレ1号店へ歩っていき、窓際のテーブルに陣取ると、エスプレッソで乾杯したと云う。イル・ジョルナーレとスターバックスは統合され、新会社の名称は「スターバックス・コーポレーション」("Starbucks Corporation") とされた。ハワード・シュルツは、新スターバックスの社長兼最高経営責任者に就任した。

その後、スターバックスは成長を続ける。1996年には東京銀座の松屋店がオープンして、北米以外に初めて店舗を持つ(もっとも、1994年に成田空港内で一時期営業をしたことがあるが撤退していた)。1998年、コーヒーチェーン店の買収によりイギリス進出。2006年11月現在、全世界に直営店、7102店(米国内には5668店)、提携店が5338店(米国内3168店)、総計12,440店が存在する。


スターバックス・ロゴの変遷

Starbucks_logo_until_19871971年コーヒー豆の販売店としてスターバックスが出発した際のロゴは、あからさまに海又は水の女怪をモチーフにしており、簡単には「双尾の人魚 (女性) (Mermaid)」と言い表わせるものであった。船員たちを蠱惑して破滅させると云う特徴に注目するなら、代表的なものがギリシア神話(特に「オデュッセイア第12歌」)に登場するため、それに従ってセイレーン (Siren. ギリシア語複数形では Σειρήνες) と呼ばれることもある。警笛を意味する「サイレン」の語源であるのは周知の通り。

更に、女性の水怪として "Melusina (Melusine)" や ローレライ (Loreley) も同じ系譜に属する。

このセイレーンのロゴを提案したのも、テリー・ヘクラーだったらしい。ネットで引用されている、シュルツの記述によれば ("Pour Your Heart into It: How Starbucks Built a Company One Cup at a Time"):

"Terry [Heckler] also poured over old marine books until he came up with a logo based on an old sixteenth-century Norse woodcut: a two-tailed mermaid, or siren, encircled by the store's original name, Starbucks Coffee, Tea, and Spice. That early siren, bare-breasted and Rubenesque, was supposed to be as seductive as coffee itself." [pg. 33]
さらにテリーは、海事関係の古書を何冊もひろげて、双尾の人魚(つまりセイレーン)を描いた16世紀ノルウェーの古い木版画を元にして、周りを当初の店名 "Starbucks Coffee, Tea, and Spice" で縁どることで、ロゴを作り上げたのだった。この胸乳を露にしたルーベンス風の最初のロゴは、コーヒーそのものと同じぐらい蠱惑的であることを意図したものだった。(第33ページ)

ヘクラーが、エリザベス朝ロンドンにあった [人魚亭] ("Mermaid Tavern") を意識していたかどうかは不明だが、元になっている発想は同じだろう。

Original_twin_tailed_siren_1実は、初代のスターバックス・ロゴが下敷きにした図版は、ほぼ分っている。"Deadprogrammer's Cafe ≫ How the Starbucks Siren Became Less Naughty" によれば、 Juan Eduardo Cirlot による "A Dictionary of Symbols" の "siren" の項にあるそうだが、そのほかにも Ad De Vries による Elsevier's Dictionary Of Symbols And Imagery: In English With Definitions (イメージ・シンボル事典) の "melusina" の項にも掲載されている(私が確認したのは大修館書店刊の日本語版)。

初代のスターバックス・ロゴと、木版画板とを比較すると、基本的に同一の図像であることは議論の余地はないが、Michael Krakovskiy ("Deadprogrammer's Cafe" 作成者) も指摘しているように、両者には微妙な、そして重要な違いがある:

  1. 木版画版では、女性像の腹部の膨らみを強調するために入られていたハッチングが、スターバックス・ロゴでは、ほぼ消されている。

  2. 木版画版では、目立っていた臍穴が、スターバックス版では目立たないものになっている。

  3. 木版画板では、深く切れ込んだ二本の尾の境目が、スターバックス版では、なだらかなものになっている。

  4. 木版画板では、微妙に沈痛な表情(特に口元)であるのが、スターバックス版では、微笑している。

基本的に改変は「あからさまに性的な要素を取り除く」と云う方針で行なわれたと思しい。

二つの図像は、基本的に同一だから、もちろん共通点もある訣だが、特に目立つものは:

  1. 胸乳を露出している(両方とも)。

  2. 両手のそれぞれで、二本の尾のそれぞれを支えている。

  3. 王冠を被っている。

  4. 長い髪を背中にたらしている。

あと、もう一つ初代のスターバックス・ロゴの特徴として指摘しておかねばならないのは、その色彩である。それは、焙煎したコーヒー豆を連想させる(seal brown か?)。

Peetslogoちなみに、初代のスターバックス・ロゴと "Peet's Coffee & Tea" の(現在の) ロゴとは、ほぼ同一色である。焙煎コーヒー豆販売店としてのスターバックスが創業した1971年当時の "Peet's Coffee & Tea" ロゴ (もしあったとしての話) が、現在のものと、少なくとも色彩が同一であるかどうかの確認はとれなかったが、スターバックス・ロゴの色彩選択に影響を及ぼした可能性はある。

Il_giornarle_logoスターバックス・ロゴには、もう一つ源流がある。それは、シュルツがスターバックスを離れていた時に経営していた「イル・ジョルナーレ ("Il Giornale") 」のロゴである。円の中央に、ローマ神話のメルクリウス (Mercurius. 英文表記では Mercury) の横顔を配し(翼の付いた帽子らしいものも見える)、その周りを、文字 "IL GIORNALE" と3 + 3 個の星で縁どったものだった。

この星が何を象徴しているのかは、確認がとれなかった。もちろん、メルクリウスは水星をも意味する言葉ではあるが、それとの関連性も不明。更に、話を広げると、一応西洋占星術や錬金術のことも考えなければならなくなるだろうが、今その余裕はない。

注意すべきなのは、シュルツの著作 "Pour Your Heart into It: How Starbucks Built a Company One Cup at a Time") に従うなら、本来は、このロゴが緑色であったことである:

"Our logo reflected the emphasis on speed. The Il Giornale name was inscribed in a green circle that surrounded a head of Mercury, the swift messenger god." [pg. 88] (Note: Please excuse the poor condition of the Il Giornale logo. I scanned the image from a many times photocopied memo from Il Giornarle letterhead.)
私たちのロゴは、素早さの強調を反映したものだった。"Il Giornale" と云う店名が書き込まれた緑色の円が、素早く知らせを伝える神「マーキュリー (Mercury)」の頭部を取り囲むように配置されていた。[第88ページ] (「イル・ジョルナーレ ("Il Giornale") 」のロゴが見づらいことをご勘弁願いたい。この画像は、イル・ジョルナーレのレター・ヘッドから何遍もコピーを繰り返したメモをスキャンして得られたものなのだ。)

Starbucks_logo_198719921987年、スターバックスとイル・ジョルナーレとの統合に応じて、ロゴも変更される。中心となる像は、初代のスターバックス・ロゴに従って「セイレーン」が採用されたが、色はイル・ジョルナーレの緑色が選ばれた。また、扱う商品が変更になったので、縁どりの文字も、"Starbucks Coffee, Tea, and Spice" から "Starbucks Coffee" (そして、星 1 + 1 個) になった。

再び、シュルツの説明を引用するなら:

"To symbolize the melding of the two companies [Il Giornarle and Starbucks] and two cultures, Terry [Heckler] came up with a design that merged the two logos. We kept the Starbucks siren with her starred crown, but made her more contemporary. We dropped the tradition-bound brown, and changed the logo's color to Il Giornarle's more affirming green." [pg. 108]
両社 [スターバックスとイル・ジョルナーレ] と、その文化の融合を象徴するために、テリー・ヘクラーは、その二つのロゴを一つにまとめたデザインを作り上げた。スターバックスのセイレーンは星を付けた王冠を被せて残したが、ヨリ現代風にした。また、ロゴの色は、古めかしい茶色は止めて、イル・ジョルナーレの、ヨリ積極的な感じの緑色へと変更した。[第108ページ]

初代から二代目のロゴへの変更点は、図案の様式化を進めた(「より現代風にした」)だけではない。次のような特徴がある:

  1. 視覚的な厚みを意図的に排除しており、腹部に膨らみは全く感じられない。

  2. 髪の毛を背中に垂らさず、胸の方に垂らすようにしたことで、両乳首を隠した。

  3. 二本の尾の間の境目が実質的になくなっている。

  4. 顔が正対しているため、表情が明白に archaic smile になっている。

ただし、この段階では臍穴は残っていた。また、尾が、全体としての様式化により、水の関わり合いが薄れているのを補う形で、尾の文様が、波形になっている(もっもと、初代の鱗形が失われたと云う見方もできる)。

なお、セイレーンの「星を付けた王冠」には、メルクリウスの「翼が付いた帽子」が名残を留めているのかもしれない。だから、スターバックス・ロゴは、ヒョッとすると、手塚治虫の [ビッグX] や、鳥山明の [Dr.スランプ アラレちゃん] と細い線でつながっていると想像することはできる。

ただし、これに関連して書いておくと、"melusina" (melusine) や "Alchemical siren" は、しばしば冠を被った姿で描かれる。以下を参照:

Starbucks_logo_from19921992年、スターバックスは、再度ロゴを変更する。[二代目] でさえ、性的でありすぎると反発する顧客があったため(ただし風評)という。この年、スターバックスは NASDAQ に株式上場を行なっており、それが影響した可能性もあるだろう。

シュルツは、その著作で "In 1992 we also asked Terry Heckler to revise our logo: She stayed mostly the same but lost her navel. [pg. 309]" (1992年、我々は、テリー・ヘクラーに、スターバックス・ロゴを改訂するよう依頼した。その結果、女性像は、ほぼ元のままだが、臍穴がなくなることになった。[第309ページ]) と言っているが、勿論、他にも変更が加えられている。画像の一部を拡大して、はみ出た部分を切り落としたと云うのが、変更の要旨なのだが、その際、画像の中心を、二代目における胸から、三代目では顎に移している。このため、「風評」云々は別として、たしかに更に性的な含意は削ぎ落とされることになった。

目立つ変更点をまとめると:

  1. シュルツも認めるように、臍穴が見えない。

  2. セイレーンの下半身が、ほぼ見えなくなって、僅かに二本の尾の先端部分が「見切れる」ように移りこんでいるだけになっている。

  3. 尾の文様が、波形からヘリングボーン (herringbone) 風になっている。

Starbucks_logo_original2実は、スターバックスのオリジナル・ロゴと呼ばれるものには、別のパターンがある。ロゴの周囲銘文が "Starbucks Coffee, Tea, and Spice" ではなくて "Starbucks Fresh Roasted Coffee" になっているものだ。

2006年9月にスターバックスが創立35周年記念として、ワシントン州 (本社がある) とオレゴン州 (ワシントン州の南隣にある) 内の店で出すコーヒーのカップに付けてあるロゴを「オリジナルのもの」に差し替えたのだが、その時のロゴは、こちらの方だったらしい。("The Insider: Principal roasts Starbucks over steamy retro logo" 参照)

参考サイト:

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2007年2月 6日 (火)

ちなみに: [人人為我,我為人人] ([人人为我,我为人人]) は、よく使われる「中国語表現」である。

記事 ["One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて] (2007年1月30日) 末尾で触れた [人人為我,我為人人] (簡体字では [人人为我,我为人人])、或いはむしろ [我為人人,人人為我] ([我为人人,人人为我]) は、よく使われる「中国語表現」である。

名人名言/經典名人名言30句」や「Yahoo! 雅虎 知识堂 [“我为人人,人人为我”出自何处?]」から分かるように、それが、アレクサンドル・デュマ・ペール (大仲马) の小説 [三銃士] ([三个火枪手] 又は [三劍客]) に由来すると云うことも、少なくともある程度は知られている(これは日本でも同様だろう)。

[雷锋纪念馆ウェブサイト中の或るページ] に見られるように、 [我為人人,人人為我] は、中国共産党が伝説的な労働英雄に仮託した期待される労働者像の属性であるだけでなく(「团结友爱,互相帮助,我为人人,人人为我的良好风气,雷锋正是在这样的时代精神熏陶下茁壮成长起来的」)、党が現在の人民に口を酸っぱくして説いている道徳律でもある。

形成我为人人、人人为我的社会氛围
2007年01月19日01:14

 ●我为人人和人人为我是辩证统一的整体,二者不能分割。只有先做到我为人人,才能实现人人为我。这种价值取向是与社会主义核心价值体系相一致的正确价值取向。
 ●我为人人、人人为我的价值取向,对国家、对社会、对他人充满责任感,是调节人际关系、维护社会秩序、促进社会和谐的润滑剂。
 推进和谐文化建设,构建社会主义和谐社会,是我们当前面临的重大战略任务。党的十六届六中全会《决定》指出,要“推动形成我为人人、人人为我的社会氛围。”和谐文化建设首先要求树立正确的价值取向。我为人人、人人为我,是处理个人与他人、个人与社会关系的正确价值取向。大力倡导我为人人、人人为我的价值取向,对于促进社会和谐具有极其重要的意义。

《人民日报》 (2007-01-19 第09版)

残念ながら、[我為人人,人人為我] が、いつごろから党中央のスローガンとして採用されたかは、確認できなかった。

北京大学付属中学の卒業生らしい [欧阳程] (北大附中63—11班) は、「1958—1963年,是国际共产主义大论战的年代,是国际风云变幻的年代;是中国人民告别大跃进、与自然灾害抗争的年代;是全国人民学雷锋,人人为我、我为人人的年代。」と回想している(难忘的五年)。

しかし、大躍進政策の惨澹たる失敗に応ずる形で毛沢東の後に劉少奇国家主席を襲ったのが 1959年4月27日、雷鋒の殉職は 1962年8月15日、毛沢東の「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」は、1963年3月5日で、若干の齟齬がある(ちなみに、所謂 [廬山会議] は、1959年7月/8月である)。どうやら、[我為人人,人人為我] は、大躍進政策の当時、既に使われていたらしい。毛沢東は、このスローガンに反対する立場を取っていたと云う。

      在群己關係上,1958年紅專討論的時候,曾有一個流行的觀點,即「人人為我,我為人人」,並把它看成是「無產階級的信條」14。毛澤東非常不以為然,他說15

    斯大林只談經濟,不談政治,雖然說忘我勞動,其實多作一小時也不行,都不能忘我。人的作用,勞動者的作用不談。如果沒有共產主義的運動,想過渡到共產主義是困難的。「人人為我,我為人人」不妥當,結果都離不開我。有人說馬克思講過的,是馬克思講過的我們可以不宣傳。人人為我,是人人都為我一個人,我為人人,能為幾個人?

    14:〈人人為我,我為人人〉,《人民日報》社論,1958年3月15日。
    15: 《毛澤東思想萬歲》(1969),頁248-49。
    --《二十一世紀》網絡版


政治関連以外のことも書いておこう。

日本語の [生活協同組合] に相当するのは "消費合作社" ("消费合作社") と呼ばれるものであるらしいが、これについて言えば、台湾 [國立勤益技術學院員生消費合作社] のスローガンは [我為人人。人人為我。互助合作。團結進步] である。

また [吴念鲁] と云う人物が亡父 [吴朗西] (吳朗西。作家、翻訳家。巴金と親交があったらしい。また、日本に留学していたことがある由) の想い出を綴った [忆父亲吴朗西] には、[吴朗西] が重慶で [消费合作社] を創設したと云うくだりがあるが、そこでも:

父亲于1939年9月回到重庆沙坪坝。后来,在父亲、巴金、田一文、陈辉等人努力下,终于在重庆民国路开办了文化生活出版社重庆分社,父亲任总经理,巴金任总编辑兼副总经理。
沙坪坝是重庆一个文化区,但是由于交通不便,销售渠道不畅通,使一些投机商人囤积居奇,特别是生活必需品的价格不断上涨,居民生活很不方便。
父亲为了改变这一状况,在他的互助、互爱、互利思想指导下,以"人人为我,我为人人"为服务宗旨,创办了消费合作社。

学校のモットーにも使われていて、香港のキリスト教系私立校 (幼稚園から、日本における高校ぐらいまでの一貫校) [民生書院 (Munsang College)] の校訓は、[人人為我,我為人人] である。

[生命保険] は、中国語では [人壽保險]。

人壽保險是「我為人人,人人為我」的經濟制度,以提供個人或家庭因生、老、疾病、殘廢及死亡所導致的生活不安定,給予確定的經濟生活保障為宗旨。
--壽險保戶手册

高尧 (高堯) と云うサッカー選手(山東魯能泰山隊所属)は、「你的座右铭是什么?」(あなたの座右の銘は?) と聞かれて、「我为人人,人人为我 」と答えている(高尧:我为人人,人人为我)。


ちなまれているのは: "One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて

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2007年2月 2日 (金)

[八代集秀逸]中のよみ人知らず歌リンク集

藤原定家撰版の [八代集秀逸] (岩波文庫 [王朝秀歌選] 所収) には、[よみ人知らず]の歌が6首収められている。それぞれに就いてのリンクをまとめた(各歌の前の数字は、[八代集秀逸] 内での番号付け)。

2. 鳴きわたる 雁の涙や 落ちつらむ 物思ふ宿の 萩の上の露 (古今221)

古今和歌集の部屋 巻四 221
時代統合情報システム [古今集 巻四:秋上] [00221]
古今和歌集 [221]
「近代秀歌」翻字データベース [古今巻四221 読人しらず]
秀歌体大略 (千人万首) [秋 32 読人不知 古今]
源氏物語 36 柏木 第五章 夕霧の物語 柏木哀惜 [注釈326: もの思ふ宿は]
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [古今221]

本歌取り
  刑部卿頼輔、歌合し侍りけるに、よみて遣はしける
聞く人ぞ涙は落つる帰る雁鳴きて行くなる曙の空
--藤原俊成 [春 新古今] (千人万首) [新古今 59]

なき渡る雲ゐの雁の涙さへ露おく袖の夜半のかたしき
--俊成卿女 [水無瀬恋十五首歌合] 秋恋 [十三番 左 持]



8. 名取川 瀬々の埋れ木 あらはれば いかにせむとか 逢ひ見初めけむ (古今650)

古今和歌集の部屋 巻十三 650
時代統合情報システム [古今集 巻十三:恋三] [00650]
古今和歌集 [650]
近代秀歌 例歌 (千人万首) [恋 61]
秀歌体大略 (千人万首) [恋 94 読人不知 古今]
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [古今650]

本歌取り
  攝政太政大臣家歌合によみ侍りける
ありとても逢はぬためしの名取川朽ちだにはてね瀬々の埋木
--寂蓮 [新古今 卷第十二:戀歌二 1118]

なとり川わたればつらし朽ち果つる袖のためしのせぜの埋れ木
--定家朝臣 [水無瀬恋十五首歌合] 河辺恋 [六十一番 右] (「勝」は左「左大臣良経 泊瀬川ゐでこす波の岩の上におのれくだけて人ぞつれなき」)



10. たがみそぎ ゆふつけ鳥か 唐衣 立田の山に をりはへて鳴く (古今995)

古今和歌集の部屋 巻十八 995
時代統合情報システム [古今集 巻十八:雑下] [00995]
古今和歌集 [995]
古今集秀歌選 [0995]
吉川栄治研究室(滋賀大学) [古今集:巻18/雑下/0995/読人不知]
「ユフツケドリ」詠
鳥を詠める和歌 [古今和歌集 十八雑 よみ人しらず]

大和物語 百五十四段
大和の國なりける人のむすめ、いときよらにてありけるを、京よりきたりける男のかいまみて見けるに、いとおかしげなりければ、ぬすみてかき抱きて馬にうちのせて逃げていにけり。いとあさましうおそろしう思ひけり。日暮れて立田山にやどりぬ。草のなかにあふりをときしきて、女を抱きて臥せり。女、恐しと思ふことかぎりなし。わびしと思ひて、男の物いへど、いらへもせで泣きければ、男、
   たがみそぎゆふつけどりか唐衣立田の山におりはえてなく
女、かへし、
   立田川いはねをさしてゆく水の行方もしらぬわがごとやなく
とよみて死にけり。いとあさましうてなむ、男抱きもちて泣きけり。
--歌物語という「語り」~「大和物語」百四十九段~百五十五段 [154段]
--大和物語 [154:ゆふつけ鳥]



11. つつめども 隠れぬものは 夏虫の 身より余れる 思ひなりけり (後撰209)

詞書: 桂の皇女(みこ)の「蛍をとらへて」と言ひ侍りければ、童(わらは)の汗衫(かざみ)の袖につつみて
時代統合情報システム 後撰集 巻四:夏 [00209]
後撰集秀歌選 [巻第四:夏歌 0209]
後撰和歌集卷第四 夏歌 [桂のみこの螢を捕へてといひ侍りければ童のかざみの袖につゝみて]
「近代秀歌」翻字データベース [後撰巻四209 読人しらず]
和漢朗詠集
虫を詠める和歌 [後撰和歌集 四夏]
詠歌一體 藤原爲家 [国文研/後撰和歌集/後撰和歌集巻第四/夏歌 0209]

今物語 四
 ある殿上人ふるき宮ばらへ夜ふくる程に参りて。北のたいのめむだう(馬道)にたゝずみけるに。局におるゝ人の気色あまたしければ。ひきかくれてのぞきけるに。御局のやり水に蛍のおほくすだきけるを見て。さきにたちたる女房の。蛍火みたれとびてとうちながめたるに。つぎなる人。夕殿に蛍とんでとくちずさむ。しりにたちたる人。かくれぬものは夏むしのとはなやかにひとりごちたり。とりどりにやさしくもおもしろくて。此男何となくふしなからんもほいなくて。ねずなきをしいでたりける。さきなる女房。ものおそろしや。蛍にも声のありけるよとて。つやつやさはぎたるけしきなく。うちしづまりたりける。あまりに色ふかくかなしくおぼえけるに。今ひとり。なく虫よりもとこそととりなしたりけり。是もおもひ入たるほどおくゆかしくて。すべてとりどりにやさしかりける。
   後拾おもひにもゆる〔首書〕
音もせてみさほにもゆる蛍こそ鳴虫よりも哀成けれ
蛍火乱飛秋已近。辰星早没夜初長。
夕殿蛍飛思悄然。
後撰 つゝめともかくれぬ物は夏むしの身よリあまれる思ひ成けり
--今物語 第四話
//ゑびすや贅言: なんと艶やかな情景だろう。

参考:
  ほたるをよみ侍りける
音もせで思ひにもゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ (後拾遺216)
--源重之 (千人万首) [夏]

蛍火乱れ飛びて 秋已に近し
辰星早く 没(かく)れて 夜初めて長し
蛍火乱飛秋已近。辰星早没夜初長。元
--和漢朗詠集

元稹 [夜坐]
雨滯更愁南瘴毒,月明兼喜北風涼。
古城樓影橫空館,濕地蟲聲繞暗廊。
螢火亂飛秋已近,星辰早沒夜初長。
孩提萬里何時見,狼藉家書滿臥床。
--簫堯『中國詩苑』《全唐詩》卷四百一十五 [卷415_28 《夜坐》元稹]


14. 秋風に さそはれ渡る 雁がねは 物思ふ人の 宿をよかなむ (後撰360)

時代統合情報システム 後撰集 巻七:秋下 [00360]
後撰和歌集・ 巻第七 秋下 [360 題しらず]
後撰和歌集卷第七 秋歌下 [題志らず]
「近代秀歌」翻字データベース [後撰巻七360 読人しらず]
近代秀歌 [後撰和歌集/後撰和歌集巻第七/秋歌下 0360]
近代秀歌 (縦書き表示) [後撰和歌集/後撰和歌集巻第七/秋歌下 0360]
秀歌体大略 (千人万首) [秋 38 読人不知 後撰]
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [後撰360]
詠歌大概



24. いかにして しばし忘れむ 命だに あらば逢ふ夜の ありもこそすれ (拾遺646)

時代統合情報システム 拾遺集 巻十一:恋一 [00646]
拾遺和歌集 646
拾遺和歌集卷第十一 戀一
中古 よみ人しらず (千人万首付録) [拾遺646]

清原深養父
いかで猶 しばし忘れん 命だに あらば逢ふ世の ありもこそすれ
--深養父集増補 [60-]

本歌取り
  題しらず
あすしらぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふよを待つにつけても
--新古今 巻第十二 恋歌二 殷富門院大輔 (新古1145)

  建保五年四月庚申、久恋といへる心をよみ侍ける
こひしなぬ身のをこたりぞとしへぬるあらばあふよのこゝろづよさに
--新勅撰和歌集 巻第十二 恋歌二 権中納言定家 [746]



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2007年1月30日 (火)

"One for all, and all for one" (「一人は万人のために、万人は一人のために」) に就いて

記事 [「一人ひとりに、それぞれの必要に応じて。一人ひとりが、その能力に応じて。」と「全員が一人ひとりのために。一人ひとりは全員のために。」] (2007年1月26日) で書いた [三銃士 (ダルタニャン物語 第一部)] ("Les Trois Mousquetaires" 1844年) に現われる "Tous pour un, un pour tous." (「全員が一人のために。一人は全員のために。」) の対応英語形は "One for all, all for one" になる。この変異例としては "One for all, and all for one" や "all for one, one for all" 或いは "All for one, and one for all" がある。日本語の「一人は万人のために、万人は一人のために」も、この系統とみなして良いだろう。

"Voyage en Icarie ([イカリア旅行記] 第3版 1845年)" 表紙における "Tous pour chacun. Chacun pour tous." (全員が一人ひとりのために。一人ひとりは全員のために。) が、どう関わるのかは、未確認。


で、取り敢えず話を日本に限ると 「一人は万人のために、万人は一人のために」(変異例:「みんなが一人のために、一人はみんなのために」)や "One for all, all for one" 等は、様ざまな組織及び個人の pet philosophy になっている:

生活協同組合 (生協)
コープこうべ
全国生協連
大学生協
農業協同組合 (農協)。 ただし「"Each for All, All for Each (一人は万人のために 万人は一人のために)"」を採用している。
JA (農協) 東京中央会
JA 全農
JA 全中
その他の協同組合
全労済
労働組合
動労千葉
自治労群馬県本部
自治労横浜
関西合同労組
全日本郵政労働組合 英文による組織紹介のタイトルが "One for all, all for one"
チーム競技
ラグビー (愛知県「岡崎ラグビースクール」)
サッカー (神戸大学体育会サッカー部)
野球 (松坂大輔)
ソフトボール (茨城県東海村「舟石川ソフトボールスポーツ少年団」)
バレーボール (Vリーグ「トヨタ自動車」チーム)
フットサル (フットサルラボ:脱初級者フットサルブログ)
ラクロス (東京女子体育大学・ラクロス部)
駅伝 (99年北大駅伝)
モダンダンス (大東文化大学モダンダンス部)
チアリーディング (福井県 WENDYS)...
バンドスタイル又はシンガーチームスタイルのタレントの features
H.P.オールスターズ: "Hello! Project" のユニット。「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」は、その楽曲名。
氣志團ちゃんブログ:ONE FOR ALL.ALL FOR ONE. (2006年4月21日)
学校/課外活動のモットー
聖ドミニコ学園小学校(東京都世田谷区)
山口県立豊北高等学校
岡山県立矢掛高校吹奏楽部
学園祭・運動会のテーマ
西九州大学福祉医療専門学校・佐賀調理製菓専門学校の合同学園祭
沖縄キリスト教学院大学・沖縄キリスト教短期大学 学生会2006キリ学祭
横浜市國學院大學幼児教育専門学校“若葉祭”
文教大学付属中学・高等学校学園祭 (東京都品川区旗の台)
神戸山手女子中学校・神戸山手女子高等学校
啓新高校(福井県)
広島県立加計高等学校
大阪産業大学
横浜市立日限山中学校
舞鶴市立城南中学校
高知県立高知追手前高等学校吾北分校
山口県立南陽工業高等学校体育祭...
成人式の標語
秋田県横手市
政治家の看板文句
豊島区議会議員 池田なおひろ (自由民主党)
衆議院議員 後藤田 正純 (自由民主党)
前・衆議院議員 田中慶秋 (民主党)
山口県下関市議会議員 長ひでたつ (公明党)
千葉県浦安市議会議員 辻田あきら
福井県議会議員 のだ富久 (県民連合)
神奈川県知事 松沢成文
長野県下伊那郡下條村議会議員 宮島きよのぶ
衆議院議員 森喜朗 (自由民主党)
ブログのタイトル
多数。無慮数百あるようだ。
個人の「好きな言葉」/「座右銘」
多数。

なにか、こう目眩いがしてくるね。

保険会社も、しばしば「一人は万人のために、万人は一人のために」を標語にする:

その根拠にしているのは、ドイツ語形の "Einer für Alle, Alle für Einen" のようだ。これは、直接にはドイツ(その後米国に移住)の保険学者 Alfred Manes によるらしいが、それが更に由来するものがあるかどうかは、私には不明。

外国での対応表現の使われ方に就いて調べてみるつもりだったが、別の機会を俟つことにする。

    参考になるかもしれないサイト:
  • One for all, and all for one - Wikipedia: 記事中、"One for all, and all for one" をモットーとする団体として具体的に挙げられているのは "Hells Angels" だけである。
  • Panthéon de Paris - Wikipedia: 2002年11月30日に Alexandre Dumas がパリ・パンテオンに改葬された際に、棺にかけられた drap bleu には "Tous pour Un, Un pour Tous " と記されていたと云う (Alexandre Dumas, samedi 30 novembre 2002)。
  • Rugby School Internet Services: rugby football が始まったとされるイングランドの public school "Rugby School" のサイト。"one for all" や "all for one" に就いて特記している様子は見られない。「学校新聞」である "The Grapevine" 2006年2月号に "This term has been a pretty amazing one for all the badminton squads,..." とあるが、これは「今期は、バドミントンチームの全てが素晴らしい成績を残した」と云うこと。
  • Rugby Football Union: 英国ラグビーフットボール協会のサイト。"one for all" や "all for one" に就いて特記している様子は見られない。
  • RugbyRugby: Latest News: ラグビーフットボールの専門サイト中の記事。"one for all and all for one" と云うスローガンに就いての言及がある。
  • Unus pro omnibus, omnes pro uno - Wikipedia: ラテン語。非公式ながらもスイスの伝統的モットー。
  • Trivia for The Truman Show (1998) によれば、映画 "The Truman Show" (1998年) には、"UNUS PRO OMNIBUS, OMNES PRO UNO" が町のモットーとして登場する。この映画は、1967年のイギリステレビドラマシリーズ "The Prisoner" (「プリズナーNo.6」) を意識している。
  • Solidarität im Verfassungsstaat:「立憲国家における団結」"Einer für Alle, Alle für Einen" や Alfred Manes の話が出てくる。副題: "Grundzüge einer normativen Theorie der Verteilun" は「分配の標準理論の基本的特徴」と言ったところか。
  • 集団主義 - Wikipedia 曰わく: 「One for All , All for One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)というスローガンは、個人主義的な成員に、心理的に集団と一体化しよう、と呼びかける理念・イデオロギーで、1844年にイギリスで生活協同組合運動が発足したときに考案されたもの。これを西欧的集団主義と把握する考え方がある。北朝鮮はこのスローガンを愛用し、全体主義批判に対し、自国は集団主義であると反論する。
  • 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法: 第5章 [公民の基本権利及び義務] 第63条 朝鮮民主主義人民共和国において公民の権利及び義務は、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という集団主義原則に基づく。
  • Rochdale - Wikipedia: イングランド西北部の都市。協同組合運動 (cooperative) 発祥の地。
  • Rochdale Principles - Wikipedia: 初期協同組合運動の原則。"one for all, all for one." に類する箇条は見当たらない。
  • Statement on the Co-operative Identity - Wikipedia: "International Co-operative Alliance" (ICA 国際協同組合同盟) による協同組合運動宣言。

ついでに書いておくと "one for all, all for one." 及び "one for all, and all for one." に対応するロシア語表現は,それぞれ "Один за всех, все за одного." 及び "Один за всех и все за одного." また、イタリア語形は "Uno per tutti, tutti per uno." 及び "Uno per tutti e tutti per uno."

"Один за всех" "все за одного" が、Сергей Михайлович Эйзенштейн (セルゲイ・エイゼンシュテイン)の 映画 "Броненосец Потёмкин" (「戦艦ポチョムキン」)に出てくるらしいが、未確認(ただし "Battleship Potemkin: Scenario and script by Sergei Eisenstein" 参照)。

"One for all, all for one." は、「ユートピア/革命の昂揚」の指標であるのと同時に、「ディストピア/革命の幻滅」隠蔽の指標でもあると言うべきか。

いみじくも、アレクサンドル・デュマ・ペール (Alexandre Dumas) は、このあたりの機微を、アトスとアラミスに「手を差し出して誓え!」と迫られたポルトスが、「ブツブツ口ごもりながらも、周りの勢いに気圧されて」(Vaincu par l'exemple, maugréant tout bas)、ダルタニャンとの四人で「全員が一人のために、一人は全員のために」と唱和したと、書いていることを忘れるべきではないだろう( [ダルタニャン物語 第一部「三銃士」"Les Trois Mousquetaires"] 第9章)。


    最後に、各国語おける問題の標語を改めてまとめておこう(主な変異例がある場合には、それも付ける):
  • フランス語: "Tous pour un, un pour tous."

  • 英語: "One for all, all for one." ("One for all, and all for one." )

  • ドイツ語: "Einer für Alle, Alle für Einen"

  • 日本語: 「一人は万人のために、万人は一人のために。」(「みんなは一人のために、一人はみんなのために。」)

  • イタリア語: "Uno per tutti, tutti per uno." ("Uno per tutti e tutti per uno.")

  • ラテン語: "Unus pro omnibus, omnes pro uno"

  • ロシア語: "Один за всех, все за одного." ("Один за всех и все за одного.")


    補足
  • スペイン語: "uno para todo, todo para uno." ("uno para todo y todo para uno.")

  • オランダ語: "Een voor allen, allen voor een." ("een voor allen en allen voor een.")

  • ポルトガル語: "um para todos, todos para um." ("um para todos e todos para um.")

  • 中国語形: "我為人人,人人為我" らしい。(中国語ウィキペディアのスイスの項 "瑞士" による。) "one" には「我」、"all" には「人人」が当てられているのが興味深い。

  • ハングル: "전체는 하나를 위해, 하나는 전체를 위해" 「チョンチェヌン ハナルル ウィフィェ, ハナヌン チョンチェルル ウィフィェ」か? (ハングル版ウィキペディアのスイスの項 "스위스" による。"전체"「チョンチェ」は「全体」の意、"는"「ヌン」は主題を表わす格助詞、"하나"「ハナ」は数詞「一」、"를"「ルル」は目的格助詞、"위해"「ウィフィェ」は目的を表わす用言「為である」。)


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2007年1月23日 (火)

ちなみに: アシモフとリメリック


アシモフ (Isaac Asimov) の [黒後家蜘蛛の会] (創元推理文庫版で全5巻) を読んでいると、彼がリメリック (limerick) 好きだったのだろうと推測されるが、実際にそうだったようで、晩年、自作の物を多数含む "Lecherous Limericks" や "Limericks: Too Gross" と云ったリメリック集を出している(いづれも、私は未見)。

アシモフが、ある人物を主題にしたリメリックを書いて、当人に渡したと云う逸話も、ネットで見られる。

たとえば、アシモフがアーサー・C・クラーク (Arthur C. Clarke) に "Old Arthur C. Clarke of Sri Lanka" で始まるリメリックを送ったと云う話が、"Arthur C Clarke Isaac Asimov Limerick" と云うウェブページに載っている。

ディック・ストッジヒル (Dick Stodghill) と云う退役軍人の作家が作っているウェブページ "Dick Stodghill | A veteran writer's books, magazines and recollections of infantry combat in Normandy" でも、アメリカ探偵作家クラブ (Mystery Writers of America) の会合の席上で1980年に初めて、アシモフに会った際、アシモフがストッジヒル夫人の Jackie に "There was a young woman named Jackie" で始まるリメリックを捧げたと云う出来事が懐かしそうに回想されている。

付け加えるならば、地球外知的生命体探査 (Search for Extra-Terrestrial Intelligence, SETI) 計画の熱心な支持者でありリメリックの愛好家であったアシモフを記念して、The SETI League, Inc は1995年3月から1998年3月まで、リメリックコンテストを開催した(優秀作が公表されている)。

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2007年1月18日 (木)

英語での火災放送の文例

英語での火災放送の文例を探して、このサイトに来た方がいるようなので、幾つか探してみた。以下で間に合えばよいのだが...

しかし、その前に内容をまとめておこう。

1. 変異はあるのだが、基本は "Code Red" に、火災の発生(可能性の段階を含む)場所の情報を付け加えると云うものだ。前置詞は特に必要ではない。そして、通常これを3回繰り返すらしい。
2. "Code Red" を火災以外の場合(例えば「学校敷地に不審者がした」とか)にも使用するような施設では、"Code Red" の後に "Fire" の一語を続けて言うことがあるらしい。
3. 鎮火等で、危険がなくなった事を伝える際には、"Code Red + 該当箇所" を言ってから、"All Clear." と言う。
4. 「火災訓練」ではないことを明示したい場合は "This is not a drill." を最後に付け加える。更には、"This is not a drill. Repeat: This is not a drill." とダメ押しすることもあるようだ。「これは訓練ではない。繰り返す。これは訓練ではない。」と云うヤツだ。

と云う訣で以下の通り:

1. Telecommunications Emergency Procedures and Contingency Plans
Immediately upon receiving a call from University Police informing the operator of a fire, and/or upon hearing the alarm bells, the operator will announce the following over the overhead page system (the message is repeated three times).
  "Code red nursing station________room _________."
  "Code red nursing station________room _________."
  "Code red nursing station________room _________."
If the location is other than at a nursing station, give the proper location of the fire by announcing (the message is repeated three times):
  "Code red location_______."
  "Code red location_______."
  "Code red location_______."
All subsequent overhead announcements for fire emergencies will be Originated from the hospital administration office.

2. BOSTON UNIVERSITY MEDICAL CAMPUS Safety and Disaster Manual "Safety and Disaster Manual"
Page Operators will send a group page upon instruction from the Control Center. Page script example: "CODE RED L BUILDING 6 TH FLOOR". (Operator Services maintains a current Code Red Page list). Page Operators will also send pages to clear fire alarms upon BFD approval. Example: "CODE RED L6 ALL CLEAR".

3. Thomas Jefferson University - Department of Environmental Health and Safety: Fire Manual
The Fire Alarm
A CODE RED announced over the paging system means "Fire or Fire Drill." The telephone operator will repeat this three times, followed each time by the location of the alarm. For example, if there is a fire on the 7th floor Thompson, it will be announced:
  "CODE RED, 7th floor, Thompson."
  "CODE RED, 7th floor, Thompson."
  "CODE RED, 7th floor, Thompson."
When the alarm is over, the telephone operator will announce:
  "CODE RED, 7th floor, Thompson, All Clear."

4. MEDICAL UNIVERSITY OF SOUTH CAROLINA (MUSC) "FIRE /LIFE SAFETY FIRE REACTION PLAN" Revised
A message will be broadcast over the fire alarm public address system, "Code Red", and announce the location of the fire (e.g., 6th Floor).

5. Duke University Safety Manual: "OCCUPATIONAL AND ENVIRONMENTAL SAFETY OFFICE SITE SPECIFIC FIRE PLAN" Part II General Statement
"ATTENTION PLEASE - CODE RED HAS BEEN REPORTED IN YOUR ZONE. IF RELOCATION IS NEEDED, MOVE ALL PERSONS TO YOUR DESIGNATED EVACUATION ZONE".
  本稿の話題とは外れるが、"EVACUATION ZONE" が「退避勧告/命令対象範囲」ではなく、いわゆる「避難地域」として使われている例であることに注意。([災害(地震)対策文書中の用語「避難所/避難場所」の英訳としての "evacuation area" に就いて] 参照)。

6. ITASCA RESOURCE CENTER EMERGENCY PROCEDURES
The Front Desk will sound the Building-wide Alarm and announce "CODE RED, Fire, Location if known, Please evacuate the building" over the building-wide intercom three times.

7. Hospital Emergencies
Samples of Hospital Emergency Codes (these terms may differ for different hospitals)
All of these codes are usually announced over the hospital intercom, along with the exact location (floor and/or unit) where the emergency is taking place (for example, "Code Red, Unit 5700"). When the emergency no longer exists, an "All Clear" announcement is made and repeated 3 times over the intercom. ("Code Red 5700 all clear. Code Red 5700 all clear. Code Red 5700 all clear.").

8. Carolinas HealthCare System: Safety and Security Module for Temporary Staff, Students, and Volunteers
"Attention please, Code RED," [this is repeated three times, along with the location of the fire. Chimes and strobe lights will also be activated where located.

9. BOISE VA MEDICAL CENTER: ORIENTATION
Fire alarm pull boxes are located by all exits and at nurses' stations on the medical wards. The fire alarm is a chime and strobe light that only activates in the building where the alarm is activated. There will be an overhead page for "Code Red Building ___," which will be repeated three times.

10. Code Red
Code Red!...Code Red!...Dick Cheney's pants are on fire and the entire White House is in danger of being totally engulfed and consumed!
  この最後の例は、火災放送の文例がパロディ的に使われている例。Dick Cheney は、現アメリカ合衆国副大統領。字面から言えば「尻に火がついた」と云うところだが、含意は別で "Dick Cheney's pants are on fire" は "Liar, Liar, Pants On Fire" と云う、子どもの囃し言葉を踏まえている。


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2007年1月11日 (木)

ある逸話:「殿下におかせられましては、すでに第二の段階にお進みになられました」

伊丹十三の [ヨーロッパ退屈日記] に、[この道二十年] と云う一段がある(私が持っているのは 1976年刊 [文春文庫] 版では pp.227-230)。英語が得意であることを自負していた著者が、R と L とを発音し分けられるようになったのは、勉強を初めてから二十年ほど経ったからだったと云うのが、タイトルの由来なんだが、更に話は、発音より更に難しいのが、R と L とを聞き分けることだと続く。そして、伊丹十三はこう書く:

 断っておくが、わたくしは、耳は悪い方ではない。音楽的才能も一応はそなわっている。つまり、わたくしは楽器なぞ弾いたりもするのですよ。
 たとえば、ギターでいえば、『アルハンブラの想い出』『レゲンダ』『アラブ綺想曲』といった立派な演奏会用曲目を、一応澱みなく弾くことができるのです。
 あるいは、ヴァイオリンでいえば、かつてソロモンという名人が、教え子である、ジョージ三世に、「予の、進歩の状態はいかがなものであろうか」と問われたときに答えた言葉がある。
「およそ、ヴァイオリンを奏するものに三段階あり。全くヴァイオリンを弾くことのできぬもの。非常に拙なくヴァイオリンを奏するもの。非常に巧みにヴァイオリンを奏するもの、の三種である。殿下におかせられましては、すでに第二の段階にお進みになられました。」
 というのであって、わたくしも、その第二の段階に属するものである。

つまり、それなりに「耳のいいわたくしにして、なお」、R と L とは聞き分けられないのだから、

 ここにおいて、諸君は、今や全く、英語の発音の難しさを諒解されたことと信ずるから、次に日本人の陥りやすい、通弊というものを列記する。

と引きとって、次段の [母音] へとつなげていく訣だ。

このジョージ三世の逸話の出典がかねがね気になっていて、念晴らしとして今回ネットで google 検索してみたのだ。その結果得られたのが:

Johann Peter Salomon once reluctantly gave violin lessons to George III. "Your Majesty, fiddlers may be divided into three classes," Salomon remarked. "The first, those who cannot play at all; the second, those who play badly; the third, those who play well. You, sire, have already attained the second class."
[Sources: W. Gates, Anecdotes of the Great Musicians]
--Anecdote - George III - Quick Study?

出典とされている "Anecdotes of the Great Musicians" (1897年) は、リプリント版らしいものが出版されているが、オリジナル、リプリントとも私は未見。

"Johann Peter Salomon" は、現在の日本では「ヨハン・ペーター・ザーロモン」と呼ばれている人物だろう。

ソロモンとザーロモンとの違いは、この際どうでもよかろう。それ以外でも伊丹版と Gates 版とは、微妙に食い違っているが、これも気にしなければ気にならない程度のことだ。だいたい、伊丹十三が、この逸話を "Anecdotes of the Great Musicians" で知ったとは限らないし、また、逸話の常で、聞いた/読んだものを伊丹十三が「潤色」したことも十分ありうる。

ただ、面白いのは、同系統の逸話が他にあって、[伊丹版] は、それらを組み合わせた格好になっていることだ。

The music for the dance was supplied by a young Englishman. He played with an air, as if before the gallery. His performance reminded me of the story of the Italian who taught George III. the violin, and who, on being asked by the king as to his progress, replied:
"Please your Majesty, there are three classes of players:
1. Those who cannot play at all.
2. Those who play badly.
3. Those who play well.
Your Majesty is just rising into the second class."
--"Janey Canuck In The West" by EMILY FERGUSON (1910)


John Keats, the second of four children, like Chaucer and Spenser, was a Londoner, but, unlike them, he was certainly not of gentle blood. Lord Houghton, who seems to have had a kindly wish to create him gentleman by brevet, says that he was "born in the upper ranks of the middle class." This shows a commendable tenderness for the nerves of English society, and reminds one of Northcote's story of the violin-player who, wishing to compliment his pupil, George III., divided all fiddlers into three classes,--those who could not play at all, those who played very badly, and those who played very well,--assuring his Majesty that he had made such commendable progress as to have already reached the second rank.
--"AMONG MY BOOKS: Second Series" by JAMES RUSSELL LOWELL (1876)

強いて言えば、簡にして要を得る伊丹版が最も優れるとすべきか。

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2006年9月21日 (木)

スターバックスのオリジナル・ロゴ


米国のスターバックス・コーヒー・カンパニー (Starbucks Coffee Company) が創業35周年と云うことで、今月(2006年9月)中は、ワシントン州 (本社がある) とオレゴン州 (ワシントン州の南隣にある) 内の店で出すコーヒーのカップに付けてあるロゴを、通常のものから差し替えてオリジナルのものにしているそうだ(ただし、こちらのロゴも「オリジナル」と呼ばれている)。

オリジナルは、胸乳を露にした双尾の人魚が、自らの二つの尾をそれぞれの手で一つづつ握り締めているように見える。実は、現在のロゴ中、女性像の両脇の文様が何であるか、私はかねがね不思議に思っていたのだが、オリジナルを見て、人魚の尾であると納得した。

ちなみに、ケント市内の小学校の校長先生が、教師たちにスターバックスのコーヒーを学校に持参する際には、スリーブで、上半身裸の人魚部分を隠すよう言った由。--The Insider: Principal roasts Starbucks over steamy retro logo. Monday, September 11, 2006

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2006年5月 1日 (月)

[Blogger ストーリー]に就いて


ココログ以外でブログを開設するにはどうしたらよいのか知りたくなって、何となく記憶に残っていたブログ・サービスである Blogger のスタート・ページに行ってみた。

「3 つのステップで簡単/ブログ作成 」と書いてある。これは、取り敢えず受け流して、「概要」の所を読んだのだが、これが文章として可訝しい。その内容を再録すると:

Blogger ストーリー
Blogger は、ドットコム ブームのさなかの 1999 年 8 月にサンフランシスコの Pyra Labs という小さな会社で始まりましたが、 いわゆるベンチャー キャピタルやネットバブルの風潮とは無縁でした。

もともと友達であった我々は、大企業とのウェブ プロジェクトの契約を元手に会社を立ち上げ、インターネットの世界で独自の道を切り開こうと挑戦し続けてきました。 このような過程で ふとした思い付きから Blogger が生まれたのです。

当初、小さな規模から始まった Blogger は、数年のうちに数多くのユーザーに広まり、 ある程度の収益も上げられるまでになりましたが、 爆発的に広まった時点で収支はマイナスとなり、楽しさよりも大変さが上回るようになりました。 このような危機に直面しながら、なんとかサービスを提供できるよう努力してきましたが、同時に支援体制を構築するという道も模索し始めました。

状況の好転した 2002 年には 10 万人のユーザーに利用されるまでに成長した Blogger は、 Google に 買収されることになりました Google 。

blogs の可能性を信じる Google と協力してサービスを提供するというアイディアは成功を収めました。

現在、我々は Google で他のスタッフと協力しながら、ユーザーが自分の考えをウェブ上で発表し、世界中の情報を個々の観点で編成できるようサポートを続けており、 当初と変わらぬ姿勢で目標に取り組んでいます。

Google の詳細については、google.com をご覧ください (検索サービスもお勧めです)。

まず言っておくと「Google に 買収されることになりました Google」では意味不明だ。

この日本語版は、オリジナルが英語で、それを「翻訳」したものだろうから、そちらの方を見てチェックしたくなったのは当然の成り行きだろう。

と云う訣で、[言語]のページで設定を "English" にしたところ、英語版 (The Story of Blogger) が現われたので、それを読んでみたのだが・・・日本語版は、とても英語版の「翻訳」と言えるような代物ではなかった。「翻訳」ではないと言うならそれまでだが、だとしても、英文版と日本語版の内容が矛盾していたら「概要」にならないだろう(現に矛盾している)。それに、両者を見比べるなら、日本語版は英語版を「翻訳」しようとして失敗した跡が歴然として残っている。

さて、英語版は以下の通り:

The Story of Blogger
Blogger was started by a tiny company in San Francisco called Pyra Labs in August of 1999. This was in the midst of the dot-com boom. But we weren't exactly a VC-funded, party-throwing, foosball-in-the-lobby-playing, free-beer-drinking outfit. (Unless it was other people's free beer.)

We were three friends, funded by doing annoying contract web projects for big companies, trying to make our own grand entrance onto the Internet landscape. What we were originally trying to do doesn't matter so much now. But while doing it, we created Blogger, more or less on a whim, and thought -- Hmmm... that's kinda interesting.

Blogger took off, in a small way, and eventually a bigger way, over a couple years. We raised a little money (but stayed small). And then the bust happened, and we ran out of money, and our fun little journey got less fun. We narrowly survived, not all in one piece, but kept the service going the whole time (most days) and started building it back up.

Things were going well again in 2002. We had hundreds of thousands of users, though still just a few people. And then something no one expected happened: Google wanted to buy us. Yes, that Google

We liked Google a lot. And they liked blogs. So we were amenable to the idea. And it worked out nicely.

Now we're a small (but slightly bigger than before) team in Google focusing on helping people have their own voice on the web and organizing the world's information from the personal perspective. Which has pretty much always been our whole deal.

For more on Google, check google.com. (Also good for searching.)

日本語版での主な「誤訳」を挙げておくと:

  1. "funded by doing annoying contract web projects for big companies" は、日本語版では「大企業とのウェブ プロジェクトの契約を元手に会社を立ち上げ」となっている。実は、この部分は英文版もあっさりしすぎていて、意味がとりづらいのだが、恐らく、含意は、大企業にあっては契約書ウェブサイトの作成・管理が煩わしいものになるので、その為のアプリケーション・ソフトを作成販売することで資金を得たと云うことだろう。なお、この点に就いては英文版 Wikipedia の "Pyra Labs" の項を参照のこと。
  2. "the bust happened" を「爆発的に広まった時点で」としているが、これは「(資金繰りに)破綻が起こった」と云うこと。

  3. "We narrowly survived, not all in one piece, but kept the service going the whole time (most days) and started building it back up." を、日本語版は「このような危機に直面しながら、なんとかサービスを提供できるよう努力してきましたが、同時に支援体制を構築するという道も模索し始めました」はしているが、英文版と意味が(と言うか、文脈が)ずれてしまっている。「危機に直面」したのではなく「危機を辛うじて脱した」のであり、「サービスを提供できるよう努力」したと云うより「常時サービスを維持し続けた」のであり、「支援体制を構築するという道も模索し始め」たのではなく「サービスを再構築し始めた」のだ。ちなみに、"not all in one piece" は、「無傷に済んだ訣ではなかったが」ぐらいの意味。
  4. "hundreds of thousands" は、「数十万」とすべきなのに「10 万」とされている。

  5. この文章の眼目といえる "Yes, that Google" が訳されていない。

一応、私の訳も以下に示しておく。

Blogger のこと
Blogger は、1999 年 8 月にサンフランシスコのパイラ・ラブズ (Pyra Labs) と云う小さな会社で誕生しました。それは、丁度ドットコム・ブームの最中でしたが、パイラ・ラブズは、ヴェンチャーキャピタルが資本を出し、パーティを開き、ロビーではテーブルサッカーをし、(ビールをおごってくれる人が現われるのでもない限り)無料でビールが飲めると云った会社では全くありませんでした。

パイラ・ラブズは、友達三人からなる会社で、大企業用の契約書ウェブ・プロジェクトと云う面倒な仕事を行なうことで資金を調達して、インターネット世界に大いに打って出て行こうとしていたのです。しかし、今では当時私たちが何をしようとしていたのかは問題ではありません。そうこうしているうちに、ある程度は思いつきで Blogger を作り出してしまったからです。そして思いました。「えーっと、これは何だか面白いぞ」

Blogger はささやかな形で始まりましたが、二年ほど経つうちに成長しました。私たちは小額の資金を募集しました(それは小額のままでした)。しかし結局、破綻が起こり、私たちは資金を使い切ってしまったのです。私たちの楽しい「遠足」は、あまり楽しくないものになってしまいました。私たちは危ういところで事態を切り抜けましたが、全く無傷という訣には行きませんでした。それでも、常時(つまり殆どの日での)サービスを維持し続けていき、サービスを再構築し始めたのです。

2002年には事態は好転しました。ユーザー数が、まだまだ少ないとは言え、数十万人になったのです。そして、思いもかけないことが起こりました。グーグル (Google) が パイラ・ラブズ を買収したいというのです。そうです。あのグーグルがです。

私たちはグーグルが大好きでした。そしてグーグルはブログが好きだったのです。だから、私たちはこの提案に素直になれたのでした。そして、その結果は旨くいきました。

今では、私たちはグーグル内の小さな(まぁ、以前よりは少し大きいですが)専門チームとして、人々がウェブ上で個人として発言するのを助けたり、世界の情報を個人の視点から組み立てていったりしています。それが、私たちが大体ずっと取り組んできたことなのです。

グーグルに就いてもっと知りたければ、google.com を見てください(検索にも役立ちますよ)。


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2005年9月 8日 (木)

信用できない引用句サイト(鄧小平の「猫論」に関係して)

猫に就いての引用句をネット上で探していたら、引用句サイト WorldOfQuotes.comCats と云うページで、次のようなものを見つけた(Catlines Mewsletter Volume 3 Issue 2 でも同様):

His friends he loved. His direst earthly foes--
Cats--I believe he did but feign to hate.
My hand will miss the insinuated nose,
Mine eyes the tail that wagged contempt at Fate.
Author: Sir William Watson (2)
Source: An Epitaph

Black cat or white cat, it's a good cat that catches the mice.
Author: Sir William Watson (2)
Source: An Epitaph

It doesn't matter if a cat is black or white, as long as it catches mice.
Author: Sir William Watson (2)
Source: An Epitaph

最初の一つは、まぁ良い(大体、これは猫に就いての詩ではなく、犬に就いての詩らしいが、まぁ良い)。問題は、後の二つだ。どちらも、鄧小平 (1904-1997。四川省出身) の有名な「猫論」そのままではないか。

Sir William Watson (1858-1935) は英国の詩人だが、何故こんなことが起こったのか? 偶然の一致? それとも、二人の間に何らかの接点が(直接ではないにしろ)あったのか? そう言えば、鄧小平は十代で渡仏している(1920年)。その時にでも William Watson の詩を読んだのか。それとも、晩年に至るまで、ブリッジ好き、サッカー好きの鄧小平は、その一方で英語詩の愛好者でもあったのか? これは一つ調べてみようと、あれこれのサイトを覗いてみたのだが、結論は何の事はない。WorldOfQuotes.com の編集ミスですね。

大体、調べだすとすぐ話が奇妙になっていったのだ。

鄧小平が「白い猫でも黒い猫でも鼠を取る猫は良い猫だ」と云う意味のことを最初に言ったのは、1962年のことらしい(ただし、日付は資料により区区)。

原文を確定しようと、中国語サイトを覗いてみてみると、サイトにより、微妙に異なる言い回しで引用がなされている。こられには、鄧小平の言葉自体と云うより、「猫論」の主旨をのべたものもあるようだ(以下、当方のシステムで文字化けする中国語サイト中の文字は、対応する表示可能漢字に適宜置き換えた)。

1. 不管白猫黑猫,会捉老鼠就是好猫。
「老鼠」は、「老」が付いていても(付くと俗語になるらしいが)「ネズミ」の意。
--鄧小平理論的核心不是"猫論"
--小参考総第292期 1999.01.01 全面報道中国政治反対派的新聞和評論


2. 不管白猫黑猫,抓住老鼠就是好猫
--寂寞如雪—写在午夜的思索集
--大参考総第2404期(2004.10.01)専門散播各種受中共査禁的新聞和評論
「老鼠」の代わりに「耗子」とするものもある(北方方言とのこと)。意味は同じで「ネズミ」。
--十一、不管白猫黑猫,抓住耗子就是好猫


3. 不管白猫黑猫,能抓住老鼠就是好猫
--大参考総第1239期(2001.06.22)専門散播各種受中共査禁的新聞和評論


4. 不管白猫黑猫,能抓老鼠的就是好猫
--Wikiquote: 鄧小平

しかし、注目すべきは、こうした変異例の中で「白猫」が「黄猫」になっているものだろう。なぜなら、それが鄧小平が使った本来の表現であり、そして、もともとは、彼の同僚であった劉伯承(りゅうはくしょう。1892-1986。四川省出身)が常常口にしていた四川省に伝わる諺であったと云うことだから。以下が、その例(ちなみに、中国語の「黄」は、日本語の場合より広義で、赤みがかったもの、つまり茶色っぽいものも含むとのこと)。

5. 他引用刘伯承経常説起的四川諺語: "不管黄猫黑猫,只要捉住老鼠就是好猫。"
--"猫論"—民諺背后的真理
「他」は勿論鄧小平のこと。


6. 刘伯承同志経常講一句四川話:"黄猫、黑猫,只要捉住老鼠就是好猫。"
--領袖人物資料庫
ここでの話者は鄧小平。


7. 不管黄猫黑猫,能抓老鼠的就是好猫
--Wikiquote: 鄧小平 (注)


8. 不管黄猫黑猫,能抓耗子的那只就是好猫。
--也来淡淡方舟子

つまり、現在中国語サイトから収集できる情報による限り、Sir William Watson が鄧小平の「猫論」に影響を与えた可能性はないと結論できる。

では何故、ここまで表現が一致したのか?

ここで、話が一挙にグズグズになるのだが、別の引用句サイト GIGA QuotesCATS と云うページでは、次のようになっている。

His friends he loved. His direst earthly foes--
Cats--I believe he did but feign to hate.
My hand will miss the insinuated nose,
Mine eyes the tail that wagged contempt at Fate.
- Sir William Watson (2), An Epitaph

If a dog jumps in your lap, it is because he is fond of you; but if a cat does the same thing, it is because your lap is warmer.
- Alfred North Whitehead

Black cat or white cat, it's a good cat that catches the mice.
- Deng Xiaoping

It doesn't matter if a cat is black or white, as long as it catches mice.
- Deng Xiaoping

WorldOfQuotes.com は、これを「編集」して、自らのサイトに組み込んだのだろう。その際、"Deng Xiaoping" を誤って "Sir William Watson (2)" としてしまったとかなり断定的に推定できる。

強力な状況証拠があって、実は "WorldOf.." と "GIGA" のどちらにも (Sir 抜きの) "William Watson" と云う人物(17世紀初頭のイギリスにおける「Bye Plot バイ事件」の首謀者)の言葉が再録されているのだが、"GIGA" の方の人名索引では、どちらの Watson も "W" の項にあって並んでいる。だから "William Watson (1)" と "Sir William Watson (2)" とのように番号を付けて区別している。しかし、"WorldOf.." の人名索引では "William Watson (1)" は "W" の項、"Sir William Watson (2)" は "S" の項に入っているので番号を付けて区別する必要がない。それなのに、番号は付けたままになっている。これは、"WorldOf.." が "GIGA" の内容を写したときに、番号を削除し忘れたためだろう。

ちなみに "WorldOf.." は、"William Watson (1)" においても、似たような「編集ミス」をして、別人からの引用句を組み込んでいる。とうてい信用できないサイトと言えるだろう。


以下のサイトも参考のこと:
The Poems of William Watson, by William Watson

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2004年10月23日 (土)

ユンボ、ジャンボ、ダンボ、チョンボ

0. 整地作業
「ユンボ」と云う重機(「建設機械」・「建機」と同義なんだそうだが、微妙に違っているような気もする)があるのは知っていた。何というほどのことはないが、記憶に残りやすい語呂ではある。どう云うものかと云うイメージも、素人ながら持っていた。間違っているかも知れないことを承知で言うと、ブルドーザーのように、本体前面下方に近接して設置された幅広の装具(「ブレード」と言うらしい)で土砂等を押しのけるのではなく、本体前方ながらヤヤ高いところから伸びるアームの先端に設置された幅の狭い装具(「バケット」と言うらしい)で、土砂等を掻き出すのが「ユンボ」だろうと。

先回りして此処で書いておくと、「ユンボ」は、もともとは [三菱] の商品名(brand 又は brand name 又は trade name)であるが、現在やや一般名称(generic name)に近く使われている。

ついでに書いておくと「ユンボ」には、大型機と云うイメージはないなぁ。小回りが効くのが「ユンボ」の身上のような気もするが、実際の現場ではどうなのか知らない。

それで、普通の日本人が「ユンボ」から連想する重機のヨリ公式な一般名は「バックホー(backhoe)型油圧ショベル」とでも言うべきものだと云うことを確認しておく。

まず、1960年 [ユンボ] をフランスから日本に技術導入した、[新三菱重工業] (1950年に一旦分割された他二社との合併により 1964年 [三菱重工業]になる)から生産事業を引き継いだ[新キャタピラー三菱株式会社] (1987年 [三菱重工業明石製作所] と [キャタピラー三菱] とが合併して設立)のオフィシャルサイトによると:

油圧ショベルはヨーロッパ生まれ。昭和30年代前半までは、日本もその大部分を輸入していました。中で評価が高かったのはフランス・シカム社の製品「ユンボ」。昭和35(1960)年、同社と技術提携した新三菱重工(現三菱重工)が、翌年に代表機種のY35を初めて国産化するや、その名は油圧ショベルの代名詞として瞬く間に浸透しました。ショベルカーやバックホー、パワーショベルなど呼称はさまざまですが、(社)日本建設機械工業会では、「油圧ショベル」に統一しています。

※ 「パワーショベル」・・呼称が統一される前にある国内メーカが使用していた呼び名。
※ 「ショベルカー」 ・・油圧ショベルに限らず、警察用語では建設機械を「ショベルカー」と呼んでいます。 新聞報道でもこの表現が使われています。

バケットを手元に引き寄せるように掘削する方法を「バックホー」と言うのであって、 本来は油圧ショベルそのものを意味するものではありません。 ちなみに、手元から前方にすくい上げるように掘削する方式を「フロントショベル」と言います
--新キャタピラー三菱株式会社: なぜ油圧ショベルを「ユンボ」と言うのか?

付け加えておくと、油圧ショベルには、走向方式が無限軌道(履帯、或いは、所謂「キャタピラ」)による「クローラ式」と、タイヤによる「ホイール式」とがある。[車両系建設機械(総合)] を参照。


1. きっかけは・・・
ある時、全く唐突に、「ユンボ」は "Jumbo" のドイツ語風の読み方に違いないことに気がついた。直に気がつかないところが、私が[イカにもエビにもトロい]と呼ばれる由縁だが、兎に角気がついたので、少し調べてみようと思っていた。

"Jumbo" が、もともと USA で見世物に使われた(アフリカン・ネイチヴの言葉に由来する)巨象の名前であること位は、私でも知っていたから、この推測には、初めから確信があった。「ユンボ」の掘削作業は、あからさまに象の摂食行動を連想させるからだ。

しかし、そうなると、もう少し詳しいことを知りたくなる。その辺の事を、少し書いてみる。


2. ジャンボ
まず、最初に [巨象ジャンボ] に就いての情報をヤヤ精密にしておこう。

Wikipedia 英語版から:

Jumbo (1861 - September 15, 1885) was the most famous elephant ever, and is the root of the adjective 'jumbo'.

Jumbo was an African elephant, born in 1861 in the French Sudan from where he was imported to France and kept in the old Zoo Jardin des Plantes close to the South railway station Gare de Sud in Paris . In 1865 he was transferred to the London Zoo, where he became famous through the riding operations. It was the London zoo-keepers that gave Jumbo its name. It is a slightly garbled version of the word jambo, which is Swahili for "hello".

He was sold in 1882 to P. T. Barnum, owner of "The Greatest Show on Earth", the Barnum & Bailey Circus. Barnum's publicity made the name Jumbo synonymous with "huge". Estimated to be 3.25 metres high in the London Zoo, it was claimed that Jumbo was approximately 4 metres tall by the time of his death. Jumbo died at a train station in St. Thomas, Ontario, Canada, where he was crushed by a locomotive. A statue now at the site commemorates the tragedy.

Jumbo's skeleton was donated to the American Museum of Natural History in New York City. Jumbo's hide was stuffed and traveled with Barnum's circus for a number of years. In 1889, Barnum donated the stuffed Jumbo to Tufts University, where it was displayed until destroyed by a fire in 1975. In honor of Barnum's donation, Jumbo became the Tufts mascot.
--Jumbo - Wikipedia, the free encyclopedia

ジャンボ (Jumbo, 1861年 - 1885年9月15日) は、史上最も有名な象であり、形容詞 'jumbo' の元となった。

ジャンボは、オスのアフリカ象である。1861年に仏領スーダン(現在のマリ共和国 Republic of Mali)で生まれたが、そこからフランスに持ち込まれて、パリ南駅(Gare de Sud)近くの自然史博物館付属植物園(Jardin des Plantes de Paris)付設の古くからある動物園(La menagerie du Jardin des Plantes)で飼育された。1865年には、ロンドン動物園に移され、そこで人を乗せる実演を行うことで有名になった。ジャンボと云う名前は、ロンドンでの象の飼育係により付けられた。この名前は、スワヒリ語の挨拶である "jambo" を僅かに変更したものである。

1882年、ジャンボは、「世界最大のショー(The Greatest Show on Earth)」を名乗ったバーナム・アンド・ベイリー・サーカス(the Barnum & Bailey Circus)の所有者 P. T, パーナム (Phineas Taylor Barnum, 1810年7月5日 - 1891年4月7日)に売り渡された。バーナムの宣伝により、ジャンボと云う名前は、「巨大」を意味するようになった。ロンドン動物園で、ジャンボの体高は 3.25 メートルとされていたが、ジャンボ死亡の際には、約4メートルであったと喧伝された。ジャンボが死んだのは、カナダのオンタリオ州セント・トーマスにあった鉄道の駅でのことで、機関車に追突されたのだった。現在、事故現場には像が建てられている。

ジャンボの骨格は、ニューヨーク市にあるアメリカ自然史博物館(the American Museum of Natural History)に寄贈された。ジャンボの皮の方は、剥製にされて、数年の間、バーナムのサーカスの巡業に伴われた。1889年、バーナムは、ジャンボの剥製を、タフツ大学(Tufts University)に寄贈した。剥製は、1975年の火事で焼失するまで、大学で展示されていた。バーナムの寄贈に敬意を払って、ジャンボは、タフツ大学のマスコットにされた。


[[ゑびすや注:この Wikipedia からの引用部分及び訳文は、"GNU Free Documentation License" に従って再利用可能である。]]


3. ユンボ
で、「ユンボ」のことなんだが・・・

再び [新キャタピラー三菱株式会社] のオフィシャルサイトから適宜引用すると:

新三菱重工業は建設機械のレパートリーを広げるべく、今後主流となる製品を求めて、海外の建設機械の調査を重ねた。その結果、有力候補に上がったのが、フランスのユンボ社 (当時シカム社) の油圧ショベルであった。



新三菱重工業は、昭和35年2月調査団をユンボ社へ派遣。性能や将来性を検討した結果、技術提携を決定し、8月には通産省の認可を得た。10月にサンプル機Y35を輸入、さまざまな調査研究を行った。


昭和35年(1960)、建設機械の専門工場として、神戸造船所明石工場は建設された。11万8,420m²の敷地に、建設機械・鉄構・研究所の共同設備を有する工場は6月に着工し、12月には生産のすべてを引き継いだ工場が完成した。
昭和36年6月、記念すべき国産初の全油圧式パワーショベルY35の1号機が、(株)戸田組 (現・戸田建設(株)) に納入されたのを皮切りに、Y35シリーズは好調に販売を続け、38年度には累計で451台に達した。全国で、その機能を評価されたY35は、次第に日本中に浸透し三菱ユンボパワーショベルの商品名「ユンボ」は、油圧ショベルの代名詞になったほどである。


そして需要の伸びとともに、明石工場は生産能力を高め事業を拡大、昭和46年8月1日には三菱重工業明石製作所として独立した。
--新キャタピラー三菱株式会社: 新キャタピラー三菱の歴史:1959-73

なお、1977(昭和52)年9月、三菱重工はユンボ社(旧シカム社)との技術提携を解消している(新キャタピラー三菱株式会社: 新キャタピラー三菱の歴史:1986-92)。


4. パズル
ここで分らなくなってくる。フランス語では単語 "jumbo" の発音は、やはり [ジャンボ] とでもするしかないだろう(フランス語にとっての英語由来の外来語と意識されている)。

ちなみに、Hachette のオンライン辞書 Encyclopédie Voila avec Hachette では、"jumbo" こう説明されている:

jumbo [ʤæmbo] n. masc. (arg. amér. «petit éléphant».).
1. AVIAT. Équivalent français : gros-porteur. [On dit aussi jumbo jet.]
2. Chariot à portique portant un jeu de perforatrices qui permet de forer simultanément plusieurs trous de mine dans un tunnel.
--Voila Encyclopédie, c 02/2004 Hachette Multimédia / Hachette Livre

jumbo [ʤæmbo]. 名詞. 男性. (「小さい象」を意味する米国スラング)
1. [航空] フランス語の gros-porteur (大型輸送機) と同義. jumbo jet (ジャンボジェット)とも言う.
2. トンネル内で同時に複数の発破孔が掘削できるよう、複数の削岩機をまとめて保持している横木が設けられた車両.

[[ゑびすや注: 残念ながら、発音記号が旨く表示されていないかもしれない。少なくとも、私の Internet Exolorer ではそうだ。]]

我我の「ユンボ」とは違いますなぁ。つまり、普通名詞としてのフランス語 "le jumbo" には、「ユンボ」に相当する意味はなさそうだ。

じゃ、ドイツ語の "der Jumbo" は、どうかと云うと、辞書には、少なくとも機械関係では [ジャンボジェット] 以外の語義は見当たらない(wissen.de)。やはり普通名詞としては「ユンボ」を意味しえない可能性が高い。


5. デッドエンド
ネット上をいろいろ検索してみたが、"jumbo" と 「ユンボ」とを繋ぐ資料は見つからなかった。ここは、一旦「ユンボは Jumbo のドイツ語風の読み方に違いない」と云う大前提を捨てる必要がある。

かと云って、出来ることはあまりない。"yunbo" 又は "yumbo" でネットを検索するくらいだ。しかも、それは「ユンボ」に就いてネットで調べる際にルーチンワークとして遣ってある(「ユンボ」のローマ字表記だからね)。しかし、フランス語圏(もしくは、フランス国内)のサイトを標的にして、集中的に調べることはしていなかった(だって、「ローマ字表記」だからね)。たまたま、フランス語のサイトがあっても、そこでは yumbo は、バイクだかスクーターだかの商品名らしかった。


6. ドンデン
だが、いろいろジタバタしているうちに、普通名詞ではないにしろ、「ユンボ」に相当して "yunbo" 又は "yumbo" 又は、これらに何からの類同性がある言葉がフランス語として使われているはずだと思えてきた。こうして、キチンと[フランス] 限定で、"yunbo" と "yumbo" を調べるべきだと云う方針が立った。

実際に google 検索してみると、"yunbo" の方は、中国系らしい人名がヒットしたくらいだが、"yumbo" では、この商標を持つ「油圧ショベル」の存在が確認できた。


7. フランス語で言うと
「バックホー型油圧ショベル」は、フランス語では何と言うか調べてみると、「建設用語小辞典・建設機械」によれば、"pelle hydraulique sur chenilles". ただ、これは訳すと「履帯(又は無限軌道、つまり、「所謂」キャタピラ)式油圧ショベル」、更に言い換えると「クローラ式油圧ショベル」になって、必ずしも [バックホウ] に限らないので、その点は留保しておく。

実は、"pelle hydraulique sur chenilles" は、日本語サイトよりフランス語サイト Europe-Machinery.com : matériel TP et camion occasion (中古大型車両 camion occasion の売買サイトらしい)の方で先に見つけて、それが日本語の「クローラ式油圧ショベル」であることを確認する過程で、上記の「建設用語小辞典・建設機械」を見つけた次第。(この文章全体としてそうなのだが、実際に起こったことは、錯綜と冗長の極みなので、若干整理して書いてある。)

ちなみに、[履帯] ではなくてタイヤを装着した架台に搭載された「ホイール式油圧ショベル」は、Europe-Machinery.com では、"pelle hydraulique sur pneus" と表されている。ま、当然だろう。


8. ユンボ出現
で、「ユンボ」が出てくるのが、"pelle hydraulique sur chenilles" のページYumbo Y70 occasion.


売買が成立してしまうと削除されてしまうだろうから、摘要を書いておくと:

Pelle hydraulique sur chenilles Yumbo Y70 occasion

Vendeur : BOUYSSI Daniel
Adresse : 67 AV CH DE GAULLE, 81600 gaillac, France
Date d'enregistrement : 19/09/2004
Marque : Yumbo
Modèle : Y70
Année : 1980
Heures : 7500 (heures)
Poids : 14 (en tonnes)
Etat : Etat moyen
Prix HT : 4500 (Euros)

Europe-Machinery.com: pelle hydraulique sur chenilles - Yumbo Y70 occasion

クローラ式油圧ショベル Yumbo Y70 中古品
出品者: BOUYSSI Daniel
住所: フランス ガヤック 81600 シャルル・ド・ゴール通り 67
登録日: 2004年9月19日
ブランド: Yumbo
型式: Y70
製造年: 1980年
運転時間: 7500 (時間)
重量: 14 (トン単位)
状態: 中程度
税別価格: 4500 (ユーロ)

[[ゑびすや謂う。BOUYSSI と云う姓の読み方が分からない。ビュシか? ちなみに、タイプミスである可能性は低い。フランス国内には、 BOUYSSI 姓が300人ほどいる由。]]

掲示板でも、「中古 Yumbo 売りたし」といった感じのものが見つかった。

  1. vend pelle à chenilles
  2. vend pelle à chenilles
  3. vends pelle à chenilles
  4. pelle mecanique international (ancienement YUMBO 6O) chenilles

これも、早晩削除されるだろうから、転記しておこう。

1. Vends pelle à chenille bon état. Poids 14 tonnes. Fonctionnement sans problemes. Marque YUMBO
売りたし。良好な状態のクローラ式ショベル。重量14トン。問題なく動作。YUMBO ブランド。

2. Vends pelle à chenille bon état. Poids 14 tonnes. Fonctionnement sans problemes. Marque YUMBO
売りたし。良好な状態のクローラ式ショベル。重量14トン。問題なく動作。YUMBO ブランド。

3. pelle Yumbo, International, 15 tonnes, 3 godets, bon état de marche, téléphone: ** ** ** ** **
Yumbo ショベル。国際規格。15トン。3 バケット。走向良好。電話: ** ** ** ** **

4. vends petit prix pour pieces pelle mecanique international (ancienement YUMBO 6O) chenilles marecage galets neuf pompe hydraulique et verin bon état, moteur HS.
廉価にて国際規格パワーショベル(元は、YUMBO 6O)の部品売りたし。沼沢地用履帯。転輪9個。油圧ポンプ。ジャッキ良品。HSモーター。

[[ゑびすや謂う。3. と 4., 特に4., は訳していて自信がない。しかし、Yumbo ブランドの油圧ショベルに関するものであることは確かだ。]]

しかし、最初の二つは、発言者が Europe-Machinery.com の BOUYSSI Daniel その人だから、扱われている油圧ショベルも同一と思われる。従って、その新規証拠能力はない。結局、Yumbo ブランドの油圧ショベルの実在を示すのは3例と云うことになるが、これは、最小限であるとはいえ、議論の足場たりうる数であろう。勿論、これらの "Yumbo" が、三菱が提携したユンボ社(又はシカム社)の製品であると云う論理的が必然性はないのだが、十分大きい可能性はある。つまり、「ユンボ」は、フランス語としての "Yumbo" に由来すると考えてよい。

むしろ注目すべきは、Yumbo ブランドの油圧ショベルの出現頻度の低さだ。例えば、上記の Europe-Machinery.com 中の「クローラ式油圧ショベル」のページでは、
250 ほどある出品のなかで、YUMBO ブランドは Daniel BOUYSSI が出したもの1件だけだった。それに対して、日本製や韓国製のは隨分ある。存続していたとしても、Yumbo 社又は、Yumbo の製造メーカーは商売繁盛しているとは思われない。


9. よくあること
従って、「『ユンボ』は "Jumbo" のドイツ語風の読み方」と云う、私の当初の「確信」は、少なくともその時漠然と考えていたありようとしては、間違っていたと言える。

何故、「少なくともその時漠然と考えていたありようとしては」などと、持って回った留保を付けたのかというなら、「ユンボ」又は "Yumbo" と "Jumbo" とは関係が無くもないからだ。


10. ユンボとジャンボ
Disney のアニメーション映画に "Dumbo" と云うものがある。「耳の大きな仔象の物語」だということ位は私でも知っている。断片的にはテレヴィで見かけたことはあるが、全編を通して観た記憶はない(単に、観て忘れているだけかも知れないが、どちらでも話は同じだ)。シノプシスは、英語版なら、[Plot Summary for Dumbo (1941)] で知ることができる。

日本語サイトでは、組織立って映画・アニメを扱っているところでは、まともなストーリーの紹介をしているところがない(対象化が出来ていない)のだが、わずかに、ある個人が、このアニメに触れると云う形で、使える粗筋をまとめている。 [もう一つ・・・「ダンボ」]

で、この "Dumbo" なんだが、主人公の赤ちゃん象は、サーカスのメス象のところにコウノトリが運んでくる。このメス象の名前が "Mrs. Jumbo." 日本語版でも「ジャンボ」だ。しかし、フランス語版では、どうやら "Madame Yumbo" つまり、「ユンボ」と言うことがあるらしい。次を参照。

≪ Je viens livrer votre bébé, dit la cigogne-facteur à Madame Yumbo. Voulez-vous signer ici, s'il vous plaît ? ≫ Madame Yumbo poussa un cri de joie et s'empressa d'ouvrir le paquet. Enfin, elle recevait son bébé éléphant ! Il etait vraiment mignon, cet éléphanteau.



Le petit éléphant fut baptise Dumbo.
--regis.camus.free.fr, L'histoire: Dumbo. page 1

「あなたの赤ちゃんを届けに来ましたよ。ここにサインしてくださいね。」と、コウノトリの郵便屋さんはユンボさんの奥さんに言いました。奥さんは、嬉しさに叫び声をあげると、急いで包みを開けました。こうして、ユンボさんの奥さんのところに、赤ちゃん象がやって来たのです。本当に可愛らしい仔象でした。



仔象は、「ダンボ」と名づけられました。

[[ゑびすや謂う。"Madame" も、それを受ける "elle" も訳しづらい。一応「ユンボさんの奥さん」としておく。]]

Dumbo の母親を Madame Jumbo としているフランス語サイト(La page des personnages de "Dumbo" de Walt Disney)もあるから、軽軽には判断できないが、「ユンボは(フランス版)ダンボの母親」と云うのは一つの自立した説たりうるだろう。

ただ、それでも何故、英語 "Mrs. Jumbo" に、フランス語として "Madame Yumbo" を当てたかと云う疑問は残っている。

ここで、フランス語の "Yumbo" が、ドイツ語の "Jumbo" の音を移して作られたと云うことはあるだろう。ただし、これは単純な可能性に留まる。今のところは、その必然性は全く見えない。


11. 蛇足を描く。
1.チョンボ

    小型のユンボを「チョンボ」と言うことがあるらしい(関西?)。
  1. 岡山県の農業従事者の発言: 「私は重量3.5トンのユンボ(こちらでは小さいのでチョンボといっています。)を持っていますが、トラクターによる土移動はユンボのそれより多いです。」

  2. 岡山県の「プチホテル」のサイト中: ユンボの、小型です。 「チョンボ」君です。 ...

2. 「現在ユンボは (株)レンタルのニッケン によって商標登録されている。」と云う説があるが(一般名詞化した商標たち)未確認。レンタルのニッケンのサイトからは、そうした主張は探し出せなかった。ただし、[レンタルのニッケン] は、三菱グループであることに注意。

また、[レンタルのニッケン]は、製造者(ヤンマー、コマツ、コベルコ、クボタ、日立、CAT 三菱、石川島建機)に関わらず、油圧ショベルを「ユンボ」の名でまとめている。例えば、掘削機・アタッチメント を参照。

この会社の「概要」を読んでいたら、社員の名前が面白いので、タマタマそう云う人たちが集まったのかしらと、思ったら、全員「ビジネス・ネーム」と云うものを付けているのだそうな(2004年10月21日 CX 系の「トリビアの泉」でもやっていた)。創業者が「亀 太郎」で、その跡を継いだのが「鶴 ひみこ」、現社長が「鹿の子 喜太郎」(まぁ、この方は本名が「鹿子木 卓」とおっしゃるらしい)、そして監査役が「大目付 太郎」。

3. フランス語サイト中に [建築機械を製造するユンボ社] のものと思われるものは見つけ出せなかった。しかし、企業情報を提供するフランス語サイト [SOCIETE.COM L'information gratuite sur les entreprises du registre du Commerce] に依れば、"Fabrication de machines pour l'extraction ou la construction" (採掘及び建設用機械の製造)を業務とする YUMBO と云うフランス企業は存在する。ただし、その登記は2002年2月13日。


12. リンク集

    本文中に取り入れられなかったリンク:
  1. Jumbo - The Elephant

  2. Jumbo the Elephant. Roadside Pet Cemetery

  3. Tufts Journal: Tufts at 150: Elephant tales

  4. Tufts Magazine Online

  5. Histoire du tunnel du Mont Blanc

  6. 「明細書用語」-パテントサーチ研究所-

  7. ユンボ大好き

  8. 0312雑記草

  9. 土工機械史

  10. Dumbo


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2004年9月 1日 (水)

電波式腕時計が故障したと思ったら・・・

一週間ほど前に、電波式腕時計の時刻が可訝しいことに気がついた。それも、実際の時刻と比べて、丁度一時間だけ進んでいる。

正確には、これも電波式の目覚まし時計と比べて、一時間と数秒なのだけれども、家庭内では、秒単位の正確性を云云すること意味がないだろう。「117 に電話しろ」と言われたら、「そりゃそうだ」と答えるしかないのだけれど。

「アレマ」と思って、直しても、翌日にはまたズレている。さすがに、この時点で、「故障かな?」と思い出した。買ってから丸2年ぐらい経っているはずだから、気の早い故障なら出てきても不思議ではない。ビンボーしている関係上、凄く困るけどね。

でも、「オモシロイ故障じゃノー」と思いましたね。いろいろ試してしまった。

でもって判ったことは、標準電波による時刻の補正の際に、ズレが発生するらしいけれど、そのズレは積算されない。つまり、標準電波の時刻データを、表示時刻に変換するアルゴリズム内部にズレの原因があると云うことで、その後の、表示時刻の補正自体に問題はないと云うことだ。

これだけの準備を整えてから、ウェブで調べてみた。

で、マァ、ココから先は言いにくいのだが、カシオのサイトに行ってみると(つまり、カシオの腕時計だったのだな)、FAQ のページに、こうあった。

Q4. 電波を受信した時計の時刻が1時間進んでいる、または時刻が違うのはどうしてですか?
A. サマータイムがON設定になっている、またはホームタイムがTYO(日本)ではなく外国都市になっている場合が考えられる為、設定をご確認下さい。
--CASIO Japan, 製品情報, リストギア, WAVE CEPTER, FAQ, Q4.

「え!?」と、思って、自分の腕時計を調べてみると、たしかに[サマータイム]が ON 設定になっていた・・・


「そう言えば・・・」と、思い出したのは、表示時刻がおかしくなる前日ぐらいに、標準電波の自動受信が数日間以上行なわれていない(窓近くに置いておかなかったのです)ことに気がついたので、手動受信をしようとして、いろいろボタンを弄ってしまった(やり方を忘れていた)こと。その時に、サマータイム設定を ON にしてしまったに違いない。あー、恥づかしい。

    参考になるかもれないウェブサイト:
  • 電波時計が働く仕組み
    時間情報をのせてある標準電波を、時計のケースやバンドに内蔵された超高性能なアンテナで受信し、時刻を修正するのが電波時計です。
    日本でも、標準電波の送信に長波を使うようになりました。短波使用時と比べて、精度が格段に向上しました。
  • 電波時計に関連する話題
    時間計測の精度は振り子時計、水晶時計、原子時計と向上してきました。現在では、二千万年に1秒まで達しています。これは、アインシュタインの一般相対性理論効果が十分にあらわれる大きさです。さらに精度が良い時計はあるのでしょうか。
    実は、宇宙から来る電波の中に原子時計かそれ以上の精度のものが存在するのです。それはパルサーとよばれる天体からきます。
  • 電波時計に関するリンク集
  • 日本標準時をブラウザ上に表示するページ
    ただし、「アクセス時にWWWサーバーの時刻情報を取得し、その後、ブラウザ側で時計表示が自走する仕組みになっています。
  • 標準電波の出し方について
    このページはフレームで、その中に収められているファイルの中に、[標準電波(長波JJY)通常時のタイムコードの定義] が書かれた [長波JJY送信方法] がある。ここで面白いのは、JJY のタイムコードには、秒の単位の数値を表わす情報が入っていないことだ。「秒はパルス信号の立ち上がりとし、パルスの立ち上がりの55%値(10%値と100%値の中央)が標準時の1秒信号に同期します。」まぁ、普通の電波時計では、標準電波は時刻の訂正のみに使っているだけだから(いちいち確認したわけではないか、基本的には水晶発振子で駆動されているのだろうな)、それでも十分な訣だ。ここで、少しだけだが気になるのは、標準電波を常時受信して、パルスの数を数えることで、それを秒数表示に使っている電波時計はあるのだろうか? と、思っていたら、次のようなものを見つけた。

    私が知る限り、常時受信する機能がある時計は数社から販売されている。しかし、それらは決して小さな大きさではないし値段も数十万円以上もするのだ。日本通信機(株)、エコー通信機などから販売されている。
    --Wirelessを探る!: @電波時計を考えてみる!


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2004年8月21日 (土)

江戸/本所

[NIFTY翻訳フォーラム投稿(1998年1月7日?)]で、「[本所]は、お江戸のうちではない」と書いたのは、失言だったと反省しています。

ただ、単純に取り消す気にもならないのです。

そこら辺の私の気分を纏めることが、今、出来ないので、参考になりそうなリンクのリストだけでも作ろうとしたのですが、これも旨くいかない。従って、そうしたことを一切諦めて、調べているうちに気になったサイトを、主題の統一性や個個の内容の精粗を無視して、列挙しましょう。

1. 江戸の範囲
それでも、「江戸の範囲」の [公式見解] といった感じのもの挙げておく必要があるでしょう。それが、例えばこの東京都公文書館の公式サイトに書かれている説明。

文政元年 (1818) 8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。 「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。 この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。 その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。

東…中川限り
西…神田上水限り
南…南品川町を含む目黒川辺
北…荒川・石神井川下流限り

これは、寺社勧化場と札懸場の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
現在の行政区画でいえば、次のようになります。
千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区
品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区

東京都公文書館の公式サイトより, http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/edo.hani.htm

2. 江戸 - Wikipedia
[江戸の範囲] だけでなく、[江戸の歴史] や [江戸の都市計画] に就いても触れられています。

この記事が書かれている "Wikipedia" に就いては「Wikipedia:ウィキペディアについて」を参照。「ウィキペディア内の全ての記事はコピーレフトなライセンスの GNU Free Documentation License によって保護され、永久に「フリー」であることが保証されています。」とのこと。英語版ドイツ語版フランス語版中国語版などの非常に多くの言語(ラテン語版や、サンスクリット語版まである)で活動が進められているのだそうです。

3. 下町探偵団
これも[江戸の範囲]の話。隅田川の東側(今の江東区・墨田区あたり)が江戸にはいるかどうかに就いて。

4. 江戸時代の東京
森ビルが提供しているサイトに含まれている。江戸の全体的地形・都市構成の変遷がわかる地図多数。

5. 江戸時代に赤羽は「江戸」の内だったか
「赤羽」は、[東京都北区赤羽]。

6. 史料リスト・江戸時代細分
1603年~1867年までの史料を纏めたもの。これは、FUJIMAKI Sachio さんのサイト、聚史苑の下にある
日本史研究参考基礎史料一覧の一部。

7. 江戸期に「藩」はなかった? -○○藩と呼ばれる機構について-
こんなことが書いてありました。


  1. 現在、我我が「藩」と呼んでいる組織は、江戸時代、公式には「藩」と呼ばれたことはなかった。「藩」が公式名称化したのは、明治の版籍奉還後。

  2. 蝦夷松前の松前家は無高、下野喜連川の喜連川家も五千石だったが大名とされていた。これに対して、御三卿の一橋、田安、清水家は十万石だが大名とはされないのが普通。

8. 江戸の資料・基本用語
1955年TV時代劇草創期に演出家が使用した覚え書きノート。「正確な歴史資料ではなく、あくまでも時代劇の資料」

9. 本所の吉良屋敷, - Wikipedia
吉良屋敷について「『 松坂町二丁目』という住所を示すものも多い。ところが、武士の居住地には、住居表示のための住所というものはなかった。それに、松坂町は討入事件の4年後についた町名で、吉良屋敷があった場所は松坂町二丁目だけではなく、一丁目の一部も含む。」
これに関連して [元禄赤穂事件 - Wikipedia] の項も参照。

10. 勝小吉
勝小吉の自伝「夢酔独言」や子母沢寛の小説・エッセイに就いての感想が書かれています。

11. 本所両国
芥川龍之介のエッセイ。「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。」

12. 明治の東京
馬場孤蝶のエッセイ。

昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であつたといはれた。なほ窮迫の度の増すに従ひ、更に奥へ奥へと引つ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさへ、その家運衰退の度合ひが明らかに看取されるといふのであつた。即ち、初め両国橋を越える荷車には、まだしも少しは見栄えのする物が積まれてゐるのであるが、次の場所へと向ふ車上には、次第にガラクタの数さへ減つて行くといふのであつた。」「『南向茶話』の一節には、本所は本庄といふのが古い名であつて、今の信越線の熊谷の先きに本庄といふ地名があるので、同名を嫌つて、元禄年中本所と改めたとある。


それから、これは、1998年の投稿時点では、話が散らかるので書かなかったことですが、今の東京で、私が町なかを歩っている限り(まぁ、酷く狭い範囲なんですが、とにかく)、行き交う人々の言葉尻や態度に、昔の東京(江戸とは言わない)の雰囲気が一番残っているのは、墨田区とか江東区、以前の言い方で言えば、向島、本所、深川なんです。

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