カテゴリー「詩/文藝」の535件の記事

『「メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)」』補足

「ココログ」の「アクセス解析」を見たら、最近、このサイトのページ「メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)」を訪問される方が多いようだ。

まぁ、それはそれで良いのだが、実は、あの記事で、私は、当然含めるべき情報を書き洩らすという失態を演じている。脱稿した後も、全く気が付かず、かなり後になってから、予期しないまま、何かのきっかけで、事実を知った。それほど失念していたのだ。

それは、記事中、引用した詩のうちの最後である、菅茶山の詩が、富士川英郎 (ふじかわひでお) の「江戸後期の詩人たち」で取り上げられていることだ (筑摩叢書 [江戸後期の詩人たち] pp.50-51)。

分かる人には分かってもらえると思うが、これは至極ミットモナイ手抜かりで、見過ごしてもらえるものなら見過ごしてもらいたい態のものだ。そして、私は、実際放置してしまった。しかし、この一時期のことであろうけれども、そして、このささやかなサイトの中のランキングとは言え、注目を浴びている以上、当該記事の欠落を補わない訣にはいくまい。

まったく慚愧に堪えない。お詫びして、補足する。本来なら、関連情報を改めて調べ、その結果ともども報告すべきところだろうが、生憎、時間にも気分にも、余裕がない。情報を、そのままのものとして、お知らせする。

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魏曹操「短歌行」

今年の年賀状の文案で「没」になったものをリサイクルする。

魏の曹操の「短歌行」と言えば、漢詩のアンソロジーを編むならば、その定番作品となるべき素材と言える。その文の冒頭、酒に及ぶを以って、それなりの料理をするならば、賀詞になりうるかと工夫してみたのだが、うまくいかなかった。

悪筆の私としては、年賀状を色紙に見立てる訣にはいかないので、原文を書いただけでは収まらない。烏滸がましくも、訳詩めいたものを作ったわけだが、それも無駄骨に終わった。ここでは、waste recycling の積りで、その時に作成したものに若干手を入れて、今回の記事とする。

魏曹操「短歌行」

對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
去日苦多

慨當以慷
憂思難忘
何以解憂
唯有杜康

眼の前には酒がある。飲むしかないではないか。
人と生まれた、この命
譬えてみれば、朝の露。
それも随分過ぎ去った。

嘆きはつのる。つのった嘆きは言葉となる。
それでも憂いは消えはせぬ。
どうしようもないのをどうしよう。
酒を飲むしかないではないか。

「烈士暮年壮心不已」(歩出夏門行)とは真逆の沈淪ぶりで、思わず「君もそーかね」と言いたくなるが、しかし、「短歌行」の後続部分は、「青衿」(「有意の若者」ぐらいの語感か) に対する recruitment song なのだ。「短歌行」は、組織のトップの個人的感慨 (「歡樂極兮哀情多 少壯幾時兮奈老何」漢武帝「秋風辭」) と、組織人としての前進の志向 (「安得猛士兮守四方」漢高祖劉邦「大風歌」) が一身の中で同居している訣で、興味深い。

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埼玉県越谷市 [慈眼寺] の地口行燈

もう一昨日になってしまったが2011年8月16日の [@nifty:デイリーポータル Z] の 記事 [お寺プロレスに行ってきた] ([大坪ケムタ] ) で、埼玉県越谷市の [慈眼寺] (埼玉県越谷市 大字大泊104番地) で行なわれた「お寺プロレス」が紹介されていた。

その概括的情報に就いては [8月7日はお寺プロレス!|プロレス文藝] から得られるし、また、その内容の詳細は大坪さんの上記記事そのものに依っていただきたいが、実は、私が一番興味深く思ったのは、「プロレス」ではなくて、慈眼寺の「お祭り仕様」の一例として取り上げられていた、大坪さんの言う所の「あちこちに貼られたむだ絵風な何か」であり「なんとなく風流ではあります」と形容されている [地口行燈] (地口行灯) だった。

「地口行燈」に就いては、都筑道夫が [なめくじ長屋捕物さわぎ] 中の一篇「鶴かめ鶴かめ」の中で、次のように叙述している。

 親方がいうと、行燈に地模様を書いていた職人が、立ち上がって、奥の障子をあけた。下駄常とセンセーが入ってみると、八畳の座敷が、行燈で埋まっていた。行燈は上のほうに、地模様だけが書いてある。波を逆さにしたような、というか、雲がたれさがったような模様で、甕だれ霞 (かめだれがすみ) という。それが、赤と紫とで二段、さっと刷毛でなすってあって、もう乾いていた。

畳のあいてあるところには、赤い毛氈が敷いてあって、二十五、六の女がその上で、墨と朱と緑の皿をわきに、行燈を前において、絵を書いている。墨の筆で、いま書きおわったのは、大きな口をあいて、だんごを食っている男の絵だった。顔じゅう口のようで、だんごがひとつ残った串のさきが、頬をつらぬいている。次の余白に、

   だんご食ふ口に串の槍

と、女は書いた。センセーは微笑して、

「ふむ『三国一の富士の山』か。ちと苦しいが、絵は面白いな。ひと筆がきのような略画なのに、ちゃんと動きがある」

--光文社時代小説文庫 [いなずま砂絵] (都筑道夫。pp.14-15)

慈眼寺の地口行燈は (変体仮名を現代風のかなになおして書くなら)、「小鬼ハッテすべってころんだ」(左)と「ほおづきさまいくつ」(右) とで、出典は、ともに古童謡の「お月さま幾つ」であって、岩波文庫の [わらべうた] にも所収されている有名なものだ (「センセー」の顰みに倣えば、どちらも「ちと苦しい」)。ただし、岩波文庫版では「ほおづきさまいくつ」の元になっている「お月さま幾つ」が、「お月さん幾つ」になっているのはともかく、「小鬼ハッテすべってころんだ」の「小鬼ハッテ」の元である「氷張って」が欠けている (註では、江戸時代の学僧 [釈行智] の [童謡集] に「油屋の縁で、氷がはつて」と云う例が見られることが指摘されている)。

ちなみに、「小鬼」の方は、東京都小平市の [Japan 小平グリーンロード 灯りまつり] でも、そっくりの物が飾られている。

[釈行智] の [童謡集] に収めれていることから分かるように [お月さま幾つ] は、少なくとも江戸時代に遡れる童謡で (北原白秋が作者だとクレジットしている記事がネット上で見られるが、白秋は採録・編集しただけだろう) 日本各地でヴァリアントがあるようだ。しかし、ネット上でザッと調べてみたが、「お月さま幾つ」と「氷張って滑って転んで」とを両方含む例が見つからなかった。あるいは、[釈行智] の [童謡集] のものが、そうなのかもしれないし、また、埼玉県越谷市に、そうした例が存在するのかもしれないが、それも確認できなかった。

仕方がないので、取り敢えず、[青空文庫] から北原白秋採録のものを引用すると

お月 (つき) さまいくつ。
十三 (じふさん) 七 (なな) つ。
まだ年 (とし) や若 (わか) いな。
あの子 (こ) を産 (う) んで、
この子 (こ) を産 (う) んで、
だアれに抱 (だ) かしよ。
お万 (まん) に抱 (だ) かしよ。
お万 (まん) は何処 (どこ) へ往 (い) た。
油 (あぶら) 買 (か) ひに茶 (ちや) 買 (か) ひに。
油屋 (あぶらや) の縁 (えん) で、
氷 (こほり) が張 (は) つて、
油 (あぶら) 一升 (しよう) こぼした。
その油 (あぶら) どうした。
太郎 (たろう) どんの犬 (いぬ) と
次郎 (じらう) どんの犬 (いぬ) と、
みんな嘗 (な) めてしまつた。
その犬 (いぬ) どうした。
太鼓 (たいこ) に張 (は) つて、
あつちの方 (はう) でもどんどんどん。
こつちの方 (はう) でもどんどんどん。
(東京)
--北原白秋 [お月さまいくつ]
また[NPO法人日本子守唄協会] では山口県玖珂郡錦町に伝わる [お月さんなんぼ] が見られるが、これは「氷がはって、すべってころんで」を含んでいる。
お月さんなんぼ
玖珂郡錦町

お月さんなんぼ 十三七つ
まだ年ゃ若いの
あんな子を産んで この子を産んで
誰に抱かしょ お万に抱かしょ
お万どこ行った 油買いに茶買いに
油屋の縁で 氷がはって
すべってころんで 油一升こぼして
太郎どんの犬と 次郎どんの犬が
みんな なめてしまった
その犬どうした 太鼓の皮にはって
あっち向いて どんどこどん
こっち向いて どんどこどん
--NPO法人日本子守唄協会 [子守唄 - お月さんなんぼ] - 玖珂郡錦町

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メモ: xyzzy の KaTeX モード。特に katexmth.l に就いて

かなり大きな tex ファイルの編集をし始めたので、TeX システムを更新し、合わせて、xyzzy に KaTeX モード (Thu Oct 11 2008 Version 1.67.1.12) をインストールした。

「や、此は便利だ」と下中濔三郎ばりの台詞を呟きたくなるほど、入力が楽だ。

しかし、便利な分だけ、瑕疵が、と言うか、私の「癖」との相性が気になる (KaTeX の使いやすさの一部は、私の癖を覚えさせた xyzzy 上で動くことによっている)。

で、まぁ、どこが不満かと云うと、取り敢えずは、数式モードで ;l と入力すると \ell と変換されることだった。これは dvi ファイルでは、所謂「リットルのエル」に変換される。スクリプト体のエルなど、あまり使うことはないと云う気がするので (大体、小学校の算数の教科書で最初に出会った時に感じた、前後の書体とそぐわない気持ちの悪さが忘れられない)、ここは \log が出るようにしたいと思ったものだった。

何とか直せないかな?

しかし、少し調べてみると、そして、もっとも直接的には katexmth.l の中を覗いてみると、【イメージ補完の追加方法】と云うコメントがあった。曰わく:

;;;	  標準のイメージ補完では、「;」で始まる数式記号補完と、「:」で始
;;;	まるギリシャ文字補完が使用可能ですが、これ以外の文字で始まる補完
;;;	シリーズも定義することができます。例えば、「,」で始まる次のよう
;;;	な補完シリーズを定義する場合を考えてみます。

で以って、そこに書いてあることに従って .xyzzy に

; 関数補完
(setq KaTeX-math-funcs-list
      '(("l"	"log")
	("as"	"arcsin")
	("ac"	"arccos")
	("at"	"arctan")
	("ch"	"cosh")
	("ln"	"ln")))

;補完用変数の登録
(setq KaTeX-math-key-list-private
      '(("," . KaTeX-math-funcs-list)))

と追加してみたのだが、何も起こらない (katexmth.l には「これらを ~/.emacs に書いておけば、math-mode で自分専用のイメージ補完が利用できます」とあるが、ここは断然 ~/.emacs を ~/.xyzzy と読み替えるべしだろう)。

結局、「;l で \log を出させる」その他の、私好みへの変更は、katexmth.l 内のリストを修正することで済ませたが、何となく釈然としない気分だ。「どこが悪いのかなぁ」と思いつつも、原因を特定できないでいるので、時々、ネット内を参考となる情報を求めてウロウロする (そう言えば、[ユーザー辞書] が出来ているのか出来ていないのかハッキリしないのも気にかかっている)。

そうしているうちに、KaTeX の親ソフトである YaTeX に就いて、以下のような注意に出会った。

§8 yatex/yatexmth.el について注意すべきところ
\bigtriangleup に対応するキーの /\- は /\\- の間違いじゃないかと思う。なぜなら /\- のままだと \leftharpoonup のキーである /- と衝突してしまうから。よって必要ならソースを修正して使ったほうがよい。
--YaTeX マニュアル

「あぁなるほどね」と思ったので、私の katexmth.l も修正した。

どうでもいいことなんだが、ついでなので書いておく:

YaTex と KaTex はひらがなで「やてふ」・「かてふ」と表記されたりする。ま、これ以外のひらがな表記はあり得ないだろう。で、これに漢字を当てて、「野鳥」・「花鳥」が使われていたりするのだ。

何らかの諧謔であるのだろうから、小言幸兵衛ばりに目くじらをたてるは薄みつともないとは思うのだが、「野鳥」・「花鳥」の「歴史仮名遣ひ」は「やてう」・「くわてう」であって「やてふ」・「かてふ」ではない。

「野鳥」はともかく、「花鳥」は「花鳥風月」という成句があるくらいで、人口に膾炙した表現なので、やや気になるのだ。

そう言えば、江戸時代の吉原に「花鳥」と云う花魁がいたそうな。自らの見世に火を放って捕えられ、当然火焙りになるところを、何故か八丈島に流されたのだが、その八丈から、佐原喜三郎らと「島抜け」をして (八丈島からの島抜けのたった一つの成功例の由)、挙げ句、再度捕えられて、山田浅右衛門に首を刎ねられたと云う。(岡本綺堂に「大阪屋花鳥」の一篇がある。[花鳥] は、子母沢寛の「真説・"座頭市"物語」の中でも触れられている。)

「てふ」に漢字を当てるなら、取り敢えずは「蝶」かなぁ。安西冬衛に [春] と云う一行詩があるのは良く知られている。



てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

--安西冬衛/[軍艦茉莉] (1929)

でも、「か」には、巧い言葉が思いつかない。「佳」とか「夏」とか、あることはあるのだが、釈然としない。「鹿」も、歴史仮名遣ひで「か」だが、「鹿蝶」だと、すぐ「猪鹿蝶」と混ぜっ返されそうだ。

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メモ:朝日新聞2010年2月15日(月)第29面の記事「西行自筆の和歌か」

朝日新聞2010年2月15日(月)第29面(13版)の記事「西行自筆の和歌か」で紹介されている、冷泉家所有の断簡に書かれていたと云う和歌三首を記録しておく。

はちすさくいけのみきはにかせふけは心のうちもかほりあふかな

いにしへのことをしるこそあはれなれまとのほたるはかすかなれとも

みそきするかはせのかせのすゝしきはむかひのきしにあきやきぬらむ

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メモ: 在原業平「人知れぬわが通ひ路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」

しばらく前になるが、「人知れぬわが通い路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」に就いての情報を求めて、このサイトを訪問された方がいらしたようなので、この歌に就いて、このサイトに曾ってポストしたことがあったか確認してみたのだが、そうしたことは無かったようだ。

その際、この歌には、以前から微妙な違和感を感じていたことを思い出し、それを改めて考えてみた。そのことを少し書いておく。

まず、議論の対象となるテキストを示しておこう。良く知られているように、この歌は、[古今和歌集 13] 632 であり、その詞書と共になって [伊勢物語]第5段に対応している。それらは次のようなものである:

[古今和歌集 13] 632
ひんがしの五条わたりに、人をしりおきてまかりかよひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえいらで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、かのみちに夜ごとに人を伏せてまもらすれば、いきけれどもえあはでのみ帰りて、よみてやりける
     なりひらの朝臣
  人しれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

--角川文庫 [古今和歌集] (ISBN4-04-404601-8) pp.147-148
[伊勢物語] 第5段

 むかし、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りけり。さて、よめる、
人知れぬわが通ひ路の関守は
  宵々ごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
 二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせたまひけるとぞ。
--角川文庫 [伊勢物語] (ISBN4-04-400501-X) p.18

この歌の「人知れぬわが通ひ路」は、通常「人目を忍ぶ私の通い路」とか「こっそりと私の通う通い路」とか解釈されることが多いようだ。しかし、[古今和歌集] の詞書や [伊勢物語] の記述に従うなら、この歌の時点で、「男」が通って来ていることは、現代語で言うところの「親バレ」をしてしまっている。

「親バレ」と書いたが、ただし、原文では「あるじ」としか、書いていない。実を言うなら、「親バレ」の「親」は、言葉のアヤで、それにこだるつもりはない。たとえ「兄バレ」であっても、以下の議論の大勢には影響しない。

そもそものことを言うなら、在原業平が「女」に対し、「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」と詠んだような「事件」があったことはあっただろうとしても、そして彼と、後の二条后、藤原高子との間に [恋愛事情] が存在したかもしれないにしても、「人知れぬ」の歌を贈ったのが高子であったかどうかは即断できないのだ。ただ、[伊勢物語] を編集していった人々にとっては、「関守」の「女」は、偶像 (idole) としての「藤原高子」でなければならなかったと云うことだ。

これを踏まえた上で、つまり、以下のことにこだわっても仕方がないことを認めた上で、議論を進めると、このエピソードの [みそかびと] を藤原高子 (承和9年/842年 - 延喜10年3月24日/910年5月6日) とすると、父親の藤原長良 (延暦21年/802年 - 斉衡3年7月3日/856年8月6日) が死亡した時の高子の満年齢は14歳又は13歳で、これは当時としては「幼すぎる」ほどのことはなかったろう。

[源氏物語 葵] で「いかゞありけむ、人の、けぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、をとこ君は、とく起き給ひて、女君は、更に起き給はぬ朝」(岩波文庫 [源氏物語 (一)] p.346) があったのも、女君 (紫の上) が14歳ぐらいだった筈だ。それも、こちらは「数え年」だから、満年齢に直すと、やや少なくなる。もっとも、[伊勢物語] の[女] とは対照的に、[紫の上] は、自分の身の上に起こったことに衝撃を受けて、暫くの間パニックに陥ったりする訣だが。。。それでも、三日後には「亥の子餅」を食べたようだから、自分の中で何らかの「折り合い」を付けたのだろう。

ちなみに、[源氏物語 藤裏葉] の冒頭 (岩波文庫 [源氏物語 (三)] p.231) では、「関守のうちも寝ぬ」と、問題の歌が引用されている。

一応書いておくと、高子が清和天皇 (嘉祥3年3月25日/850年5月10日 - 元慶4年12月4日/881年1月7日。在位:天安2年11月7日/858年12月15日 - 貞観18年11月29日/876年12月18日) に入内したのは貞観8年(866年)。長良の死後、10年ほどたっており、高子は満年齢で24歳程度。清和天皇は16歳程度だった。その後、陽成天皇 (貞観10年12月16日/869年1月2日 - 天暦3年9月29日/949年10月23日。在位:貞観18年11月29日/876年12月18日 - 元慶8年2月4日/884年3月4日) となる皇子を産む。

だから、「人目を忍ぶ」とか「こっそりと通う」とか云う解釈は、やや滑稽に思える。「人目を忍べなくなった」ことが、この歌の前提だからだ。それが、私の「違和感」の中身だった。

そこで、私なりに「違和感」のない解釈は可能か、考えてみたのだが、「人知れぬ」は「人に知られないまま」と云う意味であって「人目を避けて」とは微妙に異なることに思い至った時、この歌は、「謎と答と云うのが王朝和歌の基本構造だとする」窪田敏夫の説 ([日本語で一番大事なもの] の中で丸谷才一が紹介している) に従って読めばよいことに気が付いた。

つまり「人知れぬわが通ひ路の関守は」が謎であり、「(関守は)宵々ごとにうちも寝ななむ」が答えなのだ。だから、一首の意味は「あなたに通っているのが露見してしまい、その通い路に『関守』が置かれてしまっています。人に知られないまま、あなたのもとに行くには、毎夜、少しでもいいから『関守』たちに眠ってしまってもらわねばなりません。」ぐらいになる。

通常「寝ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」とか「眠ってくれればよいのだが」ぐらいに訳されるようだが、「関守」たちに見とがめられることなく [女] のもとに行くと云う明確な目的のもとに、関守たちが眠るという状況を誂えたいと云う文意だから、「眠ってしまってもらわねばなりません」ぐらいに訳した方が良いと思う。

この「謎」に対して、この「答」は、所謂「ベタ」と云う奴だろう。大喜利で、この種の答えを言うのはボケ担当の役回りで、「答えになっていない」とツッコミを受けるところだ。

この「答えになっていない答え」には、「男」から「女」への「状況を打開する手段が見当たらない」、あるいはもっと露骨に「さようなら」と云う裏のメッセージが存在する。だからこそ「女」は惑乱した (「いといたう心やみけり」) のだ。彼女の心に「怒り」や「呪い」に近いもの (「馬に蹴られて死んじまえ」といった感情) があったとするなら、それは「恋路の邪魔」をした家族ではなく、むしろ不甲斐ない「男」の方に向けられていたのではないか。

「女」にしてみれば、「私を掠うぐらいの根性を見せてみろよ」ぐらいの啖呵を切りたい状況ではあるのだが、まさに、それに照応するように、引き続く [伊勢物語] 第6段では、「男」が「女」を掠うエピソードが配置されている。

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メモ:パーテル・ノステル (pater noster)

["pax vobiscum" と「フォースのともにあらんことを」、そして「神ともにいまして」] (2009年9月26日[土]) の最後のほうで、「願わくば」よりも「願わくは」(歴史仮名遣いでは「願はくは」) の方が、古典語としては正しいと云うことを書いたが、恐らく、現代日本人が聞き知っている可能性が一番多い用例は、文語聖書における「主の祈り」(pater noster) だろう。

イエスが「汝らは斯く祈れ」(マタイ傅6:9) と指定していると云う意味で、キリスト教において最も重要な祈祷文である。

天にいます我らの父よ、
願(ねがは)くは、御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
御意(みこころ)の天のごとく、地にも行はれん事を。
我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。
我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)に遇(あは)せず、
惡より救ひ出(いだ)したまへ。
--マタイ傅6:9-6:13
[ルカ]にも平行記述が存在する。
父よ、願(ねがは)くは御名(みな)の崇(あが)められん事を。
御國の來らんことを。
我らの日用の糧を日毎(ひごと)に與へ給へ。
我らに負債(おひめ)ある凡(すべ)ての者を我ら免せば、我らの罪をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)にあはせ給ふな。
--ルカ傅11:2-11:4

もっとも、私などは、子どものころ、出だしを「天にまします我らの父よ」と覚えたのだが、これはこれで、そのように訳している会派もあるるらしい (「くろはたホームページ:主の祈り」及び「主の祈り - Wikisource」を参照。その他、「主の祈り」の変異例に就いては「クリスチャン・ネット:主の祈り」も参考)。

"Pater Noster" はラテン語で「我らの父よ」("pater" は呼格で「父よ」。"noster" は複数第1人称所有代名詞男性形「我らの」)で、「主の祈り」が、こう呼ばれるのは、そのラテン語版が、この言葉で始まることによる。

そう云う訣で "Pater Noster" が Vulgata ではどうなっているかと云うと:

Pater noster qui in caelis es
sanctificetur nomen tuum
veniat regnum tuum
fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra
panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie
et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimisimus debitoribus nostris
et ne inducas nos in temptationem
sed libera nos a malo
--SECUNDUM MATTHEUM6:9-6:13
Pater sanctificetur nomen tuum
adveniat regnum tuum
panem nostrum cotidianum da nobis cotidie
et dimitte nobis peccata nostra siquidem et ipsi dimittimus omni debenti nobis
et ne nos inducas in temptationem
--SECUNDUM LUCAM11:2-11:4
新約聖書だからギリシャ語テキストも引用しておこう:
Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου, ὡς ἐν οὐρανῷ, καὶ ἐπὶ τῆς γῆς·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν, ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφίεμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν,
ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ.
--ΚΑΤΑ ΜΑΘΘΑΙΟΝ6:9-6:13
Πάτερ, ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δίδου ἡμῖν τὸ καθ᾿ ἡμέραν·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν· καὶ γὰρ αὐτοὶ ἀφίεμεν παντὶ τῷ ὀφείλοντι ἡμῖν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν.
--ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ11:2-11:4
ただ、私の場合、"Pater Noster" と云うと、次の4行から始まる ジャック・プレヴェール (Jacques Prevért) の詩も懐かしい:
Notre Père qui êtes aux cieux
Restez-y
Et nous, nous resterons sur la terre
Qui est, quelquefois, si jolie.
--« Pater noster », dans Paroles, Jacques Prévert, éd. Pléiade Gallimard, 1992, p. 40 (Jacques Prevert - Wikiquote, le recueil de citations libre)

天にまします我らの父よ
天に留まりたまえ
我らは地上に残ります
地上は時々美しい
Jacques Prevért の "Pater Noster" 全文は、例えば "Jacques Prevért : Pater Noster (Commentaire composé)" を参照。

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メモ:「泉声」の語義 (「百谷泉声」に関連して)

20日夜 (2009/08/20 22:18:31)、キーフレーズ [百谷泉声の意味] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

「百谷泉声」と云うと、素直に読み下すかぎり「百谷の泉声」として、その意味は「百の渓谷には泉から湧き出る水の音 (がする)」ぐらいだろうという気がしたが (勿論「百」は「数が多い」たとえ)、こうした文の「読み下し」と「意味」は、文脈によって可成異なってくるのは当然で、それどころか、私のように無学なものは、文脈をチェックしないと、トンでもない間違いをしでかしがちである。

と云う訣で、取り敢えず「"百谷泉声"」で google 検索してみると、書道教室の「お題」がらみで何件かヒットするのだが、その他に、中国語サイトで、[中华古诗文网] (中華古詩文網) 中の [全唐诗逸] のページがヒットした。

この [全唐詩逸] は日本国内の出版である。唐詩を網羅すべく編纂された [全唐詩] に、残念というべきだろうが、同時に当然ともいえる遺漏の詩句を、市河寛斎が全三巻に纏めたものだ。1804年 (文化元年) 刊。

この [中华古诗文网] によるなら「百谷泉声」は、[贺兰暹 (賀蘭暹)] 作の断片11句の内の一つ:

千峰黛色因晴出 百谷泉声欲暮寒

に含まれる。

元元は、「望太宝山」(「太宝山を望む」だろう) と云う詩の一句だそうな。

で、この読み下しなのだが、実は [全唐詩逸] は、その影印の pdf が、[うわづらをblogで] と云うブログサイトに掲載されている (全唐詩逸.pdf)。それに曰わく:

千峰黛色因晴出
百谷泉聲欲暮寒
千峰の黛色 晴に因って出で
百谷の泉聲 暮なんと欲して寒し

素直な読み下しで、私としても異論はない。これで、「一件落着」と思ったのだが、実は、そうではなかった。

一応、作者の [賀蘭暹] と、題にある [太宝山] の情報を補足しておこうと調べ始めたところ、いつものことながら、ジタバタ騒ぎをする羽目になったのだったのだ。

作者の [賀蘭暹] は、ネットを検索してもはかばかしいデータを得られなっかったが、彼は、氏名と詩断片とのみならば、日本で古くから知られていた詩人だったらしい。何故なら [和漢朗詠集] に、次の2句が見られるからだ (実は、この2句も [全唐詩逸] に収められている。と云うか、むしろ [全唐詩逸] の方が、[和漢朗詠集] から引用したのだろう):

黛色迥臨蒼海上。
泉声遥落白雲中。

(百丈山)
黛色迥(はる)かに 蒼海の上に臨み
泉声遥(はる)かに 白雲の中(うち)に落つ

--[和漢朗詠集 巻下]491「山」
秋水未鳴遊女佩。
寒雲空満望夫山。

(寄所思佳人)
秋水 未だ遊女の佩を鳴らさず
寒雲 空しく望夫の山に満つ

--[和漢朗詠集 巻下]718「遊女」

ここで、私は戸惑ってしまった。[百丈山] の句「黛色迥臨蒼海上。泉声遥落白雲中。」にも「泉声」の語句があるが、これは「泉から湧き出る水の音」と云う解釈には馴染まない(「[全唐詩逸] を覗いた時に気が付けよ」と、自分でも思うのだが、事ほど左様に私は迂闊だと云うことだとでも言うしかない)。

実際、[和漢朗詠集] の通常の注釈では、この「泉」を「滝」と解しているようだ。うーむ。「滝」....

「滝」と言っても、色色で、ナイアガラ瀑布と云ったものは、別範疇として除外するにしても、全てが [華厳の滝] や [那智の滝] のようなものばかりとは限るまいから、あまりこだわる必要はないのかもしれないのだが、「泉」を「滝」とするのにも抵抗を感じたのだ (勿論、ここで言う「滝」とは、日本語の「タキ」のことである。この「滝」を「タキ」の意味に使う用法は、日本独特らしい)。

つまり、私は、「泉声遥落白雲中」や、更に遡って「百谷泉声欲暮寒」の「泉」が、日本語で云う「イヅミ」と解釈するのには問題があることに気付いたものの、それを「タキ」と捉えることにも抵抗を感じたのだった。

「泉」の釈義は、ひとまず措いておくとして、改めて感じなおして見ると、私にとり、この「泉声」の情景としてしっくりするのは、川の最上流部で、流れが速く、水音が確かに聞こえてくると云うものだった (水量の多寡に就いては、どちらでもありうるだろうから、判断を保留しておく)。

と、ここまで考えて、日本語でも、少なくとも、古くは、そうした流れを「タキ」と呼んでいたことに気が付いた。「瀬を早み岩にせかるる滝川の」とは、まさにそうした情景である。コレまた迂闊なことではあった。

話の纏まりが悪くて申しわけない。混乱を避けるために言い直すと、「タキ」と云う表現や概念を排除しないものの、私には、この「泉」が、何よりも「(川の上流部の) 早瀬」のようなものに思えるのだ。

だから、王維の [過香積寺 (香積寺を過る)]
不知香積寺  知らず 香積寺(こうしゃくじ)
數里入雲峯  数里 雲峰に入る
古木無人徑  古木 人径無し
深山何處鐘  深山 何処の鐘ぞ
泉聲咽危石  泉声 危石に咽ぶ
日色冷青松  日色 青松に冷やかなり
薄暮空譚曲  薄暮 空譚の曲
安禪制毒龍  安禅 毒竜を制す
--王維 [過香積寺] (岩波文庫 [王維詩集] 岩波書店。東京 1972年。p.152)

においても、「泉聲咽危石」は「きりたつ岩にむせぶ泉の音」(岩波文庫 p.153) と解釈するより「切り立つ岩に早瀬が当たってむせんでいる」とした方が良いように思える。

こうした機微は、江戸時代の漢詩人には、皮膚感覚として理解されていたのかもしれない。菅茶山が、其の死 (1827年) の数日前に詠じたという [病中即事] には

月露秋容嫩  月露 秋容嫩く
風軒暮色敷  風軒 暮色敷く
少間離病蓐  しばし病蓐を離れ
俄頃隠書梧  いささか書梧に隠(よ)る
幽澗泉声小  幽澗 泉声小にして
遙村火影孤  遙村 火影孤なり
従茲経幾日  これより幾日を経べし
転惜此宵徂  転た惜し 此の宵の徂くを
--病中即事

とあるそうだが、この「幽澗泉声小」は、人気(ひとけ)の無い谷川に水が音低く流れていることを描いているのだろう。

[太宝山] は未詳。所謂 [嵩山] は、かって [太宝山] と呼ばれたことがあったらしいが (「嵩山 (SongShan):中国五岳之一。春秋前称太宝山」--地理教師网)、賀蘭暹の詩との関係は何とも言えない。

一応、纏めるならば、「百谷泉聲」とは、「(太宝山の峰峰の合間あいまの)数多くの谷のそれぞれから聞こえてくる早瀬の水音」と謂ったところか。

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「をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを」の英訳

本日未明 (2009/05/15 03:43:19)、キーフレーズ [をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを english] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。リモートホスト名から推測するにアメリカ合衆国東部の大学からのアクセスらしい。恐らくは「をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを」の英訳をお探しなのだと思われる。

後追いで検索してみた所、 (別のオプションや設定では別の結果が出ているかもしれないが) このサイト以外はヒットしなかったのは意外だった。そして残念なことに、このサイトには「をのこども詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを」に関連する情報はなかったのだ。

勿論、これは新古今和歌集第一巻に収めされた後鳥羽上皇御製の

見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ
--[新古今和歌集1]36

の詞書だから、新古今和歌集の英訳本 (あることはあるらしい。"The shin kokinshu; the 13th-century anthology edited by Imperial edict. by Heihachiro Honda - Alibris" を参照)には、それが訳出されている可能性が高いが、生憎私は未見で確認することができない。

ただ、次のような感じになるのではないかと思う:

When some vassals were composing Japanese verses in reply to a Chinese poem, the ex-Emperor versed a spring landscape of a province with a river running through:

ついでに、所謂「新古今三夕 (さんせき)」も引用しておこう。

題しらず
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮
--[新古今和歌集4]361 寂蓮法師

心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕暮
--[新古今和歌集4]362 西行法師

西行法師すすめて百首歌よませ侍りけるに
見わせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
--[新古今和歌集4]363 藤原定家

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「先生」・「先生」・「先生」の聲

[nouse: 英文版ウィキペディア "Born coordinates" 導入部、第1節-第3節翻訳草稿] (2008年8月2日[土]) を書いていて、サニャック効果 (Sagnac effect) とは時空多様体を「空間」上のファイバーバンドル (fiber bundle) と捉えた時のホロノミー (holonomy) なのだと気付いたのだったが、少なくとも日本の「知的状況」では (と云う書き方もオゾマシイほど初歩的なことなんだが、まぁとにかく)、一般的に認識されていないようなので、微分幾何学の初歩の復習も兼ねて、ファイバーバンドルの理論をホロノミーの所ぐらいまで纏め始めたのだったが、これが例によって難渋している。

書きはじめる前の予定では、8月中旬には (ハッキリ書くと「8月11日」) 脱稿・ ポストだったのが、今日は既に8月末日である。

しかも昨日当たりから、当初は全く書くつもりのなかった「層 (sheaf/faisceau)」のことを、、極めて簡単ながらも (取り敢えず「層係数のコホモロジー」ぐらいに就いては) 触れる必要があることに気が付いた。しかし、幾ら「簡潔」と云っても、「1」のことを書こうとしたら、少なくとも「20」とか「30」ぐらいのことは調べたり考えたりする必要がある。そして、それだけ苦労しても、しばしば手ひどい過ちをするのが、私のような愚かな人間には通例なので、手を抜くわけにはいかないのだ。まだ、しばらく泥沼状態が続きそうである。

なんだかガッカリしてしまった。

そう云うわけで、今日は作業に手が着かず、バックレてしまって、カテゴリー「『日本語で一番大切なもの』」のなかの記事の内部リンクを補足したり、大意を書きたしたりし始めたのだったが、「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも (天武天皇 [万葉集1]21)」の大意を書こうとして、とたんに行き詰まってしまった。

「恋ひめやも」が反語であることはともかく、「憎くあらば」は何なのだろう。

勿論、贈歌は言わずと知れた「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる (額田王 [万葉集1]20)」なんだが、この贈返二歌、微妙に照応していない。

恋愛の上でのことだから、「ズラシ」は基本的な作法でありうるのだが、だとしたら、背景に「事件」があったことを想像してしまう。

素直に受けとるならば、二人の間に、「女」の側からすれば、「男」から嫌われたかもしれないと考えたとしても不思議でない「事件」があったことになる。

さらに厳密に言うならば、これは「男」の発想内での「事件」なのだ。つまり、男の発想では「『女』の側からすれば、『男』から嫌われたかもしれないと考えたとしても不思議でない『事件』があった」。

「男」は、「女」の「不安」を劇的に解消するために、「野守」が監視している「標野」で、「女」に対して「袖を振る」と云う愛情表現をすると云う無謀なことをワザとする (cocu は、クニの支配者である)。

「女」は、「男」の行為に呆れたのか、感激したのか、そのどちらかであるかは、実は恋愛の相のもとでは、あまり意味がないので、重要なのは、「男」の関係修復を願うサインを受け入れたことを示すための優位の姿勢で、「男」をたしためたと云うのが、「[万葉集1]20」だ。「野守が見ていないとでも言うのですか?」

これに対する「男」の返歌は、「女」の贈歌に直接答えていない。自分は「女」を嫌っていないと云う、当面の最重要メッセージを伝えることに終始している。「美しい女性よ。あなたに腹を立てているのだとしてら、人妻であるあなたを何とかして手に入れたいなどと思うでしょうか?」

勿論、「事件」を、単純に、「女」が「人妻」になったと云う事実であると捉えることは可能なのだが、実は、それ以外の何かがあったような気もするのだ。しかし、そうなると、結局「憎くあらば」をどう解釈するかと云う問題に戻ってしまう。

思案投げ首していたら、窓の外から、この雨続きで肌寒い一週間ばかり聞こえていなかったクマゼミの鳴き声が「シャン・シャン・シャン」と聞こえてきた。物理/数学も不可、万葉も不可である私を「先生・先生・先生」と嗤わっているようだ。

     大窪詩佛
古松林裏聽蟬鳴
先生先生先生聲
聲聲似把先生笑
莫笑先生老遠行
三十年來舊遊地
白首重來幾先生


富士川英郎 (「江戸後期の詩人たち (1973年)」) によれば、常陸国多賀郡大久保に生まれ、江戸神田お玉ヶ池に詩佛堂を営んだ詩人が紀州に旅をしたときのこの詩 (題はないらしい) の「蟬」は「おそらく熊蟬だろう」と云うことだ。おそらく、彼の耳に、このセミの鳴き声は耳新しかったのだろう。そう言えば、やはり関東に生まれ、いまもその住人である私にとっても、「シャン・シャン・シャン」は、幼年時代聞かなかったような気がする。

詩を詩佛に倣おうとは思わないが、それでも、ここはやはり蝉どもに対して、「嗤ふなかれ小生の老いて遠行することを」と言っておきたい。


駄文を弄しているうちに、日付が変わってしまった。もともと、原稿が書きあぐねたすさびに書き始めた文章だから、それも当然か。「莫笑」。

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