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古今亭円菊 [町内の若い衆] における「しかんけの犬」

2012年10月13日に、落語家古今亭円菊が亡くなって、既にほぼ一か月が過ぎてしまった。と、事ごとしく書いたが、円菊さんに就いては、テレビ番組で噺を一・二度聞いたことがあるような記憶がうっすらとあるばかり。後は、やはりテレビか新聞かで、自らの師匠である古今亭志ん生の逸話を聞いたか読んだような気がする。

志ん生は、茶わんに盛った御飯に焼酎を掛けて、茶漬のようにして掻き込んでいたと云うことを聞いたことがあるが、これは円菊さんから仕入れたのかもしれない。何れにしろ、『飲まば焼酎・死なば卒中』と豪語していた志ん生らしい逸話ではある。

それだけの縁しかないのに、なぜこの文章を書き始めたのかと云うと、随分昔に、古今亭円菊の高座で、かすかながらも気になった [言葉尻] があるからだ。「テレビ番組で噺を一・二度聞いたことがあるような記憶」と書いたばかりで胡乱なことを言う、と思われそうだが、実は、彼の高座の口述筆記なら、読んだことがあるのである。

角川文庫に、落語協会が編集した [古典落語] と云う10冊組みの、タイトル通り、古典落語の口演を書き起こしたものが収められている。10冊中初めの2冊は「艶笑・郭ばなし」が充てられているのだが、第2冊の3話めが、円菊師匠演じるところの [町内の若い衆] と云う噺なのだ。

所謂 [艶笑ばなし] に分類されていて、類話と云うことになっている落語 [氏子中] は、1941年10月に、高座に載せることが自粛された53種 (所謂「禁演落語」) のひとつである。私には確認できなかったが、[町内の若い衆] も口演が自粛された可能性が十分あるだろう。事実、現在では、[町内の若い衆] は「かっての禁演落語」として扱われているようだ。

私は落語の [氏子中] を聞いたことはなく、また口演の筆記も読んだことがない。従って、以下の議論は、サイト [落語あらすじ事典 千字寄席] 中の項目 [氏子中(うじこじゅう)] に示された概況に拠るので、自分でも心もとないところがあるのだが、それを留保しつつ断ずるなら、[氏子中] と[町内の若い衆] では、サゲの発想が同工であるとは言え、物語の構造が異なっているのだ。

[氏子中] は、確かに所謂 [バレ噺] だが、[町内の若い衆] は、バレるのはサゲだけで、基本は「真似そこない」型の笑話と看做せる。実際、円菊版の [町内の若い衆] のマクラは、次のような典型的な「真似そこない」話である。

 一席ごきげんをうかがいます。
 ええむかしからこのう、付け燒き刃ははげやすいなんてえことを申しまして、とかくこのう人まねというもんは、これはうまくいくもんじゃございませんよ。まあ、でもむかしは、このう、夏の暑い盛りに甘酒(あまざけ)を売って歩いたなんという商売がございます。
 「あまあーい甘酒ェ」
 「おっ甘酒屋!」
 「へえい」
 「あついかい?」
 「へえい、あつうがんす」
 「じゃ日陰歩きな」
 「ばかにしてるなあの野郎」
 なんてんで、甘酒屋をからかって……。これをそばで聞いていたのがわれわれ同様というのか、少々ぼうーっとしてやつで、
 「旨(ンま)いこと言いやがるなあの野郎、『甘酒屋、あついかい』ってやがる。『おあつうござんす』と言ったら日陰歩けって、ふふん、おれもからかってやれ」
 なんてよしゃいいのに
 「あまあーい甘酒ェ」
 「おいっ、甘酒屋!」
 「へえい」
 「あついかい?」
 「いいえ、飲みごろです」
  「ん、フッフ一杯くれ」
  なんてんでね、逆に飲まされちゃったりなんかしまして……。
  とかくこの人まねというものは、これァうまくいくもんじゃございません。
--[古典落語〈2〉艶笑・廓ばなし 下] (東京。角川書店。角川文庫 1974年) pp.44--45
なお、ここにリンクを付けたアマゾン出品のものは1980年刊。1974年のものを復刊したものか?

また、構造的に、わかりやすい相違点を指摘しておくと、[氏子中] では、女性主人公の妊娠が冒頭から明らかにされて、そこから物語が展開していくのだが、[町内の若い衆] では、女性主人公の妊娠は、物語の完結に直結する最後の段階で明らかにされる。

ちなみに、[落語あらすじ事典 千字寄席] でも項目 [町内の若い衆(ちょうないのわかいしゅう)] の解説で「別話」であると指摘されている。

[落語あらすじ事典 千字寄席] の [氏子中(うじこじゅう)] に従うなら、落語 [氏子中] の現在知られている最古の原話は、正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集「新話笑眉」中の [水中のためし] だと云う。この [水中のためし] が、その後半世紀経った宝暦12年(1762)刊の「軽口東方朔」巻二 [一人娘懐妊] 等、多くの模擬作品を産んで、その後の落語 [氏子中] につながったと云うことらしい。

ただ、ここで注意しておくなら、女性主人公は [水中のためし] では「下女」であり、[一人娘懐妊] では (私は、概況でさえ不承知なのだが、タイトルからホボ確実に) 「娘」であることだ。「物語」の層では「下女」はカテゴリとして「娘」であるから、笑話と落語 [氏子中] とでは物語としての「風合い」がかなり異なっている。議論を単純化しすぎであることを認めつつも、対比すると、笑話では「娘と後家は若衆のもの」を連想させるような、古代的な、更には、聖婚にまで遡りえるような神話的背景が感じられるのに対し、落語では、せいぜい中世以降、多分に近世的な、それも都市生活者間における cocuage が物語の要になっているからだ。

ただ、ここで実時代における「古代/近世」の対立に固執するのは意味がない。例えば、江戸時代、佐久間某の「下女」であった [お竹] が大日如来の化身であったと云う逸話に、川柳作者たちの間で「町内の若い衆」と同系の神話性が付与される機微を、石川淳は、その [江戸人の發想法について] で鮮やかに指摘している。

  佐久間の下女は箔附のちぢれ髪

  裏に來てきけばをとつひ象に乘り

 お竹大日如來のことは民俗學のはうではどうあつかふのか知らない。某寺の聖のはなしとか流しもとの飯粒を大切にするはなしとかがこれに關係づけられてゐるやうである。しかし、この風變りな如來縁起が市民生活の歴史のなかでいかなる關係物によつて支へられてゐるにしろ、前もつて能の江口といふものがあたへられてゐなかつたとすれば、すなはち江口に於て作品化された通俗西行噺が先行してゐなかつたとすれば、江戸の佐久間某の下女が大日如來の化けるといふ趣向は發明されなかつたらう。江口の君が白象に乘つて普賢菩薩と現じたといふ傳承は前代から見のこされて來た夢のやうなものだが、江戸人はその夢を解いて、生活上の現實をもつてこれに對應させつつ、そこにまたあらたなる夢を見直すことを知つてゐた。そして、かういふ操作がきはめてすらすらおこなはれてしまふので、それがかれらの生得の智慧のはたらきであること、同時に生活の祕術であることを、江戸人みづから知らなかつた。後世が作為の跡しか受け取らなかつたとすれば、當の江戸人はそのとほり駄洒落さと答へてけろりとしてゐるであらうが、じつは後世がむざむざとかれらの智慧にだまされてゐるようなものである。お竹大日如來の場合は、文學のはうではたまたま川柳の擔當になつてゐるので、後生の文藝批評家はなるべくこれをやすつぽく踏み倒すことによつて自家の見識を示さうとする。われわれは、その見識の高下をしらない。
 箔附のちぢれ髪といふ。おもての意味は明かに佛菩薩の螺髪のことをいつてゐる。しかし、箔附のとは、れつきとした、極めつきの、例のあれさ、といふ意味でもある。すると、ちぢれ髪とは何か。按ずるに、ちぢれ髪の女は情が濃いといふ俗説を踏まへてゐるのだらう。ここで「こなたも名におふ色好みの、家にはさしも埋木の、人知れぬことのみ多き宿に」といふ江口の本文をおもひ出しておいてよい。江戸の隠語に、來るもの拒まない女のことを、醫者の慣用藥にたとへて、枇杷葉湯といふ。お竹はけだし枇杷葉湯なのだらう。お竹とはかならずしも佐久間家の婢にはかぎるまい。市井の諸家の臺所に多くの可憐なるお竹がゐて、おそらくは時に町内の若者を濟度することを辭さなかつたのだらう。すなはち見立江口の君である。おろかな、たわいない、よわい女人はここにまで突き落とされたかと見るまに、一轉して後シテの出となる。臺所は「世をいとふ人とし聞けば假の宿に心とむなと思ふばかりぞ」といふ假の宿である。また「惜しむこそ惜しまぬ假の宿」である。すでにして、お竹は「これまでなりや歸るとて」白象に乘つた遠い普賢像であつた。その姿の消えた後に、裏に來て安否をとふものは、かならずやかつて濟度をかうむつた町内の若者の一人なのだらう。憶測をたくましくすれば、この相手方もまた一所不住の浮かれもの、見立西行といふこころいきであらうか。
--[文学大概] (東京。中央公論社。中公文庫 1976年) pp.74--76
--[石川淳選集 第14巻 評論・随筆 4] (東京。岩波書店。1980年) pp.173--174

しかし、現状では考える材料が調えられないので、これ以上、あれこれ頭をひねっても仕方がない。本題に入ろう。

角川文庫版の [町内の若い衆] には、次のようなくだりがある。

「なにを言ってんだい、夫が聞いてあきれるよ。[おっとおっと] って言いやがって、その下に [どっこい] をつけてごらん」
「おっとどっこい……なに言ってんだ、畜生め、ええ、いまなあ、ええ、感心しちゃったんだ、おらあ」
「なに言ってんだあ、感心しちゃ首曲げてやがらあ。しかんけの犬」
「なんだい、しかんけの犬てえのは」
「首を曲げてばかりいるからだよう」
--[古典落語〈2〉艶笑・廓ばなし 下] (東京。角川書店。角川文庫 1974年) p.49
上記引用文で [ と ] とで囲んで在る部分は、原文では「丶」による強調がされている。また、ここにリンクを付けたアマゾン出品のものは1980年刊。1974年のものを復刊したものか?

最初この部分を読んだ時、私には「しかんけの犬」が何を指しているのか分からなかった。そして多分、江戸時代、又は、かっての東京で使われていた「悪態」の一つなのだろうと思ったのだった。

しかし、その後、「町内の若い衆」を別のテキストを読んだ時に、上記引用文では「しかんけの犬」となっているところが「蓄音機の犬」といるのを読んで、自分の勘違いに気が付いた。「首を傾げた」仕草を、音楽レコードのブランドである HMV (His Master's Voice) の商標である犬「ニッパー (Nipper)」になぞらえたのだ。

ただ、「ちくおんき」が「しかんけ」になるのは、[江戸/東京弁] としても、やや特異であるかもしれない。

私自身、東京で生まれ育った人間で、例えば、子どもの頃、夏場に近所の友達と水の掛け合いをしていて、その友達に、水を浴びせた瞬間「シャッケー、シャッケー」と叫ばれた経験がある。その時、私は「『鮭』がどうしたのだろう」と不思議に思うばかりだった。東京近辺だけのことか、それ以外に拡がりがあるか承知しないが、取り敢えず、私の身の回りでは「酒」は「さけ」だが、「鮭」は「しゃけ」だったのである。勿論、「鮭」を「さけ」と呼ぶこともあって、しかも「酒」の「さけ」と、「鮭」の「さけ」とはアクセントが異なるから、混同はしない筈なのだが、私なぞは、子どもの頃、塩を吹いて真白になった中に赤くて堅い切り身が隠れている形で食膳に載る魚は「しゃけ」だと思いこんでいたし、また今でも「鮭」は「しゃけ」でないと、微妙な違和感がある。

勿論、「シャッケー」は「冷やっこい」の訛りである。実際の転訛の変遷を私は知らないが、図式的には「ひやっこい → しゃっこい → しゃっけー」と考えられる。ただ、当時小学校低学年だった私は「冷やっこい」と云う言葉を知らなかったから (家庭内でも使っていなかった。使っていたのは「つめたい」か、「つべたい」だった。もっとも、私の母親は家庭内では、しばしば「おべたい」などと言っていたが、これは、おどけて幼児語化していたのだろう)、連想の浮かびようもなかったのだ。

もっとも、「シャッケー」そのものも、本来は幼児語だった可能性はある。何故なら、江戸時代の江戸では、町内を廻って水を売る商売 (所謂「ボテフリ」の「水売り」) があったが、それは2種類に分けられて、日照りで井戸枯れの時、取り敢えず必要になる飲料水を売り歩く種類と、現在で言う清涼飲料水を扱う種類があった (砂糖を溶かしたり、白玉を加えて売られたらしい) が、少なくとも、この [清涼飲料水] タイプの方の売り声が「ひゃっこいひゃっこい」だったからだ (従って、彼らは「ひゃっこい」とも呼ばれた)。細かく言うなら、文字どおり「ひゃっこい」と発音されていたと云う保証はないかもしれないが、順当に考えるなら、[大のおとな] は、少なくとも、その気になれば、「ひゃっこい」と言えたし、実際にそう発音していたと云うことなのだろう。

後ればせながら断わっておくと、私は自分が所謂「東京弁」を常用しているとは思っていない。「ひ」と「し」の使い分けに難があるだけが、微かにそれらしいだけで、取り立てて「某某弁」と呼べるような特徴のある話し方はしていない筈である (「まっつぐ」なんて言わないよ。「まん真ん中」も余り使わないな。逆に、関西由来と思われる「ど真ん中」は、時どき使っているかもしれない。一番使っているだろうのは、無印の「真ん中」)。実際に聞いてみるならば東京弁使用者を認識することはできる気がするが、「この人は東京弁を使っている」と感じる実体験は滅多にない。それが、東京弁ネイチブ・スピーカーが絶滅危惧種であるためか、私の東京弁認識能力が似非なのか、なんとも言えないだろう (「両方」と云うこともある)。だから、この記事に書いてあることが基本的に間違っている可能性さえあるのだ。

そう断わっておいて、改めて設問すると、で、「ちくおんき」が「しかんけ」になったのは、どう云うことなのか?

実は、この稿を書き始めるまでチャンと考えたことがなかったような気がする。円菊さんが亡くなったから思い出したので、普段は忘れていたからだ。

円菊さんは、当然、この噺を、師匠の古今亭志ん生から受け継いだのだろう。事実、志ん生には(七代)金原亭馬生時代に吹き込んだ「氏子中」のSP盤レコードがあるというが、その内容は、通常の「氏子中」(落語) ではなく、むしろ「町内の若い衆」であると云う。

円菊さんの口演では、静岡茶を褒めるクダリがあって、これは静岡出身である円菊師匠が付け加えたのではないかと思われるが、そのように、全てが志ん生譲りとは言えなかろう。「ちくおんき」が「しかんけ」に変わるに就いては、志ん生、円菊、原稿作成・校正者の3つのレベルが関わりうるのだ。

東京で育った人間なら、例えば「文字焼き (もんじやき) → もんじゃき → もんじゃ」と云う転訛が、ごく自然に受け入れられる。同様に、「蓄音機 (ちくおんき) → ちこんき」と云う転訛なら、当然そう云うこともあるだろう、と、納得できる (「ちこんき → ちこんけ」と云うのもありうるのではないか)。

この原稿を書きだしてから、思いついて google 検索してみて気付いたのだが、「しかんけの犬」や「シカンケの犬」では、現時点で1件もヒットしないが、「チコンキの犬」なら多数ヒットする。

「ちこんき → しかんけ」が、円菊さんの聞き間違え・言い間違えや、原稿作成・校正者のミスと云う可能性も勿論ある。しかし、私は、志ん生師匠自身が、円菊さんの前で「しかんけ」に聞えるような発話をしていたのではないかと思うのだ。「だから何なのだ」と言われると、それまでなのだが。。。

古今亭円菊と同日に、丸谷才一も亡くなった。私はこのブログで、2008年3月頃、彼と大野晋との対談 [日本語で一番大事なもの] 中で取り上げられた引用文に就いての記事を数多く書いているが、その際、肝腎の書名を書きあやまると云う大失態を犯してしまった。その訂正かたがた、必要ならば、記事への補足、又は瑕疵の点検と訂正を行ないたいと思っていたが、全く手つかずのまま、2008年7月の大野晋の死去に続いて、丸谷才一まで鬼籍に入ってしまった訣で、自らの怠惰に忸怩たらざるを得ない。

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メモ: 在原業平「人知れぬわが通ひ路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」

しばらく前になるが、「人知れぬわが通い路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」に就いての情報を求めて、このサイトを訪問された方がいらしたようなので、この歌に就いて、このサイトに曾ってポストしたことがあったか確認してみたのだが、そうしたことは無かったようだ。

その際、この歌には、以前から微妙な違和感を感じていたことを思い出し、それを改めて考えてみた。そのことを少し書いておく。

まず、議論の対象となるテキストを示しておこう。良く知られているように、この歌は、[古今和歌集 13] 632 であり、その詞書と共になって [伊勢物語]第5段に対応している。それらは次のようなものである:

[古今和歌集 13] 632
ひんがしの五条わたりに、人をしりおきてまかりかよひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえいらで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、かのみちに夜ごとに人を伏せてまもらすれば、いきけれどもえあはでのみ帰りて、よみてやりける
     なりひらの朝臣
  人しれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

--角川文庫 [古今和歌集] (ISBN4-04-404601-8) pp.147-148
[伊勢物語] 第5段

 むかし、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りけり。さて、よめる、
人知れぬわが通ひ路の関守は
  宵々ごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
 二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせたまひけるとぞ。
--角川文庫 [伊勢物語] (ISBN4-04-400501-X) p.18

この歌の「人知れぬわが通ひ路」は、通常「人目を忍ぶ私の通い路」とか「こっそりと私の通う通い路」とか解釈されることが多いようだ。しかし、[古今和歌集] の詞書や [伊勢物語] の記述に従うなら、この歌の時点で、「男」が通って来ていることは、現代語で言うところの「親バレ」をしてしまっている。

「親バレ」と書いたが、ただし、原文では「あるじ」としか、書いていない。実を言うなら、「親バレ」の「親」は、言葉のアヤで、それにこだるつもりはない。たとえ「兄バレ」であっても、以下の議論の大勢には影響しない。

そもそものことを言うなら、在原業平が「女」に対し、「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」と詠んだような「事件」があったことはあっただろうとしても、そして彼と、後の二条后、藤原高子との間に [恋愛事情] が存在したかもしれないにしても、「人知れぬ」の歌を贈ったのが高子であったかどうかは即断できないのだ。ただ、[伊勢物語] を編集していった人々にとっては、「関守」の「女」は、偶像 (idole) としての「藤原高子」でなければならなかったと云うことだ。

これを踏まえた上で、つまり、以下のことにこだわっても仕方がないことを認めた上で、議論を進めると、このエピソードの [みそかびと] を藤原高子 (承和9年/842年 - 延喜10年3月24日/910年5月6日) とすると、父親の藤原長良 (延暦21年/802年 - 斉衡3年7月3日/856年8月6日) が死亡した時の高子の満年齢は14歳又は13歳で、これは当時としては「幼すぎる」ほどのことはなかったろう。

[源氏物語 葵] で「いかゞありけむ、人の、けぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、をとこ君は、とく起き給ひて、女君は、更に起き給はぬ朝」(岩波文庫 [源氏物語 (一)] p.346) があったのも、女君 (紫の上) が14歳ぐらいだった筈だ。それも、こちらは「数え年」だから、満年齢に直すと、やや少なくなる。もっとも、[伊勢物語] の[女] とは対照的に、[紫の上] は、自分の身の上に起こったことに衝撃を受けて、暫くの間パニックに陥ったりする訣だが。。。それでも、三日後には「亥の子餅」を食べたようだから、自分の中で何らかの「折り合い」を付けたのだろう。

ちなみに、[源氏物語 藤裏葉] の冒頭 (岩波文庫 [源氏物語 (三)] p.231) では、「関守のうちも寝ぬ」と、問題の歌が引用されている。

一応書いておくと、高子が清和天皇 (嘉祥3年3月25日/850年5月10日 - 元慶4年12月4日/881年1月7日。在位:天安2年11月7日/858年12月15日 - 貞観18年11月29日/876年12月18日) に入内したのは貞観8年(866年)。長良の死後、10年ほどたっており、高子は満年齢で24歳程度。清和天皇は16歳程度だった。その後、陽成天皇 (貞観10年12月16日/869年1月2日 - 天暦3年9月29日/949年10月23日。在位:貞観18年11月29日/876年12月18日 - 元慶8年2月4日/884年3月4日) となる皇子を産む。

だから、「人目を忍ぶ」とか「こっそりと通う」とか云う解釈は、やや滑稽に思える。「人目を忍べなくなった」ことが、この歌の前提だからだ。それが、私の「違和感」の中身だった。

そこで、私なりに「違和感」のない解釈は可能か、考えてみたのだが、「人知れぬ」は「人に知られないまま」と云う意味であって「人目を避けて」とは微妙に異なることに思い至った時、この歌は、「謎と答と云うのが王朝和歌の基本構造だとする」窪田敏夫の説 ([日本語で一番大事なもの] の中で丸谷才一が紹介している) に従って読めばよいことに気が付いた。

つまり「人知れぬわが通ひ路の関守は」が謎であり、「(関守は)宵々ごとにうちも寝ななむ」が答えなのだ。だから、一首の意味は「あなたに通っているのが露見してしまい、その通い路に『関守』が置かれてしまっています。人に知られないまま、あなたのもとに行くには、毎夜、少しでもいいから『関守』たちに眠ってしまってもらわねばなりません。」ぐらいになる。

通常「寝ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」とか「眠ってくれればよいのだが」ぐらいに訳されるようだが、「関守」たちに見とがめられることなく [女] のもとに行くと云う明確な目的のもとに、関守たちが眠るという状況を誂えたいと云う文意だから、「眠ってしまってもらわねばなりません」ぐらいに訳した方が良いと思う。

この「謎」に対して、この「答」は、所謂「ベタ」と云う奴だろう。大喜利で、この種の答えを言うのはボケ担当の役回りで、「答えになっていない」とツッコミを受けるところだ。

この「答えになっていない答え」には、「男」から「女」への「状況を打開する手段が見当たらない」、あるいはもっと露骨に「さようなら」と云う裏のメッセージが存在する。だからこそ「女」は惑乱した (「いといたう心やみけり」) のだ。彼女の心に「怒り」や「呪い」に近いもの (「馬に蹴られて死んじまえ」といった感情) があったとするなら、それは「恋路の邪魔」をした家族ではなく、むしろ不甲斐ない「男」の方に向けられていたのではないか。

「女」にしてみれば、「私を掠うぐらいの根性を見せてみろよ」ぐらいの啖呵を切りたい状況ではあるのだが、まさに、それに照応するように、引き続く [伊勢物語] 第6段では、「男」が「女」を掠うエピソードが配置されている。

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「先生」・「先生」・「先生」の聲

[nouse: 英文版ウィキペディア "Born coordinates" 導入部、第1節-第3節翻訳草稿] (2008年8月2日[土]) を書いていて、サニャック効果 (Sagnac effect) とは時空多様体を「空間」上のファイバーバンドル (fiber bundle) と捉えた時のホロノミー (holonomy) なのだと気付いたのだったが、少なくとも日本の「知的状況」では (と云う書き方もオゾマシイほど初歩的なことなんだが、まぁとにかく)、一般的に認識されていないようなので、微分幾何学の初歩の復習も兼ねて、ファイバーバンドルの理論をホロノミーの所ぐらいまで纏め始めたのだったが、これが例によって難渋している。

書きはじめる前の予定では、8月中旬には (ハッキリ書くと「8月11日」) 脱稿・ ポストだったのが、今日は既に8月末日である。

しかも昨日当たりから、当初は全く書くつもりのなかった「層 (sheaf/faisceau)」のことを、、極めて簡単ながらも (取り敢えず「層係数のコホモロジー」ぐらいに就いては) 触れる必要があることに気が付いた。しかし、幾ら「簡潔」と云っても、「1」のことを書こうとしたら、少なくとも「20」とか「30」ぐらいのことは調べたり考えたりする必要がある。そして、それだけ苦労しても、しばしば手ひどい過ちをするのが、私のような愚かな人間には通例なので、手を抜くわけにはいかないのだ。まだ、しばらく泥沼状態が続きそうである。

なんだかガッカリしてしまった。

そう云うわけで、今日は作業に手が着かず、バックレてしまって、カテゴリー「『日本語で一番大切なもの』」のなかの記事の内部リンクを補足したり、大意を書きたしたりし始めたのだったが、「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも (天武天皇 [万葉集1]21)」の大意を書こうとして、とたんに行き詰まってしまった。

「恋ひめやも」が反語であることはともかく、「憎くあらば」は何なのだろう。

勿論、贈歌は言わずと知れた「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる (額田王 [万葉集1]20)」なんだが、この贈返二歌、微妙に照応していない。

恋愛の上でのことだから、「ズラシ」は基本的な作法でありうるのだが、だとしたら、背景に「事件」があったことを想像してしまう。

素直に受けとるならば、二人の間に、「女」の側からすれば、「男」から嫌われたかもしれないと考えたとしても不思議でない「事件」があったことになる。

さらに厳密に言うならば、これは「男」の発想内での「事件」なのだ。つまり、男の発想では「『女』の側からすれば、『男』から嫌われたかもしれないと考えたとしても不思議でない『事件』があった」。

「男」は、「女」の「不安」を劇的に解消するために、「野守」が監視している「標野」で、「女」に対して「袖を振る」と云う愛情表現をすると云う無謀なことをワザとする (cocu は、クニの支配者である)。

「女」は、「男」の行為に呆れたのか、感激したのか、そのどちらかであるかは、実は恋愛の相のもとでは、あまり意味がないので、重要なのは、「男」の関係修復を願うサインを受け入れたことを示すための優位の姿勢で、「男」をたしためたと云うのが、「[万葉集1]20」だ。「野守が見ていないとでも言うのですか?」

これに対する「男」の返歌は、「女」の贈歌に直接答えていない。自分は「女」を嫌っていないと云う、当面の最重要メッセージを伝えることに終始している。「美しい女性よ。あなたに腹を立てているのだとしてら、人妻であるあなたを何とかして手に入れたいなどと思うでしょうか?」

勿論、「事件」を、単純に、「女」が「人妻」になったと云う事実であると捉えることは可能なのだが、実は、それ以外の何かがあったような気もするのだ。しかし、そうなると、結局「憎くあらば」をどう解釈するかと云う問題に戻ってしまう。

思案投げ首していたら、窓の外から、この雨続きで肌寒い一週間ばかり聞こえていなかったクマゼミの鳴き声が「シャン・シャン・シャン」と聞こえてきた。物理/数学も不可、万葉も不可である私を「先生・先生・先生」と嗤わっているようだ。

     大窪詩佛
古松林裏聽蟬鳴
先生先生先生聲
聲聲似把先生笑
莫笑先生老遠行
三十年來舊遊地
白首重來幾先生


富士川英郎 (「江戸後期の詩人たち (1973年)」) によれば、常陸国多賀郡大久保に生まれ、江戸神田お玉ヶ池に詩佛堂を営んだ詩人が紀州に旅をしたときのこの詩 (題はないらしい) の「蟬」は「おそらく熊蟬だろう」と云うことだ。おそらく、彼の耳に、このセミの鳴き声は耳新しかったのだろう。そう言えば、やはり関東に生まれ、いまもその住人である私にとっても、「シャン・シャン・シャン」は、幼年時代聞かなかったような気がする。

詩を詩佛に倣おうとは思わないが、それでも、ここはやはり蝉どもに対して、「嗤ふなかれ小生の老いて遠行することを」と言っておきたい。


駄文を弄しているうちに、日付が変わってしまった。もともと、原稿が書きあぐねたすさびに書き始めた文章だから、それも当然か。「莫笑」。

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Oh, to be in England
Now that April's there,
And whoever wakes in England
See,.....

作者:ブラウニング 出典:"Home thought from Abroad"
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.39

丸谷才一の説明:薄田泣菫の詩「大和にしあらましかば」は、この詩をまねた。しかし、「おお」oh では、あまりしみじみとしない。それで「ああ」としたのだが、これは、「あはれ」 の「あ」に引き摺られたのだろう。

Home thought from abroad
Oh to be in England
Now that April's there,
And whoever wakes in England
Sees some morning, unawares,
That the lowest boughs and the brushwood sheaf
Round the elm-tree bole and in tiny leaf"
While the chaffinch sings on the orchard bough
In England now!
--Robert Browning "Home thought from Abroad"

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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Le vent se lève, il faut tenter de vivre.

作者:ヴァレリー 出典:"Le Cimetière marin"
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.86

Le vent se lève !… il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues ! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !
--"Paul Valéry: Le Cimetière marin" 1920

堀辰雄が、"Le vent se lève, il faut tenter de vivre." を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳したが、「やも」は反語なので、原文の意味に反する。

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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  女をかたらはんとてめのとのもとにつかはしける
かくなんとあまの漁火ほのめかせ磯辺の波の折もよからば

作者:源頼光 出典:[後拾遺和歌集11]607
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.134

口語的な「なん(なむ)」が和歌本体中に使われている例。お姫様を誘惑するために乳母に贈った歌。「かくなん」は乳母のセリフ。
大野晋の解:「お姫様に接近するいい折があったら、『ここです』と、漁火をほのめかせ」

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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居り明かしも今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴き渡らむぞ

作者:大伴家持 出典:[万葉集18]4068/4092
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.385

勧誘の「む」。
丸谷才一による解:「徹夜で今夜は飲みましょう。徹夜で飲んだその翌日にはほととぎすが鳴くことでしょう」
この歌には [二日は立夏の節に応る。このゆゑに、「明けむ朝は鳴かむ」といふ] と云う注記がある。

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をとつひも昨日も今日も見つれども明日さへ見まくほしき君かも

作者:橘文成(たちばなのあやなり) 出典:[万葉集6]1014/1019
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.240

「さへ」の用例。
大野晋による解:「一昨日も逢ったし、昨日も逢ったし、今日も逢ったけれども、さらに加えて明日も逢いたいと思うあなたです」

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をち水[ヲ]イ取り来て

作者:不詳 出典:[万葉集13]3245/3259
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.328

『万葉集』中接頭辞イを有し、文脈から平面上の移行に関する意味を有すると判断できる動詞の8例の一つとして、大野晋が挙げているもの。
天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも (作者不詳 [万葉集13]3245/3259)」

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をしめども春の限りの今日のまた夕暮れにさへなりにけるかな

作者:読人しらず 出典:[後撰和歌集3]141
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.240

「さへ」の用例。大野晋の解説によると、「さへ」は後になると「...までも...だ」の意味になっていった。歌の意味は「今日で春は終わりだと思いつめているのに、そのまた夕暮れにまでもなってしまったことだなあ」。

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