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[タダの人] の辯

休日に自転車で外出することがよくある。ほぼ全て所用だが、それはそれとして、2月後半から3月にかけての好天にサイクリングするのは、気持ちのよいものだ。

「暑からず寒からず」と云うのは、秋でも同じだろうが、心が弾むのは春ならではだ。初春どころか、年の明ける前からでも、梅は咲いていて、「一輪ほどのあたたかさ」を愛でることはできるが、春の日差しの中で、枝のあちらこちらを花弁で身を飾って、しなやかに立つ姿は格別だ。

そして、梅は白梅。

清原元輔の娘は「木の花は濃きも薄きも紅梅」([枕草子]34) と断じ、また、

晴天に紅梅 晩年の仰ぎ癖

と三鬼は詠んでいるが、私は白梅の方が好きだな。理由は分からない。

まぁ、「湯島の白梅」というのもある。「ここは紅梅ではなく白梅だ」と思った人もいたのだろう。もっとも、天神様が紅梅と白梅とで分け隔てがあったかどうかは知らない。[飛梅] は白梅らしいが。。。

「梅が香」に就いて語るのは慎もう。なにしろ、こちらは自転車に乗っている。

そうこうしているうちに、川筋に衝たることがある (「川筋」と言っても、ありようは、コンクリート護岸の「巨大排水渠」である)。そうすると、長短いづれにしろ、暫くの間、流れに沿ってペダルを漕ぐ訣だが、今時分だと、この時、必ず草野心平の詩の切れ端が頭の中を通り過ぎる。

みづはぬるみ。みづはひかり。・・・かわづらを。ああ雲がうごく。

この「・・・」のところは省略ではなくて、すっかり失念していたこと (つまり、忘れていたことを忘れていた) が、今回、改めて調べてみて分かった。もともとは、次のようなものだったのだ。

みづはぬるみ。みづはひかり。あちこちの細長い藻はかすかに揺れる。ゼラチンの紐はそれぞれ黒い瞳を点じ親蛙たちは姿をみせない。流れるともなくみづは流れ。かはづらを。ああ雲がうごく。
--草野心平 [たまごたちのいる風景]

これは、5連からなる詩の第1連・第3連・第5連に現れるリフレインである。[けだるい] と言ってよい伸びやかさのある、と云うか、ノンビリした詩だが、これは同じ詩人の同じく蛙を扱った次の詩の痛切と鋭い対比をなしている。

ぐりまは子供に釣られてたたきつけられて死んだ。
取りのこされたるりだは。
菫の花をとって。
ぐりまの口にさした。

半日もそばにいたので苦しくなって水に這入つた。
くわんらくの声々が腹にしびれる。
泪が噴上のように喉にこたへる。

菫をくはえたまんま。
菫もぐりまも。
カンカン夏の陽にひからびていつた。
--草野心平 [ぐりまの死]

どちらの詩も、中学生のころ学習雑誌で読んだような気がする。それとも、高校生用の参考書だったろうか。どういうものか、中学生の頃、高校生用の教科書・参考書をよく読んでいたのだ。

「浮ついたガキ」と呼びたくなるが、なに、さほどのこともあるまい。何処にでもいる普通の少年だったと改めて思う。

十で平凡。十五で普通。二十歳過ぎてもタダの人。

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