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2017年7月の1件の記事

今更ながら「ファインディング・ニモ」

以前、頭の中をかすめただけの思い付きを書き始めたのだが、「芯」になるものが探し出せず、話がまとまらなかった。しかし、ほかの「ネタ」で話を組み立てるのも気疎いので、そのまま発表する。

"Finding Nemo" (邦題「ファインディング・ニモ」) と云う「ディズニー映画 (製作会社:ピクサー・アニメーション・スタジオ )」があって、私は未見である。ただ、このアニメ映画の日本公開時 (2003年12月)、私の居宅には TV 受像機がまだあって、そこで流れされたキャンペーンの情報の切れ端は、私の記憶の中に残っている。

もっとも、私が承知しているのは、「人間にさらわれた『クマノミの男の子』(名前は『二モ (Nemo)』) を、お父さんクマノミ (名前は「マーリン (Marlin)」) が探しに行く」と云う、極めて概括的なことでしかない。

内容を知らない映画について、いきなり半畳を入れるようで申し訣ないが、この記事を書くに当たって、ザッと調べて集めた情報に従うなら、この映画の設定は、動物学的・生態学的には無理があるような気がする。

クマノミは、所謂「雄性先熟性」、つまり、全ての個体はオスとして誕生する。では、メスはいないのかと言うと、そんなことはなくて、メスも存在する。メスは、オスが性転換したものである。

卵から孵化したクマノミは、途中、捕食されたりして大部分が死滅するとは言え、とにかく、イソギンチャク (例外もあるらしい) に、到達することで、幼生期を離脱する。前後してイソギンチャクに到着したクマノミは、シバシバ10匹足らずの個体からなるグループを作る。、

クマノミのグループは、最大で最強の個体である一匹のメス (つまり、「お母さんクマノミ」) と、2番目に大きい個体であり、「お母さんクマノミ」と共に繁殖に関わるオス (「お父さんクマノミ」)、そして、その他のオス (基本的には別の「父母」と云うか「母父」の間で形成された卵から孵化したのち浮遊してたどり着いた、最大でも数匹の「男の子(繁殖には関係しない)」) から構成されている。つまり、こうした「男の子」たちは、いわば「里子」であるが、むしろ「冷や飯喰い」と読んだ方が良いかも知れない。

「お母さん」が最強者としてグループ内を支配するが、「お父さん」と「冷や飯喰い」たちの間にも、序列があって、上位のものは下位のもの (特に直下のもの) を攻撃する。攻撃に耐えかねて、新参者が逃げだすこともある。この行動には、「冷や飯食い」が更に成長して、性的に成熟するのを防ぐ役割がある可能性がある (「お母さん」と「お父さん」との間では、攻撃はホボ抑制されているらしい)。

本稿のこうした記述は全て、泥縄の受け売りである。生態学や行動学的な記載は、新たな観測報告が追加されていくと重要な変更がありうると云う原則的な難点があるが、それ以前に、私が誤解していることも十分ありうる。だが、そうしたことは気にしないで、読みかじったものを未消化のまま吐き出していくことにする。

ただし、卵の段階では、親、特に「お父さん」は、卵塊を清潔にし、その数百から千数百ある卵が、捕食されないよう護ったり、また、酸素不足にならないよう、孵化までの1週間前後休みなくエラであおいで新鮮な海水を卵塊に供給し続けたり、死んでしまった卵があれば腐敗が他の卵に移らないように、死卵を除去 (食べちゃう) したりなど、献身的な世話をすると云う事実を付け加えておこう。

「お母さん」が欠けると (この映画では、「お母さん」の「コーラル (Coral)」がそうなる)、残ったグループのうち最大のオス である「お父さん」がメスへと性転換する。つまり、類型的には「お母さん」がいなくなると、「お父さん」が「お母さん」になる。そして、新しい「お母さん」は、その他のオスの中の一匹 -- 多分序列にして以前第3位だった「男の子」-- とツガイを組む。

それから、「ファインディング・ニモ/Finding Nemo」に登場するクマノミは、ディズニーの公式見解による「カクレクマノミ (Amphiprion ocellaris)」(つまり、「オケラリス種のクマノミ」) ではなく「ペルクラ種のクマノミ/Amphiprion percula」と云うことがシバシバ指摘されているようだ。

関連画像:

  1. ペルクラ種 Amphiprion percula のクマノミの画像
  2. オケラリス種 Amphiprion ocellaris (カクレクマノミ) の画像
  3. マーリン (ニモの父親) の画像

しかし、こうした諸諸のことはあまりこだわっても仕方がないような気もする。「お父さん」が「お父さん」のままなのが分からないことにしろ、オケラリス種にしろ、ペルクラ種にしろ、そうしたことが「問題」になるなら、クマノミに、人間みたいな歯が生えてるとか、白目があるとは思えないから、「問題」にするなら、そちらの方を先に「問題」にしろよ、と、思ったりする (「魚が、人間のように言語コミュニケーションを行う」ことは兎も角)。。。

。。。とは言うものの、本稿での「クマノミ」の説明は、ペルクラ種を基準にしている。

なお、余談になるが、日本語版のウィキペディアの記事「クマノミ亜科」では、英語風に「オセラリス種」としてあるが、学名では、一つの表記に一つの読み方を固定すべきである一方、学名はラテン語を基礎にすると云う原則があるのだから、ここはラテン語風に「オケラリス種」とすべき。日本は、ギリシア・ローマ文化の本流にはないのだから、むしろ、こうした点は厳格でないと、些細な誤りで重大な失敗を引き起こしかねない。

しかし、まぁ、道聴塗説はこれくらいにしておこう (私が書くものは、全て「道聴塗説」と云う指摘が聞こえてきそうだが、この際不問にしておく)。

で、本題だが、かって、「ファインディング・ニモ/Finding Nemo」と云うタイトルを聞いた時思ったのが、「この『ニモ/Nemo』は、ジュール・ヴェルヌの小説『海底二万マイル』に登場する『ネモ船長』からとったのだろうか?」と云う疑問だった。

自分でツッコんでおくと、「海底二万マイル」の原題はフランス語で "Vingt mille lieues sous les mers" だから、「マイル」は可笑しい。しかし、"lieue" は「3海里=5556m」だから、『海底2万海里』も可笑しい。フランス語の lieue に対応する英語は league --厳密な言い方では "nautical league"-- だから、『海底二万リーグ』で、そうした翻訳名もあった筈だが、ここでは、私が子供のころ覚えて馴染んだとおりにしておく(草稿が出来上がってから、気が付いて調べたら、実は、ここらの背景事情は、日本語版ウィキペディアの記事「海底二万里」で説明されていて、それを引用すれば、それで済んだ話だった。。。今回は、こんな話ばかりだ)。

こだわるなら、"sous les mers" を「海底」とするのだって可笑しいのだ。ここは、「潜水」とか「潜航」とすべきところだろう。「潜航二万リーグ」とか、これはこれで、タイトルとして成立すると思うのだが、どうやら、そうしたタイトルでは翻訳されたことはないようだ (検索でヒットしない)。

で、この疑問には日本語版のウィキペディアの記事「ファインディング・ニモ」の「概要」に

主人公ニモ(Nemo)の名は、ジュール・ベルヌの小説『海底二万里』に登場する主人公ネモ船長(Captain Nemo)から採られている。
と書いてあって、あっさり解決している。

ただし、勿論、それだけでは話は終わらないので、その時私は、「もし、『だとしたら』、面白いネーミングだな」と思ったからだ。何故なら、ネモ船長の "Nemo" は、pseudonym であり、ラテン語 nemo に従って「誰でもない」と云う意味が隠されているからだ (日本語版ウィキペディアの記事「ネモ船長」を参照されたい)。つまり "nemo" は、英語で言えば "no one" や "no body" にあたるので、"finding Nemo" は "finding no one" や "finding nobody" つまり、「誰も探さない」と云う意味になるのだ。

そして (草稿完成どころか) 書きながら調べいて分かったが、"finding Nemo" を "finding no one" や "finding nobody" に変換するのは、簡単な思い付きだと云うことだ。実際、"finding no one" や "finding nobody" で、検索すると、それらしい記事がヒットする (意気阻喪したので、私は、内容をチェックしなかった)。

これを知った時点で、書き続ける意欲が著しく減退したのだが、もう少し書いておくと、"Nemo" は文学史的には、古典ギリシアのホメロス「オデュッセイア/ΟΔΥΣΣΕΙΑ」に遡ることができる。「オデュッセイア」の主人公オデュッセウス (Ὀδυσσεύς) がキュクロープス (Κύκλωψ) に対して名乗った Οὖτις がそれである。この "Οὖτις" も「誰でもない」を意味する。

しかし、他方、「オデュッセウス」は「大航海者」の象徴だから、"finding Nemo" は「大航海者を探して」と云う意味をも持ちうる。だから、"finding Nemo" と云う物語には、「大航海者を探して」と云う隠れた意味があるのではないか、と、妄想したのだったが、どうやらハズレのようだ。

「ファインディング・ニモ」は、「父親」が「失われた息子」を探しに旅に出ると云う話 (そのために「母親」が死んでいることが前提になっている) だから、「航海者」であるのは「父親」であると云う訣だ。「旅」は、宜しくドリー(Dory)と云う「案内者」を得て、叙事詩的としてなら、「地獄巡り」の様相を呈するのが順当なのだろうか、そうでもないようだ。

結局、本稿には「思い付き」と呼ぶに値することが、全くない、と云う結果に終わってしまった。

関連情報へのリンク

  1. Orange clownfish - Wikipedia
  2. Orange Clownfish - Amphiprion percula - Details - Encyclopedia of Life
  3. Outis - Wikipedia

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