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2012年7月の1件の記事

[ところてん] 雑談。或いは、「スドちゃん」としての「古川緑波」

古川緑波 (1903年8月13日--1961年1月16日。 喜劇人 [古川ロッパ] は、文章をモノする時、[古川緑波] と云う筆名を用いた。読みは同じく 「ロッパ」) に、「氷屋ぞめき」と云う短文がある。手近に得られるだろう刊本では [ちくま文庫] の [ロッパの悲食記] (古川緑波。筑摩書房。1995年) で、表題を含めても2ページ余り (pp.87--89)、33行の短さだ (青空文庫にも収録されている [古川緑波 氷屋ぞめき])。

ロッパの子供時代は、[アイスクリーム] を売っているところが少なかったが「中流以上の家庭には、いまの電気洗濯機がある程度に、アイスクリームをつくる機械があって、時に応じて、ガラガラとハンドルを廻して、つくったものである」(「古川緑波」、こと、古川郁郎は、華族の家に生まれ、姻戚の満鉄役員に養子として引き取られて育ったから、それは「中流以上の家庭」と言って良かろう。おそらく、彼の養家には「アイスクリームをつくる機械」があったにちがいない)、と云う話から始まって、「アイスクリームよりも、もうちょっと安い」[ミルクセーキ] は氷屋で製造販売されていたと云う想い出から、東京と大阪での [氷屋] の違いに話題が移る。そして最後は、次のように結ばれている。

 大阪の氷屋に、「すいと」と書いてあった。
「すいと」とは何だろう。すいとんのことでもなさそうだし――と、きいてみたら、ところてんだった。
 ところてんを、酢糸とは、シャレてる。

古川緑波としては [すいと] を、糸にみたてた [ところてんの突き出し] に酢味のタレをかけ廻したイメージであったろう。しかし、この文章から窺えるように、緑波は「すいと」を実際に食べて (最近の言い方に倣えば「実食して」) いない。それどころか「実見」もしなかっただろう。そのせいだろうか、古川緑波はここで微妙な勘違いをしているようだ。

私は、[氷屋ぞめき] の初出情報を持っていないし、また、料理史に就いては全く無知であるから、全くの憶断になってしまうが、緑波が大阪の氷屋の、恐らくは [品書き] で見かけた「すいと」には、(多分黒蜜をかけることによる) 甘い味付けがしてあった筈である。

現在でも、[大阪府民はところてんに黒蜜をかけてたべるんですか?byケンミンSHOW - Yahoo!知恵袋] での

大阪府民はところてんに黒蜜をかけてたべるんですか?byケンミンSHOW
質問日時:2008/5/23 12:22:01ケータイからの投稿.

と云う質問に対して

はい黒蜜です。
横浜に引っ越したのですが、こちらはおかず/つまみ感覚なので、酢醤油ですね。
大阪では基本的におやつ感覚なので甘い黒蜜です。
目的が違うのだから食べ方が違っていても不思議じゃない。
回答日時:2008/5/23 14:32:4

と云う回答がされている。

ただ、古川緑波が見損なったであろう [すいと] に、黒蜜が懸かっていたであろうと云うのは、今のところ、私の憶断である。しかし、それは少なくとも「酢糸」ではないことは、確かである。

なぜなら、例えば、[大阪ことば事典] (牧村史陽編。講談社。1979年) に [スイト] (名詞) の項があって、次のように説明されている

すいとん [水飩] の約。ところてん。心太。今では死語に近い。
--[大阪ことば事典] (牧村史陽編。講談社。1979年) p.347

とあって、[守貞謾稿] 及び [皇都午睡 (みやこのひるね)] (日本語版Wikipedia [西沢一鳳] の項参照) からの引用を付している。

[守貞謾稿] は [近世風俗志] と云うタイトルで岩波文庫に収められている。[大阪ことば事典] における引用は、[守貞謾稿] の [心太売り] の記述の一部のみであるから、ここで岩波文庫版から全体を転記しておこう (図版は省略する)。

心太、ところてんと訓ず。三都とも夏月これを売る。けだし京阪、心太を晒したるを水飩 (すいとん) と号く。心太一箇一文、水飩二文。買ひて後に砂糖をかけこれを食す。江戸、心太値二文。またこれを晒すを寒天と云ひ、値四文。あるひは白糖をかけ、あるひは醤油をかけこれを食す。京阪は醤油を用ひず。またこれを晒し、乾きたるを寒天と云ひ、これを煮るを水飩と云ふ。江戸は乾物・煮物ともに寒天と云ふ。因みに曰く、江戸にては温飩粉を団し、味噌汁をもつて煮たるを水飩と云ふ。けだし二品とも非なり。本は水をもつて粉団を涼(さま)し食ふを水飩と云ふなり。今世冷し白玉と云ふ物水飩に近し。
--岩波文庫 [近世風俗志 (一)] p.280
[皇都午睡] の方は、[大阪ことば事典] での引用を転載しておく。
心太は、今上製の物をスイトンと云ふ。下品なるをトコロテンと云ふ。是、心太(こころぶと)にて、心太なり。水太(すいとん)も同じ心なるべし。
--[皇都午睡]二編上

つまり、既に幕末の時点で ([守貞謾稿] は天保/1830--1843/年間から約30年に亘って書きつがれたと云う。 本人による補正が完了したのは慶應3年/1867年。[皇都午睡] は嘉永3年/1850年上梓とのこと) 「ところてん」には「すいとん」と云う別名があったのだ 。古川緑波の「(東京地方における意味での)すいとんのことでもなさそうだし」は、本人の意外に的を射ていたと云う程ではないにしろ、的をかすめていた訣だが、それはそれとして「すいとん」では (「水飩」・「水太」を当てることの是非は別にして)、その「す」に「酢」を当てるのは難しいだろう。

もっとも、[守貞謾稿] における説明に関わらず、江戸時代、[ところてん] が酢味でも食べられていた。それは 江戸時代中期の1712年頃刊行の [和漢三才図会] における、[ところてん] への説明の一部に「用薑酸沙糖等食之能避暑也 (薑酸・砂糖等を用いてこれを食せば、よく暑を避くるなり)」とあることや、江戸時代前記から中期かけての俳人椎本才麿 (しいがもと さいまろ 1656--1738) の俳句「からし酢や鼻に夏なきところてん」(1678年刊[江戸新道]) からも窺える。

私は、古川緑波が「ところてんを、酢糸とは、シャレてる」と書いているのを見て、微笑せざるを得なかった。これでは、まるで「スドちゃん」、つまり落語「酢豆腐」に登場する「気障で知ったかぶりの若旦那」そのものではないか。しかし、だからと言って、私は古川緑波の無知を嗤うつもりはない。私自身、言ってみれば[コテコテの関東人] であり、[ところてん] とは「酢醤油・和がらし・一本箸」が基本であって (「浅草の辛子の味や心太」万太郎)、子どものころは、それ以外食べ方があるとは想像だにしなかったからだ ([ところてん] を操りなやみつつ「どうして、こんな食べづらい食べ方をするのだろう」と不思議には思ったが、変わった食べ方がそれはそれで面白かったのも事実だ)。

そうした、私は、かなりの昔のことだが、大阪では [ところてん] に黒蜜を書けると云う話を始めて聞いた時、生理的拒否反応を起したほどだった。冷静に考えるなら、麺状ではなく、サイコロ状に切ってあると云う違いだけで、黒蜜がかかっている [蜜豆] を何の躊躇もなく食べる人間が、[ところてん+黒蜜] を食わず嫌いする方が可訝しい。だから、いま改めて、心を落ち着けてつらつらとジックリ虚心坦懐に考えてみるなら、「歯応えのない葛きり」だと思いこんでしまえば食べられないことは無いような気がしないでもない。試してみる気は無いが。。。

やはり憶断になるが、古川緑波にとっても、ところてんと黒蜜の組み合わせは、想像を絶するものだったのではなかろうか。ここで、憶断に妄想を上乗せすると、もし、古川緑波が、件の「氷屋」で実際に「すいと」を食べていたなら、やはり拒否反応を起してしまったのではないかと私には思えるのだ。そして、その後で彼には是非こう言って欲しい。「いや、酢糸はひと口に限る。」

上記のアマゾンへのリンクのうち、[大阪ことば事典] は、講談社文庫版 (1984年刊) 及び新版 (2004年刊) で、私の持っているのは1979年版。私は [講談社文庫版]、[新版] とも未見だが、同内容だと思う。安藤鶴夫の [わが落語鑑賞] も、私が持っている [落語鑑賞] とは別の刊本で、内容は見ていないが、「酢豆腐」は採録されていて、その限りではほぼ同内容だと思う。

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