« アッカーマン関数の計算プログラムの実例を示したウェブページ | トップページ | 891個のファインマン・ダイアグラム »

ドイツ語と英語の初歩。または、私は如何にして心配するのを止めて [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] 補足を書くことになったか

[メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」: nouse] (2011年6月10日[金]) を書いた時、そのうち、ゲーテの研究者ならずとも、どこの誰かが、問題の2011年6月8日付けの [天声人語] の文章に対して、議論の精粗はあるにしても何らかの形で「間違いの指摘」をするだろうと思っていた。

言葉に対しまともなセンスを持っている者が、「天声人語」中の「ゲーテの言葉」(〈行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない〉) を読んだなら、それが警句の態をなしていないことに気づく筈で、そして読者がドイツ語又は英語に若干の知識があって、自分が感じた違和感から、「ゲーテの言葉」の出典を調べたとするなら、容易に、英文で

One never goes so far as when one doesn't know where one is going.
Letter to Karl Fiedrich Zelter [December 3, 1812]
--"Bartlett's Familiar Quotations" (16th ed. 1992) p.350
--Johann Wolfgang von Goethe - Wikiquote

なり、ドイツ語文で

man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht.
An Carl Friedrich Zelter. Weimar d. 3. December 1812
--Goethe, Johann Wolfgang, Briefe, 1812 - Zeno.org
--Johann Wolfgang von Goethe: Maximen und Reflektionen - Allgemeines, Ethisches, Literarisches - X.
--Man geht nie weiter, als wenn man nicht mehr ... - Johann Wolfgang von Goethe | Aphorismen-Archiv

なりに辿りつけただろう。だとするなら、本来の「ゲーテの言葉」と天声人語版の「ゲーテの言葉」とでは、「意味が殆ど真逆」(何故『殆ど』と付けるかと云うと、天声人語版を読んで、私は「何が言いたいのだろう」と思ってしまったからだ。「意味不明」なのである。あれを、何の疑問もなく読み通せる人は、「スゴイ」と思う) であることが解るだろうから、その内の一部であるにしても「つぶやく」ぐらいのことはするだろうと思っていたのだ。

特に、引用句辞典に採録されているような「ゲーテの言葉」が、所謂「全国紙」の一面で、根本的に間違って解釈されたのを放置するのは、ゲーテ研究者としての自分達の存在意義を自ら否定することになりかねないと、少なくとも一部のゲーテ研究者は考えて、それを防ぐ意味で何らかの意見表明をするだろうと、私には思われた。

しかし、ネットで見られる限り、そのようなことは、これまで起こらなかったようだ。

私のリアルタイムの情報は、現在実質的にネットに限られているから (新聞は定期購読していない。また TV は観るが、「リアルタイムな情報源」にはなっていない)、ネットに反映されていない現象を私が捉まえられないだけでいるかもしれない。あるいは、「ゲーテ研究者」なるものが、所謂 digital divided であるかもしれない。更に、あるいは、「ゲーテ研究者」は新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていないのかもしれない。

しかし、「ゲーテ研究者」自体がネット環境とは疎遠な所で活動しているとしても、その周囲には、それなりにネット社会に参入している人々がいるだろうから、その人々を経由して、ゲーテ研究者間に発生した「さざ波」が、全くネットに反映しないことは考えにくい。だから第1のケースと第2のケースに起因して、「ゲーテ研究者」の反応が不明だと云うのは解しがたい。

この第3のケースのうち「新聞のコラムを、又は新聞そのものを、メディアとして重要と考えていない」は、意外と有りうるかもしれないと、チラリと思った。私自身、そのようなことがあるからだ。

私が実際に目にすることが多い新聞コラムが「天声人語」であるために、この話題に繋がった訣だが、総じて新聞のコラム、特に所謂「第一面コラム」は詰まらない。細かい分析をしたことがなかったので、今たまたま思いついた形容をすると、イメージとての「オジサンのスピーチ」の詰まらなさだ (やはり、今気が付いたことは、私は、或る意味「オジサンのスピーチ」を聞かないような「人生の選択」をしてきたから、これは完全な食わず嫌いなのだが)。「知性と感性が爆睡している人間の寝言」とでも言いたいところがあるのだ。

論旨が逸れかねないが、一応書いておくと、「読むに耐える」と言うべき文章が書かれることあることは認めておく。これは、担当者の違いに拠るのかもしれない。

議論が取り散らかりそうだが、もう一つ付け加えておくと、私は [オジサン] をアナガチ否定するものではない。斯く言う私も [オジサン] である。ただし、[オジサン] は [スピーチ] をしてはならないと思っている。[オジサン] と [スピーチ] には相容れないものがあるのだ。そして、「日本の」と修飾語を付けるべきかどうか、わからないが、新聞のコラムでは、[オジサン] が [スピーチ] をしていることが多いのだ (言うまでもなかろうが、この [オジサン] は生物学的・医学的な意味での [ヒト・オス・成体] ではない)。

しかし、思い返すなら、私自身、「天声人語」を読んで、シバシバ「相変わらず詰まらないな」と思っても、別段読まなくなっている訣ではないし、また、その間違いに対して、このようにして反応している。つまり、私も「天声人語」と云う新聞コラムを、私なりに「重要視」している、と言うか、無視していない訣だ。その私が、「ゲーテ研究者」は「新聞のコラム、あるいは、少なくとも『天声人語』を重要視していない」あるいは「無視している」と結論するには、何らかの補強的な証拠が必要だろう。しかし、私はそのようもものは持っていない。

あと、もう一つ、朝日新聞又は「天声人語」担当者と、「ゲーテ研究家」とが「仲良し」で、「身内の恥は隠蔽する」と云うことがあった可能性もあるな。。。などと、まぁ、こう云うのは「ゲスの勘繰り」と呼ぶべきなのでしょうな。

だが、段々心配になってきた。事は、一私企業の一人又は何人かの社員 (朝日新聞が「天声人語」の作成を外注していると云う可能性はないとは言えないかもしれないが、そう云うことを含めて「社員」と呼んでおく) の失敗ではなくて (それならば、理念としては、必要な訂正作業をして、検証し、それが「重大な失敗」であったら、再発防止策を取れば良いだけのことだ)、「ゲーテ研究者」と呼ばれるべき人々の存在意義に関わってしまっているからだ。

我ながら、「大きなお世話」だと思ったが、取り敢えず、fact finding の為に、久しぶりにヤヤ遠方にある大きめの図書館に行ってきた。ゲーテ全集を見て、「ゲーテ研究」の現状の一端を知りたかったのだ。現在、市場に流通している「ゲーテ全集」は [潮出版社] 刊のものだが、やはりそれが開架に並べられていた。問題のカール・フリードリヒ・ツェルター宛の1812年12月3日付けの書簡は第15巻に収められていたことは収められていたのだが、部分訳で目的とする部分の翻訳が省略されていたのは残念だった。

しかし "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." と云う警句は、上記にもあるように、後人の編集になるゲーテの警句集である "Maximen und Reflektionen" (「箴言と省察」) にも収録されているので、その翻訳が入れられいてる第13巻の方を当たってみた。これも部分訳で、しかも順番が編集されていいるようだったが、流し読みしていくと、その最後のページに次のようなものが発見できたのだ。

もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない。
--[ゲーテ全集第13巻] p.414 (新装普及版。東京 2003年 潮出版社)

うーん。これはやはり "man geht nie weiter, als wenn man nicht weiß, wohin man geht." の「翻訳」の積もりでしょうな。しかし、あからさまな誤訳である。

と云う訣で、決心がついた。わざわざ説明するまでもないと思って、していなかったドイツ語に就いての初歩的な注意を試みる。

以下、2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] を単に「天声人語」、その作成者を「天声人語子」、そして、潮出版社刊 [ゲーテ全集第13巻] 中の p.414 で「もはや行き先がわからなくなった道を、それ以上進む人はいない」部分を担当した翻訳者を、「ゲーテ研究家」と呼ぶことにする。「ゲーテ研究家」に就いては全体と個人との均衡を欠くかの如くだが、「天声人語」への反応が見られない状況では、あながち「過度の同一視」とも言えないものがあるのではないか。

ドイツ語において (並行したことが英語でも言えるが)、形容詞又は副詞の比較級を用いて不等比較を表す時は、"als" の前後に「比較対照」が示される。ただし、この「比較対象」(「比較対照」の対象、何だかめんどくさいな ) は単純な名詞とは限らず、節文で表わされる「状況」であることもあり、さらに節文から適宜一部省略して「肝心」な部分だけが残されることも多い。例文を小学館の [独和大辞典第2版] から、原文の「~」を "als" に戻した上で引用すると

Er ist älter <nicht älter> als ich.  彼は私よりも年上だ <ではない>
Er ist viel <weit> älter, als ich gedacht habe.  彼は私が思っていたよりもはるかに年をくっている。
Sie ist mehr shön als klug.  彼女はあまり賢くはないが美人だ。
Sie versteht mich besser als du <dich>.  彼女の方が君よりも私を <彼女は君よりも私の方を> 良く理解してくれる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

そして、「比較対照」は wenn から始まる節文であっても良い。やはり [独和大辞典第2版] から引用すると

Die Welt hat mehr Nutzen, wenn er shreibt, als wenn er liest.  彼には読書するより著作をしてもらった方が世の為になる。
--小学館 [独和大辞典第2版コンパクト版] (2000年) p.90 "als" 2a)

これを踏まえて「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」と云う形の文が、どのような意味になるか説明すると、「動詞」を修飾する「副詞」の意味する「状態の程度」は、如何なる場合にあっても、「wenn 節」が成り立つ状況における「状態の程度」を超えることが決してないと云うことなのである (ちなみに "nie" は、英語の "never" と同様「決して・・・しない」ぐらいを意味する否定詞)。つまり、「wenn 節」が成り立つ状況において、「状態の程度」が最高になると云う、最高級表現の代替表現なのだ。

ここで、「動詞 + nie (否定詞) + 副詞の比較級 + als + wenn 節」の例文をネット上で探してみたが、"geht nie weiter, als wenn ..." では「ゲーテの言葉」ばかりがヒットするので、副詞部分を変更して検索してみると、例えば、Karl Kraus は "Nachts" と云う警句集の "1915" と云う章に

Das Übel gedeiht nie besser, als wenn ein Ideal davorsteht.
--Karl Kraus - Aphorismen: 1915 - Spruche
--Projekt Gutenberg-DE - SPIEGEL ONLINE - Nachrichten - Kultur

と書いている (英語の "well" の対応語で「良く」とか「十分に」とかを意味する"wohl" の比較級 "besser" が用いられて "gedeiht nie besser, als wenn ..." の形になっていることに注意) が、これは

何かの「理想」が実現しようとする時ほど悪がはびこることはない。

と云う意味だろう。

意地悪なようだが、これを「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」してしまうと

理想が実現すると悪は栄えなくなる。

となるが、これでは「知性のひらめき」が消えうせて、「鈍感な官僚/政治家の答弁」風、と言うか、やはり [オジサンのスピーチ] になってしまう。

副詞 "wohl" の比較級には "besser" の他に "wohler" という形のものもある。これは「健康である」とか「気分が良い」と云う意味だが、それを用いた例文としては、エドガー・エーラー (Edgar Oehler) と云うスイスの実業家に就いての記事に

«Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite», sagt Oehler, auf diese Einschätzung seiner Freunde angesprochen. Das einzige Hobby, das er sich gönnt, ist eine Modelleisenbahn: Buco Spur 0.
--Edgar Oehler: Der Tycoon aus dem Rheintal

と云うものがあった。

友人が語ったこの評価 [「トンでもない仕事好き」] に対して、エーラーは「私は仕事をしている時が一番体調が良いんだよ」と言う。自らに許しているただ一つの趣味と言えば鉄道模型、Buco 社の O ゲージ、だけなのだ。

再び、意地悪して、"Ich fühle mich nie wohler, als wenn ich arbeite" を「天声人語」あるいは「ゲーテ研究家」風に「訳」すならば

私は仕事をすると体調が悪くなるんだよ

になる。これは「タイクーン」と呼ばれている実業家にはふさわしくない言葉ではなかろうか。

もっとも、「天声人語子」は、自分が読んだのは英訳であって、ドイツ語の事は関知しないと言うかもしれない。しかし、英語であっても、事情は同じである。上記に示したバートレットの引用句辞典中における「ゲーテの言葉」(「天声人語」英文版には、全く同一の文章が使われてるいる) は、英訳であることを離れて英文として見ても正しく成立してるからだ。それは、やはり「人は何処に行くか分からない時ほど遠く迄行くことはない」ぐらいの意味になって「行き先を知らずして、遠くまで行けるものではない」にはならない。

実際、英語においても、上述のドイツ語に対する説明と並行的内容のことが 「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than + when 節」に対して言えて (ドイツ語と英語では、否定詞と動詞の順序が逆転する。また、ドイツ語の "als" は文脈によって、英語の "as" に対応することもあれば "than" に対応することもある。そして、この場合は、"than" が対応する)、それは「副詞の最高級」相当の意味を形成する。ただし、問題のゲーテの言葉の英訳では、「否定詞 + 動詞 + 副詞の比較級 + than」から、等価な「否定詞 + 動詞 + so + 副詞の原形 + as」への置き換え用いれているだけなのだ。

だから「ゲーテの言葉」には、「置き換え」のない

One never goes further than when they do not know where they are going.
--Famous Johann Wolfgang Von Goethe Quotations - Page 4

と云う英訳も存在する。

英語でも、幾つか例文を拾っておく。まず、バートレットの引用句辞典に収められた「ゲーテの言葉」、つまり英文版「天声人語」における「ゲーテの言葉」に合わせて「never + 動詞 + so + 副詞の原形 + as when」の形のもの。どうやら、会社の経営者・従業員への「教訓」らしい。

A man never likes you so well as when he leaves your company liking himself. (Source Unknown)
--Dictionary of Quotes
ある人があなたのことを好ましいと思っている最高の形態とは、あなたの会社が、その人を好ましいと考えていられるようにしてくれていることである。

パスカルの「パンセ」の一節 (Jamais on ne fait le mal si pleinement et si gaiement que quand on le fait par conscience. ) の英訳

Men never do evil so completely and cheerfully as when they do it conscientiously.
Blaise Pascal, Pensées (# 894 or 895)
--Evil - Wikiquote
人は良心に従っている時ほど、悪を徹底的且つ喜びを以って行うことはない。

次に「never + 動詞 + 副詞の比較級 + than whenn」の形のもの

まず、調理器の紹介だか宣伝の記事の一部

Food never tastes better than when it's cooked long and slowly, so we know you'll love this Slow Cooker.
--Rosemary Conley Slow Cooker | Kitchen Essentials | Rosemary Conley TV
食べ物は、長い時間をかけてゆっくりと調理する時が一番おいしくなりますので、この「スロー・クッカー」のことが気に入って頂けるに違いありません。

スキーを主題にしたスポーツ医学に就いてのウェブページで、

If you are one of the experienced millions or if you plan for that first skiing experience, you may never feel better than when you're experiencing the excitement of a perfect downhill run. Then again, you may never feel worse than when you're laid up with torn knee ligaments or some other mishap that the slopes frequently offer up.
--Caring For Athletes - Fit For You - Ski Fitness
あなたが、経験を積んだ何百万人かのスキーヤーの一人であるにしろ、初めてのスキーを計画している人であるにしろ、ダウンヒルを完全に滑りきった興奮を体験する時ほど素晴らしい気分になることはないでしょう。その一方で、滑降中にシバシバ発生する、膝靱帯の断裂等の事故で寝込んでいる時ほど落ち込んだ気分になることもないだろうと思います。

なんで、こんな初歩的なことをクドクド書いているのかと云うと、どの程度までレベルを下げてよいのか、見当がつかないからで、実は、自分でもさっきからウンザリしている。このへんで止めておくことにしよう。

|
|

« アッカーマン関数の計算プログラムの実例を示したウェブページ | トップページ | 891個のファインマン・ダイアグラム »

ドイツ語/Deutsch」カテゴリの記事

フランス語/français」カテゴリの記事

大きなお世話」カテゴリの記事

翻訳」カテゴリの記事

英語/English」カテゴリの記事

読み物・書き物・刷り物」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/40172/51993663

この記事へのトラックバック一覧です: ドイツ語と英語の初歩。または、私は如何にして心配するのを止めて [メモ:2011年6月8日 (水曜) 朝日新聞朝刊 [天声人語] 中の「ゲーテの言葉」] 補足を書くことになったか:

« アッカーマン関数の計算プログラムの実例を示したウェブページ | トップページ | 891個のファインマン・ダイアグラム »