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メモ:ジョン・フォン・ノイマンの所謂 "Axiom of limitation of size"

最近はしばらく集合論や数理論理学のお勉強をしてきた。だいたい峠を越しつつあるような感じだ。もっとも、これまでも何度も峠を越しそうだと思った後で、大きな岩が上から転がり落ちてきて、麓へともんどり打つハメになってきているので、油断はできないけれども。

そんな「お勉強」の最中に「ナンダカナァ」と思ったことがあったので、書いておく。

それは、フォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル公理系集合論に就いて書かれた英文版ウィキペディアの記事 "Von Neumann-Bernays-Godel set theory (last modified on 28 January 2011 at 18:05)" を読んだことがキッカケだった。

記事の中に "Limitation of Size" (「規模制限」と訳しておく) と云う公理への言及があったのだ。初耳でしたね。集合論の公理の中に知らないものがあるなんて、世界中の人に嗤われても仕方がないが (私自身も笑うしかない)、それはともかく、そこには

For any class C , a set x such that x=C exists if and only if there is no bijection between C and the class V of all sets.
--Von Neumann-Bernays-Godel set theory (last modified on 28 January 2011 at 18:05)

任意の「類」C に対し、 x=C を満たす集合 x が存在する為の必要十分条件は、C と、全ての集合が作る「類」との間に全単射が存在しないことである。

と書いてあった。

ちなみに、私は集合論における「類」と云う用語に馴染めない。原語の "class" も感心しない (だから「クラス」と云う用語も使いたくない)。どちらにしろ不用意に一般的な言葉を採用してしまった感じで、使用する際にミスリードを避けることを念頭に置いて文章を書かねばならないからだ。しかし、ここで、そうした話を展開しても始まらないので、取り敢えずカギカッコで括って「類」と云う形で用いることにする。

これは面白いし、魅力的だ (勿論、「全単射」は「類」間の写像としての「全単射」である。以下、同様)。今、『全ての集合が作る「類」』を「全集合系」(これが「真の類」であるのは良く知られている) と呼んでおくと、任意の「類」は全集合系の「部分類」となるから、当然標準的な包含単射が存在する。だから、「類」が集合であるか「真の類」であるかの区別に、全集合系との全単射が存在することを用いるのは、集合において、無限集合と有限集合の区別に自分自身と真の部分集合との全単射の存在の有無を用いるのとパラレルな構造になっていて、素直だし、「有りそうなこと」だ。

これはこれでよかった。

しかし、この "Limitation of Size" と云う公理名には、別の英文版ウィキペディア記事へのリンクが付いていたのだな。それが "Axiom of limitation of size" (last modified on 26 April 2010 at 13:28) と云う短いもので、こんなことが書かれている。

In class theories, the axiom of limitation of size says that for any class C, C is a proper class (a class which is not a set (an element of other classes)) if and only if V (the class of all sets) can be mapped one-to-one into C.

 \begin{eqnarray*}
 &&\forall{C} [\lnot \exists{W}{(C \in W)} \iff \exists{F} (\forall{x}[\exists{W} (x\in{W}) \Rightarrow \exists{s} (s\in{C} \wedge \langle x, s \rangle \in{F})] \wedge\\
 &&\hspace{5mm}\forall{x} \forall{y} \forall{s} [(\langle x, s \rangle \in{F} \wedge \langle y, s \rangle \in{F}) \Rightarrow x = y])]
 \end{eqnarray*}

This axiom is due to John von Neumann. It implies the axiom schema of specification, axiom schema of replacement, and axiom of global choice at one stroke. The axiom of limitation of size implies the axiom of global choice because the class of ordinals is not a set, so there is an injection from the universe to the ordinals. Thus the universe of sets is well-ordered.

Although together the axiom schema of replacement and the axiom of global choice (with the other axioms of Morse-Kelley set theory) imply this axiom, they are each at least as complicated as the axiom of limitation of size and no more intuitive (once you understand this axiom). So using this axiom instead of them is a net improvement.
--Wikipedia "Axiom of limitation of size" (last modified on 26 April 2010 at 13:28)

「類」の理論において「規模制限の公理」とは、任意の「類」C が「真の類」(集合ではない「類」、つまり他の「類」の要素とはならない「類」) となるための必要十分条件は、全ての集合からなる「類」(訳註:この記事では「全集合系」と呼んでいるので、以下そのように訳す) Vから C への1対1写像が存在することである。

 \begin{eqnarray*}
 &&\forall{C} [\lnot \exists{W}{(C \in W)} \iff \exists{F} (\forall{x}[\exists{W} (x\in{W}) \Rightarrow \exists{s} (s\in{C} \wedge \langle x, s \rangle \in{F})] \wedge\\
 &&\hspace{5mm}\forall{x} \forall{y} \forall{s} [(\langle x, s \rangle \in{F} \wedge \langle y, s \rangle \in{F}) \Rightarrow x = y])]
 \end{eqnarray*}

この公理はジョン・フォン・ノイマンが提案したものであり、それには「特殊化の一般公理」、「置換の一般公理」、「大域選択公理」が全て含意されている。規模制限の公理が大域選択公理を含んでいるのは、全ての順序数からなる「類」」(訳註:これを「全順序数系」と呼ぶことにする) は集合ではないので、全集合系から全順序数系内への単射が存在し、それ故、全集合系は整列可能になるからである。

置換の一般公理と大域選択公理と (更に、モース・ケリーの集合論の他の公理も) を組み合わせるなら、この規模制限の公理は導出されるとは言え、こうした公理は、一つ一つが、少なくとも規模制限の公理と同程度には複雑であって、(規模制限の定理を理解できているとしてでの話であるが) ヨリ直感に訴えると云うようなものではない。このため、こうした公理の代わりに、規模制限の公理を用いることは、実質的な改良になっている。

[訳註:]

  1. "axiom schema of specification" は、通常「分出公理」又は「分出公理型」と訳されているようだ。しかし「分出公理」では「選択公理」と紛らわしいので採用しない。そこで "specification" は「特殊化」と訳しておく。また "axiom schema" は「公理型」と訳されるようだが、これも「公理系」と音が同じなのを嫌つて「一般公理」にしておく。或いは、数学的には微妙だが「特殊化の一般形式の公理」とでもした方がよいかもしれない。
  2. 「真の類」と「集合」とを区別する為の判定条件が必要であることはフォン・ノイマン以前から認識されていた。フォン・ノイマンは、「写像」を用いて、その判定条件を定式化した訣だ。

最初、この文章を読んだ時、論理式の所で混乱してしまった。直前に書いてあった "the axiom of limitation of size says that for any class C, C is a proper class ... if and only if V (the class of all sets) can be mapped one-to-one into C" (「規模制限の公理」とは、任意の「類」C が「真の類」・・・となるための必要十分条件は、全集合系 Vから C への1対1写像が存在することである。」) と整合しないのだ。

ここで「Vから C への1対1写像」とは、全集合系 Vから「類」C への「類」間写像としての単射の意味である。上に述べたように C から Vへの標準的包含写像は常に存在するから、Vから C への単射が存在するなら、類においてもベルンシュタインの定理が成立するので (ここでベルンシュタインの定理の証明には選択公理は必須ではないことに注意)、VC との間には全単射が存在する。従って 英文版ウィキペディア記事 "Axiom of limitation of size" での「規模制限の公理」の定式は、英文版ウィキペディア記事 "Von Neumann-Bernays-Godel set theory" での規模制限の公理の定式と一致するから、それはそれでよい。

しかし、一目で解るように、論理式中の Fは「全集合系 Vから C への1対1写像」を含意しない。正確に言えば、Fは「1対1」ではあるけれども、写像にはなっていないのだ。もう少し細かく言うなら、英文版ウィキペディアの文脈での始域(関係記号の左)と終域(関係記号の右)の捉え方に即するなら、Fが「1対1関係である」ためには「左一意的」であることが必要十分であり、更に、Fが写像であるためには「左全域的・且つ・右一意的」であることが必要十分である。しかし、この論理式が意味しているのは Fが「左全域的・且つ・左一意的」であって、ウィキペディア記事の文脈に即そうとすると、Fは「写像」でさえないことになる。

つい「一目で解るように」と書いてしまったが、草稿を読み直して、これでは不親切に過ぎると反省した。少し補足する (論理式が解かりやすくなるように括弧を補足しておく)。

上記の論理式を初めから読んで行くなら、C は着目している「類」であって、この C が「真の類」であるかどうかを判定することが問題になる。そこで \forall{C} で全体を括っている訣だ。

[\ ] のなかの最初にある \Longleftrightarrow の左側にある) \neg(\exists{W})(C\in{W}) は、C を要素とする如何なる「類」も存在しないことを意味する。『何らかの「類」の要素になっている「類」を「集合」と呼ぶ』と云うのがフォン・ノイマン=ベルナイス=ゲーデル集合論 (及び、その派生形であるモース・ケリー集合論) での定義であるから、これは C が集合ではない「類」、つまり「真の類」であることを定義の側から表現したものである。

\Longleftrightarrow の右側は「規模制限」を判定する基準の内容を述べている。そのために関係性を規定する Fと云う「類」の存在を \exists{F} で要請して、その後の括弧内に Fが満たすべき2つの要件が記述されている。

そのうちの第1の要件は
(\forall{x})[(\exists{W})(x\in{W}) \Rightarrow (\exists{s})((s\in{C})\wedge(\langle{x,s}\rangle\in{F}))]
である。これは任意の「類」xに就いて、 (\exists{W})(x\in{W}) が成り立っているなら (\exists{s})((s\in{C})\wedge(\langle{x,s}\rangle\in{F})) が成り立つと云う意味だ。つまり (\exists{W})(x\in{W}) とは「類」xを要素とする「類」W が存在することを前提条件として要求している訣だ。しかし、それは「類」xが「真の類」ではなく「集合」であることだから、この第1の要件の内容は、任意の集合 xに対して \Rightarrow の右側が成り立つと云うことであることが解る。

要するに、「第1の要件」とは、「任意の集合 xに対して (\exists{s})((s\in{C})\wedge(\langle{x,s}\rangle\in{F})) が成り立つと云うことだが、これは、任意の集合 xに対して \langle{x,s}\rangleF の要素となるような C の要素 s が存在する」と云うことである。これは、 全集合系 Vと「類」C との間の関係 Fが「左全域的」であることを意味する。

第2の要件
(\forall{x})(\forall{y})(\forall{s})[((\langle{x,s}\rangle\in{F})\wedge(\langle{y,s}\rangle\in{F})) \Rightarrow (x=y)]
では、「類」を扱う集合論では、一般の「類」を表わす変数には大文字を用い、集合に限った変数を扱う場合には小文字を使うと云う慣習に基づいた記法が採用されていることに注意するならば、共通の集合 (つまり Vの要素) s に対して関係 F を満たす集合 (Vの要素) が2つあるように見える場合、それら x, y は実は同じものであることを意味する。これは関係 Fが左一意的であると云うことである。ただし、ここには問題点がある。それは F の終域が C に含まれること、つまり、変数 sC の要素であるべきことを指定し忘れていることだ。

纏めるならば、論理式全体としては、関係 Fは「左全域的・且つ・左一意的」であることを示し (しかも終域が C 内に限定されておらず)、従って「左全域的・且つ・右一意的」であるべき Vから C への写像とはならない。「ナンダカナァ」と呟きたくもなると云うものだ。

終域の問題は限定を補足すればよいし、Fも所謂「多価関数」・「多値写像」にはなっていると云う辯駁もあり得るかもしれないが、しかし、圏論での射が対象になっているのなら兎も角も、この局面で議論に「多価関数」・「多値写像」を含めるのは可訝しい。伝統的な数理論理学に即した議論をしているからだ。

ここらへんで、「結局フォン・ノイマンはどう言っておるのか」と、私が知りたくなったのは当然だろう。。。。と云う訣で、フォン・ノイマンの原論文 (John von Neumann "Eine Axiomatisierung der Mengenlehre" in Journal für die reine und angewandte Mathematik 第154巻 (1925年), pp.219-240) を覗いてみた (Gottinger Digitalisierungszentrum: GDZ からダウンロード可能)。

拾い読みしてみたが、内容がサッパリ分からない。だからと言って、どうやら内容の手ごわいらしいドイツ語の論文を最初から読んでいくのは正直言ってシンドイ。

困ってしまって、思い出したのは、英訳文が "From Frege to Godel: A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931 (Source Books in History of Sciences)" に収められているかもしれないと云うことだった。それなら、ふた昔も前に買ったのが、部屋の何処かに埋もれている筈だ。。。。と云う訣で、探しましたよ。そうしたら拍子抜けするほど簡単に見つかった (表題から窺える通り、ゲーデルの「不完全性定理」の論文の英訳も収録されているのだが、この前、ゲーデルに就いて [メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] 中の誤植その他] (2010年12月13日[月]) とか [メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] のある一節の微妙訳] (2010年12月25日[土]) とか書いた時は、面倒臭がって探さなかったのだ)。

英訳だと、通読するのに苦労するほどの分量ではないから、最初から読んでいったのだが、当初は面食らった。集合論の記法が、現在通常に見かけるものと全く異なっているのだ。それに、読み始めて気が付いたのは、フォン・ノイマンがこの論文の前に書いた "Zur Einfuhrung der transfiniten Zahlen" (英訳 "On the introduction of transfinite numbers" がやはり "From Frege to Godel: A Source Book in Mathematical Logic" に収められている) の知識も必要だった。まぁ、こちらの方は、整列集合と順序数に就いての基本を述べたもので必要な情報自体は、ザッと読むだけで済んだけれども (ついでに書いておくと、取っ付きの良さ・悪さの違いはあるものの、どちらの論文も大変面白かった。「『あざやかな問題解決』の見本」のようなところがある)。

なお、この記事の草稿をかなり書き進んだ段階で、"Zur Einfuhrung der transfiniten Zahlen" の内容がウェブ上で公開されていることに気が付いた。内容はチェックしていないが、一応リンクを貼っておく (Zur Einfuhrung der transfiniten Zahlen)。

その結果解ったのは、フォン・ノイマンの記法は独特なので、「集合」と「類」ではなく、「引数」と「関数」とで集合論を構築していて (それは、公理的集合論の教科書で読み知っていた話だったが、私の凡庸な予想を超えて徹底していた)、その関数と引数を、LISP を連想させる括弧 (ただし角括弧) [\ ] を用いた形になっていたことだった。そして、「関数」は「類」に該当するが、「引数」は、微妙に「集合」概念からズレる。「集合」に該当するのは、「取り敢えず」は、「関数」にもなり「引数」にもなる "Ding" なのだ (実は、丸括弧 (\ ) も用いられる。ただし、こちらは、「引数」の順序対を表現するためのものである)。

"Ding" は、対応英語は "thing" のドイツ語で、この論文の文脈だと、「対象」とでも訳すしかないので、用語「対象」を使って説明すると、フォン・ノイマンは引数となりうる対象を「第 I 種」、関数となりうる対象を「第 II 種」、引数でも関数となりうる対象を「第 I-II 種」と呼んでいる。公理上の表現には「関数」又は「引数」と云う言葉は出てこない。そして、記号 [a\ x] があった時 a は第 II 種対象でなければならず、xは第 I 種対象でなければならない。そして、 [a\ x] そのものは第 I 種対象になることが公理になっている (これに対して (a\ x) と云う記号は a, x 共に第 I 種対象の時にのみ意味を持ち、 (a\ x) 自身も第 I 種対象になる)。これは公理的集合論を「関数」と「引数」と云う概念で構成する際には当然の処理だろうが、「拾い読み」には向かない書き方ではあるだろう。

そして、第 I 種対象であり第 II 種対象でもある (それが「第 I-II 対象」と呼ばれる) は、2つだけの「関数値」を有する第 II 種対象として特徴づけられる。この第 I-II 対象の働きを表現する為に、特別な第 I 種対象である A の存在が公理になっている (同時に A と異なる第 I 種対象 B の存在も要求されている)。実は、 a を第 I-II 対象とし xを第 I 種対象とすると、 [a\ x] は論理式 x\in{a} に対応する。そして A は謂わば「エラーコード」なので、 x\notin{a} の時、そしてその時にのみ [a\ x]=A となるのだ。逆に言えば [a\ x]\neq{A}x\in{a} を意味する。

実は、フォン・ノイマンは論文の最後のほうになって、そこまで彼が検討してきた公理系が、広範過ぎて規範性をもつことができないとして、「全ての第 I 種対象は第 II 種対象である」と云う公理 VI.1 を付け加えている (p.238 の下から6行目)。

これだけの準備の後なら、次の公理{IV-2}の含意は明確であろう。

IV 2. Ein II. Ding a , ist dann und nur dann kein I.II. Ding, wenn es ein II. Ding b gibt, so daß zu jedem I. Dinge x ein y mit [a\ y\neq{A}, [b\ y]=x existiert.
--p.225, ll.7-5 from the bottom
[訳註:] 原文の [a\ y\neq{A}[a\ y]\neq{A} の誤植と思われるので、訳文ではそのように訂正してある。

IV 2. ある第 II 種対象 a が第 I-II 対象でないための必要十分条件は、任意の第 I 種対象 xに対して、 [a\ y]\neq{A} である yで以って [b\ y]=x を満たすようにする第 II 種対象 b が存在することである。

つまり、これが所謂「規模制限の公理」なのである。これを、用語「類」と「集合」を使ってパラフレーズするなら:

「類」a が集合ではない、つまり「真の類」であるための必要十分条件は、 a から全集合系への写像 b で、任意の集合 xに対して、 a の要素である集合 yを対応させる (x=b(y)) ようなものが存在すると云うこと、つまり a から全集合系への全射 (b) が存在することである。

これを論理式として表わすなら、こうなる (Vで全集合系を表わす):

\begin{eqnarray*}
 &&\forall{C} \Big[\big[\neg(\exists{W}){(C\in{W})}\big] \Longleftrightarrow \big[(\exists{F})(F\subset(C\times{V}))\wedge\\
&&\big[[(\forall{s\in{C}})(\exists{x\in{V}})((s,x)\in{F})]\wedge\\
&&[(\forall{s\in{C}})(\forall{x\in{V}})(\forall{y\in{V}})[((s,x)\in{F})\wedge((s,y)\in{F}))\Rightarrow(x = y)]]\wedge\\
&&[(\forall{x\in{V}})(\exists{s}\in{C})((s,x)\in{F}))]\big]\Big]
\end{eqnarray*}

ちなみに、「真の類」から全集合系への全射についてはフォン・ノイマンも明言している (彼の流儀に従えば「真の類」と云う言い方ではなく、第 II 種対象 a に就いて [a\ x]\neq{A} となることが「多すぎる」と云う言い方になっている)。

Dabei präzisieren wir dieses ,,zu oft'' folgendenmaßen:
  Diese ,,Funktion'' a wird dann und nur dann nicht ,,Argument'' sein, wenn die Gesamtheit der Argumente x, für die [a\ x]\neq{A} ist, auf die Gesamtheit aller Argumente überhaupt abgebildet werden kann. (Die Abbildung muß aber durch eine unserer ,,Funktionen'' erfolgen, d.h. sie muß die Form y=[b\ y] haben. Eindeutig muß sie sein, eindeutig-unkehrbar zu sein braucht sie nicht.) (Siehe Axiom IV.2.)
--p.223 ll.7-13
[訳註:] 原文の y=[b\ y]y=[b\ x] の誤植と思われるので、訳文では訂正しておいた。

ここで、「多すぎる」の意味を以下のように明確にしておく:
  この「関数」a が「引数」にならないための必要十分条件は、 [a\ x]\neq{A} となる引数 xの全体から全ての引数の全体上への写像が存在しないことである。(ただし、この写像は、我々が言うところの「関数」によって実現されねばならない。つまり、それは y=[b\ x] と云う形をしている必要がある。それは一価でなければならないが、単射である必要はない。) (公理 IV.2 参照)

つまり、フォン・ノイマンの当初の定式では、「規模制限の公理」は、「類」C が「真の類」であるための必要十分条件として C から全集合系 Vへの全射の存在を要求するものだったのだ。勿論、「全射版」であっても「規模制限の公理」は有効に機能する。

実際、例えば「全射版」から大域選択公理を導くには、C を全順序数系として、C から Vへの全射を$f$とする時、任意の集合 s に対して$f(x)=s$となる順序数 x が少なくとも1つ存在する。そうした順序数のうち最小のもの$m(s)$の選択は、C が全順序数系であることから選択公理を用いずに可能である。そこで、 s に順序数$m(s)$を対応させるなら、全ての集合に一意に順序数を対応させることができ、従って、順序集合として全順序数系の部分順序集合 (これは整列集合になる) と順序同型となるから、全集合系は整列可能である。従って、整列可能定理と選択公理の等価性により、全集合系での選択公理、つまり大域的選択公理が導かれるのである。

以上をまとめると、英文版ウィキペディアの記載の不備に関らず、それを補正するなら「単射版」も「規模制限の公理」としては有効であって、「類」C が「真の類」であるための必要十分条件として、次の3つは等価である:

  1. C から Vへの全射が存在する。
  2. Vから C への単射が存在する。
  3. CVとの間には全単射が存在する。

そして「規模制限の公理」から大域選択公理を導くだけなら、上記の3つの定式に優劣はない。

集合での「濃度」又は「基数」は、集合間の単射を用いて、集合間の順序関係も規定することで定義するのが一般的であるから、もし「単射版」の「規模制限の公理」を用いるなら、「濃度」(「基数」) の定義を「類」に迄拡張するなら、定義から直接『「類」が「真の類」である為の必要十分条件は、その「類」の濃度が、全集合系の濃度と等しいことである』が導き出せる。

しかし、それでも、私は「全射版」の方が、公理として優れていると思う。何故なら、「全射版」によるならば、「規模制限の公理」から「置換の一般公理」(したがって、「特殊化の一般公理」) を導く場合には、選択公理を用いなくてもすむと云う利点が存在するからである (勿論、「全射版」であると否とに関らず、規模制限の公理から大域選択公理をが言えるので、まず、大域選択公理を導いてから、「置換の一般公理」や「特殊化の一般公理」を導けば良いと云う議論も可能であろうが、公理の導出からは「依存関係」はできる限り排除した方が良いと私は思う)。

なお、圏論では、この「規模制限の公理」は「置換の公理」として言及されることがある、例えば "Abstract and Concrete Categories: The Joy of Cats" の第15ページでは、集合論における "Axiom of Replacement" として

there is no surjection from a set to a proper class.
集合から「真の類」への全射は存在しない。
--J. Adámek et al. "Abstract and Concrete Categories: The Joy of Cats" p.15, l.9

が掲げられている。

なお、フォン・ノイマンの論文 "Eine Axiomatisierung der Mengenlehre" 中、上記のほかにも、次の部分は誤植と思われる:

  1. p.230 の下から15行めの (x,y)(x,y)_{\Sigma^{\prime}} の誤り。
  2. p.232 の11行めの "alle II. Dinge" は "alle I. Dinge" の誤り。

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