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2010年12月の4件の記事

ゲーデルの所謂「不完全性定理論文」中の「関数・関係・性質」記号の「意味」

クルト・ゲーデル (Kurt Gödel) の、所謂「不完全性定理論文」(正しくは "Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I" 「プリンキピア・マテマティカの体系並びに関連する体系での形式的に決定不能な命題について I」--Monatshefte für Mathematik und Physik 38: 173-98. 1931--) では議論の途上で46個の、所謂「数論的関数」(1個以上の順序を込めた自然数の組み合わせを1個の自然数に対応させる関数) 又は「数論的関係・性質」(数論的関数で表現される関係・性質) を定めている (岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] では第31ページから第40ページ)。そして46個のうち45個目までは、現在「原始再帰的」と呼ばれているものである (ただし、ゲーデル自身は「再帰的/rekursive」と呼んでいる)。

勿論、それぞれの関数・関係・性質には記号が付されているのだが、その多くはドイツ語由来である為、原論文をそのまま読まない限り (つまり、岩波文庫版で読むような場合とかは) 記号に今ひとつ訴求力が無い。

[メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] のある一節の微妙訳] で書いたように、これはイングリッシュ・スピーカーでも同様らしく、ドーヴァー版の英訳本 ("On Formally Undecidable Propositions of Principia Mathematica and Related Systems") には、主要なドイツ語由来の記号に就いて、元になったドイツ語とその英訳が付されている。

これに倣って、原論文の記号の由来であると思われるドイツ語 (不明なものもある) とその意味。更に、簡単なその内容をまとめてみた。

当初、TeX の作表の練習のつもりで、表の形で表現したものを完成させ、更にそれを画像化してブログのページに貼り付けることを予定していたのだが、どうしても「見栄え」のする表が出来なかったので、作表は諦めて、普通のリスト形式にまとめた。これでは画像化しても余り意味がないと思ったので、いっその事 pdf ファイルにしてリンクを張ることにした。それが、次のものである。

[所謂「ゲーデル不完全性定理論文」中の関数・関係・性質の名称の由来と内容の簡単な説明 (pdf)]
(補足: 2011-01-03 [月] 第13項及び第44項-第46項を訂正した。)

今でも見直す度にミスが見つかるので、他人様に見せるのは気が引けるが、年も押し詰まったので、"as it is" として公開することにした。後悔もしそうではある。

--2011-01-02 [日] 10:49
書き忘れていたので補足する。岩波文庫版 p.37 では第31項の説明中で「上で定義された【Subst】」と訳している部分は、原文が、オリジナル版では "der oben definierte Begriff Subst "、オックスフォード版では "der oben definierte Begriff Subst" なのだが問題が2つあって:

  1. "der oben definierte" は「上で定義された」になっている。この "oben" を「上で」としたのは、翻訳に不慣れだったと言わざるを得ない。翻訳技法上、言及されている部分が1ページ分ぐらい前以内にあるのが明白でない限り、このような場合は「前記の」と訳しておいた方が「地雷を踏む」可能性が少ない。そして実際、この場合も、言及されているのは10ページ以上前の p.23 (本文末尾3行) に記載されている「メタ数学的記号」なのである。
  2. Subst ("Subst") はゲーデル数化される前の述語論理上の概念であるから、訳文上【 】でくくるのは間違い。訳者は、ここだけ【と 】との間に「日本語 (つまり、ゲーデル数化された概念)」が入らず、【Subst】になってしまうことに違和感を感じなかったのだろうか? なお、これはオックスフォード版でもスモールキャピタル体になっていて、やはり間違い (欧文脈だと「違和感」を感じづらいのは確かだが、"Sb(xvy) is the notion SUBST a(vb) defined above." で「Sb(xvy) と云うゲーデル数化された概念は、実は以前言及した SUBST a(vb) と云うゲーデル数化された概念である」と云う含意になって、新たに記号を定義していくと云う話の流れにそぐわないことに気づくべきだった)。ゲーデルがオリジナル論文で、イタリックにしてあるのは、単に引用部分を強調しただけだろう。

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謡曲 [熊野] の一節

今日昼過ぎ (2010/12/30 12:57)、キーフレーズ [作者 いかんせん都の春も惜しければなれし東の花や散るらん] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

お節介ながら申し上げると、「いかにせむ都の春も惜しけれどなれし東の花や散るらむ」あたりで検索しなおされた方が良いのではないか。特に「惜しければ」では歌意が通じがたい。ここは「惜しけれど」でなければならないところだ。

勿論、謡曲 「熊野 (ゆや)」の一節であることは言うまでもない。

--2011-01-03 [月]
前回のポストは取り急ぎ書いたので、不十分だった。若干補足する。

謡曲 [熊野 (ゆや)] では、熊野はシテであって、遠江の國池田の宿の長の遊女と云うことになっている。それをワキである平宗盛が都 (みやこ) に引き連れて行って留めている。熊野は老母が病身であるので帰郷したいのだが、宗盛は熊野に都の桜花を共に見ることを求めて、許さない。そこに、熊野の母親の病が重篤となったとの報せが届く、と云うのが問題の和歌の背景になっている。

シテ: 春雨の、降るは涙か、降るは涙か桜花。散るを惜しまぬ人やある。
ワキ: 由ありげなる言葉の種取り上げて見れば、いかんせん、都の春も惜しけれど
シテ: 馴れし東の花や散るらん
ワキ: げに道理なりあはれなり、はやはや暇取らするぞ東に下り候へ
シテ: なにおん暇と候ふや
ワキ: なかなかのこと、疾く疾く下り給ふべし
シテ: あら尊やうれしやな、これ観音のご利生なり
--岩波書店 [日本古典文学大系 謡曲集 下] p.381
[岩波新日本古典文学大系 謡曲百番] も部屋の何処かに有る筈なのだが、出てこないので、こちらから引用した。

つまり所謂 [割科白] なのである。

これに対し、謡曲 [熊野] のもとになった平家物語では、一ノ谷の合戦で捕虜となった平重衡 (たいら の しげひら) が、源頼朝 (みなもと の よりとも) の要請に従う形で鎌倉へと梶原景時 (かじわら かげとき) により護送される途中、池田の宿に留まった時に、そこに侍った「宿の長者、ゆやがむすめ、侍従」が重衡に歌を献上し、彼がそれに応答したと云う箇所 ([平家物語 巻第十 海道下り]) があることは、このブログの [故郷も恋ひしくもなし旅の空みやこもつひのすみかならねば] (2008年3月18日[火]) でも引用している通りだが、その引用箇所は、こう続いている:

中将、「やさしうもつかまッたるものかな。此歌のぬしは、いかなる者やあらん」と御尋ねありければ、景時畏ッて申しけるは、「君は未しろしめされ候はずや。あれこそ八島の大臣の、当国のかみでわたらせ給候し時、召されまゐらせて、御最愛にて候しが、老母をこれに留め置き、頻りにいとまを申せども給はらざりければ、ころはやよひのはじめなりけるに、

  いかにせむみやこの春もをしけれどなれしあづまの花やちるらむ

と仕て、いとまを給ッてくだりて候し、海道一の名人にて候へ」とぞ申しける。
--岩波文庫 [平家物語 (四)] p.54
(「八島の大臣」とは平宗盛のこと)

とあって、[ゆや] と云うのはむしろ「老母」の名前なのである。そして問題の歌は、[ゆやがむすめ、侍従] が詠んだことになっている。

こうして比べてみると、[話の出来] としては平家物語の方が良くできているし (「老母」が重態であると云う帰郷理由の合理化がない。彼女は単に「母の顔が見たい」のだ)、また、割科白にするような歌ではないから、侍従一人が詠んだとした方が歌意も深くなる。


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メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] のある一節の微妙訳

岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] に就いては、前回のポスト ([メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] 中の誤植その他] 2010年12月13日 [月]) だけで済ますつもりだったが、結局、そうはいかず、その中で列挙されている46個の関数及び関係 (性質) を表わす記号をまとめ始めた。

もう少し詳しく言うと、こうした「記号」は、中には純然たる数学記号もあるものの、大多数はドイツ語に基づいている為、私のようなドイツ語ネイチヴでないものには訴求力が低く、読んでいて抵抗を感じたのだ。そこで、改めて、各記号がどのようなドイツ語に基づいているかを表にしだしたのだった。

もっとも、これには先例がある。つまり、こうした事情はイングリッシュ・スピーカーでも同様らしく、ドーヴァー版の英訳本 ("On Formally Undecidable Propositions of Principia Mathematica and Related Systems") の pp.33-34 には、既に、記号の由来となったドイツ語とその英訳が示されている。

ようするに、その真似をしようとし始めたわけだ。こうした単純なことでも、いろいろ手間がかかって、我ながら処理能力の低さに情けない思いがしているのだが、それはそれとして、その準備作業中に、岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] の訳文に微妙なところがあるのに気が付いた。

それは、第22ページ第10行で、こうなっている。

同様に, 各自然数を型と見て, その型の変数を考える。
-- p.22/[不完全性定理] クルト・ゲーデル (訳:林 晋・八杉 満利子) 岩波文庫 2006年9月15日

で、その原文は

usw. für jede natürliche Zahl als Typus.
--S.182/"Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I" Kurt Gödel "Monatshefte für Mathematik und Physik" 38, 1931, S.173–198

ドイツ語原文の冒頭 "usw" が、小文字で始まっているのは、その前の「第3型の変数の列挙」を引き取っているからで、オックスフォード版「ゲーデル著作集」第1巻のように大文字に変えてしまうのは、ゲーデルの真意の取り違えている (岩波文庫版も、同様の誤りをしている可能性が大きい)。

やや可笑しいのはゲーデル著作集での "usw" の英訳が "And so on" と機械的に訳されているのだが、これは実は、字面だけなら正しい訳なのである。しかし、この文脈では "and so on" と小文字始まりにしないと英語にならないだろう。

つまり、"usw" は「等々。。。(以下同様にする)」と云う語感なのだが、岩波文庫版では「同様に」と云う部分だけに反応して訳してあるので、文意が微妙に歪んでいるのだ。

そして、もう一つ問題なのは (こちらの方が重要)、"als" の意味を「と見て」("als Typus" =>「型と見て」) と安易に考えてしまったことだ。しかし、この "als" は同じ大きさを表わす副詞的な用法なのである。つまり、記号を使って解かりやすく表現するなら、任意の正整数 n に対して、第 n 型の変数を想定することをゲーデルは言っているのだ (この引用部分についている原註17も、このことに関わる。任意の n に対して第 n 型変数記号が可算無限個使えると云う仮定を述べているのだ)。

従って、問題の箇所を訳すなら

等々、以下同様にして、任意の自然数に対して、それに応じた段階の型の変数。

ぐらいになるだろう。

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メモ:岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] 中の誤植その他

目が覚めた後、起き出すにはヤヤ早すぎると、寝床の上で手近な本を読み散らしすことが良くある。一週間ほど前にもそうしたことがあって、その中の一冊が [ゲーデル 不完全性定理] (岩波文庫) だった訣だ。で、その中に誤植があったと云うだけの話なのだが。。。

印刷文章が或る程度の分量になると、誤植は避けえない。しかも「トンでもない誤植」であっても平然と校正をすり抜けていく。だから、密度や総量がよほど多くない限り、私は誤植や校正ミスに対して寛容である。誤植を見つけたら、その存在を公開指摘して情報を共有すれば、それ以上の事はしないで良いと思っている。

もっとも、実際に出版物上のものであったか否か、私は承知しないが、以前校正技術に就いての説明で見かけた記憶がある「ボーヴォワールサルトルと同棲した」を「ボーヴォワールはサルと同棲した」と誤った「トンでもない」系のミスや、更には King James Bible の「モーセの十戒」中の "Thou shalt not commit adultery." (汝姦淫するなかれ) の "not" を落としてしまって "Thou shalt commit adultery." (汝姦淫すべし) にしてしまったという出版史上有名な "Wicked Bible" などは、話のネタにはなるだろう。しかし、これはまさに別の話である。

いきなり脱線してしまったが、問題の誤植は [ゲーデル 不完全性定理] の p.29 に出てくる。その第11行と第15行の R(\mathfrak{x},\mathfrak{y})R(x,\mathfrak{y}) に直す必要がある。つまり、岩波文庫版では

p.29/[不完全性定理] クルト・ゲーデル (訳:林 晋・八杉 満利子) 岩波文庫 2006年9月15日
-- p.29/[不完全性定理] クルト・ゲーデル (訳:林 晋・八杉 満利子) 岩波文庫 2006年9月15日
となっているが、この文脈から分かるように、\mathfrak{x}\phi の引数であって、R の第1引数ではないからだ (R の第1引数は x)。

ついでに原文も掲げておこう:

S.180/Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I. Kurt Gödel. Monatshefte für Mathematik und Physik. 38, 1931, S.173–198
--S.180/"Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I" Kurt Gödel "Monatshefte für Mathematik und Physik" 38, 1931, S.173–198
わざわざ指摘するまでも無かろうが、原文ではR の第1引数は x で一貫している。

行き掛かり上、論文の翻訳部分だけ (岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] には本体の数倍程の訳註・解説が付けられている。部分的に走り読みした限りでは、読み応えがありそうだが、むしろ、その故に、「御用繁多」な今の私には軽軽に論ずる訣にはいかないので、敢えて取り上げない) を通読したが、その限りでは、訳文に首を傾げるような部分は1点のみだった。それを書いておこう。

岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] の第32ページ本文最終行、第33ページ第4行・第9行・第11行に「数列」と云う言葉が出てくる。これはしかし、それは、ゲーデル数の並びの意味で使われており、「等差数列」や「等比数列」と同範疇の「数列」を意味しない。「数の列」だから「数列」と云う訳語を当てても構わないという立場もありうるが、そうだとしたら、広く使われている「数列」とは別の含意であることを訳註すべきだっただろう、ぐらいのことは、このままでも言える。しかし、更に言うなら、やはり別の言葉を当てるべきだった。

何故なら、だめ押しのようなことをして申しわけないが、ゲーデル自身は、今ここで「数の並び」と表現した概念と、通常の意味での「数列」とを別の言葉で使い分けているからだ。つまり、岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] 第51ページの下から4行め、及び第52ページ第8行及び第9行にも「数列」と云う言葉が出てきて、これは通常の意味での「数列」なのだが、この二通りの「数列」に対して、ゲーデルは別の言葉を当てているのだ。具体的に言うなら、「数の並び」は "Zahlenreihe" と呼び (第33ページ第1行相当部分では単に "Reihe"、第33ページ第9行相当部分は複数形で "Zahlenreihen")、「数列」には "Folge von Zahlen" (第51ページの下から4行め及び第52ページ第8行相当部分) 又は "Zahlenfolge" (第52ページ第9行相当部分)を用いているのである (通常の意味での「数列」に "Folge" 又は "Zahlenfolge" が使われている他の例としてはドイツ語版ウィキペディアの "Folge (Mathematik)" の項を参照)。実際には、それぞれ、以下の通り。

「数の並び」と言うべき "Zahlenreihe" 又は "Zahlenreihen" が使われている例:

S.182/Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I. Kurt Gödel. Monatshefte für Mathematik und Physik. 38, 1931, S.173–198
--S.182/"Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I" Kurt Gödel "Monatshefte für Mathematik und Physik" 38, 1931, S.173–198

通常の意味での「数列」である "Folge von Zahlen" 又は "Zahlenfolge" が使われている例:

S.192/Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I. Kurt Gödel. Monatshefte für Mathematik und Physik. 38, 1931, S.173–198
--S.192/"Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I" Kurt Gödel "Monatshefte für Mathematik und Physik" 38, 1931, S.173–198
S.192/Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I. Kurt Gödel. Monatshefte für Mathematik und Physik. 38, 1931, S.173–198
--S.192/"Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I" Kurt Gödel "Monatshefte für Mathematik und Physik" 38, 1931, S.173–198

あと、ヤヤ気になったのは、原論文発表当時の主たる想定読者 (つまり、論理学に就いての専門的知識を有する人々) には常識であっても、現代日本で、数学の専門家はいざ知らず、文庫を手に取るような (それこそ「中学生」を含みうる) 読者には期待できないような知識の最低限の補完 (言ってみれば「躓きの石」をあらかじめ取り除いておくような親切心) が欠けているような気がする。

例えば、文庫第28ページの脚註 [29)] で「内容的な (特に超数学的な) 考察の場合は、ヒルベルトの記号を使う (ヒルベルト-アッカーマン, 理論論理学の基本性質, ベルリン, 1928[31] を参照せよ).」との註が有る数式以後は、記号\simの含意が、それより前の「直後の命題の『否定』」から「前後の命題の『等価』又は『定義』」へと、殆ど真逆に変わっている。こうしたことは、やはり、訳註として触れておいて良かっただろう。

「・・・『ゲーデルの定理が解る』という解説書は多い. 『中学生でも解る』という惹句で売った解説書もあるほどだ. 確かに, ゲーデルの定理の証明は素人にも解りやすそうに見える. しかし, これは間違いなのである. 」(岩波文庫 [ゲーデル 不完全性定理] まえがき。p.7 ll.16-19) と云うことで「素人」を相手にしないと云う立場であるなら、それはそれとして立派な見識で、わたくし風情が、とやかく言うつもりは全くないが、だとしたら、文庫版第55ページに見られる、所謂ラッセルの "definite description operator" は普通のギリシア文字のイオタ "\iotaup" ではなく、原文通り天地逆転して "inverted \iotaup" と表記すべきだっただろう。まさか、翻訳中に「PM,I,14」(「プリンピキア・マテマテカ (Principia Mathematica)」第1部第14章) を覗いてみなかった訣でもあるまいだろうから ("definite description operator" に就いては "The Notation in Principia Mathematica (Stanford Encyclopedia of Philosophy)" なども参照)。

2010-12-21 [火]
ゲーデル著作集の米国版アマゾンリンクを追加しておく。問題の論文は第1巻に独英対訳で掲載されている。

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