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勝小吉の「江戸」([江戸/本所] 補足)

これは、本ブログの記事 [江戸/本所] (2004年8月21日 [土]) への補足である。[NIFTY翻訳フォーラム投稿再録(1998年1月7日?)]) (2004年7月18日 [日]) や [本所の北斎その他] (2004年9月16日 [木]) にも関連する。

天保の改革の際に禁足 (「押し込め」) 処分を受けた勝左衛門太郎惟寅が、処分解除後に郊外の鴬谷 (一般的な地名で言えば「根岸」と云うことになるのだろう) に隠居して [鴬谷庵] を結び [夢酔道人] と号して、その半生の記 [鴬谷庵独言]、所謂 [夢酔独言] を著わしたことは良く知られている。

大名貸しを営んでいた検校の末子として生まれ、その莫大な遺産を使って養子になる形で幕臣 (当初御家人、後に旗本) となった父、男谷平蔵 (おだに へいぞう) の三男 (妾腹) であった幼名亀吉はどうしようもない悪童で喧嘩に明け暮れ、悪戯を繰り返した。

どうやら、亀吉の生母は男谷平蔵の忌避にあったらしく、男谷家を出されたために、彼は生母の実家で生まれたのだが、平蔵の正室が強ひて引き取ったらしい。そのために、かえって、平蔵の正室 (亀吉が言う「本とふのおふくろ」) は夫に対して、亀吉のことを批判がましく言う訣にいかなかったようだ。

おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能よく不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝおやがおやぢの気にちがつて、おふくろの内で生れた。それを本とふのおふくろが引き取つて、うばでそだてゝくれたが、がきのじぶんよりわるさ斗 (ばか) りして、おふくろもこまったといふことだ、と。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.11-p.12
おふくろは中風と云ふ病ひで、たち居が自由にならぬ。あとは皆女斗りだから、ばかにして、いたづらのしたいだけして、日をおくつた。兄きは別宅していたから、なにもしらなんだ。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.12
出勤する父親と、用人の「利平治と云ぢゝい」に就いては、この前に触れてあるので、「あとは」では、この二人は除いてある。勿論、「利平ぢゝ」は、亀吉のことを平蔵に告げ口するようなことはない。
逸躰 (いつたい) は、おふくろがおれをつれて来た故、親父には、みんなおれがわるいいたづらは、かくしてくれた。あとの家来は、おふくろをおそれて、親父におれがことは少しもいふことはならぬ故、あばれほふだい育った。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.13

これは、亀吉が、男子の無かった御家人勝家に婿養子に入り、名を勝小吉と改めた (数え七歳) 後も、全く変わらなかった (勝家を継いでからも、油掘の男谷家で暮らし続けたのである。「油掘」は、現首都高深川線の下を、隅田川近辺から木場近辺の間を流れていた「十五間川」のこと)。男谷家そして当然「勝小吉」は、小吉八歳の時に本所亀沢町 (現在の「墨田区亀沢」とは異なる。今の住居表示では「墨田区両国4丁目」付近らしい) に転居する。そこでも、小吉の素行は全く収まらず、十歳から始めた乗馬に夢中になって、「学問」には目も呉れなかった (十六歳になっても、勝小吉は自分の名前が書けず、必要がある時は、人に頼んで書いてもらったと云う)。そして、十四歳には上方方面へ出奔して4ヵ月放浪する。その後、兄の任地である信州へ同道したり、兄の家の庭に建てた家で所帯を持ったり、2度目の出奔後、父の隠宅の座敷牢に3年ほど入れられたりしたが (二十一歳から二十四歳。この間、息子の麟太郎、つまり「勝海舟」 が生まれている)、二十四歳の時、独立して本所割下水に移り、更に二十九歳からは本所入江町 (現在の住居表示では「墨田区緑町四丁目」付近、つまり大横川沿い) で暮らすようになった。その間、そして、その後も喧嘩を繰り返し、道場破りの元祖のようなことをして、本所・下谷・浅草界隈の「顔役」になっていく。

要するに、彼は、「本所の銕」ならぬ「本所の小吉」であった訣だ (小吉の父が「平蔵」であったのは、なにやら可笑しい)。

話柄がヤヤ外れるが、芥川龍之介が関東大震災後の本所・両国界隈をスケッチした、タイトルもそのまま [本所両国] とする雑文がある。その末尾に、探訪後、芥川龍之介が家族と会話した内容を採録したものと思しいものが付されている (芥川龍之介は幼少のころから、母方の実家であった本所小泉町の芥川家で育てられ、12歳には実際に養子入籍している。ここの父・母とは、その養家でのことである)。

僕「『榛の木馬場 (はんのきばば)』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎が住んでいたことがある。」
僕「『割下水』もやっぱり変わってしまいましたよ。」
母「あすこには悪御家人 (わるごけにん) が沢山いてね。」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
--講談社文芸文庫 [大川の水・追憶・本所両国] p.129

面白いことに、芥川龍之介は「本所」を「御朱引外」だと勘違いしていたか、或いは、「御朱引外」も同然だと思っていたらしい。p.112 [大川の水・追憶・本所両国]
なお「榛の木馬場」は、現在の京葉道路と清澄通り (都営大江戸線) とが交差する当たりにあった。ここでは、勝小吉九歳の時、彼のイタヅラに腹を据えかねた子供や大人「四、五十人」が、本所横網にあった「柔術」の稽古場から帰宅途中の小吉を、待ち伏せして集まっていた所である。[夢酔独言 他] p.17-p.18
榛の木馬場とは、総武本線を挟んで北側に位置する、つまり、別の言い方をすると、都営大江戸線両国駅の西側にあたる、現江戸東京博物館及びその周辺一体に位置するところに幕府の米蔵があったが、もともとは竹や木のための倉庫であったので「お竹倉」と呼ばれており、周囲を掘割で囲まれていた (榛の木馬場で襲われた勝小吉が逃げ込んだのが、この掘割だった)。そして都営大江戸線両国駅付近 (江戸東京博物館と日大一高の境目) 当たりから東へ大横川 (現「大横川親水講演」) まで伸びていた排水路が「割下水」(現在の「春日通り」に重なる「北割下水」と区別する時は「南割下水」) である。現在は、埋め立てられて「北斎通り」と云う、他人事ながらヤヤ恥ずかしい名前が付けられていると云う。

とあるが、さしづめ勝小吉などはその「悪御家人」の筆頭であったのだろう。

その彼が、1度目の出奔をした時のことである。

十四の年、おれがおもふには、男は何をしても一生くわれるから、上方当りへかけおちをして、一生いよふとおもつて、五月の廿八日に、もゝ引をはいて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七、八両斗りぬすみ出して、腹に巻付て、先づ品川まで道をきゝきゝして来たが、なんだかこゝろぼそかった。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.22-p.23
「七、八両」は現代の感覚で言うと「40万円-50万円」ぐらいだと思う (あくまでも「その位の感じ」である)。

しかし、浜松で投宿した際、藤沢を過ぎたあたりから同行してきた町人の二人組みに、着物も有り金も盗まれてしまう。所謂「護摩の灰」だったのである。その時、宿の主人が、かれのことを「江戸っ子」と判断している。

亭主がいふには、「夫は道中のごまのはゐといふ物だ。わたしは江戸からの御連れとおもつたが、何にしろきのどくなことだ。どこを志してゆかしやる」とて、しんじつに世話をしてくれた。おれがいふには、「どこといふあてはないが、上方へ行くのだ」といつたら、「何にしろじゆばん斗 (ばかり) にてはしたがない。どふしたらよかろふ」と、十方 (とほう) にくれたが、亭主がひしやくを壱本くれて、「是まで江戸つ子が、此海道にてはまゝそんなことが有から、おまへも此ひしやくをもつて、浜松の御城下・在とも壱文づゝ貰つてこひ」とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方方貰つて歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文貰つて帰つた。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.23-p.24
「1文」は「10円」ぐらいだと思うと、「感じ」が分かるだろう。

「夢酔独言」の記述は、かならずしも時系列に沿っていないようで (小吉の記憶の間違いもあるかもしれない)、前後関係を穿鑿しても仕方がないところがあるので、そうしたことは気にしないで話を進めると、宿の亭主に「先づ伊勢へ行つて、身の上を祈りてくるがよかろふ」([夢酔独言 他] p.24) と勧められた小吉は、結局、伊勢に行き、そこでたまたま知り合った「江戸神田黒門町の村田といふ紙屋の息子」([夢酔独言 他] p.25) と云う乞食に教えられて、「抜け参り」の態で、龍太夫と云う御師から「一貫文」(1000文。なお、江戸時代当初の公定相場では1両が4000文だが、時代と共に、実勢レートは「両」が上昇していった。小吉が貰った「一貫文」は6分の1両ぐらいだと思っていいだろう。現代の感覚で言うと「1万円」ぐらい) 恵んでもらうが「夫から方々へ参つたが、銭はあるし、うまゐものを食いどふしだから、元のもくあみになつた。」([夢酔独言 他] p.25)

伊勢を出た小吉は東行して、駿河の府中 (「駿府」つまり現「静岡市」) まで戻る (「夫からこゝで貰ひあそこで貰ひ、とふとふ空 (から) に駿河の府中迄かへつた。なにをいふにも、じゆばん壱枚、帯はなわを〆 (しめ)、わらぢはいつにもはゐたことも禰 (ね) へから、ざまのわるいこじきさ」[夢酔独言 他] pp.25-26)。そして、城の傍の馬場の入り口で一晩寝たところ、

翌日、朝早く侍が十四、五人来て、借馬のけいこをしていたが、どいつもどいつもへただが、夢中になつて乗つていおるから、おれが目をさましておきあがつたら、馬引どもが見おつて、「爰 (ここ) にこじきが寝ていおつた。ふていやつだ。なぜ囲ひの内へ込 (へえ) りおつた」とさんざんしかりおつたが、いろいろわびをして其の内にかゞんでいて、馬乗を見たが、あんまりへたがおゝひからわらつたら、馬喰共が三、四人でしたゝかおれをぶちのめして外へ引づり出しおつた。おれがいふには、「みんなへただからへただといつたがわるいか」と大声でがなつたらば、四十ばかりの侍が出おつて、「これ、こじき。手前はどこのやつだ。子蔵 (こぞう) のくせに、侍の馬に乗るをさつきからいろいろといふ。国はどこだ。いへいへ」といふから、おれが、「国は江戸だ。それに元からこじきではない」といつたら、・・・
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.26-p.27 (なお、「借馬」は「駆馬」のつもりだろう)
驚くべきことに、この後、小吉は馬に乗せてもらい、さらに「四十ばかりの侍」の自宅で食事を得て、暫く滞在している。

つまり、勝小吉自身が、自らを「江戸」のものだと言っているのである。

その後、小吉は、「おれが腹の内でおもふには、こんなうちにしんぼうしていてもなんにもならぬから、上方へいきて、公家の侍にでもなるほうがよかろふとおもひて」([夢酔独言 他] pp.28)、再び西へ向かい、途中四日市で「村田」と再開して、ともに伊勢に向かう。しかし、四国の金比羅宮へ行くと云う「村田」とは、伊勢山田で別れて、小吉は伊勢で十日ほど滞在したあと、四日市方面に戻りはじめるのだが、四日市の手前伊勢白子と云うところで、重病に陥り、動けなくなる。

おれは伊勢に十日斗りふらふらしていたが、だんだん四日市の方へかいつて来たら、白子の松原へ寝たばんにづゝうが強くして、ねつが出てくるしみしが、翌日には何事もしらずして松原に寝ていたが、二日ばかり立ちて漸々人心地が出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日ばかり水を呑んで、よふよふ腹をこやしいたが、其の脇に半町斗り引こんだ寺があつたが、そこの坊主が見付けて毎日毎日麦の粥を呉れた故、よふよふ力がつゐた。
二十二、三日ばかり松原に寝ていたが、坊主がこも弐枚呉て、「壱枚は下へひき、壱枚は夜かけて寝ろ」といつた故、其通りにして、ぶらぶらして日をおくつたが、二十三日めごろから足が立つたゆへ、大きにうれしく、竹きれを杖にして少しづゝ歩行た。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.29-p.30

その後、寺に礼にいって、そこでも、古い笠と草鞋、そして100文を貰った小吉は、再出発するが、再び病気に倒れたりする。が、たまたま知り合った乞食仲間の看病で持ち直して、七月には駿府に戻る。そこで二丁町の廓の客から食事や銭、更には衣服を恵んでもらうが、その勧めにより木賃宿にとまり初め、その宿代等が払えなくなり、退去して三度目の西に向かう。しかし石部 (東海道石部宿?) 迄来た時、九州秋月藩江戸下りの「長持の親方」(「江戸下り」とは江戸に向かうこと。「長持の親方」とは今で言う運送業者だったのだろう) に逢い、その勧めに従って上方へ行くのを諦めて江戸に戻ることにするが、駿府で「親方」達は博奕のことで喧嘩をしていまい、それがもとで、小吉を江戸に連れて行くことをやめてしまう。そこで、小吉は一人で江戸に帰るのだった (閏八月)。

この家出の途中、時には、番太郎に六尺棒で殴られて卒倒すると云うような経験もしてはいるのだが、その一方で、上記のように、実に様ざまな人に助けられる。

実は、勝小吉には、「夢酔独言」より先に「平子龍先生遺事」と云う著作 (東洋文庫の [夢酔独言 他] に「夢酔独言」と共に収められている) がある。[平子龍] とは勝小吉が私淑した「武辺者」の御家人で、伊賀衆の一人だった平山行蔵であるが、平山に、十四歳の家出の物語にも (出来事の順序が [夢酔独言] とはかなり食い違っているのだが)、やはり勝小吉が様ざまな人に助けられたことが述べられているが、その局面において、小吉が出身を尋ねられた時の返答で、小吉が本所を「江戸」の内だと思っていたことが窺える記述が出てくる。

されどこれまで来りし事故、とてもの序に中国四国九州までも廻り見申すべしと存じ、石部まで上りしに、日向秋月侯の江戸下りと見え、長持の宰領三人参りかゝり、或茶屋に休み居けるが、拙者を見て、其方は煩ひしや。ことの外やつれしな。何にもせよ食事を与へ申すべし。此方へ参り申すべしと申す故に、側へ参りしに、手前は江戸か、江戸は何れの所と尋ねしに、拙者申すは、生国は江戸にて、道中にてごまのはいに逢ひし由咄しければ、それは気の毒なことなり。もしこれより江戸に帰りたくば、我等が連れ行き遣すべし。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.143-p.144
それより又々以前の通り乞食致し、駿河市中を歩行し、十五日も同所に逗留し、貰ひし銭は残らず遣ひなくし、或日ふと同所二丁町の廓へ貰ひに行きけり。或家にて近辺の田舎者女郎を揚げ居りしが、拙者を見て声を懸け、手前は伊勢参りと見えるが、襦袢一つにてさぞ困るべし。この単物も遣すべしとて、女郎に何やらさゝやきしが、女の単物の袖口に緋縮緬の付け候を出して、是を着候へ。食事杯も不自由なるべし、沢山たべ候へとて、いろいろとくれ候て、手前は江戸のいづこと尋ね候故に、本所の由答えければ、町人か武士かと申す。町人の子の由答ふ。いやいや武士の子なるべし。最前より手前が物言聞くに町人ではなし、早く江戸へ帰るべしとて、銭三百文くれ申候。
--東洋文庫 [夢酔独言 他] p.144-p.145

勿論、勝小吉の相手になったのは、今で言う「地方」の人々だった。だから、発言時に江戸時代の江戸おける「大川」の持っている重要な意味合いを顧慮する必要はなかったろう。しかし、[夢酔独言] では自分の子孫に読まれることを想定していたし、更に [平子龍先生遺事] において勝小吉が語った相手は、四谷伊賀町に住んでいた。従って、当時にあっては、住民感覚において本所を江戸の内として一笑に付されるようなことはなかったと判断してよい。

ついでに書いておく。[夢酔独言] の自序末尾で「おれは今までも、なんにも文字のむづかしい事はよめぬから、こゝにかくにもかなのちがひも多くあるから、よくよく考えてよむべし」(東洋文庫 [夢酔独言 他] p.10) とあるが、確かにその通りで、読んでいて首を傾げたくなるところが、所どころにある。しかし「よくよく考えて」みると、文意が通じてくるところがあるし、いくら考えても分からないところもある。それを、自序に限って纏めておく。

  • p.5, l.4 「或は法悪しく」: この部分は自筆本の影印が見開きにあって、そこを見ると「ぼう悪くし」(「悪」は「あ」) のような気がする。つまり「暴悪し」なのではないか。もっとも、影印に濁点がハッキリ記されているのが奇妙と言えば奇妙なのだが。。。
  • p.5, ll.7-8「どんよくきようふしや故に」:「貪欲驕奢故に」
  • p.5, l.11「募悪の中よりして」:これは分からない。ただし司馬遼太郎は「竜馬がゆく」のなかで、この「募悪」を、上記の「法悪しく」と共に、「暴悪」と理解していた節がある。文春文庫 [竜馬がゆく (三)] p.155 参照。
  • p.6, l.2「息子がしつまい (実米?) 故に」:括弧内注記は編者 (勝部真長) によるもの。「しつまい」は、「実米」でなくて、恐らく「実明」(「実直」を意味する江戸弁) だろう。勝小吉は、実際には「ジツメー」と発音したのではないか。ちなみに、司馬遼太郎の引用では「意味不明」と注記されている。文春文庫 [竜馬がゆく (三)] p.156
  • p.7, l.4「俊ぽくの仁」:「淳朴の仁」か。(「仁」は「人」の意)。
  • p.7, ll.6-7「文武をもつて農事とおもふべし」:「農事」は「能事」だろう。ただし l.9 の「農事」は、そのママで可。
  • p.9, ll.10-11「万事きかつにうれゐわすれ」:「きかつ」は「うかつ」?
  • p.9, ll.12-13「美味をくらいうし」:「くらいうし」が分からない。「くらいどおし」?

一応断わっておくが、ここで「江戸」と呼んでいるのは徳川家康入府以降の「江戸」である。北条 (所謂「後北条氏」) の「江戸」は、別に論ずる必要がある。

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