« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月の2件の記事

メモ:チャイティン「セクシーな数学」の訳文に就いて

[メモ: xyzzy の KaTeX モード。特に katexmth.l に就いて] (2010年3月 5日[金]) で触れた tex ファイルの作成をまだ続けている。たしか、始めたのは2010年2月末だった筈だから、もう4ヵ月になるだろう。さすがに屈託している。

数学の話題なのだが、かなりの時間が、内容以外の TeX の使い方のお勉強に掛かったりして、逆にそれが気分転換になってもいることに自分で気付いているのが、「泥沼」の深刻さを表わしている。

気分転換と言えば、ブログの原稿作成中は、書いている内容とは全く別の傾向の本を読むのが、私の癖なのだが、今回はどう云う訣か数学の啓蒙書ばかり読むことが続いた。どれも図書館で借りたものばかりなので、既に手元に無いものもあるのだが、[ポアンカレ予想]や[ケプラー予想]に就いて書かれてものは面白かった (この2冊は作者が同一人物で [ジョージ・G・スピーロ ])。また「佐藤幹夫の数学」は、現在書いている tex 原稿の参考になった (今、思い出したが、普段借りない数学の啓蒙書を借り始めたのは、「佐藤幹夫の数学」を借りるついでだったのだ)。

その後、「放浪の天才数学者エルデシュ」も読んで面白かったし、また、エルデシュの業績は [原稿] の内容に関係がある。

で、「セクシーな数学」(著:グレゴリー・J.・チャイティン/2003年/岩波書店/訳:黒川利明) と云うのも借りて読み出したのだが、どうも訳文がピンとこない。翻訳に習熟していない人の訳文と云う印象で、特に訳語の選定の仕方が甘い。結局、途中まで読んで、後は拾い読みしかしていないが、何が特に気に入らなかったかを書いておく。

例えば、こんな箇所があった:

ガロアがいて、彼は、共和党員であることが破壊分子とみなされる当時にあって破壊的共和党員であったために、決闘で殺されるのです。
--グレゴリー・J.・チャイティン「セクシーな数学」[創造的生活 科学対芸術] p.112

数学史なり、近世西欧史なりに、若干の知識があれば、ここで「共和党員」と云う言葉が出てくるのは (「ルイ・フィリップの頃のフランスの「共和党」って何だ?)」と) 唐突な印象を受ける筈だ。

チャイティンの、この [創造的生活 科学対芸術] と云うハンス・ウルリッヒ・オブリストとの対談は、チャイティン自身がネットで公開しているので、それに当たってみると、原文は次のようになっている。

Galois who died in a duel because he was a subversive republican at a time when to be a republican was considered subversion.
--Chaitin, Conversations with a Mathematician "The Creative Life: Science vs. Art"

ここで既にウンザリしてくるのだが、英語の発想内で "republican" が「共和党員」の意味を持つのは第一義的にアメリカ合衆国政治史の文脈においてのみであり、しかも辞書の指摘に従う限り、その場合は "Republican" と大文字始まりにするのが普通であるのだ。

と云う訣で、なるべく訳文を尊重した形で補正すると

ガロアがいて、彼は、共和主義者であることが破壊分子とみなされる当時にあって破壊的共和主義者であったために、決闘に斃れるです。

こう云うところもあった:

なにかが非常におかしい、かのデンマーク王国で何かが腐っているぞ、推論が破産しており、すぐ何かをしなければならぬと人々が悟ったのは、主に、ラッセルのおかげです。
--グレゴリー・J.・チャイティン「セクシーな数学」[数学の基盤についての一世紀にわたる論争] p.169

これも唐突に「デンマーク王国」と云う言葉が出てくるが、こうした唐突さは、何かの引用だと推測して確認してみるのが翻訳のルーチンワークなのだ。そして単語「デンマーク」が含まれているのならは、それが [ハムレット] からの引用である可能性が高い。実際原文を当たってみると

But I think that the realization that something was seriously wrong, that something was rotten in the state of Denmark, that reasoning was bankrupt and something had to be done about it pronto, is due principally to Russell.
--Chaitin, Conversations with a Mathematician "A Century of Controversy over the Foundations of Mathematics"

この "something was rotten in the state of Denmark" は [ハムレット] 第1幕第4場でのマーセラスの台詞である。ホレーシオやマーセラスが止めるのも聞かず、ハムレットが父である前王の亡霊に招かれて退場した後に残された際に、やむを得ず、後追いして退場する直前に、彼はこの台詞を吐く。

英語文化内では、どうということもない引用で、引用符を付けるべきかどうか微妙なところだが、日本語文化内では、明確にカギカッコで挟まねばならない文である。

こんな感じだろうか。

何処かに大変な間違いがある。「デンマークの何処かが腐っている。」論理と云うものが破綻してしまっており、取り敢えず何かをしなければならない。そうしたことが判明したのは、主にラッセルのお蔭なのだと、私は思っています。

しかし、まぁ、こうしたことは編集サイドでフォローしてあげるべきことだったとも思える。「岩波文庫か新潮文庫で『ハムレット』ぐらい読んでおけよ」と言いたくなる。


数学的なことも一つ書いておこう。チューリングの成果である「チューリングマシンの停止性を一般的に判定するチューリングマシンは存在しない」(これは「『プログラム』の停止性を一般的に判定する『プログラム』は存在しない」と同義である) を帰謬法のよる証明の概略を説明する件 (くだり) にこう書かれている:

プログラムが停止するかどうかを決定する機械的手続きがあるものと仮定します。まず数 N を含むプログラムを構築します。そして、このプログラムは、サイズが N ビットまでのすべてのプログラムを見て、それぞれについて停止するかどうかをチェックするものとします。そして、停止するプログラムをシミュレーションするのです。サイズが N ビットまでのすべてのプログラムをです。そして、出力を見るのです。出力は自然数だと仮定しましょう。さて、ここで、最大化を行ないます。すなわち、サイズが N ビットまでの停止するプログラムによって生成される最大の自然数をとるのです。そして、その結果を二倍しましょう。N を与えられたプログラムがこれをするのです。

しかしながら、今述べたプログラムは、実はだいたい log N ビット長しかいらないのです。N を知るにはバイナリで log2 N ビットあればよいからです。このプログラムは log2 N ビット長ですが、その生成結果は、サイズが N ビットまでのプログラムにより生成されたどの出力よりも二倍大きいのです。このプログラムは、サイズが log N ビットしかありませんから、N よりずっと小さいわけです。そこで、このプログラムは少なくとも自分の出力より二倍は大きい出力を生成しなければりなません。これは、不可能です。
--グレゴリー・J.・チャイティン「セクシーな数学」[神は、純粋数学でもサイコロを振る] p.126

これを読むと「言いたいことは分かるんだけれど、もう少し話の流れが繋がる訳し方があっただろう」と思ってしまう。

で、やはり原文を探してみると、次のようになっている。

Let's assume that there is a mechanical procedure for deciding if a program will ever halt. If there is, one can construct a program which contains the number N, and that program will look at all programs up to N bits in size, and check for each one whether it halts. It then simulates running the ones that halt, all programs up to N bits in size, and looks at the output. Let's assume the output is natural numbers. Then what you do is you maximize over all of this, that is, you take the biggest output produced by any program that halts that has up to N bits in size, and let's double the result. I'm talking about a program that given N does this.

However the program that I've just described really is only about log N bits long, because to know N you only need log2 N bits in binary, right? This program is log2 N bits long, but it's producing a result which is two times greater than any output produced by a program up to N bits in size. It is in fact only log N bits in size which is much smaller than N. So this program is producing an output which is at least twice as big as its own output, which is impossible.
--Chaitin, Conversations with a Mathematician "Undecidability & Randomness in Pure Mathematics"

うーむ。これは原文もあまり出来が良くないな。講演だからせいか表現がかなり冗漫で、しかも、文の流れがそこかしこで切れている。文法的に怪しい箇所もある。もっとも聴衆にとっては、講演者の言葉の調子や、場合によっては身振りなどの補足情報があるから、読者ほどには違和感を感じなかっただろうけれども。

それでも、日本語訳者は、例えば "If there is" の持っているニュアンスを訳すべきだっただろうし、最初に出てくる N に何故定冠詞か付いているかを考えて (文法通りなら不定冠詞 "a" だろうが、それを "the" にしてチャイティンの気持ちも分かってやらねばならない)、それなりの配慮をすべきだっただろう。しかし、細細したことを指摘しているとキリがないので止めておこう。その代わりに、私なりの訳文を示しておくにする。

プログラムが何時かは停止するかどうかを判定する機械的 (訳註:この「機械的」は「チューリングマシンとしての」の意味) 手続きが存在するものとするならば、ある数 N を備えていて、プログラムサイズが N ビット以下の全てのプログラムをひとつひとつチェックし、それが停止するかどうかを判定するプログラムを構成することができることになります。そして、この判定プログラムには、サイズが N ビット以下の全てのプログラムの動作をシミュレートして、その出力を確認させるようにするのです。そうした出力は自然数であるとしましょう。次に、そうした出力の最大値を取るのです。つまり、N ビットまでの全てのプログラムであって、停止するようなものが出力する値のなかで一番大きいものを取るのです。そして、その結果を二倍します。いいですか、こうしたことは、与えられた N に対して、判定プログラムがそうするのですよ。

しかし、こうした判定プログラムは、実際には大体 log N ビット長にしかなりません。何故なら、N の値を知るにはバイナリ情報で log2 N ビットありさえすれば良いからです (分りますよね)。つまり、この判定プログラムは、log2 N ビット長でありながら、サイズ N ビット以下の任意のプログラムの出力の二倍以上の出力を与えるのです。ところが、log NN より遥かに小さい値です。と云うことは、この判定プログラムは、自分自身の出力の少なくとも二倍の出力を出すと云うことになってしまいます。これは不可能です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

「ラテン語ミサ」中の「回心の祈り」

昨日夜 (2010/06/13 22:55:30)、キーフレーズ [回心の祈り ラテン語 全文] で、このサイトを訪問された方がいらしたようだ。

恐らく、ラテン語ミサ中の "Confiteor" の下りのテキストをお探しなのではなかろうかと思える。

それならば、このサイトの [フランス語で「主の平和」] で引用した、所謂 [「トリエント・ミサ」におけるものの羅仏対訳版 "Ordinaire de la Messe selon le Rite de Saint Pie V: latin-francais" を見るなら、ある程度の事は知れるのではないかと思われる。

もっとも、この「対訳」は、スクリーン上ページが整序していないので、本当の「対訳」になっておらず、使いづらいかもしれない

そう思って、少しネット上を行き来していたら [Per Mariam Ad Deum. マリア様を通して神様へ/告白の祈りいろいろ] と云うウェブページを見つけて、参考になったので、ここに書いておく。

そこで引用されている「ローマ式 (Romanum) のコンフィテオル (主司式司祭に対する場合の)」を、「孫引き」すると

Confiteor Deo omnipotenti, beatae Mariae semper Virgini, beato Michaeli Archangelo, beato Joanni Baptista, sanctis Apostolis Petro et Paulo, omnibus Sanctis, et tibi, pater, quia peccavi nimis cogitatione, verbo et opere: mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa. Ideo precor beatam Mariam semper Virginem, beatum Michaelem Archangelum, beatum Joannem Baptistam, sanctos Apostolos Petrum et Paulum, omnes Sanctos, et te, pater, orare pro me ad Dominum Deum nostrum.
--Per Mariam Ad Deum. マリア様を通して神様へ/告白の祈りいろいろ

ただし、上記ウェブページでは、この後に、"Misereatur vestri omnipotens Deus, et, dimissis peccatis vestris, perducat vos ad vitam aternam." と云う引用もあるが、これは [司祭が告白した罪への神の許しを願う] 信徒側の応唱。その後に司祭側の "Amen." が付く。また、上記ウェブページでは引用されていないようだが、この後に司祭と信徒とが「告白」と「神の許しの祈願」との立場を交換する。

私のような不信心な者には、"Deo" と "pater" が言い分けられているのが興味深かった。

現在では、[第2バチカン公会議] (1962年--1965年) に応じ1969年に発布された新しい典礼様式によるミサ ("Novus Ordo Missae" 或いは「パウロ六世のミサ」) の採用が進んでいて (勿論「守旧派」もいる。ただしトリエント・ミサが廃止されている訣ではなく、その存続がカトリック協会によって認められいる)、この場合は現地語でミサが唱えられるが許されている。そして実際に [現地語ミサ] の採用が広まっているらしいが、それでもラテン語版が正式とされている訣で、そこでも勿論「回心の祈り/告白の祈り」は存在する。

今回調べていて、一番興味深かったのが、所謂「新ミサ」においては司祭の「回心の祈り/告白の祈り」が削除されて、信徒団のものだけになっていたことだった (これに対しては「守旧派」の激しい反発があるらしい)。

Confiteor Deo omnipotens et vobis, fratres, quia peccavi nimis cogitatione, verbo, opere et omissione: mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa. Ideo precor beatam Mariam semper Virginem, omnes Angelos et Sanctos, et vos, fratres, orare pro me ad Dominum Deum nostrum.
--Mass of the 1970 Missal (Ordo Missae) Liturgy of the Word

随分簡単になっている。これに対し司祭が次のように答える。

Misereatur nostri omnipotens Deus et, dimissis peccatis nostris, perducat nos ad vitam aeternam.
--Mass of the 1970 Missal (Ordo Missae) Liturgy of the Word

この部分は、殆ど変わっていないが、末尾近くで "vos" が "nos" に変わっているのは重要だろう。つまり「司祭」は「信徒団」の一人と云う格付けである訣だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »