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メモ: 在原業平「人知れぬわが通ひ路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」

しばらく前になるが、「人知れぬわが通い路の関守は宵よひごとにうちも寝ななむ」に就いての情報を求めて、このサイトを訪問された方がいらしたようなので、この歌に就いて、このサイトに曾ってポストしたことがあったか確認してみたのだが、そうしたことは無かったようだ。

その際、この歌には、以前から微妙な違和感を感じていたことを思い出し、それを改めて考えてみた。そのことを少し書いておく。

まず、議論の対象となるテキストを示しておこう。良く知られているように、この歌は、[古今和歌集 13] 632 であり、その詞書と共になって [伊勢物語]第5段に対応している。それらは次のようなものである:

[古今和歌集 13] 632
ひんがしの五条わたりに、人をしりおきてまかりかよひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえいらで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、かのみちに夜ごとに人を伏せてまもらすれば、いきけれどもえあはでのみ帰りて、よみてやりける
     なりひらの朝臣
  人しれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちもねななむ

--角川文庫 [古今和歌集] (ISBN4-04-404601-8) pp.147-148
[伊勢物語] 第5段

 むかし、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りけり。さて、よめる、
人知れぬわが通ひ路の関守は
  宵々ごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
 二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせたまひけるとぞ。
--角川文庫 [伊勢物語] (ISBN4-04-400501-X) p.18

この歌の「人知れぬわが通ひ路」は、通常「人目を忍ぶ私の通い路」とか「こっそりと私の通う通い路」とか解釈されることが多いようだ。しかし、[古今和歌集] の詞書や [伊勢物語] の記述に従うなら、この歌の時点で、「男」が通って来ていることは、現代語で言うところの「親バレ」をしてしまっている。

「親バレ」と書いたが、ただし、原文では「あるじ」としか、書いていない。実を言うなら、「親バレ」の「親」は、言葉のアヤで、それにこだるつもりはない。たとえ「兄バレ」であっても、以下の議論の大勢には影響しない。

そもそものことを言うなら、在原業平が「女」に対し、「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」と詠んだような「事件」があったことはあっただろうとしても、そして彼と、後の二条后、藤原高子との間に [恋愛事情] が存在したかもしれないにしても、「人知れぬ」の歌を贈ったのが高子であったかどうかは即断できないのだ。ただ、[伊勢物語] を編集していった人々にとっては、「関守」の「女」は、偶像 (idole) としての「藤原高子」でなければならなかったと云うことだ。

これを踏まえた上で、つまり、以下のことにこだわっても仕方がないことを認めた上で、議論を進めると、このエピソードの [みそかびと] を藤原高子 (承和9年/842年 - 延喜10年3月24日/910年5月6日) とすると、父親の藤原長良 (延暦21年/802年 - 斉衡3年7月3日/856年8月6日) が死亡した時の高子の満年齢は14歳又は13歳で、これは当時としては「幼すぎる」ほどのことはなかったろう。

[源氏物語 葵] で「いかゞありけむ、人の、けぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、をとこ君は、とく起き給ひて、女君は、更に起き給はぬ朝」(岩波文庫 [源氏物語 (一)] p.346) があったのも、女君 (紫の上) が14歳ぐらいだった筈だ。それも、こちらは「数え年」だから、満年齢に直すと、やや少なくなる。もっとも、[伊勢物語] の[女] とは対照的に、[紫の上] は、自分の身の上に起こったことに衝撃を受けて、暫くの間パニックに陥ったりする訣だが。。。それでも、三日後には「亥の子餅」を食べたようだから、自分の中で何らかの「折り合い」を付けたのだろう。

ちなみに、[源氏物語 藤裏葉] の冒頭 (岩波文庫 [源氏物語 (三)] p.231) では、「関守のうちも寝ぬ」と、問題の歌が引用されている。

一応書いておくと、高子が清和天皇 (嘉祥3年3月25日/850年5月10日 - 元慶4年12月4日/881年1月7日。在位:天安2年11月7日/858年12月15日 - 貞観18年11月29日/876年12月18日) に入内したのは貞観8年(866年)。長良の死後、10年ほどたっており、高子は満年齢で24歳程度。清和天皇は16歳程度だった。その後、陽成天皇 (貞観10年12月16日/869年1月2日 - 天暦3年9月29日/949年10月23日。在位:貞観18年11月29日/876年12月18日 - 元慶8年2月4日/884年3月4日) となる皇子を産む。

だから、「人目を忍ぶ」とか「こっそりと通う」とか云う解釈は、やや滑稽に思える。「人目を忍べなくなった」ことが、この歌の前提だからだ。それが、私の「違和感」の中身だった。

そこで、私なりに「違和感」のない解釈は可能か、考えてみたのだが、「人知れぬ」は「人に知られないまま」と云う意味であって「人目を避けて」とは微妙に異なることに思い至った時、この歌は、「謎と答と云うのが王朝和歌の基本構造だとする」窪田敏夫の説 ([日本語で一番大事なもの] の中で丸谷才一が紹介している) に従って読めばよいことに気が付いた。

つまり「人知れぬわが通ひ路の関守は」が謎であり、「(関守は)宵々ごとにうちも寝ななむ」が答えなのだ。だから、一首の意味は「あなたに通っているのが露見してしまい、その通い路に『関守』が置かれてしまっています。人に知られないまま、あなたのもとに行くには、毎夜、少しでもいいから『関守』たちに眠ってしまってもらわねばなりません。」ぐらいになる。

通常「寝ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」とか「眠ってくれればよいのだが」ぐらいに訳されるようだが、「関守」たちに見とがめられることなく [女] のもとに行くと云う明確な目的のもとに、関守たちが眠るという状況を誂えたいと云う文意だから、「眠ってしまってもらわねばなりません」ぐらいに訳した方が良いと思う。

この「謎」に対して、この「答」は、所謂「ベタ」と云う奴だろう。大喜利で、この種の答えを言うのはボケ担当の役回りで、「答えになっていない」とツッコミを受けるところだ。

この「答えになっていない答え」には、「男」から「女」への「状況を打開する手段が見当たらない」、あるいはもっと露骨に「さようなら」と云う裏のメッセージが存在する。だからこそ「女」は惑乱した (「いといたう心やみけり」) のだ。彼女の心に「怒り」や「呪い」に近いもの (「馬に蹴られて死んじまえ」といった感情) があったとするなら、それは「恋路の邪魔」をした家族ではなく、むしろ不甲斐ない「男」の方に向けられていたのではないか。

「女」にしてみれば、「私を掠うぐらいの根性を見せてみろよ」ぐらいの啖呵を切りたい状況ではあるのだが、まさに、それに照応するように、引き続く [伊勢物語] 第6段では、「男」が「女」を掠うエピソードが配置されている。

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