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さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里

作者:西行 出典:山家集/[新古今和歌集6]627
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.151, p.304

「あれな」は「命令形」か「已然形」か?
『日本語で一番大切なもの』p.151-p.153 での議論は、以下の通り:「命令形」だろうが、上に「またも」と「も」が付いているから、単純な命令ではない。「またもあれな」は「もしかしてまたもあるならあってほしい」といった微妙さを表わす。この表現を別の言葉に言い換えると、この表現が持っているかすかな意味合いが崩れてしまう。
已然形には「な」は、古い形ではまず付かない。「あれな」という言い回しは、西行以外の『新古今』歌人には見当たらない。俳諧ではある。

ただし p.304 で再論されており、そこでは「この『あれな』は、『あらば』と解釈できる」としている。

『日本語で一番大切なもの』では、大野晋が主となって、この「あれな」を当初命令形であるとし、後に条件文と解することができると説明している。このことは、議論の齟齬ではない。或る条件が成立した際の自分の対応を決心している (更に言うなら、その条件の成立が期待しづらいことを承知していたり、その条件の成立を牽制したりする) 場合は、その条件を命令形で表わすのは普通のことである。文彩としては、条件文に噛み砕くのではなく、命令形のままであったほうが良い事が多いだろう。
だから、当初 (p.152) で、大野晋が「またもあれな」に「『もしかしたまたもあるならあってほしい』といった微妙さ」を表わすと説明しているのは、ひどく納得できる。

まぁ、この西行の歌は「一匹狼の会を作ろう」と言っているみたいで可笑しいが。
「寂しさを我慢できる人がもう一人いてほしい。そうしたら、この冬の山中の里で庵を並べようものを」

参考:
あはれとて人の心のなさけあれな数ならぬにはよらぬ嘆きを (西行 [新古今和歌集13]1230)
松が根の岩田の岸の夕すずみ君があれなと思ほゆるかな (西行 山家集)

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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