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毎年(としのは)に来鳴くものゆゑほととぎす聞けばしのはく逢はぬ日を多み

作者:大伴家持 出典:[万葉集19]4168/4192
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.352

「...に決まっている」を意味する「ものゆゑ」の用例。「としのは」が何故毎年を意味するのかは不明だが、原文には「毎年尓 来喧毛能由恵 霍公鳥 聞婆之努波久 不相日乎於保美 [毎年謂之等之乃波]」とある。

大野晋の解は「毎年来て、鳴くに決まっているのに、恋人と逢わない日が多いから、ほととぎすの声を聞くと、胸がどきどきして、あの声はいい声だと思ってしまう」。

この歌は、次の長歌へ返歌:
時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き 鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに うち嘆き 萎えうらぶれ 偲ひつつ ありけるはしに 木の暗の 四月し立てば 夜隠りに 鳴く霍公鳥 いにしへゆ 語り継ぎつる 鴬の 現し真子かも あやめぐさ 花橘を 娘子らが 玉貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八つ峰飛び越え ぬばたまの 夜はすがらに 暁の 月に向ひて 行き帰り 鳴き響むれど なにか飽き足らむ (大伴家持 [万葉集19])4166/4190)

反歌がもう一つあって:
時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも (大伴家持 [万葉集19])4167/4191)
更に、左註に曰く:  右は、二十日に、いまだ時に及らねども、興に依りて豫め作る。
この左註は、これだけでは、意味が取れないが、大伴家持がホトトギスというものは遅くとも、或いは、彼の気分を言えば丁度、立夏の日(この歌の年は3月下旬であったらしい)には鳴きはじめねばならないと信じていたらしいことを知れば納得する。そして、このことが歌の解釈のヒントになる。

これは大伴家持が越中国司として赴任中に詠まれたもので、ホトトギスは家持鍾愛の鳥とは言え、赴任地で聞くホトトギスの鳴き声は格別だったのだろう。また、長歌のほうに恋や友情のを思わせるものがないことにも注意すべきだろう。だから、「逢はぬ日を多み」の「逢ふ」の対象は人間とは考えにくい。そして、長歌の冒頭は、「時が移るごとに、どんどんと目新しい無数の種類の草木に花が咲き、鳴く鳥の声も変わっていくが、そうした花を目にし、鳥の声を耳にする度に、溜め息をついてガッカリしてしまい、(ホトトギスのことを)懐かしく思っているうちに、遂に木々が繁る四月になって夜中にホトトギスが鳴きだす」ぐらいの意味だろうから、やはり「逢はぬ日を多み」は、「ホトトギスの鳴き声を聞けない日々が多いので」と云うことなのだろう。しかし、それでも「逢ふ」がここで使われているのは、釈然としないものが残る。この件は保留にしておく。

参考:
[夏は来ぬ]
うの花のにおう垣根に 時鳥(ほととぎす)
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ。
(佐佐木信綱 [新編教育唱歌集(五)] 明治29年5月) 岩波文庫『日本唱歌集』p.51

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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