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袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ

作者:紀貫之 出典:[古今和歌集1]2
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.269

助詞「の」の用例。「今日の風」は、「今日に所属する風」と考えられるが、「存在の場所」が「今日」であると云う意味だとも取れる。

この歌を「袖ひちてむすびし水の」が夏を表わし、「水のこほれる」が冬を表わし、「(こほれる水を)春立つ今日の風やとくらむ」が春を表わして、夏・冬・春の季節の移り変わりを詠み込んでいるといった説明がされることが多いようだが、私 ([ゑ]) には賛成できない。

まず、「春立つ今日の風やとくらむ」が「立春」と云う点だが、なるほど、「春立つ今日」とはっきり書いてあるし、また「風やとくらむ」は [礼記/月令/二月令] の「東風解凍 蟄蟲始振 魚上冰 獺祭魚 鴻雁來」を踏まえた表現であることも確かだろう。しかし、一首中「立春」に関わるのは「春立つ今日の風やとくらむ」だけではなくて、「水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ」ことを見落としてはならない。水は一旦凍らないと「東風解凍」が起こりえないから、「冬」の存在は無視できないが、それはあくまでも「立春」を成立させる為の「お膳立て」として必要な存在であることを念頭に置かねばならない。

さらに、こうして「東風」により溶けた水は、象徴的には所謂「若水」あるいは「地上における變若水 (をち水)」に他ならないことも重要である。

例えば 『延喜式卷第四十 造酒司、主水司、采女司』には「擇宮中若京內一井堪用者定。前冬土王。令牟義都首渫治即祭之。至於立春日昧旦。牟義都首汲水付司擬供奉。一汲之後廃而不用。 (延喜式 卷第四十 造酒司、主水司、采女司)」とある。

私のような無学な者には、意味が取りづらいが、およそ「宮中もしくは京 (みやこ) の内で、利用に叶う井戸を選んで定めておき、前もって冬の土用のうちに牟義都首 (むぎつおびと?) に井戸渫えをさせ、それを祭らせておく。立春の日の未明になったら、牟義都首は水を汲んで、主水司 (もひとりのつかさ) に渡し、それを供奉してもらうようにする。水を汲むのに使った物は、二度と使わない」ぐらいだろうから、これによって立春の朝一番に井戸から汲んだ水の意味深いことが推測されるのだ (『太平記巻第二十四24』[朝儀年中行事]に「立春の日は、主水司立春の若水を奉る」ともある) 。この「若水」は、飲む為であるより先に、手を洗い口を濯ぐためのものであったかもしれない。

では「袖ひちてむすびし水の」の方はと言うと、これは、取り敢えず言うなら7月7日に関わっており、季節で言えば「秋」だ。そのように考える理由、以下に書いておく。

古くは、7月7日の夜には、宮中などにおいて乞巧奠(きかうでん/きつかうでん) と云う、中国伝来の行事が行なわれていた (現代でも京都冷泉家では行なわれているそうだ)。既に『延喜式卷第三十 大藏省 織部司』にも「七月七日織女祭」に関する記載 (「米。酒。小麥各一斗。鹽一升。鰒。堅魚。脯各一斤。海藻二斤。土椀十六口。加盤。」) があるが、「乞巧奠」として宮中で行なわれていたのは、手芸・技芸の上達を願って (「巧を乞ふ」)、梨・桃、豆・瓜・茄子、鯛・鮑、酒と共に箏の琴を供え、管弦の遊びをなし、歌なども詠むと云ったものだったようだ。そして、同じく7月7日夜には、これも主体は中国に由来するようだが「星あはせ」(二星会合)または「星まつり」と云う行事も行なわれた。と言うか、この二つの行事は習合してしまって、境界が分明でない。そもそも、日付が定まっていなかったらしい乞巧奠が7月7日に行なわれるようになったこと自体が、習合の現われなのだろう。

その姿は、『源氏物語』[幻] で、陰画的に (葵の上没後の事なので、「遊び」は行なわれないと云う形のとして) 描写されている。

『源氏物語』[幻]
七月七日も、例に變りたること多く、遊びなどもし給はで、つれづれに眺め暮らし給ひて、星合、見る人もなし。まだ夜深う、ひとところ、起き給ひて、妻戸おしあけ給へるに、 前栽の露、いとしげく、渡殿の戸よりとほりて、見わたさるれば、出で給ひて、
  七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露ぞおきそふ
岩波文庫『源氏物語(四)』p.320

「星あはせ」行事の核心は、牽牛・織女の出会いを祝うことだが、もう一つは「盥」の利用である。「星合」では、盥に水を張って、そこに映る星影を見るといったことが行なわれていたことは、次の歌から知れる:

  年々、七夕に歌を詠みて参らせしを、思ひ出づるばかり、少々これも書き付く
聞かばやなふたつの星の物語たらひの水に映らましかば
(建礼門院右京大夫 [建礼門院右京大夫集]277)

  尚侍貴子の四十の賀民部卿清貫志侍りける屏風に七月七日たらひに影見たる所
珍らしく逢ふ七夕はよそ人も影みまほしき夜にぞありける
(伊勢 [風雅和歌集5]465)

七夕の夜に星影が映るのは、盥の水ばかりではなく、池の水と云うこともあった:

  宇治前関白太政大臣の家に、七夕のこころをよみ侍りけるに
年を經て住むべき宿のいけ水は星合のかげも面馴れやせむ
[藤原長家 [新古今和歌集4]315]

「紀貫之 [古今和歌集1]2」の本歌取りとして知られた次の歌では、水は更に別な所にある:

  花山院御時、七夕の歌つかうまつりけるに
袖ひちてわが手にむすぶ水の面にあまつ星あひの空をみるかな
(藤原長能 [新古今和歌集4]316)

ここでは、盥の代わりに、自分の手に掬った水に星合を映すと云う趣向になっている。

次の歌でも、水が手で掬われている:

彦星のあひみるけふはなにゆゑに鳥のわたらぬ水むすぶらむ (建礼門院右京大夫 [建礼門院右京大夫集]286)

ここには、手の中の水に星影を映すと云う趣向はない。しかし、逆に興味深いのは、平徳子に仕えた作者が属する平安朝末期の貴族階級には、何故手で水を掬わねばならないのか理解できなくなっているらしいことだ。恐らくは、建礼門院右京大夫は「袖ひち」させてはいなかったのではないか。

星を直接見るのではなく、水を介在させることに日本古来の「タナバタツメ」伝承の反映があるのだろう。これに就いて、折口信夫の「たなばた供養」から、ところどころ引用する (ページ数は中公文庫版「折口信夫全集第15巻」による):

古代には、遠來のまれびと神を迎へ申すとて、海岸に棚作りして、特に擇ばれた處女が、機を織り乍ら待つて居るのが、祭りに先立つ儀禮だつたのである。此風廣く又久しく行はれた後、殆、忘れはてたであらうが、長い習慣のなごりは、傳説となつて殘つて行つた。其が、外來の七夕の星神の信仰と結びついたのである。 (p.189)

元々水に關係の深いたなばた祭が、七夕の星祭りでは、わりに水の縁を離れてゐる。唯、今ではする處も尠くなつたが、--「妹背山」の淨瑠璃に見える杉酒屋の段の井戸浚(が)へ--あの曝し井の習性、七夕竹を水に流す風、庭に出した盥に星合の影をうつす、歳時記・年浪草の所謂百子(モモコノ)池・七箇(ナナコノ)池を設ける信仰である。此は名の點において、少々合點がゆかぬ點はあるが、あはれ深い行事である。 (p.190)

内容のなくなつて傳説化して居たものへ、新しい信仰が入り込んで來たのが、七夕祭りであつた。だから、日本的でない點は、星が入つて來たと言ふところだけである。だが地方では、七月七日が、星の出る「夕」でなければならい、と言ふ理由を思ひ得ないほど、天の天體に交渉のない行事を續けていゐるものもあり、もつと甚だしいのは、星祭りなどある日と言ふ事も、知らない地方があることである。 (p.190-p.191)

この日の未明に、水浴びをし、女は髪を洗ふ。河に出ての行事である。又、岸から岸へ繩を張つて、之に笠棚の飾りの様に、作物を吊るすと言つた地方も、中央日本には、處々にあつた。此風を守つてゐる邊では、七月七日と禊ぎの日とが、意味一つに考へられてゐるようである。 (p.191)

私は、折口信夫の主張や議論を拳拳服膺する者ではないが、上記引用部分は、事実関係を述べている所なので、取り敢えず採用しておいてもよいと思う。

実際、所謂「七夕送り」・「ねぶた流し」のことはさておき、七夕の日に水浴びや水泳をしたり、井戸浚いをする、髪を洗う、或いは牛を洗うと云う風習、少なくともかっては存在したことが、ネット上でも確認される (これに就いては、特にウェブページ [日本人と七夕] に詳細にまとめられているので、参照されたい。また、[筑前「星の宮」について] や [七夕の話] にも興味深い記述がある)。幾つか列挙すると。

  • 「七夕の日は、メブタ(ネムノキ)の葉を洗面器に入れて顔を洗うと眠くならない〈埼玉県大滝村〉」。「七夕の朝に7回水浴びをすると、からだが丈夫になる〈埼玉県小鹿野町〉」 。「七夕の朝早く、利根川などへ行って頭を洗うと一年中寝ぼうしない〈群馬県明和町〉」 。 (Tanabata Page)
    さらに、「七夕のマクモ(マコモ)馬は蔵の外にある柱にしばり付けておき、もし子どもなどが川でおぼれたときには、この馬を燃やして煙にあてると水を吐いて助かる〈埼玉県吉見町〉」や「七夕のマクモ馬を自宅の軒下に吊るしておき、もし川や沼でおぼれた人がいたら、この馬を燃やして暖めてやると助けることができる〈埼玉県行田市〉 」と云うこともあるそうだ。
  • 江戸の井戸はほとんどが共同井戸、その恩恵に預かる関係者が協力して井戸浚いをする。旧暦の7月7日(新暦8月中旬頃)を井戸の大掃除の日と決め、年に一度の夏の行事でもあった。...この井戸浚いは江戸中で一斉に行われた。なぜなら、地下に上水道を引いて給水している井戸なら水源はみなつながっているため、一斉に清掃しなくては意味がないからである。(クリナップ / 江戸散策 / 第51回)
  • 博多では、七夕のころ、七夕節句の井戸さらえを行ない、井戸には、お神酒を注ぎ周囲には清めのお潮井をまき清めた。(「七夕祭り」--福岡市博多区--「博多人情・諺百科」より一部参照)
  • 長野県上田市では、七夕に、井戸替え祭りをする。井戸の横には砂文字が「天之川」と書かれる。(踏入七夕まつり「天の川」)
  • 山梨市市川では、飾り付けした笹竹は家の前庭に立てる。翌朝日が昇る前に、裏の畑の入口へ持って行き立てておく。それから一年間(次の笹竹が来る迄)泥棒除けとして働く。昭和30年くらいまでは、田の水の取り入れ口「水の口(みのくち)」に立ていた。(山梨の七夕人形・信清由美子)
  • 福岡県みやま市では、七夕の朝、女の子は打ち揃って川に髪を洗いに行った。七夕に髪を洗えば美しくなるといわれる。(郷土の懐かしい年中行事(みやま市))
  • 泉州地方では旧暦の七夕の日牛を洗ったり泳がせたりする「牛洗い」の風習があった様だ。各地区で呼び名は違うが、泉州地方一円ではこの日は「牛神の日」だった。地域によっては内容はさまざまだが、牛を飼ってる家は七夕を川に流し、牛を川や池に泳がし、その後牛神に連れっていっておみきを受け、牛神に牛を守ってもらう様お祈りをしていた様だ。(まるで猿のブログ: 七夕でござる)
ここで、七夕の日に水浴びや水泳をしたり、「井戸替え」・「井戸渫え」を行なう風習は、特に重要である。井戸渫えを行なった直後に汲まれた水は、宮中立春におけるのと同様、やはり「若水」であるのだから。また、水浴びや水泳が、本来の姿が「身体全体或いは大きな部分を河の水に漬ける」ことにあると想像することも容易だろう。もし「髪を洗う」風習を重要視するなら、本来は全身を水に浸けることが行なわれていたと推測することは出来るが、取り敢えずはそこまでは踏み込まないでおこう。それが「禊」を意味するか否かも、今は判断を留保しておくが、ただ、7月7日の洗体礼が本来は女性が受けるべきものであったろうことは断定できるだろう。そして、実はこれには、より直接的な証拠が『拾遺和歌集』に見られる:

  仁和の御屏風に七月七日女の河水あみたる所
水のあやをおりたちて著むぬぎちらしたなばたつ女に衣かす夜は
(平定文 [拾遺和歌集17]1091)

「平定文 [拾遺和歌集17]1091」自体が、その一例であるように、七夕和歌には「タナバタツメ」に衣を貸すと云うモチーフがしばしば登場するから、おそらく「タナバタツメ」本人が水に入ると云う伝承があり、女性の水浴びは、それを再現したものであったのかも知れない。

ここで「袖ひちてわが手にむすぶ水の面に」を改めて考えると、これは「手を水中に入れたら、袖が水に浸ったよ」と云う単なる述懐とは、私には思えないのだ。むしろ、袖が水に漬かるほど手を水中深く挿し入れることが星合の儀式として必要だったのではないか。そして、更に言うなら、「わが手にむすぶ水の面に」どころか、7月7日の夜、盥の水に星影を写すと云うこと自体が、一種の「見立て」であって、本来は、手に留まらず腕まで (当然「袖」も) 盥の中の水に浸けることが儀式の主体だったのではなかろうか。勿論、「身体全体或いは大きな部分を河の水に漬ける」ことの代替行為としてである。

ここで、『古今和歌集』から、立秋と「水」との関係を示す歌を1つ引いておこう。

秋たつ日、うへのをのこども賀茂のかはらに川せうえうしけるともにまかりてよめる
川風のすずしくもあるかうちよする波とともにや秋は立つらむ
(紀貫之 [古今和歌集4]170)

この「紀貫之 [古今和歌集4]170」は、『古今和歌集』巻第四 [秋歌上] の第2歌であって、巻第一 [春歌上] 第2歌の「紀貫之 [古今和歌集1]2」に対応している。そして、当時の貴族達が、立秋の日に水辺に行く風習があったことを窺わせる。ただし、このことは、直接、平安貴族に立秋に禊する風習があったことを示すものではないことは認めざるを得ない。それでも、その直前 (理念上は前日) の「六月祓」には確かに「禊」が行なわれていたようだ。紀貫之は、『新古今和歌集』巻第三 [夏歌] の最終歌で、次のように詠んでいる:

みそぎする河の瀬見れば唐衣ひもゆふぐれに浪ぞたちける (紀貫之 [新古今和歌集3]284)

同じモチーフの歌は、『金葉和歌集』の夏歌の掉尾にも見られて:
  秋隔一夜といへることを
禊するみぎはに風の涼しきは一夜をこめて秋やきぬらん
(藤原顕隆 [二度本金葉和歌集2]155)
  六月祓の心をよめる
みそぎする河瀬に立てる堰杙さへ菅抜きかけて見ゆるけふかな
(源有政 [三奏本金曜和歌集2]146)

まぁ、これらの歌に就いては、実際に禊をするのが「翌日」と云うか、立秋の日でも可訝しくないとも読めるのだが、以下の5首の場合は明らかに「六月祓」当日の禊だろう。

  六月祓をよめる
水上もあらぶる心あらじかし浪もなごしのみそぎしつれば
伊勢大輔 [後拾遺和歌集3]234 ただし、「みそぎ」を「はらへ」・「はらひ」とする写本あり。
いつとてもをしくやはあらぬ年月をみそぎにすつる夏の暮かな (藤原俊成 [千載和歌集3]224)
  六月祓をよめる 読人不知
みそぎする河瀬にさ夜やふけぬらん返るたもとに秋風ぞふく
(読人しらず [千載和歌集3]225)
  みな月はらへのこころをよみ侍ける
はやきせのかへらぬみづにみそぎしてゆくとし波のなかばをぞしる
後京極摂政前太政大臣/藤原良経 [新勅撰和歌集3]190
風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける 藤原家隆 [百人一首]98/[新勅撰和歌集3]192 1375

『古今和歌集』には、七夕と「水」そして「袖」とを結びつける歌もある:

  なぬかの夜のあかつきによめる
今はとてわかるる時は天の川わたらぬさきに袖ぞひちぬる
(源宗于 [古今和歌集4]181)

この場合、「袖」を濡らしたのは別れの涙だろうが、その形容が「ひちぬる」とあるのは注目すべきだろう。七夕の日には、袖は水に浸したようであるべきであると云う思いが作者や選者 (その中には紀貫之がいる) にあったと理解してよい。

さて、最初に書いたことだが、私には「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ (紀貫之 [古今和歌集1]2)」の「袖ひちてむすびし水」も、「藤原長能 [新古今和歌集4]316」や「源宗于 [古今和歌集4]181」と同様、七夕における「水」を指すと云うのが、私の断案である。

つまり、「紀貫之 [古今和歌集1]2」は、去年の七夕を彩った「若水」が、一旦冬を経て、立春の今日、新たに「若水」となったこと、言い替えれば、「若水」そのもののの死と再生を寿いでいるのだ。

しいて解を付けるならば、こうなるか:「七夕の夜に袖を浸した去年の若水は、冬の間凍っていたが、立春の今日吹いた東風が溶かして、今年の若水となったのだな」。

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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