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いかにせん賤が園生の奥の竹かきこもるとも世の中ぞかし

作者:藤原俊成 出典:[新古今和歌集17]1671
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.290

「賤」は下賎なる者と云う意味だから、低く扱って「が」で承けている。

『新古今和歌集』における、この歌の直前歌は「斧の柄の朽ちし昔は遠けれどありしにもあらぬ世をもふるかな (式子内親王 [新古今和歌集17]1670)」である (詞書は「御白河院崩れさせ給ひて後、百首の歌に」)。勿論、式子内親王は時代が変わる有為転変を生きざるを得ない感慨を述べているのだが、「斧の柄の朽ちし昔」は、『述異記』[爛柯] の故事を踏まえている。晋の時代、王質と云う樵夫が、山中で二人の童子のする囲碁を見ているうちに、時の経つのを忘れ、気が付くと自分の斧の柄が朽ち果てており、里に戻っても、時代が移り変わっていて、彼を知る者がいなかった、と云うリップ・ヴァン・ウィンクル型の説話で、我が身を擬えている訣だ(「『爛柯』の故事は、遠い昔の話ですのに、御白河院御存生の頃とは全く変わってしまった世の中を生きていることです」)。

藤原俊成のこの歌は、式子内親王の歌を引き取る形で、採録されている。「賤が園生の奥の竹」は、「かき (掻き)」を導くが、それだけでなく、「竹林の七賢」の連想から、隠遁生活を暗示しているのだろう。したがって、一首は、「たとえ隠遁生活を送ったとしても、世の中は世の中で確乎として (そして急速に) 変転していくのは如何ともしようもない」と云う述懐と思しい。 (下記補足参照)

「かきこもる」は「引きこもる」とも訳せるから、表面上は意外と「現代的」な歌と言えるかもしれない。

参考:
[爛柯]
信安郡石室山,晉時王質伐木至,見童子數人棋而歌,質因聽之。童子以一物與質,如棗核。質含之,不覺飢。頃餓,童子謂曰:「何不去?」質起視,斧柯盡爛。既歸,無復時人。--詩詞曲典故:《述異記》卷上「爛柯」

[竹林七賢]
陳留阮籍,譙國嵇康,河內山濤,三人年皆相比,康年少亞之。預此契者:沛國劉伶,陳留阮咸,河內向秀,琅邪王戎。七人常集于竹林之下,肆意酣暢,故世謂「竹林七賢」--世說新語 任誕第二十三

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。


補足
藤原俊成の歌では、「竹掻き」と「節の中」とが縁語になっているのは勿論だが、「園生」と「竹垣」も縁語になっているのだろう。

私が、歌意を「世の中は世の中で」と書いたのは、不適切だった。書き直すと、こうでもあるか:「どうしたらよいのだろう。『竹林の七賢』を気どって、竹垣の侘しい庭の奥で隠遁生活をしているつもりだったが、そこもまた確乎として (そして急速に) 変転していく世の中にあるのだった」

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