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心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

作者:凡河内躬恒 出典:[百人一首]29/[古今和歌集5]277
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.276

「初霜の」は「白菊の花」にかかる。「の」の使い方が広がって、「の」が名詞と名詞との間に入ることは同じだが、直接ではなく「の」の下に動詞が入るようになった。その場合の動詞は連体形である。

『日本語で一番大切なもの』では解は与えられていない。

この歌は「折らばや折らむ」は「もし折るならば折ってみようか」とか「折れるものならば折ってみようか」と解釈されることが多いようだが、私 ([ゑ]) には微妙に引っ掛かる。私には、「折ってみたら折れるだろうよ」と受けとれるのだ。

そこで翻って「心あてに」も考え直すと、通常言われるように「当て推量で」とするのも、やはり釈然としないことに気が付く。これは偶然に頼った所のある「当て推量で」と云うより、ヨリ積極的な(「記憶をたよりに」とか「判断力をたよりに」)「見当をつけて」ぐらいの意味ではないか。

そこで私なりの解を付けておくと:「見当をつけて折ってみたら折れるだろうよ。初霜が降りた為にどこにあるのか分かりづらくなった白菊の花でも」。

更に「心あて」に就いて補足する。
『源氏物語』[夕顔] において「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」の歌を「当て推量で源氏の君かとも拝見いたしました。白露が光沢を添えている夕顔の花の如き、夕方の美しい方を」と云う形の解釈をするのが一般的なようだが、私には釈然としない。

光源氏を「夕顔の花」にたとえているのかあたりから、既に疑問に思えるのだ。ここは、やはり「夕顔」は女性の方を指しているのだと私は思う。第一、そうでなければこの女性が「夕顔」と呼ばれるようにる由縁が滑稽な感じになってしまう。この考えに沿って、一首を私なりに解釈すると「(『あやしき垣根になむ咲』く、『枝も情けなげなめる花』ではあるけれども、つまり本来は目立たない花ではあるけれども) 白露の光があるので、夕顔の花があるのだろうと見当をつけることができます」。これには、勿論裏の意味があって「取るに足らない、目立たず暮している私ですけれども、あなたの輝かしい光のお蔭で、私のことも此処に居るだろうとお分かりになったのでしょしょうね」と、取り敢えずはそれだけの挨拶の歌なのだ (この段階で夕顔が源氏の正体に気付いているとする説が一般的であるようだが、従いがたい。源氏の正体に、夕顔が薄々ながらも気づくのは、後段、「なにがしの院」についてからのことだ。それにもかかわらず、夕顔は歌の中に「光」を使っている訣で、夕顔が気付いていない暗合が読者を喜ばせることを作者は十分承知していて、小説的技巧として使っているのだ)。

ところが源氏は、それを強引に相聞に変えてしまった、女の方が少なくとも表面上はそのつもりはないのに、源氏が恋愛関係(の前段階)を擬製する形で口説いた (文字どおり「例の、うるさき御心」)、と云うのが私の解釈だ。つまり源氏の歌「寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔」を、私はこう読む:「(「白露の光」で見当を付けるのではなくて) 傍によってたしかにそうだと確かめたいですね。「誰そ彼」時にぼんやりと見た夕顔の花を」。これに対しては、無視するのが嗜みだろうから、女性からの直接の応答はありえない (通常の解釈では、なぜ返答がないのか説明不能である)。

従って、[夕顔] の後段「なにがしの院」に夕顔を移し据えた翌日の出来事:
顔は、なほ隠し給へれど、女の「いと、つらし」と思へれば、「げに、かばかりにて、へだてあらむも、事のさまに違ひたり」と、おぼして、
  「夕露にひもとく花は玉ぼこのたよりに見えし縁にこそありけれ
露の光やいかに」とのたまへば、しり目に、見おこせて、
  ひかりありと見し夕顔のうは露はたそがれ時のそら目なりけり
とほのかに言ふ。「をかし」とおぼしなす。
(岩波文庫『源氏物語(一)』p.130)

も、次のように解釈すべきだと思う:
源氏は、御顔を未だ御隠しになっていらしたのですが、夕顔が「大変情けない仕打ちだこと」と云う顔つきでしたので、「確かに、このような親密な関係になって、顔を見せないというのも、不自然なことだ」と御思いになられて、
  「夕露を受けて夕顔であるあなたが紐を解いたのは、花の夕顔が道の行き来の途中で見えたと云うことが縁でしたね。
(先日と同じように) 露の光があなたに寄り添いましたが、(今日は)どうですか」とおっしゃると、夕顔は、流し目で源氏の顔を見遣って
  (先日の)夕顔の上で露が光っていたように見えたのは、たそがれ時の見間違いだったのでした (私は、「光る源氏」に寄り添って頂けるようなものでは、そもそもございません。何かの間違いです)。
と、そっと言うのでした。源氏は「可愛いことを言う」と思われます。


夕顔の「ひかりありと見し夕顔のうは露はたそがれ時のそら目なりけり」を、源氏の容姿 (「夕顔のうは露」) がたいしたことがないと云う切り替えしの歌だとする説が一般的なようだが、そうした才気は、内気で引っ込み思案である夕顔の性格に不似合いだろう。

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

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