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月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

作者:在原業平 出典:[伊勢物語]4/[古今和歌集15]747
中公文庫版『日本語で一番大切なもの』p.79

助詞「や」の用例。

大野晋の説は以下の通り。平安時代には「あらず」とか「あらぬ」だけで「違う」を意味した。「月やあらぬ」といったら、「月や」(月はどうかしら)と場面を設定して、その答えとして「あらぬ」(違う)という。また「春や」(春はどうかしら)と場面を設定して、その答えとして「昔の春ならぬ」(昔の春ではない)という、つまり、「月も春も違ってしまった、変わってしまった、」その上で「私だけは昔の私です」とくる。

この歌の解釈には、様ざまな説があるらしい。大野晋の説もその一つで、「なるほどね」とも思う。特に「月やあらぬ」の解に皆頭を悩ますらしいが、しかし、私は単純に「月が見えない」ぐらいで良いのではないかと思う (詞書にも「月のかたぶくまで」と書いてあるし)。勿論、「月が見えない」には、思い人が「ほかにかくれ」てしまって逢えなくなったことの暗喩になっている。だから、私なりに解を付けるとこうなる:「月はもう見えない。春も、あの人のいた去年の春ではない。私だけが、去年の同じ思いを抱いたままだ」。

参考 (詞書):
五条のきさいの宮の西の対にすみける人に、ほいにはあらで、物いひわたりけるを、む月のとをかあまりになむ、ほかへかくれにける。あり所はききけれど、えものもいはで、又の年の春、梅の花ざかりに、月のおもしろかりける夜、去年をこひて、かの西の対にいきて、月のかたぶくまで、あばらなる板敷に臥せりてよめる

本記事は、極めて長文である [nouse: 大野晋・丸谷才一『日本語で一番大切なもの』引用文索引] (2008年3月1日[土]) から同一引用文に係る項目を分離独立させたもので、内容に実質的な変化はない。

補足
あまり見ない解釈のようだが、詞書の「ほいにはあらで、物いひわたりけるを」は、私には「そのつもりではなかったのに、つい不満の言葉を連ねてしまって」と云うように受けとれる。それも、痴話喧嘩めいたものよりもう少し深刻な、相手の不実を詰ると云う性格のものではなかったろうか。結局、女の方が愛想を尽かして、引っ越してしまう。男の方は、強情を張っているのか、自分に弁解の余地が無いことに気付いたのか、未練があるのに、女の居場所は分っているのに連絡を取らないままでいる、と云う情景が思い浮かぶのだが...

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