« [Blogger ストーリー]に就いて | トップページ | [イギリス幻想小説傑作集] 中の [幽霊船] »

メモ:コナン・ドイルの恐怖小説一篇「サノックス卿夫人秘話」

私の仕事場兼寝室で若干の工事をすることになったため、室内の本を半分程整理して、段ポール数十箱に詰め込み、別の部屋に移したのだが、その時シリーズの他の本からはぐれて畳の上に落ちていた一冊があった。[白水uブックス] の 「イギリス幻想小説傑作集」(由良君美 編。1985年。東京。白水社。ISBN4-560-07073-3)がそれだ。

未読だったので、不図読み始めた。最初の一篇がコナン・ドイルの「サノックス卿夫人秘話」だった訣だが、読んでいて違和感がある。それも訳文品質(訳者: 小野寺 健)に難がある筈と云う違和感だ。

そこで、原文(Arthur Conan Doyle: "The Case of Lady Sannox") に当たってみることにして、ネット上で探してみると、種種見つかるが、こでは literaturecollection.com の "Round The Red Lamp - The Case of Lady Sannox by Arthur Conan Doyle" に従って以下の話を進める。

原文に当たると言っても、時間がないから、白水社版で気になった所の対応箇所を拾い読みしただけなので、全く不十分な比較にしかなっていないことをお断りしておく。

始めに白水社版の訳文、次いで原文を掲げた後、私のコメント(もしあれば)を書く。

1. 白水社版第5ページ: [従僕とともに]
冒頭、主人公である外科医の愛人だった [サノックス卿夫人] が修道院へと隠棲し、それと同時に主人公が廃人となっているのが発見されると云うくだりで

かの高名な外科の名手は偉大な頭脳の力を完全に失い、両脚をズボンの片方に突っこんだ泥酔状態でうつろな笑いをうかべながら、従僕とともにベッドに腰かけていたというのである。

... the celebrated operating surgeon, the man of steel nerves, had been found in the morning by his valet, seated on one side of his bed, smiling pleasantly upon the universe, with both legs jammed into one side of his breeches and his great brain about as valuable as a cap full of porridge,...

いきなり高校生レベルの誤訳だが、白水社版では "by his valet" を、「従僕とともに」としてしまっている。勿論、"by his valet" は "had been found" にかかっているので、実際の意味は、外科医が腑抜けになっているのに従僕が気づいたと云うことだ。

試訳
鋼鉄の神経の人であったこの高名な外科医が、その日の朝、両脚をズボンの片方に突っ込み、偉大であった彼の脳髄が一椀の粥ほどの値打ちしかないものになっていると云う状態でヘラヘラ笑いながらベッドに腰かけているのを、彼の従僕が発見したと云うことが・・・

2. 白水社版第13/14ページ: [アルコール]
ある夜、外出間際の外科医のもとに「トルコ人商人」が訪れる。そして懇望されて、猛毒の付いた剣で下唇を傷つけたと云うその妻を往診することになった外科医は、手術用の麻酔剤を持参しようとするが、それを見とがめられる。

「クロロフォルムです。」
「ああ、それも使うことは許されません。アルコールの一種ですから、われわれには使えないのです。」

"It is chloroform."
"Ah, that also is forbidden to us. It is a spirit, and we make no use of such things."

[クロロフォルム CHCl3] --ちなみに、学術用語としては [クロロホルム]-- は「アルコールの一種」ではない。ここでの "spirit" は、「蒸留抽出物」ぐらいの意味だろう。

試訳
「クロロホルムです。」
「ああ、それも使うことが禁じられています。蒸留によって得られたものを、わたしどもが使うことはありません。」

3. 白水社版第16ページ: [三階]、[看護婦]、[がらくた]
「商人」滞在住居を訪れた外科医は、人が住んでいるとは思われない一階から、階段を登って寝室へと案内される。

寝室は三階だった。ダグラス・ストーンが老看護婦について中に入ると、商人もすぐあとにつづく。すくなくともこの部屋には家具もあれば、がらくたもあった。

The bedroom was on the second landing. Douglas Stone followed the old nurse into it, with the merchant at his heels. Here, at least, there was furniture and to spare.

● "landing" は [踊り場] のことだから、"the second landing" は「三階」を意味しない。この文章を普通に読むなら、[寝室] は二階にある。そして、そこに至る階段の途中に踊り場が1つあって、そこで階段が折れ曲がり、更に登って行って2つ目の踊り場で二階に達すると云う構造だろう。
● 「看護婦」は、勿論 "nurse" の訳語であるわけだが、やや唐突だ。本稿では引用していないが、この "nurse" は、ダグラス・ストーンと「商人」とを出迎えた "an elderly woman" と同一人物だから、そこでの訳語「老婆」をそのママ使った方が良かったろう。
● "and to spare" は、「がらくた」と云う意味ではなく、[あり余るほどの] と云う意味。

試訳
二つ目の踊り場まで登ると寝室があった。老婆の後から、ダグラス・ストーンが寝室の中に入り、踵を接するようにして商人が続いた。少なくとも、こちらの方には、あり余るほどの家具があった。

4. 白水社版第18ページ: [黒目]
ケガをした女は、夫によりアヘンを与えられて昏睡していた。

ヤーシュマークの隙間から、二つの黒い目が彼を見上げている。全体が黒目になっていて、瞳孔はほとんど見えなかった。

Two dark eyes were gazing up at him through the slit in the yashmak. They were all iris, and the pupil was hardly to be seen.

前半はこれでよいだろう。しかし、後半は問題がある。たしかに "iris" と "pupil" とを、生硬でなく訳し分けるのは難しい。特に、現在の日本語では「ひとみ」と云う言葉が、[瞳孔] と云う正しい意味で使われることが少なくなってしまっている。はなはだしい場合は、目又は目蓋を閉ぢてと云う意味で「瞳を閉ぢて」を使いと云う誤用が平然として行なわれている。しかし「全体が黒目になっていて、瞳孔はほとんど見えなかった」では、アヘン(モルヒネ)の影響で瞳孔収縮が起こっている(まさに「瞳が閉ぢて」しまっている)ことが見えてこない。

ちなみに、上記引用部分の直後は

"You have given her a very heavy dose of opium."
"Yes, she has had a good dose."


となっている。

試訳
ヤーシュマークの隙間から、二つの黒い目が彼を見上げていたが、それは、虹彩ばかりが目立って、瞳孔はほとんど見分けられないものだった。

5. 白水社版第19ページ: [毛布]、[もうひとつのもの]
主人公の外科医は女の下唇を切除するが、意外なことが起こり、茫然自失して、女の寝ていた長椅子の脚もとに座り込む。

ダグラス・ストーンは前にのめったまま、毛布の端の房をいじりはじめた。メスは甲高い音をたてて床に落ちたが、彼はいまだにピンセットともうひとつのものを手にしていた。

Douglas Stone stooped forwards and began to play with the fringe of the coverlet. His knife tinkled down upon the ground, but he still held the forceps and something more.

"coverlet" と云うのは、女が寝ていた長椅子 (couch) の敷物のことだから、「毛布」とは限らないだろう。また、"something more" は、切除した下唇を婉曲に表わしており、それが鉗子 (forceps) に挟まったままの状態であることが訳されていなければならない。

試訳
ダグラス・ストーンは前のめりになると、長椅子の敷物の房縁を弄り始めた。メスは甲高い音をたてて床に落ちた。しかし、それでも彼は、肉片を挿んだ鉗子の方は放さなかった。

ちなみ、"The Case of Lady Sannox" の電子テキストとしては、本稿で準拠した literaturecollection.com 版 の他に、bakerstreetdozen.com 版Wikisource 版Project Gutenberg 版 などがあるが、それらでは、"Douglas Stone stooped forwards" ではなく、"Douglas Stone stooped for yards" となっており、意味がとりづらい。


6. 白水社版第19ページ: [傷]
「トルコ人商人」は、彼の妻の下唇の傷が、毒を塗った剣でできたものではなかったことを告白する。

あの傷は、じつは、認め印のついたわたしの指輪でつけたものなのだ。

The wound, by the way, was from nothing more dangerous than my signet ring.

ノーコメント。

試訳
それから言っておくと、あの傷だが、私の指輪に彫ってある認め印を押して付けたと同じぐらい無害なものだったのさ。

なお、「イギリス幻想小説傑作集」は現在絶版になっている模様。

また、"The Case of Lady Sannox" の翻訳は以下の書籍に所収されているらしいが、未見。


  1. 偕成社文庫<3190> 「七つの恐怖物語―英米クラシックホラー」

  2. くもん出版/幻想文学館4 「悪夢のような異常な話」

  3. 国書刊行会 「書物の王国16 復讐 」

|
|

« [Blogger ストーリー]に就いて | トップページ | [イギリス幻想小説傑作集] 中の [幽霊船] »

翻訳」カテゴリの記事

英語/English」カテゴリの記事

読み物・書き物・刷り物」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/40172/11779882

この記事へのトラックバック一覧です: メモ:コナン・ドイルの恐怖小説一篇「サノックス卿夫人秘話」:

» モルヒネの怖さ [すい臓がん@情報館]
昨年、奥さんをガンで亡くした友人の日誌より [続きを読む]

受信: 2006年10月 1日 (日) 09:30

« [Blogger ストーリー]に就いて | トップページ | [イギリス幻想小説傑作集] 中の [幽霊船] »