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江戸/本所

[NIFTY翻訳フォーラム投稿(1998年1月7日?)]で、「[本所]は、お江戸のうちではない」と書いたのは、失言だったと反省しています。

ただ、単純に取り消す気にもならないのです。

そこら辺の私の気分を纏めることが、今、出来ないので、参考になりそうなリンクのリストだけでも作ろうとしたのですが、これも旨くいかない。従って、そうしたことを一切諦めて、調べているうちに気になったサイトを、主題の統一性や個個の内容の精粗を無視して、列挙しましょう。

1. 江戸の範囲
それでも、「江戸の範囲」の [公式見解] といった感じのもの挙げておく必要があるでしょう。それが、例えばこの東京都公文書館の公式サイトに書かれている説明。

文政元年 (1818) 8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。 「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。 この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。 その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。

東…中川限り
西…神田上水限り
南…南品川町を含む目黒川辺
北…荒川・石神井川下流限り

これは、寺社勧化場と札懸場の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
現在の行政区画でいえば、次のようになります。
千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区
品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区

東京都公文書館の公式サイトより, http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/edo.hani.htm

2. 江戸 - Wikipedia
[江戸の範囲] だけでなく、[江戸の歴史] や [江戸の都市計画] に就いても触れられています。

この記事が書かれている "Wikipedia" に就いては「Wikipedia:ウィキペディアについて」を参照。「ウィキペディア内の全ての記事はコピーレフトなライセンスの GNU Free Documentation License によって保護され、永久に「フリー」であることが保証されています。」とのこと。英語版ドイツ語版フランス語版中国語版などの非常に多くの言語(ラテン語版や、サンスクリット語版まである)で活動が進められているのだそうです。

3. 下町探偵団
これも[江戸の範囲]の話。隅田川の東側(今の江東区・墨田区あたり)が江戸にはいるかどうかに就いて。

4. 江戸時代の東京
森ビルが提供しているサイトに含まれている。江戸の全体的地形・都市構成の変遷がわかる地図多数。

5. 江戸時代に赤羽は「江戸」の内だったか
「赤羽」は、[東京都北区赤羽]。

6. 史料リスト・江戸時代細分
1603年~1867年までの史料を纏めたもの。これは、FUJIMAKI Sachio さんのサイト、聚史苑の下にある
日本史研究参考基礎史料一覧の一部。

7. 江戸期に「藩」はなかった? -○○藩と呼ばれる機構について-
こんなことが書いてありました。


  1. 現在、我我が「藩」と呼んでいる組織は、江戸時代、公式には「藩」と呼ばれたことはなかった。「藩」が公式名称化したのは、明治の版籍奉還後。

  2. 蝦夷松前の松前家は無高、下野喜連川の喜連川家も五千石だったが大名とされていた。これに対して、御三卿の一橋、田安、清水家は十万石だが大名とはされないのが普通。

8. 江戸の資料・基本用語
1955年TV時代劇草創期に演出家が使用した覚え書きノート。「正確な歴史資料ではなく、あくまでも時代劇の資料」

9. 本所の吉良屋敷, - Wikipedia
吉良屋敷について「『 松坂町二丁目』という住所を示すものも多い。ところが、武士の居住地には、住居表示のための住所というものはなかった。それに、松坂町は討入事件の4年後についた町名で、吉良屋敷があった場所は松坂町二丁目だけではなく、一丁目の一部も含む。」
これに関連して [元禄赤穂事件 - Wikipedia] の項も参照。

10. 勝小吉
勝小吉の自伝「夢酔独言」や子母沢寛の小説・エッセイに就いての感想が書かれています。

11. 本所両国
芥川龍之介のエッセイ。「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。」

12. 明治の東京
馬場孤蝶のエッセイ。

昔は本所あたりは下町の敗残者の逃避の地区であつたといはれた。なほ窮迫の度の増すに従ひ、更に奥へ奥へと引つ込んで行くのであるが、その引越し荷物を見てさへ、その家運衰退の度合ひが明らかに看取されるといふのであつた。即ち、初め両国橋を越える荷車には、まだしも少しは見栄えのする物が積まれてゐるのであるが、次の場所へと向ふ車上には、次第にガラクタの数さへ減つて行くといふのであつた。」「『南向茶話』の一節には、本所は本庄といふのが古い名であつて、今の信越線の熊谷の先きに本庄といふ地名があるので、同名を嫌つて、元禄年中本所と改めたとある。


それから、これは、1998年の投稿時点では、話が散らかるので書かなかったことですが、今の東京で、私が町なかを歩っている限り(まぁ、酷く狭い範囲なんですが、とにかく)、行き交う人々の言葉尻や態度に、昔の東京(江戸とは言わない)の雰囲気が一番残っているのは、墨田区とか江東区、以前の言い方で言えば、向島、本所、深川なんです。

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